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王舎城の悲劇

『観無量寿経』というお経に説かれている実話をアニメーション映画にしたものです。


 主人公は、当時インドで勢力を誇っていたマガタ国の王、頻婆娑羅(ビンバシャラ)王の妃・韋提希(イダイケ)夫人。城を王舎城(おうしゃじょう)と言いました。四隣に覇を振るうマガタ国において、権力を意のままに握り、物質的には何も不自由のない2人ではありましたが、子供がいないというのが唯一の悩みでした。


 一般人でも子供がいない悩みを抱えている夫婦はありますが、特に権力者にとって世継がいない不安は大きいようです。深刻に悩んだ彼らは占い師にすがるようになってゆきます。


占師:ビンバシャラ王様。ご心配はいりませぬ。やがてお子様がお生まれになられます。私の見るところ、今奥山で苦行している修行者が、寿命が尽きると同時に、お生まれになることになっております。
 修行者の命はあと5年と聞いたイダイケは、高齢の我が身を案じ、夫をそそのかして修行者殺害を断行します。そして、どうしたことか予言通り身ごもったイダイケではありますが、修行者の最期の呪いの言葉が忘れられず、苦悶の日々が続きます。少しでも安心しようとまたもや占師の所へ行くのですが……


占師:んんっ、これは!凶相がでております。ああ実は……、この太子様、ご両親に大変憾みを持って宿っておられます。成長されると、きっと親を殺されるお方になるでしょう……
 今度は生まれて来る我が子を恐れ、剣の林に産み落とそうとしますが失敗、阿闍世(アジャセ)と名付け、蝶と花よと育てることとなりました。


 ところがこの阿闍世、成長するにつれ異常な凶暴性を露にし、家庭内悲劇へと発展してゆきます。


 これが『王舎城の悲劇』の大まかなあらすじですが、最終的にはハッピーエンドとなります。その転機となるのがお釈迦様との出会いです。
釈尊
 人々よ。心の頭を垂れて、我が言葉を聞くがよい。
 人は、苦を厭い、幸せを求めている。だが、金を得ても、財を築いても、常に苦しみ、悩んでいる。王や貴族とて、みな同じである。
 それはなぜか。苦しみの原因を正しく知らないからである。金や名誉で苦しみはなくならぬ。無ければないで苦しみ、有ればあるで苦しむ。有無同然である。毎日を不安に過ごしている。たとえば、子供のない時は、ないことで苦しみ、子供を欲しがる。しかし、子供があればあったで、その子のために苦しむ。
 この苦しみの原因は、どこにあるのか。それは、己の暗い心にある。熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、心の暗い人は、どんな幸福も味わえないのだ。
 心の闇を解決し、苦しみから脱するには、ただ仏法を聞くよりない。この法を求めよ。心の闇が破れ、真の幸福が獲られるまで。たとえ大宇宙が火の海原になろうとも……
 この王舎城の悲劇は、子供が欲しいという欲の心が発端と言えるでしょう。欲が満たされないことで人は苦しみ、惑い、悪事を働かせ、悪果が返ってくる、そして更に苦しみ悪業を積み重ねる。これを仏教では惑業苦(わくごっく)と教えられます。この悪循環を断ち切るには人間の心の本質を知る必要があります。上のお釈迦様の説法は、『大無量寿経』で明らかにされている有無同然の実態ですが、真の救いは闇の心に光が差し込んだ時に起きるのだと思います。
有無同然


「田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。牛馬・六畜・奴碑・銭財・衣食・什物、復共に之を憂う」


「田無ければ亦憂いて田有らんことを欲し、宅無ければ亦憂いて宅有らんことを欲す」


「尊となく卑と無く、貧と無く富と無く、少長・男女共に銭財を憂う。有無同じく然り」


(大無量寿経)




『家庭悲劇』続発の
   変わらぬ難度海の人生
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       釈尊の妙手は 何か
詳しいあらすじはこちら
   ↓
『王舎城の悲劇』

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