★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2008年02月18日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
福岡伸一 / 生物と無生物のあいだ
子供の頃、「虫歯」や「水虫」って本当に虫だと思っていました。
(^^;ゞ
今思えば可愛らしいことですが、では、生き物とそうでないものと、どこがどう違うのか?と問われると、はたと困ってしまいます。人間と機械と、同じなのか違うのか? 分かっているようで実は分かっていない、盲点をついた問いではないでしょうか。
この本は「生命とは何か?」という問いに、化学的に、明確に答えている“読み始めたら止まらない 極上の科学ミステリー(帯の言葉)”です。
ところが、この前提だけでは説明のつかない状況となりました。ウイルスの発見です。
では、「生物」ではない「機械」はどのようなものでしょうか。
今思えば可愛らしいことですが、では、生き物とそうでないものと、どこがどう違うのか?と問われると、はたと困ってしまいます。人間と機械と、同じなのか違うのか? 分かっているようで実は分かっていない、盲点をついた問いではないでしょうか。
この本は「生命とは何か?」という問いに、化学的に、明確に答えている“読み始めたら止まらない 極上の科学ミステリー(帯の言葉)”です。
生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達したひとつの答えがこれだった。
いきなり「プロローグ」から、生命の定義について、結論が示されます。なるほど、確かに石や糸くず、塵芥などには自己複製能力はありませんが、動物や植物は子孫を残す為に種子や卵子、精子を作り出します。
ところが、この前提だけでは説明のつかない状況となりました。ウイルスの発見です。
同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウイルスが、生命ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。
ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。(中略)ウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。(中略)
しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。(中略)
ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。(中略)しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。
ここで本書は「自己複製」という概念とその周辺を振り返ります。DNA解明のドラマ、シュレディンガーの発する問い──われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか──、そしてその答えを示唆する「負のエントロピー」の概念などが展開されますが、じっくり読んでゆくと、生命体が、自然科学の法則に実に忠実に従っていることが知らされ、非常に面白いものがありました。「プロローグ」に記述されている通りです。 分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が機械分子であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、“改良”することも可能だろう。
では、生物が「生きる」とはどういうことか? 科学的にはこのように説明できます。 エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。(中略)
生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある。つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを“食べる”ことによって生きている。
“負のエントロピーを食べる”とは如何なることか? ルドルフ・シェーンハイマーの発見が紹介されます。キーワードは「動的平衡」すなわち、生命体は常に変化しつつも、一定の形状を保っているのです。 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。
私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位、(中略)内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。(中略)
よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。
なぜか? つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
そして、ここに、生命に対する新たな定義が生まれるのです。 自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光をあてることによって、次のように再定義されることになる。
生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである
この後、細胞膜とタンパク質の特性が明らかにされ、本書はクライマックスであるノックアウト実験へと話が進んでゆきます。ノックアウト実験とは、DNAのある部位を欠損させ、その生物にどのような変化が見られるかを比較する実験です。生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである
ただひとつ判明していることは、牛が狂牛病にかかると脳内のプリオンタンパク質の立体構造が変化して、異常型になるということである。異常型プリオンタンパク質は(中略)脳内に沈着する。これが進行すると(中略)狂牛病特有の病状が顕在化して最終的には不可避的に死に至る。(中略)
牛でノックアウト実験を行うのは(中略)たいへん手間がかかる。そこで定番のマウスが使用された。
ところが、、、 ところがである。プリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは正常に誕生し、成長後も健康そのもの、何の不具合も見つからなかった。(中略)
そこで(中略)もう一度、正常なプリオンタンパク質遺伝子をそのまま元に戻してやったらどうなるか。(中略)それは健常マウスと変わらぬものができるわけで、何事も起こらないだろう。事実、実験結果はそうなった。
実験者の期待を大きく裏切る結果となったのです。そして驚くべきことに、、、 ところが、(中略)実験にバリエーションをつけてみたのである。(中略)部分的に不完全なプリオンタンパク質遺伝子をもどしてみたのだ。(中略)
このような不完全なプリオンタンパク質分子を与えられたマウスはどうなるだろうか。
うまれてからしばらくは何事もなかった。しかしこのマウスは次第におかしな行動を取るようになりはじめた。(中略)やがてマウスは衰弱して死ぬ。不完全な形のプリオンタンパク質は、脳の仕組みを徐々に変調させていったのである。
プリオンタンパク質を完全に欠損したマウスは異常にならず、部分的な欠落をもつタンパク質の場合、致命的な異常をもたらす──これはテレビのような機械では考えられないことです。 テレビの回路を構成する素子に関してこのような事態はありうるだろうか。(中略)普通はこの逆だ。ピースの損傷は、それが部分的であれば何とか画像は多少乱れつつも映るかもしれない。しかしピース全体が欠損してしまえばもはや画像は映らない。
しかし先の実験では、 ピースの部分的な欠落のほうがより破壊的なダメージをもたらす。むしろ最初からピース全体がないほうがましなのだ。このようなふるまいをするシステムとは一体どのようなものなのだろうか。
ここからが、「生命」と「機械」の決定的な違いを表す感動的な考察です。 そうなのである。やはり、私たちには何か重大な錯覚と見落としがあったのだ。重大な錯覚とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はか(ナイーブ)さである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。
生命とは、テレビのような機械(メカニズム)ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯覚なのだ。そして私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基盤から素子を引き抜くような何かではない。
私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流される。後戻りのできない一方向のプロセスである。(中略)
この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか。動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。(中略)
とはいえ、あるピースの欠落が決定的なダメージをもたらし、動的平衡系がその影響を最小限にしようとするものの、どうしても修復しきれないときには何がおこるだろうか。
発生のプロセスは次のステージに進むことができず、このプロセスはその時点で死を、迎える。(中略)つまり、このような致命的な遺伝子ノックアウト実験は、その結果が日の目を見ることはない。(中略)
このような致命的な欠落ではなく、その欠落に対してバックアップやバイパスが可能な場合、動的平衡系は何とか埋め合わせをしてシステムを最適化する応答性と可変性を持っている。それが“動的な”平衡の特性でもある。これは生命現象がときに示す寛容さあるいは許容性といってもよい。(中略)
ところが動的な平衡系にとってこの許容性が逆に作用することがある。平衡系は偶発的なピースの欠落に対してはやわらかくリアクションしうる。しかし、平衡系は人工的な紛い物までは予定していない。組織化の途上で、6つある凸部のうち2つを欠いたピースが残り4つの凸部を使って周囲のピースと結合すればどうなるだろうか。おそらくその場所の平衡は成立したと捉えられ、組織化は次のステージに進んでしまうのだ。ところが凸部2つ分の空隙は開いたままである。生命はこのような部分的な操作に気づくのが得意でないのだ。
分化プロセスが進行する間、ピースの隙間にできたわずかな空隙はどうなるだろうか。空隙の周囲にあるピースがすこしずつずれて、完全ではないにしろ空隙を最小限にすることもできるかもしれない。
しかし、時はもう遅い。周囲のピースはすでにそれ自体、他のピースとの間に相互作用を持ち、周りを取り囲まれている。だから、ある空隙を最小化しようとしてピースが不規則にずれれば、その動きは別の部位に新たな空隙を作り出してしまう。ひずみはさらに隣へと、時間的な経過が進めば進むほど、より大きな全体へと波及していく。(中略)わずかな空隙から始まったひずみはネットワーク全体に広がり、やがて平衡に回復不能な致命傷を与えることになる。
つまり、「決定的な」遺伝子の欠落は、発生プロセスが先に進むことなく、ノックアウト実験の影響は受けないのに対し、「部分的な」欠落をもつ遺伝子からは、誤差を含めながらプロセスが進み、時間の経過とともにひずみがどんどん大きくなってゆく、ということです。 生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら、二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。
「動的平衡」と「時間」という概念を導入することにより、「生命とは何か」に答えることが出来るのです。
では、「生物」ではない「機械」はどのようなものでしょうか。
機械には時間がない。原理的にはどの部分からも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することが出来る。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことの出来ない時間というものがない。
「時間」という不可逆性のものを持ってくることにより、壊れたら修理できる機械と、かけがえのない尊い命をもった生命との違いをみることができ、以下の結論を導き出すことが出来るのです。 結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。
命の尊さ、とりわけ「人命は地球より重い」といわれる根拠を、科学的に証明した、画期的な本と言えるのではないでしょうか。



