佐藤尚之 / 明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法

 かなり具体的、分析的に書かれていますが、ひとことで言うと、消費者(ユーザー、読者、オーディエンス)主権の時代になっているから、これからの広告は、消費者本位の発想で作るべきだという内容です。
 今までは、広告を流すメディアと言えば、4大マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が主流でしたが、今や、ネットやケータイ、フリーペーパーやフリーマガジン、iPod、Wiiやプレステ、DSなどのゲーム機、DVDなど多岐にわたっており、4マスに広告を打ってさえおれば見てくれる時代ではなくなりました。
 しかし、だからといってそれらが完全に威力を失ってしまった訳ではありません。テレビにはテレビの優位性がありますし、長距離ドライバーなどは、例えばラジオこそが最大の情報源となります。
 要は、各種メディアを偏りのないニュートラルな関係としてとらえ、伝える対象に応じて最適な広告手段を講じることが大切なのです。
 ネットはメディアというよりは液体に近く、各メディア(コンタクト・ポイント)は細胞のようにそこに浮かんでいる。消費者に伝わるならどんなメディアを使ってもよく、メディアはネットによって自由自在に結び付けられている。
 これが著者の考える理想的なキャンペーンの形です。
 様々なメディアを総合的に活用するには、作り手が消費者としての面白味を体験し、その喜びを共有したいという思いで楽しむ感覚が必要なのではないでしょうか。
 以下、本書の内容をまとめてみました。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-* -*-*-*-*-*-*-*-*-*-* -*-*-*-*-*-*-*-*-*
【第1章 消費者へのラブレターの渡し方】
  • 広告の主流が4大マスメディアだった時代が変化してきている
    • ラブレターが(広告)相手の手に渡りやすかった    ↓   ラブレターが相手の手にわたりにくくなった
    • 他に楽しいことが少なかったので、ラブレターはとても喜ばれた    ↓   他に楽しいことが山とあり、相手はラブレター自体に興味をなくしている
    • 渡したラブレターを相手がちゃんと読んでくれた    ↓   ラブレターを読んでくれたとしても、口説き文句を信じてくれなくなった
    • しかもラブレターを友達と子細に検討し、友達に判断を任せたりする
  • モテないひとはどうやってラブレターを渡せばいいか
    • 相手の趣味や行動を調べ、よくよく観察し、相手の身になってみる
    • その上で相手の行動を先読みして待ち伏せし、確実にラブレターを手渡す
    • 他の楽しいことに目がいかないように、感動的なラブレターで口説く
    • 相手の友達にも気に入られるよう十分ケアする

  • ラブレターは渡したあとも大事
    • ラブレターを渡したあと、脈がありそうなら、すかさずもうひと押し
    • つきあいが始まったあとも気を抜かず、細やかに気を遣う
    • つきあっててもライバルは次々現れ、相手は友達と相談していることを忘れずに
    • 長くつきあうためには、イイトコロだけでなく、欠点も公平に見せていくこと


【第2章 広告はこんなにモテなくなった】
  • 消費者の逆襲としてのインターネットの普及により、消費者がヨコにつながり、「商品のスッピンの姿」を教えあうようになった。
  • 若者を中心に30代中盤くらいまでの、いままで消費活動の中心にいた人々は、毎日様々なメディアを渡り歩き、広告には常に疑いの目を向けている、彼らにとって信頼できるメディアとは「友達・好きな人・信頼できる人」である。
  • 長く従順な「情報の受け手」だった消費者は、ネットを介して発信者、つまり「情報の送り手」になり、彼ら自身にとってもっとも信頼できるメディアのひとつになりつつある。


【第3章 変化した消費者を待ち伏せる7つの方法】
  • (1)消費者のコンタクト・ポイントで待ち伏せる
  • (2)新しいメディアを創って待ち伏せる
  • (3)クチコミを利用して待ち伏せる
  • (4)CGM(Consumer Generated Media:消費者が作ったメディア)で待ち伏せる
  • (5)エンターテイメントの中で待ち伏せる
  • (6)検索結果で待ち伏せる
  • (7)メディアをニュートラルに考えてクロスに待ち伏せる


【第4章 消費者をもっとよく見る】
  • そもそも「相手がどういう行動をするか」を知らなければ待ち伏せできない。相手をもっともっとよく知らないと、待ち伏せテクニックも使えないのである。
  • 商品理解と並んで、売りたい相手を理解することをもっと重視すべきだ。
  • 商品の情報を伝えてもらいたがっている人をリアルに想像する。


【第5章 とことん消費者本位に考える】
  • 大切なのは手法ではなくて、相手のことをとことん考えるという姿勢なのだ。
  • 伝えたい相手、いや「伝えてもらいたがっている読者たち」に確実に伝えて喜んでもらいたかった。
  • 伝えたい相手のことをとことん考えてコミュニケーションを設計した人たち全員が、最後まで、細部まで、クオリティの責任を持ってやりきるべきなのだ。
  • テレビCMみたいに一度に何百人に伝えることはできないけど、ひとりでもふたりでも、心の奥まで伝わったのなら、それに勝ることはない。たぶんボクたちは「広く伝えること」とはまた違う「深く伝えること」の喜びと意味をこの3日間で知ったのだと思う。
  • キャンペーンから学んだこと
    • 初動に時間をかける。伝えたい相手はどんな人たちなのか、これをしっかりと決める
    • 自分たちが「伝えたい相手」になってみる
    • 商品は消費者のものであるという発想
    • 相手が一番望んでいることをするという考え方
    • 伝えたい相手にだけ伝えるというスタンス
    • 相手を巻き込み、参加してもらうことの大切さ
    • すごく大変だが、コミュニケーション・デザインをやり抜く



【第6章 クリエイティブの重要性】
  • 広告とは相手の心を表現で動かすものでないといけない。相手を感激させなければラブレターとは言えないのだ。
  • 圧倒的に差がある市場順位をひっくり返すような価値変容を消費者の心に起こすこと。それが広告なのである。
  • 消費者は頭を働かせて広告なんか見てくれない。それどころか頭のスイッチをオフにしているときに偶然出会うのが広告なのである。そういうときに消費者の共感や感激を得るためには、スイッチをオフにした彼らでもわかるような、ハードルの低い表現でせまらなければいけない。
  • ネットの登場でヨコにつながった消費者たちは、実際に購入した人を中心に、その分野に詳しい人や専門家、それに内部告発も含めて、商品を丸裸にしてしまうのである。広告でお化粧してあげても、ブログや掲示板、メールのやりとり、消費者の生の声が載った評価サイトなどで、商品はスッピンにされてしまうのだ。いくら広告でイメージを押しつけようとしても、消費者は白けるだけなのである。
  • 商品丸裸時代のクリエイディブ
    • 認知にてっすること
    • よりプロモーショナルになること
    • ありのままの自分を出すこと
    • 買ってくれた人をもてなすこと
    • 買ってくれた人に参加してもらうこと
  • どのメディアがどう伸びどう衰退するとか、そんな論ばかり言ってないで全部活用すればいいのだ。消費者が使うメディアを全部活用して前向きにこの業界を延ばしていくべきだ。既存マスメディアのよさももう一度いちから見直して、最大限活用するべきである。
  • 新しいお茶の間「ネオ茶の間」の出現。ひとりでテレビとパソコンを「ながら視聴」している人が、リアルタイムで同時に大勢つながり、雑談している。テレビとケータイを「ながら視聴」している人もそこに大勢入り込んでくる。まさに「巨大なバーチャルお茶の間」ではないか。そしてそれは以前のお茶の間のような「新しいクチコミ源」なのである。
  • 強いコンテンツさえ作れば、消費者が見つけて、教え合って、世界中に広めてくれるのである。ネオ茶の間は超実力主義だ。消費者はそこで世界中から送られてくるクオリティ高いコンテンツにも触れ続け、どんどん目が肥えていくだろう。相当厳しい視聴者となる。でも、いったん面白いと思うと味方になり、どんどん広めてもくれる。

【すべては消費者のために】
  • 彼ら(消費者)が変化したらこちらも変化する。彼らをよく見て理解し喜ばす。彼らにパートナーになってもらい一緒にコミュニケーションを作っていく。彼らのために最適なチームを編成しコミュニケーションを実行する。つまり、すべてが消費者本位の発想なのである。
  • 消費者にとっては「自分が使っているメディアがいいメディア」なだけである。彼らにとって魅力的なメディアは残るし、そうでないメディアは消える。送り手側の都合など消費者には関係ないのだ。

Links: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね) 『ワシ・ブロ』 インタラクティブ・エージェンシーではたらくWebプロデューサー マインドマップ的読書感想文 10000日目のハチ。:明日の広告 「明日の広告」佐藤尚之(@アスキー新書)

Filed under: ★新書・単行本など  タグ: , , , , , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (3)

福岡伸一 / 生物と無生物のあいだ

 子供の頃、「虫歯」や「水虫」って本当に虫だと思っていました。 (^^;ゞ
 今思えば可愛らしいことですが、では、生き物とそうでないものと、どこがどう違うのか?と問われると、はたと困ってしまいます。人間と機械と、同じなのか違うのか? 分かっているようで実は分かっていない、盲点をついた問いではないでしょうか。
 この本は「生命とは何か?」という問いに、化学的に、明確に答えている“読み始めたら止まらない 極上の科学ミステリー(帯の言葉)”です。
 生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達したひとつの答えがこれだった。
 いきなり「プロローグ」から、生命の定義について、結論が示されます。なるほど、確かに石や糸くず、塵芥などには自己複製能力はありませんが、動物や植物は子孫を残す為に種子や卵子、精子を作り出します。
 ところが、この前提だけでは説明のつかない状況となりました。ウイルスの発見です。
同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウイルスが、生命ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。  ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。(中略)ウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。(中略)  しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。(中略)  ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。(中略)しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。
 ここで本書は「自己複製」という概念とその周辺を振り返ります。DNA解明のドラマ、シュレディンガーの発する問い──われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか──、そしてその答えを示唆する「負のエントロピー」の概念などが展開されますが、じっくり読んでゆくと、生命体が、自然科学の法則に実に忠実に従っていることが知らされ、非常に面白いものがありました。「プロローグ」に記述されている通りです。
 分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が機械分子であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、“改良”することも可能だろう。
 では、生物が「生きる」とはどういうことか? 科学的にはこのように説明できます。
 エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。(中略)  生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある。つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを“食べる”ことによって生きている。
“負のエントロピーを食べる”とは如何なることか? ルドルフ・シェーンハイマーの発見が紹介されます。キーワードは「動的平衡」すなわち、生命体は常に変化しつつも、一定の形状を保っているのです。
 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。  私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位、(中略)内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。(中略)  よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。
 なぜか?
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
 そして、ここに、生命に対する新たな定義が生まれるのです。
 自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光をあてることによって、次のように再定義されることになる。
 生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである
 この後、細胞膜とタンパク質の特性が明らかにされ、本書はクライマックスであるノックアウト実験へと話が進んでゆきます。ノックアウト実験とは、DNAのある部位を欠損させ、その生物にどのような変化が見られるかを比較する実験です。
 ただひとつ判明していることは、牛が狂牛病にかかると脳内のプリオンタンパク質の立体構造が変化して、異常型になるということである。異常型プリオンタンパク質は(中略)脳内に沈着する。これが進行すると(中略)狂牛病特有の病状が顕在化して最終的には不可避的に死に至る。(中略)  牛でノックアウト実験を行うのは(中略)たいへん手間がかかる。そこで定番のマウスが使用された。
 ところが、、、
 ところがである。プリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは正常に誕生し、成長後も健康そのもの、何の不具合も見つからなかった。(中略)  そこで(中略)もう一度、正常なプリオンタンパク質遺伝子をそのまま元に戻してやったらどうなるか。(中略)それは健常マウスと変わらぬものができるわけで、何事も起こらないだろう。事実、実験結果はそうなった。
 実験者の期待を大きく裏切る結果となったのです。そして驚くべきことに、、、
 ところが、(中略)実験にバリエーションをつけてみたのである。(中略)部分的に不完全なプリオンタンパク質遺伝子をもどしてみたのだ。(中略)  このような不完全なプリオンタンパク質分子を与えられたマウスはどうなるだろうか。  うまれてからしばらくは何事もなかった。しかしこのマウスは次第におかしな行動を取るようになりはじめた。(中略)やがてマウスは衰弱して死ぬ。不完全な形のプリオンタンパク質は、脳の仕組みを徐々に変調させていったのである。
 プリオンタンパク質を完全に欠損したマウスは異常にならず、部分的な欠落をもつタンパク質の場合、致命的な異常をもたらす──これはテレビのような機械では考えられないことです。
 テレビの回路を構成する素子に関してこのような事態はありうるだろうか。(中略)普通はこの逆だ。ピースの損傷は、それが部分的であれば何とか画像は多少乱れつつも映るかもしれない。しかしピース全体が欠損してしまえばもはや画像は映らない。
 しかし先の実験では、
 ピースの部分的な欠落のほうがより破壊的なダメージをもたらす。むしろ最初からピース全体がないほうがましなのだ。このようなふるまいをするシステムとは一体どのようなものなのだろうか。
 ここからが、「生命」と「機械」の決定的な違いを表す感動的な考察です。
 そうなのである。やはり、私たちには何か重大な錯覚と見落としがあったのだ。重大な錯覚とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はか(ナイーブ)さである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。  生命とは、テレビのような機械(メカニズム)ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯覚なのだ。そして私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基盤から素子を引き抜くような何かではない。  私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流される。後戻りのできない一方向のプロセスである。(中略)  この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか。動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。(中略)  とはいえ、あるピースの欠落が決定的なダメージをもたらし、動的平衡系がその影響を最小限にしようとするものの、どうしても修復しきれないときには何がおこるだろうか。  発生のプロセスは次のステージに進むことができず、このプロセスはその時点で死を、迎える。(中略)つまり、このような致命的な遺伝子ノックアウト実験は、その結果が日の目を見ることはない。(中略)  このような致命的な欠落ではなく、その欠落に対してバックアップやバイパスが可能な場合、動的平衡系は何とか埋め合わせをしてシステムを最適化する応答性と可変性を持っている。それが“動的な”平衡の特性でもある。これは生命現象がときに示す寛容さあるいは許容性といってもよい。(中略)  ところが動的な平衡系にとってこの許容性が逆に作用することがある。平衡系は偶発的なピースの欠落に対してはやわらかくリアクションしうる。しかし、平衡系は人工的な紛い物までは予定していない。組織化の途上で、6つある凸部のうち2つを欠いたピースが残り4つの凸部を使って周囲のピースと結合すればどうなるだろうか。おそらくその場所の平衡は成立したと捉えられ、組織化は次のステージに進んでしまうのだ。ところが凸部2つ分の空隙は開いたままである。生命はこのような部分的な操作に気づくのが得意でないのだ。  分化プロセスが進行する間、ピースの隙間にできたわずかな空隙はどうなるだろうか。空隙の周囲にあるピースがすこしずつずれて、完全ではないにしろ空隙を最小限にすることもできるかもしれない。  しかし、時はもう遅い。周囲のピースはすでにそれ自体、他のピースとの間に相互作用を持ち、周りを取り囲まれている。だから、ある空隙を最小化しようとしてピースが不規則にずれれば、その動きは別の部位に新たな空隙を作り出してしまう。ひずみはさらに隣へと、時間的な経過が進めば進むほど、より大きな全体へと波及していく。(中略)わずかな空隙から始まったひずみはネットワーク全体に広がり、やがて平衡に回復不能な致命傷を与えることになる。
 つまり、「決定的な」遺伝子の欠落は、発生プロセスが先に進むことなく、ノックアウト実験の影響は受けないのに対し、「部分的な」欠落をもつ遺伝子からは、誤差を含めながらプロセスが進み、時間の経過とともにひずみがどんどん大きくなってゆく、ということです。
 生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら、二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。
「動的平衡」と「時間」という概念を導入することにより、「生命とは何か」に答えることが出来るのです。
 では、「生物」ではない「機械」はどのようなものでしょうか。
 機械には時間がない。原理的にはどの部分からも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することが出来る。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことの出来ない時間というものがない。
「時間」という不可逆性のものを持ってくることにより、壊れたら修理できる機械と、かけがえのない尊い命をもった生命との違いをみることができ、以下の結論を導き出すことが出来るのです。
 結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。
 命の尊さ、とりわけ「人命は地球より重い」といわれる根拠を、科学的に証明した、画期的な本と言えるのではないでしょうか。

白夜行(山田孝之・綾瀬はるか:主演、東野圭吾:原作)

 ※ネタバレ防止の為に、一部表現を隠しておきました。マウスでドラッグすれば見れます。

 東野圭吾さんの原作を読んでいたとき、すでにドラマの初回を見損なっていたので、リアルタイムで観るのを避け、今になってようやくDVDを借りて見ました。3日間で集中して6枚を観たのですが、長さ的なことよりも、内容的にかなり重く、脳の体力を消耗しました。
 理系出身の作者らしく、複雑な網の目のように張り巡らされた伏線は緻密に計算され尽くされており、原作は論理的矛盾のないきわめて完成度の高い小説です。よくぞこれをドラマ化したものだと感心しました。元が良いと、映画化・ドラマ化されたときにがっかりすることがよくありますが、これは例外だと思いました。原作の完全な再現には当然至りませんが、非常に感動しました。
 カメラワークや音楽も良かったです。また、殺人、強姦、恐喝、暴力など、小説を読んでいた時は「こんなの映像化できるのか」と思いましたが、本当にされており w(@。@;)w 編集も上手いと思いました。
 実際のところは、賛否あり、視聴率も伸び悩んだようですが、小説をすでに読んでいても別の角度から楽しめるという点で、個人的には非常に良く出来たドラマだと思います。
 まず驚いたのが、 (続きを読む…)

    2008年2月
    « 1月   3月 »
     123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    2526272829