★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2008年09月24日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分(2)
白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分(1)の続きです。
ノンフィクション作家の、実母の死を看取る場面が生々しいです。自分も、母親の死に目に立ち合うことが出来、ある意味幸せなことだったと思いますが、その記憶は強烈に脳裏に焼きついています。まさに「老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦い」という表現の通りでした。
母は浄土真宗の話を聞いていたことがあり、そのためか、臨終3日前に、衰弱した体にもかかわらず、力強く父の腕を握り、「阿弥陀様が助けに来てくれたよ! 阿弥陀様が助けに来てくれたよ!」と繰り返し、大きな声で言っていました。どんな孤独な戦いをしたのかは想像にも及びませんが、死を「乗り切る」こととはどういうことか、考えさせられる場面です。
ノンフィクション作家の、実母の死を看取る場面が生々しいです。自分も、母親の死に目に立ち合うことが出来、ある意味幸せなことだったと思いますが、その記憶は強烈に脳裏に焼きついています。まさに「老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦い」という表現の通りでした。
母は浄土真宗の話を聞いていたことがあり、そのためか、臨終3日前に、衰弱した体にもかかわらず、力強く父の腕を握り、「阿弥陀様が助けに来てくれたよ! 阿弥陀様が助けに来てくれたよ!」と繰り返し、大きな声で言っていました。どんな孤独な戦いをしたのかは想像にも及びませんが、死を「乗り切る」こととはどういうことか、考えさせられる場面です。
僕はさっきまで読んでいた原稿のことを考えていた。筆者は女性のノンフィクション作家で、彼女が39歳のときに実母が脳貧血で倒れて身体の自由も言葉も奪われてしまうという体験をする。原稿は、半年ほど前に亡くなったその母親を、老いた父と共に介護しつづけた以後13年間にわたる彼女の悪戦苦闘を克明に綴ったもので、半ば私小説とも言うべき迫真の作品であった。 終章で母の死を看取る場面が詳細に描写されている。――深夜、明りを落とした部屋で、私は母と二人きりだった。ベッドのそばに座って私は母の手をさすり続けていた。母の胸はふいごのように激しく音を立てていた。ずっと苦しそうだった。誰もなにも言わなかったが、母が死に向かって助走を始めたのだと、私は気がついていた。もうなにを言っても母は答えなかったし、表情を変えることもなかった。見開いた目はぼうっと宙を捉えていた。母はもう休みたがっているように見えた。平穏な眠りにつきたがっているように思えた。が、肉体がそれを許さない、まだ駄目だ、まだ駄目だと、母を強引に引き止めているようだった。 だが、今、母は苦しそうだった。もう、こんなこといい、と言っているようだった。私は母の激しい呼吸に合わせて呼吸をした。でも、苦しみを共有することなどできなかった。母は一人で闘っていた。徹頭徹尾、それは孤独な闘いだった。 私はもう、頑張って、とは言えなかった。できることなら、喉の管をはずし、酸素を止め、なにもかも終わりにしてあげたかった。後戻りできないゴールに向かって、母は、一人でただ走っていた。その姿をひたすら見つづけている私の時間の観念は失われ、それからは時がたつのも気づかなかった。 朝7時半を過ぎた頃だ。医師から電話があった。変わりはないが、ずっと息が苦しそうなんです、と言うと、朝一番で看護婦をこちらから派遣すると言われた。 その直後だった。母の呼吸がさらに激しくなった。まるで、急な坂道を必死であえぎあえぎ登る機関車のように、シュワーッ、シュワーッと息を吐き、身体が持ち上がり、胸が大きく波打った。その激しさに思わず、横たわる母に抱きつき「おかあさん」と呼んで必死で抱きかかえた。私の腕の中で母が深々と息を吸い、胸がきしみ声をあげた。そして、突如、機関車が急停車したように母の息が止まった。一瞬、あたりが静寂に包まれ、母の口許から管がぽろりと落ちた。 「お父さん、お母さんの息が止まった……」 父は茫然自失としてそこに立っていた。それから「そうか」と言った。 老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない。 だから、「人が死ぬということは、こういうことなのよ」と母はこの日、私にしかと教えてくれたのだ。 大丈夫。やれる。きっと。お母さん、あなたのように、私も。同じようにやれる。僕は会社で、この文章を息を詰めながら何度も繰り返し読んだ。死は最後は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない、という。そして彼女は宣言していた。自分も同じようにやれる――と。しかし、僕は思った。死が戦いだとすれば、一体何に対する誰のための戦いなのだろうか。また死を自力で乗り切るとは一体どういうことなのだろうか。 ――かあちゃんは、この作者の母、さらにはこの作者のように、どれほどか困難な死というものを果たして自力で乗り切れるだろうか。 僕は歩きながら、そう考えると胸苦しくなってくるような気がした。 死とは本当は取るに足らない、なんでもない現象に違いない。死に際しての苦痛は生と死の転換点を苦闘物語として演出するし、過去の累積された記憶は本人やその身近に佇む人間たちを、深い未練の沼に誘い込む。しかしそれは死という現象のいわば周辺機器であって決して本体ではない。 死の本体とは、誰にでも必ず起こる事実――つまりは誕生と並ぶ人間にとって唯一無二の絶対現象というだけで、それ以上のことは実のところ誰にも分かってはいないのだ。死を正確に形容するとすれば、それはやはり「取るに足らない」、「ありふれた」、「平凡な」出来事と言う以外にはあるまい。 それでも、と僕はかねてから思っているのだった。 僕たちは、その死の先にあるものを、たとえ不可能であっても必死に思考せねばならない。この作者の言うように死が「乗り切る」ものだとするならば、僕達は是が非でも、その乗り切った先にあるものの正体を掴まなければならないのだ、と。 だが、かあちゃんにはそんなことは絶対に無理だ。だから、僕は、かあちゃんは無事に死を「乗り切る」ことができないのではないかと考え込んでしまう。 (51ページ)
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