★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2009年01月31日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
とどろき / 平成21年1月号 – 1から分かる仏教講座 ~ 「私」ってどんなもの?
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(-(-(-(-(-h-)-)-)-)-)忍法丸写しの術
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以上「1から分かる仏教講座」から。 手打ちにつき、誤字などあれば、気付き次第修正してゆきます。1から分かる仏教講座
「仏教」と聞くと、「私とは関係ない」と思う人も多いのでは? ところが私といちばんかかわりの深いのがお釈迦さまの教えなのです。「私」ってどんなもの?
全ての人は幸せを求めて生きています。 では、その幸せになろうとしている「私」とはどんなものでしょうか。 あなたは「自分」についてどれくらいしっていますか。(1)幸せになる第一歩
「彼を知り己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず」とは、孫子の兵法の言葉。また「彼を知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし」ともあります。 人生にも同じことがいえるでしょう。私たちが、くる日もくる日も汗まみれに奮闘しているのは、幸せ求めてのこと。けれども、私とはどんなものか(己)をしらなければ、真の幸福を得ることもおぼつかないのではないでしょうか。 わが身知らずでは、本当の幸せになれるはずがありませんよね。幸せのカギ、それは私自身を知ることなんです。(2)汝自身を知れ
自分のことは自分がいちばん知っていると思いがちですが、「汝自身を知れ」と古代ギリシャからいわれてきたように、最も分からないのが自分自身ではないでしょうか。100億光年の宇宙が分かっても、30億の遺伝子が解読されても、依然として分からないのが私です。どうして自分のことが自分に分からないのでしょう。それは近すぎるからです。「目、目を見ることあたわず」。どんな視力のいい人も自分の目を見ることはできません。 近すぎて分からないものには鏡が使われます。お釈迦さまは「仏教とは法鏡なり。本当の私を映す鏡だ」とおおせです。(3)私=煩悩具足の凡夫
仏教という鏡に映った私たちの真実の姿を親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫(人間)」と教えられています。 煩悩とは文字どおり、私たちを「煩わせ悩ませるもの」。一人一人が108つ持っているとお釈迦様は説かれています。大晦日に除夜の鐘を108回打つのは、煩悩の数からきています。「来年こそは煩悩に煩わされないように」の願いを込めてのことでしょう。 108つ持っていると聞くと、ほかにも何かあるように思うかもしれませんが、そうではありません。煩悩のほか何もない、煩悩でできているのが私。これを「具足」といいます。(4)死ぬまで変わらない
108の煩悩の中でも特に恐ろしいのが貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)の3つです。欲や怒りねたみ一杯の、煩悩具足の人間の実態を教えられた、親鸞聖人のお言葉を聞いてみましょう。 「『凡夫』というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、そねみねたむ心、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止(とど)まらず消えず絶えず」 “人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”(ま)(と)(め)
- 幸せの第一歩は「自分」を知ること。
- 自分のことは、近すぎて分からない。だから鏡が必要。
- 仏教は、本当の私を映す鏡です。
- 仏教の鏡に映った本当の私を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と説かれています。
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