芥川龍之介 / 蜘蛛の糸

closeこの記事は 2 年 11 ヶ月 12 日 前に投稿されたものです。間違いに気づいたらその都度修正していますが、今読んだらおかしな点もあるかもしれません。ご了承ください。
ここ数日 Google 関係の記事、 (YouTubeBook SearchGmail) を書いてきましたが、 基本的に Google の考え方には共感できるところが多いです。 (そうでない人もまた多いと思いますが) 利益欲とか名誉欲とか、そういうものから離れ、 ストイックに、かつ楽しみながら、 ひたすら人類の叡智を整理している、 ただそれだけ、という印象を受けます。 そんなところが大好きです、Google。 梅田望夫さんの主張する「ウェブ性善説」にも概ね賛同しますねぇ。 ただ、、、 生身の人間はどうかというと、 悲しいかな、ではないか思います。 いや、日常生活においては 親切だったり優しかったり、思いやりのある人など、沢山おられます。 そういう人格を認めない訳ではない、、、 どころか、大いに目指すところであります。 そうではなく、人間の本性に及ぶ部分、 究極的な、自己の本当の姿、それはやはりだと思うのです。 そのことを強く思わせる小説が、芥川龍之介『蜘蛛の糸』、 日本人なら教科書などで1度は読んだことあるのではないでしょうか。 どんな話だったっけ?という方は、ここをクリック → 青空文庫 あるいは、短いので下をスクロールさせてお読み下さい。

蜘蛛の糸

芥川龍之介

        一  ある日の事でございます。御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。  やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。  するとその地獄の底に、※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多かんだたと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。この※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたをって行くのが見えました。そこで※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。  御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠ひすいのような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。         二  こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多かんだたでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。  ところがある時の事でございます。何気なにげなく※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多はこれを見ると、思わず手をって喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。  こう思いましたから※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多かんだたは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。  しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせって見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。  すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限かずかぎりもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦ばかのように大きな口をいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数にんずの重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中でれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎かんじんな自分までも、元の地獄へ逆落さかおとしに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとい上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。  そこで※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。  その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててれました。ですから※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多もたまりません。あっと云うもなく風を切って、独楽こまのようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。  後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。         三  御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがて※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。  しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。
(大正七年四月十六日)

底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房    1986(昭和61)年10月28日第1刷発行    1996(平成8)年7月15日第11刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集    1971(昭和46)年3月~11月 入力:平山誠、野口英司 校正:もりみつじゅんじ 1997年11月10日公開 2005年10月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この人間観は鋭いですねぇ。 極限状態に追い込まれると、 所詮は、自分のことしか考えられない、 「我利我利」が本当の自分だと思います。 戦時中に、実際にあったと言われる出来事を、以前読んだ本からも。
 太平洋戦争末期、護衛なき航海を余儀なくされた日本の輸送船が、魚雷攻撃で撃沈された時それはおきたという。大海に放り出された何千もの兵士たちが、わずかの救命ボートめがけて殺到する。ボートはもう限界だった。一人でも収容すれば沈没する。だが救助を求める必死の手が、まわり中にかかってくる。その手をボートの兵士たちが、銃剣かざし片っ端から斬り落とす。手首を斬られた兵士たちは、かつての戦友をにらみつけ、鮮血の海に消えたという。 「肉体は助かったが、オレの魂は永遠に救われない」  九死に一生を得て帰還した、兵士の告白である。
(p.237)

かつての戦友をにらみつけ消えていった兵士とは、 苦楽を共にし、1本のタバコを分け合った仲。 想像すると胸が痛みます。 しかし、 「子を棄つる藪はあれど身を棄つる藪はなし」 ということわざもあるように、 自分の命と天秤にかけると、果たしてどちらが重いのでしょう。 親しい仲間、愛する家族とは、 「私」にとって大切な人で、 それはすなわち「私」自身が大切だからに他ならないと思います。 献身的な活動が出来るのは、 自分に余裕があるときや、 自分にとって都合の良い相手に限るのではないでしょうか。 また、 他人に親切にするのは、相手が喜ぶと思っているから、 人を信じるのは、この人は自分を裏切るはずがない、と思ってのことです。 その大前提が崩れると、腹が立ったり、落胆したりします。 相手の反応を超越した、真実の善が出来るだろうかと考えると、 どんな善行も、すべては自分本位のものであると知らされます。 「人」の「為」にやる善と書いて「偽善」とは、よくいったもの。 「自分さえよければ他人はどうなっても良い」 文字面だけを見ると、なんと情けない、と思いがちですが、 自分の気づかないところにそういう心があるのかも知れません。
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多の無慈悲な心」とは、※(「牛へん+建」、第3水準1-87-71)陀多だけのものではないことを、知らねばならないと思いました。
心常念悪 口常行悪 身常行悪 曽無一善
釈迦
(´・ω・`)

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1件のコメント »
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