『歎異抄』勉強会@知人宅 2009.10.25

closeこの記事は 2 年 3 ヶ月 19 日 前に投稿されたものです。間違いに気づいたらその都度修正していますが、今読んだらおかしな点もあるかもしれません。ご了承ください。
【2010.09.02 追記】 これを書いていたときは知りませんでしたが、最近、以下の投稿を読んで深く考えさせられました。当記事をお読みになる前に下記リンクを是非とも参照してください。 ・異端か、正統か|『歎異抄をひらく』発刊から1年10カ月|浄土真宗親鸞会『歎異抄をひらく』畏敬から失笑へ: さよなら親鸞会 (注)「親鸞会」とは、この著者が会長をつとめる団体です。
『歎異抄』の勉強会に行ってきました。

使用したテキストは、

高森顕徹 /『歎異抄をひらく』

備忘録の中から、一部をまとめてみました。




↓リンク先で全文読めます。

はじめに

■『歎異抄をひらく』が書かれた目的

自分の体験とか思想から『歎異抄』を解説した本は沢山ある。しかし、これらが本当の親鸞聖人の教えを伝えているか、となると、満足できるものはなかった。親鸞聖人の教えが曲げられたり、曖昧なものが多かった。そこで、親鸞聖人の教えを正しく知ってもらいたいということで本書は書かれた。『教行信証』、その他のお聖教(仏教の本)に書かれていることが親鸞聖人の教えであり、信心である。それが明らかにされている解説本がなかったので、『教行信証』、その他のお聖教を基準とされている。



■どうして「仏教学者はいうにおよばず、多くの作家や思想家が、こぞって『歎異抄』を論じ始めた(3ページ)」のか。

  1. 二種深信(にしゅじんしん)の教えに引かれ。
    • 真実の信心かどうかは、二種深信かどうかによってのみ判定する。二種深信とは、「絶対助からない自分」と「絶対に助ける弥陀の本願」に疑いが晴れること。この二つのことが、同時に一人の上にある。絶対矛盾した考え。これが絶対の境地。『歎異抄』には、二種深信が色々な表現で書かれている。これが、学者や、思想に関心のある人を引き付けるのではないか。何かハッキリしないけれど、何か引き付けられる、二種深信がにじみ出ているのを感じるのであろう。
  2. 大変な美文で書かれているから。
  3. 親鸞聖人の仰ったことが書かれているから。




■「『歎異抄』は聖人亡き後、親鸞聖人の仰せと異なることを言いふらす者の出現を嘆き、その誤りを正そうとした」(2ページ)本であるのに、「蓮如上人の訓戒どおり『歎異抄』は、もろ刃の剣である。冒頭にあげた「善人なおもって」の言葉など、皮相の見では悪を勧めているようにも映る」(3ページ)とあるように、誤解を生むような言葉で書かれているのはなぜか。

『歎異抄』とは、「異なることを歎く」とあるように、親鸞聖人の仰らなかったことを「これが親鸞聖人の仰ったことだ」と言っているのを歎いて、本当の親鸞聖人の教えを伝えようと書かれた本。それなのに、なぜ、誤解を招く表現がされているのか。書いた人が悪いのか?
二種深信とは、言葉にかからない不可称・不可説・不可思議のもの。言葉になったものは、想像できるが、親鸞聖人は二種深信しか仰らなかった。言葉にならないことだが、言葉で伝えるしかなかった。表せないものを表そうとすると、読む人が間違う危険性は、親鸞聖人の教えを正しく書こうとした者には、必ずそういうリスクはある。これは仕方のないこと。『教行信証』もそう。だから蓮如上人は「この『歎異抄』は大事なお聖教だ」と書かれているが「誰にも読ませて良い、というものではない」と、500年前に封印された。間違ったことが書かれているからではなく、そういう(誤解を招く)内容だから。表すことの出来ないことを表そうとするのは、お釈迦様にも出来ない。でも、言葉でしか伝えることはできない。そうすると、そのような危険性は避けることが出来ない。
私達は、言葉で教えを聞くのだが、最後、弥陀に救われるのは、言葉を離れた世界。そこまで、言葉によって導かれる。



■二種深信の世界が広まると、世界はどのように変わってくるのか

何のために生まれてきたのか、生きているのか、全人類がハッキリする。そうすれば、命は大事だということがハッキリする。全てのものは、人生の目的達成の為に存在するとハッキリする。全人類、万物は、これ一つの為に存在する、とハッキリする。科学も医学も大変変わる。「御同行」「御同朋」と、いわゆる人種差別はなくなる。医学の目的は延命だが、では、延ばした命で何をするのか?仕事をするのか?趣味をするのか?それがハッキリする。仏教では私達の心を8つに分けている。その中の前五識が、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。見たり聞いたり、嗅いだり食べたり、触れたりして楽しむ楽しみは、肉体の楽しみ。これらはしばらくのことで、続かない。これを如何に長続きさせるか、と努力しているのが政治、経済、科学、医学など。二種深信が広まると、これらが変わる。
また、人生観も変わる。70~80年のことではなく、親鸞聖人の教えを聞くと、人生観は昿劫、億劫となる。何億兆年のうちの100年は、一瞬のこと。その一瞬のことを論じているのが政治や経済、科学医学など。昿劫、多生のことを問題にしているのが仏教。何億兆年の中の一瞬を、どう位置づけするか。人生観が大きく変わる。



■『歎異抄』の著者は唯円ではないか、とも言われているが、著者不明。書いた人の名前が書かれていないのはどうしてか?

こういう疑問は前からもあった。今もある。色々なことが考えられており、中には、浄土宗のスパイではないか、というものもある。親鸞聖人のお名前を出して、親鸞聖人を尊敬しているという立場で書かれているので、浄土宗のスパイが、親鸞聖人の教えを聞いている人の信仰を惑乱させるために書いたのではないか、という学者もいるし、名誉欲を嫌った、控えめな人だったのではないか、という学者もいる。親鸞聖人は、自分の書いたものには名前を書いておられる。それは、名誉欲の一つでもあろうし、責任のありかをハッキリさせるため、ということもある。もし間違っていたら責任は私にあります、と。『歎異抄』に名前がないのは、本当のところは誰にも分からない。
問題は、誰が書いたのか、ということよりも内容。



【序】

■直に聖人のご教授なされた真実信心と、異なることが説かれているのは、嘆かわしい限りである。(32ページ)

なぜそうなるのか。根本は、親鸞聖人の教えが正しく分からないから。親鸞聖人と異なる信心だから。
また、名誉欲で、珍しい法をを教えようとするから。教えよりも自分が大事だとそうなる。親鸞聖人は常に
更に親鸞、珍しき法をも弘めず。如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり
と戒められた。蓮如上人もまた
当流に更に沙汰せざる珍しき法門を讃嘆し、同じく宗義に無き面白き名目なんどを使う人これ多し。以ての他の僻案なり。自今已後、固く停止すべきものなり(御文章四帖目八通)
と言われている。珍しいのは体験。人を惹きつける力はあるが、続かない。体験は教えではない。法、教えというのは、普遍的なもの。不変のもの。三願転入は、法の上で説かれている。自己顕示欲を抑えてゆかねばならない。
正しい教えを聞かなければならない。根本からいえば、真実信心がないから。真実信心があれば、何をおいても仏法しかない、となるから。



【第一章】

■「ただ信心を要とすと知るべし」=「ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ」(37ページ)

「信心」=「仏願に疑心あることなし」
世間で言われる「信心」と、親鸞聖人の言われる「信心」とは、全く異なる。
世間一般でいう「信心」とは、疑いがあるけれど、その疑いを押さえて信じようとしている心。疑いが無ければ「信ずる」ではなく「知っている」と言う。「私の夫は男だと信じる」と言う人はいない。
親鸞聖人の言われる「信心」とは、疑いの心が全く無くなった心。何に疑いがなくなった心かというと、阿弥陀仏の本願に全く疑いが無くなった心。親鸞聖人の教えられる信心は、釈迦が本願成就文で説かれている信心。親鸞聖人は
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり(教行信証信巻)
と仰っている。「聞」=「信心」。衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し、という信心。だから、「ただ信心を要とすと知るべし」=「ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ」となる。



関連記事かも?

  1. 人生の目的は「無碍の一道」 / 『歎異抄』第七章
  2. 高森顕徹 / 歎異抄をひらく
  3. 高森顕徹 / 歎異抄をひらく(「善も要らない、悪も怖くない」あなた、こんなことが信じられますか? 『歎異抄』の言葉)
  4. ■報恩講に行ってきました■
  5. 【なぜ生きる】人生で最も大切なこと(少し長文)

関連記事は無いと思います。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:

コメントはまだありません »

コメントはまだありません。

コメントする





(一部のHTMLタグを使うことができます。)

    2009年10月
    « 9月   11月 »
     1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031