★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2009年11月08日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
有の見、無の見 / 内道、外道
とある勉強会で聞いた話のまとめ。
『阿含経』というお経に、
という釈尊の言葉があります。
仏教は後生を否定する「断見外道(だんけんげどう)」でも、後生変わらぬ魂が存在するという「常見外道(じょうけんげどう)」でもないことを説かれたものです。
「外道」とは真理の外側の教え。それに対し、真理の内の教えを「内道」と言います。
世の中にどれだけの宗教、いわゆる主義、主張、教えがあっても、内道か外道しかありません。
外道というのは沢山あります。お釈迦様の時代には、6つの大きな勢力がありました。それらは断見外道というものと、常見外道というものの2つに分けられます。
常見外道というのは、死んだ後も固定不変の霊魂というものが存在する、というものです。私達の生命を、生まれる前から、今日まで、そして死んだ後、一切が滅びてなくなって灰になった後も、霊魂が続いてゆく、と教えるものです。
いわゆる宗教といわれるものは、ほとんど常見外道です。
日本の神道でいう「神」とキリスト教の「GOD」とは違います。神道でいう神とは、世間に貢献した人、世の中の為になった人が、死んだ後、その人の霊魂がどこかの宮に奉られて鎮座している、というものです。一方、キリスト教の神は、大宇宙を1週間で造ったという神(創造主)です。
日本の神道は、肉体が焼けても残るものがある、そして宮に奉られてじっとしているものがある、というもので常見外道ということになります。
常見外道対し断見外道というのは、我々の魂は死ぬと同時になくなってしまうという考えです。死んだ後の世界はない、というものです。マルクスの唯物史観や共産主義は断見外道になります。
いつの時代、いずこの里でも、言わんとしていることはこの2つ。死んだ後が、有るか、無いか、です。そこで、常見外道を「有の見」、断見外道を「無の見」と言います。世界に沢山の宗教があっても、有の見か無の見のどちらかです。
では、仏教はどうかというと、仏教はどちらでもありません。そして、どちらも間違いと教えているのです。
有無の二見を破られた方が、龍樹菩薩です。親鸞聖人は、『正信偈』に
と仰っています。龍樹菩薩は、有の見、無の見は間違いだ、と破られ、仏教を明らかにされました。世間の人たちが信じているものを、全部打ち破られましたから、反感を買って、龍樹菩薩は殺されてしまいました。
大乗無上の法とは、全ての人を乗せられる乗り物のようなもの。大乗とは、全ての人を助けるという阿弥陀仏の本願を説かれたものです。それに対し、小乗とは「我利我利」で聞き誤った仏教です。
では、有の見、無の見が間違いだとする仏教では、死んだらどうなると教えられているのでしょうか。
仏教では、私達の生命は常見外道で言われているような、霊魂はないと教えています。これを「無我」と言います。仏教は「諸法無我」の教えです。ここが、他の宗教と大きく違うところです。「我」というものは無いという教えです。
常見外道にしても、断見外道にしても、「我」というものが有ると教えます。私というものが、死んだ後も続くという常見外道と、死んだら無くなるという断見外道。どちらも「我」というものを認めています。
「これが私だ」というものがある、と皆信じているのです。
では、「○○さん」というときの○○さんとは、一体誰でしょう? ○○さんの手でしょうか? ○○さんの足でしょうか? 目でしょうか? 頭でしょうか? 胃も腸も、血液も作れる時代になって、体を全部交換したら、私というものはどこに行くのでしょうか?「私の手」「私の頭」「私の足」と言っているときの「私」とは何でしょう?
「私の体」は「私」の持ち物で、「私の手」を持っている持ち主が「私」です。
すると、「私」とは何か?
実は「私」というものは無いのです。無いものを有るように錯覚しているのです。仏の覚りからご覧になると、そんな「我」というものはないのです。
このことを、昔の人はこう詠みました。
引き寄せて 結べば芝の庵にて 解くればただの 野原なりけり
芝を引き寄せると、喩えるとテントのようなものが出来ます。しかし、それはいつまでも続くものではなく、バラバラにしたらなくなってしまいます。テントも、布やパイプで出来ていますが、「テント」というものがあるのではありません。バラバラにしたらテントはなくなってしまいます。組み立てたときに出来るのがテントです。一時的に縁があって組み立てられたときだけがテントなのです。テントそのものという実態はないのです。
「我」というのは、喩えるならそのようなもの、これが仏教で教えられる「無我」です。
では、死んだ後にどうなると仏教で教えられているのでしょうか?
それについて『阿含経』にお釈迦様が言われているお言葉が
詳しくは、また別の機会に書きたいと思いますが、喩えると、、、
常見外道を、死んだ後も続く実線 ~ ───── ~、
断見外道を、死んだときに切れる実線 / ───── /
とすると、仏教で教えられるのは、点で続くようなものです。
~ …………… ~
実線ではなく点線だから、常見外道とは違い、
死んだ後も続くから、断見外道でもありません。
(続く)
『阿含経』というお経に、
因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず
という釈尊の言葉があります。
仏教は後生を否定する「断見外道(だんけんげどう)」でも、後生変わらぬ魂が存在するという「常見外道(じょうけんげどう)」でもないことを説かれたものです。
「外道」とは真理の外側の教え。それに対し、真理の内の教えを「内道」と言います。
世の中にどれだけの宗教、いわゆる主義、主張、教えがあっても、内道か外道しかありません。
外道というのは沢山あります。お釈迦様の時代には、6つの大きな勢力がありました。それらは断見外道というものと、常見外道というものの2つに分けられます。
常見外道というのは、死んだ後も固定不変の霊魂というものが存在する、というものです。私達の生命を、生まれる前から、今日まで、そして死んだ後、一切が滅びてなくなって灰になった後も、霊魂が続いてゆく、と教えるものです。
いわゆる宗教といわれるものは、ほとんど常見外道です。
日本の神道でいう「神」とキリスト教の「GOD」とは違います。神道でいう神とは、世間に貢献した人、世の中の為になった人が、死んだ後、その人の霊魂がどこかの宮に奉られて鎮座している、というものです。一方、キリスト教の神は、大宇宙を1週間で造ったという神(創造主)です。
日本の神道は、肉体が焼けても残るものがある、そして宮に奉られてじっとしているものがある、というもので常見外道ということになります。
常見外道対し断見外道というのは、我々の魂は死ぬと同時になくなってしまうという考えです。死んだ後の世界はない、というものです。マルクスの唯物史観や共産主義は断見外道になります。
いつの時代、いずこの里でも、言わんとしていることはこの2つ。死んだ後が、有るか、無いか、です。そこで、常見外道を「有の見」、断見外道を「無の見」と言います。世界に沢山の宗教があっても、有の見か無の見のどちらかです。
では、仏教はどうかというと、仏教はどちらでもありません。そして、どちらも間違いと教えているのです。
有無の二見を破られた方が、龍樹菩薩です。親鸞聖人は、『正信偈』に
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
龍樹大士、世に出でて、悉く、能く有無の見を摧破せん
大乗無上の法を宣説し、 歓喜地を証して、安楽に生ぜむと
と仰っています。龍樹菩薩は、有の見、無の見は間違いだ、と破られ、仏教を明らかにされました。世間の人たちが信じているものを、全部打ち破られましたから、反感を買って、龍樹菩薩は殺されてしまいました。
大乗無上の法とは、全ての人を乗せられる乗り物のようなもの。大乗とは、全ての人を助けるという阿弥陀仏の本願を説かれたものです。それに対し、小乗とは「我利我利」で聞き誤った仏教です。
では、有の見、無の見が間違いだとする仏教では、死んだらどうなると教えられているのでしょうか。
仏教では、私達の生命は常見外道で言われているような、霊魂はないと教えています。これを「無我」と言います。仏教は「諸法無我」の教えです。ここが、他の宗教と大きく違うところです。「我」というものは無いという教えです。
常見外道にしても、断見外道にしても、「我」というものが有ると教えます。私というものが、死んだ後も続くという常見外道と、死んだら無くなるという断見外道。どちらも「我」というものを認めています。
「これが私だ」というものがある、と皆信じているのです。
では、「○○さん」というときの○○さんとは、一体誰でしょう? ○○さんの手でしょうか? ○○さんの足でしょうか? 目でしょうか? 頭でしょうか? 胃も腸も、血液も作れる時代になって、体を全部交換したら、私というものはどこに行くのでしょうか?「私の手」「私の頭」「私の足」と言っているときの「私」とは何でしょう?
「私の体」は「私」の持ち物で、「私の手」を持っている持ち主が「私」です。
すると、「私」とは何か?
実は「私」というものは無いのです。無いものを有るように錯覚しているのです。仏の覚りからご覧になると、そんな「我」というものはないのです。
このことを、昔の人はこう詠みました。
引き寄せて 結べば芝の庵にて 解くればただの 野原なりけり
芝を引き寄せると、喩えるとテントのようなものが出来ます。しかし、それはいつまでも続くものではなく、バラバラにしたらなくなってしまいます。テントも、布やパイプで出来ていますが、「テント」というものがあるのではありません。バラバラにしたらテントはなくなってしまいます。組み立てたときに出来るのがテントです。一時的に縁があって組み立てられたときだけがテントなのです。テントそのものという実態はないのです。
「我」というのは、喩えるならそのようなもの、これが仏教で教えられる「無我」です。
では、死んだ後にどうなると仏教で教えられているのでしょうか?
それについて『阿含経』にお釈迦様が言われているお言葉が
因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ずなのです。
詳しくは、また別の機会に書きたいと思いますが、喩えると、、、
常見外道を、死んだ後も続く実線 ~ ───── ~、
断見外道を、死んだときに切れる実線 / ───── /
とすると、仏教で教えられるのは、点で続くようなものです。
~ …………… ~
実線ではなく点線だから、常見外道とは違い、
死んだ後も続くから、断見外道でもありません。
(続く)
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関連記事は無いと思います。




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