- 2009-11-09 (月) 0:00
- ★仏教
親鸞聖人報恩講に行ってきました。使用テキストは『なぜ生きる』
報恩講とは、毎年、親鸞聖人のご命日である11月28日前後に行われるもので、浄土真宗では、5月21日の聖人ご生誕を喜ぶ降誕会と並んで、大きな行事の一つです。
親鸞聖人がお生まれにならなかったら知ることの出来なかったことがあり、そのご恩に報いる集まりが報恩講です。聖人のご恩に報いるには、親鸞聖人の望んでおられたことを知らなければなりません。親鸞聖人は一生涯何を望んでおられたのか。『歎異抄』第七章を通して親鸞聖人のみ教えを学ばせて頂きました。
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異鈔』第七章)
親鸞聖人は何を望んでおられたか。「早く念仏者になってもらいたい」と言われています。そして、念仏者になると無碍の一道になると仰っています。
無碍の一道とは、一切の障りが障りとならない、絶対の幸福です。どんな幸福も、最後、死が最大の障りとなりますが、その死をも障りとならない世界が無碍の一道です。死が障りとならないといっても、死ななくなる訳ではありません。障りが障りとならなくなる、ということです。
この身になることが、人生の目的だと言われているのです。
政治も経済も、科学も医学も、生きるためにあるものですが、大事なことは何のために生きるのか、ということです。生きることを泳ぐことに喩えると、生き方とは泳ぎ方ということになります。平泳ぎとかクロールとか、泳ぎ方は色々ありますが、大切なのはどこへ向かって泳ぐかということです。方角を間違えてしまったら、一生懸命泳げば泳ぐほど土左衛門に近づいてしまう、ということになってしまいかねません。だから、泳ぎ方も大切ですが、どこに向かって泳ぐのかという目的地はもっと大切なのです。それと同様に、生きるということでも、どう生きるかということは大事ですが、最も大切なことは生きる目的であります。
人生の目的は無い、と言う人がいますが、それは、死ぬために生きると言っているのと同じことです。
また、生きる目的は人それぞれだ、と言う人もいますが、それは趣味や生き甲斐の事です。それらは、やがては「死」という障りによって崩されてしまうものです。人生の目標とか、生き甲斐などと、人間として生まれて来た目的(人生の目的)とは違うものです。
人生の目的は、万人共通のもので、完成、達成という事があります。また色褪せるということがありません。親鸞聖人は「無碍の一道」が人生の目的だと言われました。一切が障りとならない、絶対自由の世界です。
さて、『歎異抄』第七章。ここで親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と言われています。これは「念仏者になって下さい。そうすれば無碍の一道に出れます」と親鸞聖人が願っておられるお言葉です。これが90年の生涯、教え続けられた、たった一つのことです。
では、無碍の一道に出た世界はどのようなものか。それを「そのいわれ如何とならば」の後で言われています。
「信心の行者には天神地祇も敬伏し」
「信心の行者」とは「念仏者」のことです。
天神(てんじん)とは天の神、地祇(ちぎ)とは地の神です。日本で神というと、日本神道の神を皆思い浮かべます。日本神道の神は、歴史上名を上げた人の霊魂が宮に鎮座して、生きている人に禍福(不幸や幸福)を与える力のあるものです。日本は神信心の強い国です。
しかし、親鸞聖人がここで「天神地祇」と言われているのはそういう神ではありません。仏教では、死んだ人間がじっとして、宮に奉られるものではない、と教えます。そうでなければ後生は一大事と説く教えと合わなくなってしまいます。ここで言われている神とは、仏法を守護する神、日本で言われる神とは段違いに尊敬されるべき存在です。
無碍の一道の世界に出たら、それらの神々に尊敬される身になる、というのです。世間中の人々が神に頭を下げているのに、信心の行者になると、神々に頭を下げられるようになるのです。神々に頭を下げられるということがハッキリ知らされたから、私達にも「神を拝むのではなく、神々に拝まれる身になれよ」と厳しく教えられた方が親鸞聖人です。
では、天神地祇に頭を下げられるようになると、全ての人に頭を下げられるようになるだろう、と思うかもしれませんが、そうではありません。
「天神地祇も敬伏し」とは、天地の神々までもが敬伏するのだから、念仏者をすべての人が尊敬するということではない。念仏者の聖人が、生涯、非難中傷の渦中であったことを知れば、おのずと明らかであろう。
(『なぜ生きる』二部 25章)
念仏者を敬伏するのは天地の神で、そのぐらいにならないと、念仏者の尊さは分かりません。世間一般の人からは、親鸞聖人は非難攻撃の的でした。
それにもかかわらず、「魔界・外道も障碍することなし」と言われています。「魔界」とは、私達を苦しめるもの全てです。「善因善果 悪因悪果 自因自果」の因果の道理を知らないと、誰かが自分を苦しめているとしか思えません。その、自分を苦しめているものを魔界と言われているのです。「外道」とは、仏教以外の、真実でないことを教えている教えです。魔界・外道も、信心の行者の幸福を妨げることは出来ないと仰っています。これはその人の力ではなく、バックに阿弥陀仏がついているから前進を止めようがないのです。
では、「信心の行者」=「念仏者」とはどういうものでしょうか。念仏者と聞くと、念仏称えている人と思う人が多いと思います。そして、念仏称えたら極楽へ往けると皆思っています。しかし、それは間違いですよ、と蓮如上人は御文章に仰っています。
それ人間に流布して皆人の心得たる通は、何の分別もなく口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおほきに覚束なき次第なり。
(『御文章』五帖目十一通)
念仏に3通りある、と教えられるのが親鸞聖人です。念仏とは「南無阿弥陀仏」と称えることですが、称える人の心によって3通りの念仏があるのです。
念仏者と聞くと"南無阿弥陀仏"と称えている、すべての人と思うだろうが、称える心はまちまちだ。科学的に分析すれば同じ涙でも、"うれし涙"やら"悲し涙""くやし涙"など、心はいろいろあるように、口では同じく南無阿弥陀仏と称えていても、"念仏も善の一つ"ぐらいに思っている人もあれば、"ずば抜けた善だ"と信じて称えている人もいよう。
だが、無碍の一道に生かされた"うれしさ"に、称えずにおれない念仏者もあるのだ。ここでいわれるのは、まさにその念仏者であって、前章で述べた、摂取不捨の至福の身になった、他力の信心を獲得した人のことである。すぐあとに「信心決定の行者」と言いかえられていることからも、それは明白であろう。
仏教の言葉で言うと、
- 万行随一の念仏……善の一つと思って称える念仏
- 万行超過の念仏……ずば抜けた善と思って称える念仏
- 自然法爾の念仏……無碍の一道に生かされた嬉しさに称えずにおれない念仏
「念仏者」とは、自然法爾の念仏を称えている人のことですが、この念仏のことを『御文章』で蓮如上人はこう仰っています。
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はものもろの雑行(ぞうぎょう)をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。その位を「一念発起(いちねんぽっき)・入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)」とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり。
(『御文章』五帖目十通)
阿弥陀仏に救われたお礼の念仏を称える人、そういう念仏の行者には、天神・地祇が頭を下げ、魔界・外道も障りにならず、どんな善を積んだ結果よりもすばらしい幸せな身になれるから、「無碍の一道」と言われているのです。
では、どうすればそういう身になれるのかというと、「信心」一つで、どのような信心かというと、もろもろの雑行のすたった信心だと言われていますが、詳しいことは機会があれば、またその時に(・∀・)/
(25)人生の目的は「無碍の一道」
◎「我に自由を与えよ しからずんば死を!」―真の自由はいずこに
「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(夏目漱石『草枕』)
「人間は自由な者として生まれたが、しかし、いたる所で鎖につながれている」(ルソー『社会契約論』)
古今東西変わらぬ嘆きではなかろうか。
親の期待にがんじがらめにされる子供。夫は職場にしばられ、妻は家庭にしばられる。老いては暗い六畳間に幽閉される。自由を願いながら、どこにも自由はないようである。
そんな中、親鸞聖人は、さえぎるものなき「無碍の一道」のあることを、宣言されるのだ。「歎異鈔」では、第七章である。念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異鈔』第七章)平易にいえばこうである。
「摂取不捨の利益を得た念仏者は、一切のさわりがさわりとならぬ素晴らしい世界に生かされる。それはどうしてかといえば、他力の信心を得た行者には、天地の神々も敬って頭を下げ、魔界外道も恐れ入ってしまうからだ。どんな悪報も苦にならないし、いかに優れた人の努力(諸善)の結果も及ばない、まったく放たれた自由人となるからである」
まず驚くのは、「念仏者は無碍の一道なり」の断言だろう。
念仏者と聞くと"南无阿弥陀仏"と称えている、すべての人と思うだろうが、称える心はまちまちだ。科学的に分析すれば同じ涙でも、"うれし涙"やら"悲し涙""くやし涙"など、心はいろいろあるように、口では同じく南无阿弥陀仏と称えていても、"念仏も善の一つ"ぐらいに思っている人もあれば、"ずば抜けた善だ"と信じて称えている人もいよう。
だが、無碍の一道に生かされた"うれしさ"に、称えずにおれない念仏者もあるのだ。ここでいわれるのは、まさにその念仏者であって、前章で述べた、摂取不捨の至福の身になった、他力の信心を獲得した人のことである。すぐあとに「信心決定の行者」と言いかえられていることからも、それは明白であろう。◎"雨がやまないように""山がもっとさびしければ""村がもっと遠ければいい"……。恨んでいた水内遠さも、今は少しも苦にならない
さわりだらけの世界のさわりのままで、自由に生きられるなんて、本当なのか。誰にでも納得できるような説明は困難だが、こんなたとえででも想像してもらおう。
少年は山ひとつ越えた学校へ、一人で通学しなければならなかった。
課外活動で遅くなった帰路などはどきっとするようなさびしい山道もある。夏はジリジリ照りつける太陽に焼かれ、冬は容赦なくたたきつける吹雪に、しゃがみこむこともあった。雨がふると、たちまち坂道が滝になる。
「ああ、もっと学校が近ければ……。この山さえなかったら……」
いつも山と道とが、恨めしかった。
やがて学校に、美しい少女が転校してきた。なんと彼女は同じ村ではないか。以来、しばしば一緒に通学し、遠い学校のこと、さびしい山道のことなども語り合う、親しい仲になっていた。
ある日、学校を出てしばらくすると、にわか雨におそわれた。なかなかやみそうにない。傘は少女の一本だけ。思いがけずに相合傘になった少年は、村に着くまでひそかに願った。
"雨がやまないように""山道がもっとさびしければ""村がもっと遠ければいい""苦しめるもの"と、あんなに恨んでいた道の遠さも、山のさびしさも、変わってはいいのに、今は少しも苦にならない。"さわり"がかえって楽しみになっているようなのだ。一時的にしろ、誰にでも、身に覚えのあるようなことではなかろうか。◎不自由の中に 自在の自由を満喫する「無碍の一道」
再び『歎異鈔』七章の、原文にかえろう。
「天神地祇も敬伏し」
とは、天地の神々までもが敬伏するのだから、念仏者をすべての人が尊敬するということではない。念仏者の聖人が、生涯、非難中傷の渦中であったことを知れば、おのずと明らかであろう。
では、なぜ諸神も敬伏すると言われたのか。苦悩の根元(無明の闇)を破る弥陀の誓願の不思議さと、その誓願を開顕する念仏者の信念に、"天神地祇も敬伏する"と言われているのである。
「魔界外道も障碍することなし」
といっても、不幸や災難がおきなくなるとか、外道や邪教徒からの非難攻撃がなくなることではない。
"人間に生まれてよかった"の大生命の歓喜を得れば、どんなにあざけり笑われ、攻撃されようと、誓願不思議を伝え切る念仏者の前進を、何者もさまたげることはできない、ということだ。
「ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず」(『教行信証』)
四面楚歌の九十年、独り突き進まれた聖人の、激しさ、たくましさの秘密を汁思いがする。
「罪悪も、業報を感ずることあたわず」
とは、悪い結果があらわれて苦しむときは、"まかぬ種は生えぬ"みんなわが身のまいたタネ、どんな報いを受けても文句の言えない極悪人が、摂取不捨の幸福者とは不思議の中の不思議、
「弥陀の誓願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がため」
と、懴悔と歓喜に転じたからである。
いかなる振る舞いもする「地獄一定」の自己と、そのまま「極楽一定」にする弥陀の誓願を、同時に知らされていた聖人であったからこそ、言えたことであろう。
悲しみもよろこびも、不安も安心も、災難も幸福も、総てが生命いっぱい生きとげる、純然な輝きに転じ変わってしまうのである。
人間の努力が生み出す、どんな結果も及ばない世界だから、
「諸善も及ぶことなき無碍の一道」
と言われている。
不自由の中に自在の自由を満喫する「無碍の一道」こそが、すべての人の求めてやまない究極の目的なのだ。
関連記事
どうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ
- Newer: マイク・ポートノイ、ベスト・ドラマーTOP50に選ばれる!
- Older: 有の見、無の見 / 内道、外道
コメント:0
トラックバック:0
- このエントリーのトラックバックURL
- http://charlie432.fool.jp/2009/11/09/00/00/00/trackback
- Listed below are links to weblogs that reference
- 人生の目的は「無碍の一道」 / 『歎異抄』第七章 from 徒然