1週間ほど経ってしまいましたが、5月21日(グレゴリオ暦)は親鸞聖人ご生誕の日でした。親鸞聖人といえば、歴史の教科書でも有名だと思いますが、念仏と、切っても切り離せない関係があります。
何の不思議か、浄土真宗のお話を聞かせて頂くようになって今年で17年目になります。ところが、この15年以上を振り返ってみると、念仏をおろそかにしてきたように思います。いや、「念仏」ではなく、「お念仏」です。まことに勿体ないことであります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、(-人-)
反省してみるに、それは恐らく、蓮如上人のこのご教導を厳しく聞かせて頂いてきたからでしょう。
世間に沙汰するところの念仏というは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かる様に皆人の思えり。それは覚束(おぼつか)なきことなり。(『御文章』三帖目第二通)
世の中に人のあまねく心得おきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大きに覚束なきことなり。(『御文章』三帖目第四通)
まず、世間にいま流布して、旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく、南無阿弥陀仏とばかり称うれば、皆助かるべきように思えリ。それはおおきに覚束なきことなり。(『御文章』三帖目第五通)
人によっては、現世利益や魔除けのお祈り、まじないのようなものが念仏だと思われているかも知れませんが、それならば「念仏称えていても助かりませんよ」ということになるでしょう。
しかし、
ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず。この念仏の謂れを、よく知りたる人こそ、仏には成るべけれ。(『御文章』三帖目第三通)
お念仏の、おいわれを知ることが大切だと蓮如上人は言われています。
『念仏の雄叫び』と題された本書は、この「念仏の謂れ」が平易な言葉で説明されており、読ませていただくとお念仏を称えたくなる、有難~~い1冊です。
祈願請求の念仏ではなく、「こんな愚かな自分がよくもこれだけ恵まれて生かされるものぞ」と、感謝、喜びから称えずにおれないお念仏。
他力不思議の境地、み仏のお慈悲を、分からないなりにも感じさせて頂いた気がします。
思いやりの心とか、優しさとか、穏やかな気持ちが芽生え、まっすぐな生き方を望むようにもなります。
世界平和を訴えたり、自殺者の増加を嘆く人が読んだら心に響くのではないでしょうか。
気づいたら、猛スピードで、数時間、打ち込んでいました。長くなるので、2回に分けてご紹介します。誤字などありましたらお知らせください。
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