★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2010年05月30日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
【本】増井悟朗 / 念仏の雄叫び (後半)
前回の続きです。
「三度目の正直」ならぬ、「三度目の成仏」と題した章が圧巻でした。平成19年2月のご法話のテープを文章にしたもので、増補新版にあたって加えられた一篇です。
南無阿弥陀仏のおこころをかみ砕いてお話されており、蓮如上人が仰せられている
「信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」(『御文章五帖目五通』)
の、大事のすがたを心得るという獲信が端的に示されています(「増補新版にあたって」より)。
三度の成仏とはどういうことかというと、親鸞聖人のこの三首のご和讃を根拠に、
それが、今、ここで、私が南無阿弥陀仏のおいわれを頂いた時に、疑いなく知らされるそうです。
繰り返し聞かせていただくことが大切なのではないかと思います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、
(-人-)
「三度目の正直」ならぬ、「三度目の成仏」と題した章が圧巻でした。平成19年2月のご法話のテープを文章にしたもので、増補新版にあたって加えられた一篇です。
南無阿弥陀仏のおこころをかみ砕いてお話されており、蓮如上人が仰せられている
「信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」(『御文章五帖目五通』)
の、大事のすがたを心得るという獲信が端的に示されています(「増補新版にあたって」より)。
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫(じっこう)をへたまへり
法身(ほっしん)の光輪きはもなく 世(よ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも ひさしき仏とみえたまふ
久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏 五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあはれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ 迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する(親鸞聖人『浄土和讃』)
三度の成仏とはどういうことかというと、親鸞聖人のこの三首のご和讃を根拠に、
一番最初は、久遠実成、本師本仏の阿弥陀仏。ということですが、なんのことやらサッパリ分からない人が多いと思います。仏教の基本的知識があれば、多少は分かるかもしれませんが、そのみ心は私も分かりません。
二回目は、法蔵菩薩と成り下がって世自在王仏の身元で、五劫思惟(しゆい)、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行をしてくださった阿弥陀仏。
そして、第十八願の「若不生者、不取正覚」が三度目の成仏。
それが、今、ここで、私が南無阿弥陀仏のおいわれを頂いた時に、疑いなく知らされるそうです。
繰り返し聞かせていただくことが大切なのではないかと思います。
『教行信証』の信巻末に、便同弥勒(べんどうみろく)の解釈があります。獲信者は、弥勒菩薩と同じだと言われます。まことに知んぬ、弥勒大士(だいじ)は等覚(とうがく)の金剛心(こんごうしん)を窮(きわ)むるがゆゑに、竜華三会(りゅうげさんね)の暁、まさに無上覚位(むじょうかくい)を極(きわ)むべし。念仏の衆生は、横超(おうちょう)の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す。ゆゑに便同(べんどう)といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなわち韋提(いだい)と等しく、すなはち喜(き)・悟(ご)・信の忍(にん)を獲得すべし。これすなはち往相廻向の真心徹到(しんしんてつとう)するがゆゑに、不可思議の本誓(ほんぜい)によるがゆゑなり。弥勒さまはいつ仏に成られるか。お釈迦さまの次に出世され、仏になられる。それは56億7000万年後。それまで兜卒天(とそつてん)でご修行中です。「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」。その時に正覚を取られて、そのご説法は竜華三会と申して、三度あるわけです。
阿弥陀さまの法会は一度開いたら、もう閉まることがない。ズーッと諸仏方を通じ、還相廻向してくださる。われわれの先祖が南無阿弥陀仏を聞かせてもらったら、お浄土に行って、正覚を取るんです。そうすると、阿弥陀さまも、三番目の正覚を取られるのです。それで終わり。でも、終わりなのに三度目でも終わらない。救われたものが仏になり、その人もまた還相廻向なさるのです。そして最後の一人が救われ尽くすまで、阿弥陀さまの成仏は終わらないのです。今、これを実現するのが誰にかかっているのか。この私にかかっているのです。「汝、往生せずば、我も正覚を取らじ」というところですね。弥勒さまと同じ
次は、私共のことです。「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり」。便同とは、「すなわち同じ」ということです。弥勒さまと同じで、次に仏に成る。でも、私共の方が、弥勒さまよりも早いですね、臨終一念の夕べ。十八願をお聞かせいただき、南無阿弥陀仏のおいわれが、私にいただける。南無阿弥陀仏の六字の主になったものは、それで永(なが)の迷いが切れて、今度は仏に成る。ドえらいことです。ドングリの背比べで、「あいつは居眠りしとるで。あれで聞いた、聞いたとはなんちゅうこっちゃ」と、人を笑っている者が、今度は笑われる。しかめっ面して、「分からん、分からん」と言っても、明日には聞えるかもしれない。だから、「今は分からんだろうが、一日も早くわかってほしい。早う来い、早う来てくれ」というのが、阿弥陀さまのお心。その本願が元で、南無阿弥陀仏の名号をご成就してくださった。その南無の心をいただく、それが信心です。最後に「本願名号正定業」といって、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏に姿を変えなさったところを、よく聞かせてもらわないといけません。至心に廻向せしめたまへり
蓮如上人は「南無は願なり、阿弥陀仏とは行なり」と。これは善導大師の六字釈から出ている。その南無は金剛心や。阿弥陀仏に必ず成らせてみせるという阿弥陀さまの堅い心なんです。阿弥陀仏が正覚の座を捨てて、南無阿弥陀仏の姿に変わられた。そして私を拝んでくださっている。普通は、私が手を合わせて「南無薬師如来」とか「南無大師遍照金剛(だいしへんじょうこんごう)」と拝む。その時、フンゾリ返っている人は誰もいない。頭を下げて、「どうぞ、お願いします」と頼む。それと同じで、阿弥陀仏の方が、この極重悪人の私に、「どうぞ、お願いします」と頼まれている。でも、本願に「唯除五逆誹謗正法(ひぼうしょうぼう)」とある。五逆と法を謗(そし)ったものは除外されている。十八願のいただき方をお釈迦さまが示してくださった本願成就文の中にも、ここだけは解釈されていない。
では、十八願をどういただくのか。「その名号を聞いて信心歓喜すること乃至一念。即得往生―その時に往生―彼の国に生まれんと願ずれば即の時に往生す」。しかし、「至心に廻向せしめたまへり」で、自力で起こすんじゃない。阿弥陀さまが飛び込んで来てくださる。つまり、仏さまの南無の心と真向かいになるんです。皆さん、親や先生が頭を下げたり、金貸す相手が、貧乏人に向かって頭を下げて、「どうぞ」と言われた時に、フンゾリ返っていられますか。「どうぞ、手をあげてください(引用者注:最初「頭」の誤植かと思いましたが、この後にも同じ表現が何箇所もありますし、たぶん「手」なのだと思います)となる。南無の心がこちらへ移ってくる。そういう姿に変わってくださる。「六字の姿をよくよく心得よ」と蓮如さまはおっしゃった。南無の心
蓮如さまもたいしたお方です。三世の諸仏に見捨てられた者のために、阿弥陀さまが再度ご修行してくださった。みんな、一度本願に漏れたのです。その本願に漏れたものが、蓮如さまのご教示のおかげで、聞き直しをさせてもらえる。
「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまへり」―私のために阿弥陀さまがもう一度頭を下げ、下げて下げて下げさせた期間が十劫。これからもまだ頭をさげさせますか。その頭を下げさせたのを、「申し訳なかった。こっちが何かせないかんのを、いただきものでしたか」となる。変わり目が必要だとかなんとかと、そんな自力の計らいをやっている者のために、頭を下げてくださっているのです。まともに南無阿弥陀仏の姿を見てご覧なさい。「手を上げてください。申し訳なかった!」というのが南無の心なのです。他力廻向の信心がもらい受けられてくるんです。もう不思議としか言いようがない。向こうさまの一方通行。すると、「南無阿弥陀仏。ありがとうございます。勿体のうございます」、私の口で称えるのじゃない。「早う来い、早う来い」の仏さまの切ない声が移ってくる。それで頭を下げずにはいられないようになった。そのおいわれを聞いて、六字の姿を心得させてもらう。この世では一番ダメな者が、頭を下げきって、一番偉い人にならせてもらう。この世がいくら幸福でも、また社会事業で人さまのために尽くしても、みんな虚仮不実(こけふじつ)です。
それを法蔵菩薩となり、世自在王仏の身元で頭を下げてくださった時に、見抜かれたのです。なるほど十方諸仏が束になってかかっても、「ウン」と言わん奴やなー。罪悪は深重、無常は迅速。生まれ変わり生まれ変わりして、流転輪廻を繰り返しても、なんとも思わん奴やと。まさに無慚(むざん)で優勝劣敗―勝った、負けた、損した、得したと罪を造るのが好きで、今日まで来たのじゃないですか。それが、仏さまの網の目にひっかかってきたのですよ。阿弥陀さまのお心に叶(かな)ってみたら、「よう辛抱して参ってくれたな」とお褒めくださっているのです。いまに十劫をへる
阿弥陀さまは、世自在王仏さまの仰せを聞かれて、南無阿弥陀仏に成られた。「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまへり」の間、何をしておられたのか。「早う来い、早う来い、早う来てくれよ。南無阿弥陀仏」と、名声超十方です。どこで称えておられるのか。この私の死んでも死にきれない腹の底で称えておられる。餓鬼道へ行こうが、畜生道へ行こうが、地獄へ落ちようが、離れられない。「どうぞ、わが名を呼んでくれ」と、先に飛び込まれ、身投げなさったんですよ。
どこへ行こうが、私共の迷いの心は死なない。人間の果報が終わると、この人間の体や、生活は消えます。でも、ここで蒔(ま)いた種(たね)は次の世界を開いて、次の心と体を造っていくのです。でも、阿弥陀さまも、その腹底に付いていて、「またしても地獄へ落とし、申し訳ない」と、また謝らすことになる。ところが、その声が、地獄へ落ちた根性には鬼の呵責(かしゃく)や閻魔(えんま)さまの怒鳴り声に聞えてくる。仏法の聞けない三悪道ではね。
でも、「知らん、おまえ勝手に落ちたんや」と言われる仏さまとは違うのです。皆さんは、何とも思わない。私も平気で、「ああ寝不足やな、今日はシッカリ眠らんといかん」とか、「やっと夜グッスリ眠れたなー」とか言って喜んでいる間も、仏さまは寝ずの番で呼び通しなんです。仏さまが、腹の底から呼んでおられる。どこか自分の外にお浄土を探してもだめでう。信心決定して喜んでいる人の姿を見ていてもだめです。立派に落ちるだけの根性を持ち、五逆誹謗正法の私を、その腹底に飛び込んで呼んでおられるのです。「一劫たてどもまだ見えず、二劫たてどもまだ見えず、三劫たてどもまだ見えず、弥陀成仏のこの方はいまに十劫をへたまへり」。……申し訳ない。申し訳ない。私と阿弥陀さまと向かい合う
私の知らないところで、計らわれていくのですね。私の仕事はたった一つ、南無阿弥陀仏を受け取ることです。「南無阿弥陀仏」という腹底の呼び声を、「知らなかった、お手を上げてください」と、まことの金剛心の仏さまの「お前を助ける、間違いない」と言われる心が、こちらに受け取られてきたら、こちらの南無になるんです。その南無に引っついて阿弥陀仏が入ってくださる。いや、もう入ってくださっていたことに気がつくのですね。一心同体だったのに、長いこと他人事にしてきたなと気がつくのです。落ちようたって落ちられないように、すでになっていたことを聞かせてもらう。南無阿弥陀仏と称えるしかないですね。善導さまや法然さまが念仏一行とおっしゃったわけです。別に、親鸞さまは変わったことを言ってはおられません。それを、南無の心をいただけと言われたわけです。信心決定なくば往生できないのです。
しかし、信心決定にカンカンになる前に、仏さまの、この私にかけてくださったご苦労を聞かせてもらう。それが南無阿弥陀仏のおいわれを聞くということです。いかに自分は無力で、恩あるものに対して反逆する、五逆の罪人か。もっとも哀れと思ってくださる阿弥陀仏に対しても、受け付けない逆謗の心。そこに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と身を投げ出された。仏さまが私の腹底に身を投げてくださったように、私も「南無阿弥陀仏」の中に身を投げ出すのです。仏凡一体になる。死んでからではない。弥勒さまをビックリさせるわけ。これを話の上で聞いたり、他人の姿だけを真似しようとしてもだめなんですね。私と阿弥陀さまが向かい合う。ということは、私の腹底がいかに救われない奴かということを見させてもらう以外にない。それには時間をかけていられない。今終わるかもしれない無常の命なのにと、ハラハラしておられる仏さまのお心を見させてもらうのです。二つのもらいもの
昔の人は、「そのまま」と言われた。「そのまま」出来上がっているんですからね。それを、「ああ、このままですか」と受けるからダメなのです。「そのまま」と言われたら、「そのまま」南無阿弥陀仏になるのです。南無阿弥陀仏と一体になる。ああ、今日まで疑い通してきたことの申し訳なさ、浅ましさ。この私に、どうしろとは決しておっしゃっていない。南無阿弥陀仏一つで済むと言われた、南無阿弥陀仏に成らせてもらうのです。それを南無阿弥陀仏の中に身を投げ出すというわけ。帰らせてもらう。そして、臨終の一念の夕べに大般涅槃を超証し、私がお浄土に往生させてもらう一大事。「汝往生せずば、我も正覚を取らん」と言ってくださった。私の信心決定によって、仏さまは三度目の正覚に大満足してくださる。でも、それで済まないのですね。一丁上がったが、阿弥陀さまのご苦労は、最後の一人まで休むことがない。そのお手伝いをさせてもらうのです。往相廻向をし、還相廻向をさせてもらう。そういう人たちが今までいっぱいおられて、法は絶えることがない。他宗のお方であろうと、キリスト教やマホメット教であろうと、手を合わせて拝みあえる世界へ、「どうぞ、出てくれ。南無阿弥陀仏と一つになってくれ」と頼んでくださる。
他人のことをとやかく言うものじゃない。今、私の命が終わったらどうなるか。私の後生をここへ引っ張ってくる。すると、落ちるしかないじゃないですか。私にかけてくださった、今日までの仏さまのご苦労をどうするのですか。だから、今ここで返事をさせてもらう。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。私一人に受けさせてもらうのです。遠慮も気兼ねも何にもいらない。ほんとうの幸せにさせてもらうのです。そして仏に成ったら、還相廻向が出来る。往相も還相も、二つともご廻向のもらいもの。仏さまの手先にならせてもらうわけです。聞いてもらわずにはいられないようになってきますね。この今の私が、そういう立場に立たせてもらっているんです。でも、いくら言っても、仏さまには申し訳ないだけですね。「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」。親鸞さまはそうおっしゃったが、私は身を粉にもしない。骨も砕かんし、報じん奴ですね。でもね、どうか! 聞いてください!(「三度目の成仏」より)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、
(-人-)
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