【浄土真宗】『ひらがな真宗』など(長文)

closeこの記事は 1 年 6 ヶ月 24 日 前に投稿されたものです。間違いに気づいたらその都度修正していますが、今読んだらおかしな点もあるかもしれません。ご了承ください。
『ひらがな真宗』という本を先日アマゾンで注文しました。まだ届いていませんが、すでに読んだ人の感想があったので下にコピペします。

浄土真宗の話を聞いたことがない人には「信心を得る」とはどういうことか分からないかもしれませんが(私も分かりません(^_^;))、平易な言葉で書かれているので読み易いと思います。

一つ補足すると、仏教で「機」というのは自分自身のことだそうです。

何もない慶び*二種深信(「ひらがな真宗」森田真円著)を味わう – 連続無窮
 森田真円司教の「ひらがな真宗」を最近反復して読ませていただいております。平易な言葉遣いでありながら、安心の要の部分を実に鋭く説いている書です。その中の、「何もない慶び*二種深信」について味わせて頂きたいと思います。

(以下引用)
何もない慶び*二種深信
 どうしたら信心が得られるでしょうか?という問いがあります。浄土真宗の教えを真面目に聴聞されているからこその問いであります。
 でも、その問いの底にはこういうふうになったら信心が得られた状態ではないかと想定しているところがあります。その状態に反して、自分の心はまだまだそこには至らないと思うから、どうしたら信心が得られるのかと煩悶するのであります。
 しかし、それはどこか自分の心が「信心のある状態」に成長していくと考えているところがあるのではないでしょうか。
 「もう少したてば得られるかもしれない」
 「あの先生のお話を聞けば、なんとかなるかもしれない」
 「ひょっとしてあすになれば、このモヤモヤが晴れるかも」
と期待し、自分の心は今はダメでも、いつかは「信心を得た状態」にならねばと考えているのです。
 けれどもそれは、「たった今、ここにしか」生命がないという事態を見落としていると言えます。明日も続くと仮定した上での話は、仏法にはありません。常に死を目の前においた、生と死を一つにみた上で語られるのが仏法です。
 阿弥陀さまにとっては、私に信心を得た実感があろうとなかろうと問題ではありません。そんなことより、いつ何時死が訪れるかもしれない私を心配されているのです。
 ですから、阿弥陀さまは、私が何かになるのを待っておられるわけではありません。阿弥陀さまの救いは「たった今、ここで」のことです。過去に有り難い気持ちになって「ああいう気持ちになったのだから、もう大丈夫だ」と自分の心をたよりにしていても役には立ちません。また、将来に何らかの信心を得た状態になることを想定して「今はダメだ」と思うのなら、「たった今、ここで」の阿弥陀さまの救いに目覚められないでしょう。
 では、私の心は変わらないのか?と質問したくなります。変わらないのであれば、信心を得た甲斐がないのではと思う人もあるでしょう。でも、この「変わる」には当然前よりも良くなるということが含まれています。そういう意味では、まったく変わりません。
 ただ一つ言えるとすれば、自分には本物は何一つない、あるのは「たった今、ここで」阿弥陀さまが私を救おうとしてくださっていることだけであるということでしょうか。
 ある先生は、学問研究はもちろんのこと、誰もが敬服するほど真摯に聴聞を続けられましたが、つい最近になって、
 「私が今までやってきたことは、みな嘘であった。ただ、私には何もないということが知らされた。これが信心である」
と表現されました。
 私には救われていくのに役に立つものは何もない、あるのは救おうとする阿弥陀さまのはたらきだけだという意味でもありましょう。何にもないから南無阿弥陀仏があり、南無阿弥陀仏があるから何にもいらないということです。私には、はたらきかける南無阿弥陀仏だけがある。南無阿弥陀仏と一つであるという「たった今、ここで」の慶びであります。
 自分が何かを信じ、自分で何かを積み重ねて結果を得たという考えが打ち消されてこそ、阿弥陀さまのお慈悲の世界です。(引用終わり)


「どうしたら信心が得られるでしょうか?」という問いを不真面目に聴聞しながら発していた時期がありました。
 この問いに対し、
「こういうふうになったら信心が得られた状態ではないか」
と私は想定しておりました。
「何かをしたら」
「こういう心境になれたら」
「私が変わったら」
と、自分の心に何かがあって、信心が頂けるのだと思い、今の救いを遠ざけていました。
 そんな私に
「さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり」(御文章3帖目2通)
の蓮師の教えが届いた時、
「私には救われていくのに役に立つものは何もない」(機の深信)
「あるのは救おうとする阿弥陀さまのはたらきだけだ」(法の深信)

ということが如実に知らされ、
「本当に南無阿弥陀仏これ一つであった」
と聞かせていただきました。

 私が機の詮索をする前に、阿弥陀さまは私の機を見抜いておられたのですね。
 そして、仏道修行の器でない私一人のために、兆載永劫ご修行の末、南無阿弥陀仏を成就なされ、救いの法を回向しておられたと聞かせて頂き、本当に勿体ないというより他に言葉が出ません。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


浄土真宗は他力の教え。上の言葉でいうと"自分には本物は何一つない、あるのは「たった今、ここで」阿弥陀さまが私を救おうとしてくださっている"に集約されていると思います。

「自力」に対し「他力」は簡単のように思われるかも知れません。確かに簡単なのでしょうが、「簡単だ」と簡単に言えないところが簡単ではないと思います。でも、簡単だそうです。


何もしなくてもいいとは、赤子泣いてもフタ取るなではありません(頂いた質問) – 安心問答(浄土真宗の信心について)
すべて阿弥陀仏の力と聞くと、結局どうしたらいいのかわからなくなりました。本当に何もしなくていいのでしょうか?(頂いた質問)

全て阿弥陀仏の力と言いますのは、私を救うお働きは全て南無阿弥陀仏の中にあるということです。「何もしなかったら助かる」ということではありません。
何もしなかったらたすかると言うことならば、私を助けるお働きの南無阿弥陀仏が、まだ成就しないことになります。

米をご飯にするときは、炊飯器でお米を炊く必要があります。竈でご飯を炊いていた頃は、「はじめちょろちょろ 中ぱっぱ 赤子泣いてもフタ取るな」といわれていました。
「何もしないでいいのでしょうか?」というお尋ねをされる方は、この「赤子泣いてもフタ取るな」と同じように考えられているのだと思います。
f:id:yamamoya:20100719071006j:image
つまり「もうすぐで助ける働きができあがるから、黙って待っていなさい」という本願だと思っておられるということです。
「赤子泣いてもフタ取るな」は、まだご飯が炊けていないということですが、本願はすでに成就しています。その成就したすがたを南無阿弥陀仏というのです。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通・八か条・註釈版聖典P1179

本願はすでに成就して、私を助ける働きはすでに完成し、現在ただ今私に働いて下さっているのです。だから「いまの南無阿弥陀仏」と言われます。

この南無阿弥陀仏の中には、私の力は一つも入っていません。正確には、私がしたことは何も入っていません。
何もする必要が無いというのは、南無阿弥陀仏はすでに成就しているので、何も加える必要がないということです。
南無阿弥陀仏に、私の方から何かを加えたり、何も加えないで時間がある程度経過したら信心となるのではありません。南無阿弥陀仏に対して、赤子泣いてもフタ取るなで待っていたら信心になるのでもありません。
「されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。」と言われているとおりです。

南無阿弥陀仏を疑いなく聞いたのが信心です。
待つことも必要ではありません。南無阿弥陀仏一つで、ただ今救われて下さい。


最後に、「すべておかませだから、すべきことがある(畢竟依を帰命せよ)」と題された投稿を味わってみたいと思います。
 日常生活のなかで、仏法を中心にして生きるということはほんとうに難しいことだと、つくづく思います。私はお寺に生まれ、お寺で育ち、僧侶となり、そしていま寺院にて仕事をしているわけですから、そこだけみればすっかり仏法に囲まれた生活のようにみえます。しかし思うことは、仏さまに深く帰依し、わが身を振り返り精進する生き方ではなく、仏法とかけ離れたことばかりです。いかに自分の身を守り、いかに仕事をうまくこなしてゆくかということにかかりっきりになってしまっています。形は僧侶であっても、内心はその形とはずいぶん違うことは多々あります。
 阿弥陀さまが私に対してかけてくださっている願いは、私が阿弥陀さまの願いとはまるで違う心でしか生きることができないからこそ、立ててくださったのです。阿弥陀さまが私にかけてくださっている願いを知らされるズーッと以前から、阿弥陀さまは私をめあてにしてはたらいてくださっているのです。

 でも、この世に執着し、わが身にとらわれてしまっている私には、阿弥陀さまの願いを知らされたからといって、深く帰依し、身も心も阿弥陀さまのために捧げるという生活はできたものではありません。もちろん、思い直してマネごとをしてみたところで、そのうちわが思いにまかせてしまい、長続きはしません。心を込めて、帰依した心を阿弥陀さまのお給仕にあらわそうという思いも、結局それは「マネごと」だったんだと明らかになってしまうのです。

 わが思いのなかから阿弥陀さまに帰依しようなどという心が出てくるはずはない。そんな凡夫だからこそ、阿弥陀さまは立ち上がって喚びづめに喚んでくださっているのです。阿弥陀さまの心と私の心は、まったく極にあるのです。それは阿弥陀さまの心を聞かせていただきながら、毎日のわが心のありよう、毎日のおこないを少し振り返ればすぐにわかることです。往生浄土においては、すべておまかせの世界です。
 そしてこの世を生きるというところでは、仏法とかけ離れた生活というところでわが心にまかせ、うわべを繕った姿・形とはまるで違う心のありようを許しているのです。「すべて阿弥陀さまのはたらきによる」「私のすべてを許してくださる阿弥陀さま」「どうしようもない私をめあてにはたらいてくださる阿弥陀さま」です。どうしようもないからその阿弥陀さまに甘えるし、甘えざるを得ないのです。そんな阿弥陀さまだからこそ甘えることができないというのが、阿弥陀さまの心を受けた者の感覚ではないのか・・・、という気がするのです。

 未信の状態で、阿弥陀さまの心もわからず、そんな意地の張り方をしていたらそれは明らかに自力の姿です。しかし、阿弥陀さまの願いをいただいた私が、すべてお許し、すべておまかせ・・・と座り込めない自分に気づくのです。だから何ができるのか・・・? 正直、何ができるというものはありません。ここであらためて、阿弥陀さまの願いにかなうこと、つまり称名念仏することしかないことを気づかせてもらうのです。称名念仏することを通して、私ができることを発見していくしかない。それが凡夫のすべきことのように思うのです。



長文(しかも、ほとんどがコピペ (^_^;) )、失礼致しました。



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