悪人について(2)

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前の投稿の続きです。

善と悪

 人間の善悪のいとなみについて、自我中心性すなわち我執にあるというところまで掘り下げた日本精神史上の最初の人は、まさに和のこころをもって「十七条憲法」を制定された聖徳太子(574~622)であります。すなわち、太子は、その第十条の一節において、
人皆心有り、心に各執すること有り。彼れ是ならば則ち我れは非なり、我れ是ならば則ち彼れは非なり。我必ず聖に非ず、彼れ必ず愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定む可き。
(意訳)人にはそれぞれに思いがあり、その心に執らわれる。他の人が善というものを自分は悪と考え、自分が正しいと思うことも人はそれを悪と考える。われ必ずしも聖者ではなく、他の人が必ずしも愚者ではない。ともにこれ凡夫(ただびと)にすぎぬ。どうして善悪の道理を、よく自分の立場で決定することができようか。
と述べられ、もし他の人が自分に瞋(いか)るようなことがあれば、自分の方に何か誤(あやま)ちがないか反省し、また、自分がどんなに正しいと思っても、多くの人びとの思いを大事にして同じく従うように示されています。
 この聖徳太子の人間洞察の要約ともいうべき「その心にそれぞれ執着(とらわれ)がある」との指摘こそ、人間の根源まで見透かした地平において告げられた言葉なのです。そして、この聖徳太子の深い洞察こそ、仏教によってもたらされた「和の精神」でありました。

 ところで、仏教において善悪ということが問われるとき、その善悪の定義として、
第一義諦に順じて起すを善といい、第一義諦に背いて起すを悪という
と、『菩薩瓔珞本業経(ぼさつようらくほんごうきょう)』に説かれた言葉が有名です。すなわち「第一義諦に順じて起す」とは、「すべてのもの(諸法)はもともと平等であるという道理」(第一義諦)にかなう行為、つまり、純粋無我の行為こそ「善」というのです。そして、その反対の、つまり純粋無我の立場にたちえない行為は、まさにそれこそ「悪」であるということであります。ですから、自我中心の考え、エゴイズム(利己主義)からでた行為は、すべて「悪」であります。そこで親鸞聖人は、いっけん善にみえるような行為でも、我執から生まれたものであれば「雑毒(ぞうどく)の善」と述べられて、煩悩具足の私たちの行う行為など、「善」とはなりえないことを告げられたのであります。
 こうして、聖徳太子によっていいあてられた精神(こころ)は、深い仏教の教えに根ざしているものであることが知らされると共に、親鸞聖人によって開かれた地平は、この我執・はからいの世界を根源的に照らし出すこころが、さらに徹底したということを見落としてはなりません。

悪人とは

 ここにきて、私たちははじめて『歎異抄』の第三条の次の言葉の深さに、思いを至すことができるのではないでしょうか。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
 まさに意表をついたこの逆説的な言葉は、これまでしばしば誤解されがちでした。けれども、この言葉の真意がうなずけない限り、聖人の人間観はわかりませんし、また、浄土真宗の救いも語ることはできないというべきであります。ここに告げられている「悪人」とは、いったいどのような地平でのそれであるのか、私たちはここでよく吟味する必要があります。
 それには、次の4つの点について具体的に指摘しておきたいと思います。

 (1)人間の行為の結果を裁く法律上での悪人ではない
 すなわち、法律の上でいう悪とか罪は、「盗んでしまった」「殺してしまった」という人間の行為の結果についていうのであって、聖人の告げられた悪人とは、そのようなレベルではないのです。
 (2)その時代、その社会で、一般に認められている道徳(他律的道徳)の上での悪人ではない
 もともと、道徳とは人間の両親の問題というべきですから、それは自律的なものであるといえるでしょう。しかし、ここではそのことではなく、その時代、その社会で一般に認められているもの、いい換えれば、奈良や平安時代にはその時の道徳があり、鎌倉時代には鎌倉時代の道徳が、そして、室町時代にはその時のモラル(倫理や道徳)があるというようなものです。
 すなわち、いわゆる道徳とは時代や社会によって変化していくものですから、そのようなレベルでの悪や罪ではないということです。
 (3)直ちに特定の社会的階級を指した悪人ではない
 現代において、親鸞聖人の歴史的研究が著しく前進して、その歴史的立場からの解明が大きく成果をあげていることは、大変よろこばしいことです。たとえば、親鸞聖人は浄土真宗の教えを、当時の武士に対して強く伝道されたとか、そうではなく商人であったとか、いや農民であったとかいう説が、それぞれにその理由があるわけですが強調されてくるということです。
 その場合、親鸞聖人がいわれる「悪人こそが救われる」というときに「悪人」とは、それは武士のことであるとか、商人であるとか、農民であるとかいうように、特定の社会的階級を指して「悪人」とされているのではありません。すなわち、親鸞聖人における悪や罪は、あくまで宗教的自覚の内容、信心の内容というレベルであるということです。したがって、次に、
 (4)純粋無我の行為か、我執から生れた行為か、という基準をぬきにして悪人ではない
 すなわち、仏教における「善」とは、純粋無我の行為であり、清浄で無漏(むろ)(煩悩の漏れが絶対にない)の行為、すなわち真実心のことであります。逆に「悪」とは、我執から生まれた行為、自我中心性からの行為、煩悩づくめの行為ということになります。



次の投稿につづく。





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