★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2010年10月10日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
「聞」の世界は、このように
「ところで一般にいわれる信心とは、」の続きです。
『親鸞聖人と浄土真宗』(中西智海・著)の148~152から。
『親鸞聖人と浄土真宗』(中西智海・著)の148~152から。
仏願の生起本末を聞く
ところで親鸞聖人は、先の「その名号を聞きて信心歓喜せんこと……」の本願成就文について、『教行信証』(「信巻」)につぎのように説明しておられます。経に聞と言うは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心有ることなし。是れを聞と曰うなり。信心と言うは則ち本願力廻向の信心なりすなわち「名号を聞く」ということは、「仏願の生起本末を聞く」ということとおなじであるということです。名号は本願成就の名号であり、誓いのみ名ですから、名号のいわれを聞くことと、本願のいわれを聞くこととはまったく同じことです。それでは「仏願の生起本末を聞く」とは、どういうことなのでしょうか。
まず「仏願の生起」とは、なぜ阿弥陀如来の本願が起差なければならなかったのか、ということです。それは親鸞聖人が和讃に「如来の作願(さがん)をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして……」とうたわれていますように、苦悩の有情といわれる煩い悩みからはなれられぬ私(煩悩成就の身)がいるからです。すなわち、仏に成るのに間にあうほどの清浄の心もなく、如来にかなうほどの真実心もない、縁があれば何をするかわからぬ私がまぎれもなく存在するから、如来の誓いが発されたのです。弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけりという『歎異抄』の述懐は、このことを告げておられるものであります。
次に「仏願の本末」とは、どういうことなのでしょうか。すなわち「本末」とは、物事のはじめと終りの意味で、「本」とは、はじめに阿弥陀如来が法蔵菩薩であられたとき五劫という永いあいだ思惟され兆載永劫という久しいあいだ修行されたことをいいます。さらに「末」とは、その永い思惟と修行によって煩悩成就の衆生を必ず浄土に往生させ、成仏させる必須条件を具足する名号を成就して、そのことを生きとし生けるものに呼びかけ、廻施しつつあることをいいます。
それでは「聞く」とは、どういうことなのでしょうか。『漢和辞典』によると「往くを聴といい、来るを聞という」とありますから、「聴」はこちらから向こうにはたらきかけて<きく>ということであり、「聞」とは、向こうからのはたらきで<きこえる>ことである、という意味になりましょう。また、経典によりますと、「聞光」とか「聞香」という言葉があります。光は目で見るもの、香は鼻でかぐものですが、聞くと表現するところに、光や香のはたらきをそのまま味わい、受けとっていくこころが込められているのでしょう。
「聞」の世界は、このように如来のまことのはたらきを、はたらきのままに素直に受けとることをいうのです。「如来の仰せが聞えた」とは、如来のまこと、すなわち本願名号のいわれとはたらきが「受けとれた」ということであります。
そのこころを親鸞聖人は『一念多念文意』に、きくというは本願をききてうたがうこころなきを聞というなり。またきくというは信心をあらわす御のりなりと述べておられますように、聞というも信心と同じことでありますから、「聞即信」といわれるのです。また、聞も信も無疑心をもって語られているところに、「聞即信」の妙味がよく領解できることであります。
これによって、「たまわりたる信心」といわれ、「本願力廻向の信心」といわれる浄土真宗の信心の特色がうなずかれることでしょう。
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