★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年06月28日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(1)
『派外からの異説について』の時と同様に、紅楳英顕先生から許可を得て、全文を紹介します。
なお、「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」にもあるように、これは昭和54年12月20日発行の論文です。
(つづく)
なお、「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」にもあるように、これは昭和54年12月20日発行の論文です。
目次
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
↑↑今回はここまで↑↑
↓↓次回につづく↓↓
↓↓次回につづく↓↓
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
現代における異義の研究
-高森親鸞会の主張とその問題点-
紅楳英顕
はじめに
高森親鸞会における教義上の問題については、既に種々の点が指摘され、一念覚知・善知識だのみ・本尊論等については研究論文も発表されている[1]、本稿では宿善論と二種深信に関する問題とを取り挙げ論じたいと思う。第一章 宿善論について
宿善の語義については、大原性実氏によれば「抑々宿善とは宿世の善根という意味で、宿世に於て修習する善根、又は宿世に於ける値仏聞法の善根を指すもので宿福とも宿因とも宿縁とも名づける。故にその物体は一往は万行諸善及自力念仏であるが、再往を云えば、我々が今日弥陀法に遇い之を信受奉行することを得し因縁となりしことは悉く宿善と称すべく、獲信の一大事は正しくこの宿善の開発せる為である[2]」とあり、又『新・仏教辞典』(中村元監修)には「前世・過去世につくった善根功徳をいう。
また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある。真宗では宿善開発といい、今まで修めて来た善根がある時期にひらめきあらわれることによって、信心が得られると説く」等とあるように、真宗における宿善とは獲信のための因縁となる善根を意味するのである。
本願寺派の宗学史上においても、この宿善論については種々の説が論じられたところであるが、高森親鸞会においても独特の宿善論が展開されている。
以下、宗祖並びに蓮如上人、それから真宗先哲の諸見解を窺いながら、高森親鸞会の宿善論ついての問題点を検討したいと思う。一 高森親鸞会の宿善論
先の『伝道院紀要』19号で既に述べたように[3]、高森氏は本願寺を無安心の集団であると非難攻撃する。従って、おのずと獲信の問題が重視され、独自の宿善論が主張されている。即ち『白道もゆ』(高森顕徴著)には、宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求められねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求むるものである。(二一二頁)。とあるように、苦労して宿善を求めねばならないことをすすめ、又『顕正新聞』(親鸞会発行)には大体真剣に聞法求信することを悪いなんかという者は、他力と無力を混同している信仰の幼稚園児なのです。真宗にこんな坊主や同行が多いのです。求めることは自力だから駄目だといって自分はボーとしているのが他力だと思っているのです。確かに真剣に求めるのは自力です。生まれた時から他力に摂取されているものは一人もいないのですから、みんな自力で求めていくのです。(第93号、昭和42・9・15)とあり、又『法戦』(高森顕徹著)には自力一杯、命がけで求めたものでなければ自力無効と切りおとされて、久遠の親と対面するという体験はできません。(五九頁)等とあるように、宿善は自分の力によるものであるという宿善自力説を主張している。そして如何なることが宿善となるかについては『顕正新聞』にはまず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ(イ、聴聞、ロ、破邪顕正)(第93号、昭和45・2・15)とあり、又『この人間』(親鸞会会員、渋谷励一著)には一日の聴聞がなんと一五分か一六分、これでは有難くして宿善があり、万劫にもあい難き善知識にあわせて頂き乍ら信心決定はおろか、宿善を厚くすることすら出来ないではないか、善知識は宿善が薄くては助からない、宿善を厚くせよ、その一番の方法は聴聞だぞ、しかも木刀でなくて真剣だぞと仰言る。その気慨で聴聞し、聴聞出来ない時は破邪顕正に向うことである。釈尊は「破邪顕正せざるものは仏弟子に非ず、仏のあだなり」と仰せられている。破邪顕正は宿善を厚くする第二の秘訣であると教示下さる。御教えに従うより道はないのである。(四四頁)とあるように、聴聞(聞法)と破邪顕正[4]とが挙げられている。
聴聞(聞法)について『白道もゆ』には親鸞聖人は「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞け」と教えられ、蓮如上人また「火の中を分けても法は聞くべきに、雨風雪はものゝ数かは」とお勧めになっている。我々の先哲は早く宿善を求め信を獲んと思わば①骨を折って聞け、②衣食を忘れて聞け、③間断なく聞け、④聞けぬ時は思い出せ、と四つのことを指摘されている。いずれも苦労して聴聞にはげめということである。楽な聞法は宿善にもならないし、この法は聞かれない。過去世に仏縁うすき者は、この世で苦労して宿善を求めねばならぬ。(二一三頁)とあり、『顕正新聞』には苦しみの根を除くには抜苦与楽の力用をもつ南無阿弥陀仏の名号を獲得するより他にはない。名号は捨身の聞法によって与えられるが、それまで勇敢に立ち向ってゆき初志貫徹するまで、たゆまず、あくまでしりぞかぬことが絶対の幸福をうる唯一の道だと教えられている。(第7号、昭和三七・一二・一五)又、松下氏が世界の松下として成功するまでには何度も血の小便をする程の苦労があったということであるが、注目すべきことである。仏法を求めている人の中にも「私は五年間聞いたのに」「私は十年求めたのに」と未だ信心獲得できない事をぼやき、果ては「説くものが悪いのではなかろうか」、「これだけ聞いても助からんのに何か大願業力だ」と、とんでもないところに責任をなすりつけ、罪を重ねている者がいるが、言語道断の所業である。せめるぺきは己れの不熱心さではないか。その五年十年の間に、どれ程真剣に聞いたか、どれ位真剣に聞いたか、どれ位懸命に宿善を求めたか、松下氏の言を借りるなら果してたった一度でもよいから血の小便をこく程きづまって夜も寝られん事があったか、仏法は未来永劫の大問題を教えているのだ、苦労が足りないぞ、楽して信心決定しようという心こそ反省せねばならんのだ、頑張ろう。(顕正新聞118号、昭和47・3・20)とあり、又『人間こそ』(親鸞会会員、渋谷励一著)には信心獲得するにはどうしたらよいのか。仏法は聴聞に極まる。「聞其名号、信心歓喜」(「無量寿経巻下」真・p六三)とあるように、宗祖や蓮如上人の聴聞(聞法)をすすめた文も引用して、真剣な聴聞(聞法)にはげまねば信は得られぬと述べ、頑張って聴聞(聞法)にはげまねばならないことを強調している。
「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く人は、永く不退にかなうなり」(「浄土和讃」真p二二三)
「設今世界に満てらん火をも此の中を過ぎて法を聞くことを得ば」(行巻、真p二七四)
「設ひ大千世界に満てらん火をも亦直に過ぎて仏の名を聞くべし」(行巻、真p二七四)。
何度も火の中をかきわけてとあるが容易なことではない。「仏法には明日と申すことあるまじく候。仏法のことは急げ急げ」また「仏法には世間の隙を閥きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと浅ましきことなり。仏法には明日ということあるまじき由の仰せに候」(「蓮如上人御一代記聞書」真p八九〇)。
蓮如上人はこのようにして聴聞するのだぞ、命を賭けて聞け、聞いて信ずる一念に決定するのだぞ、信心決定するまで聞き抜けと何回もくり返し仰せになっているのである。(四二頁)。
それからこれも広い意味で聴聞(聞法)にあてはめることが出来るであろうが、『顕正新聞』に71才の夫人の言葉としてもう50年もの間、試験など受けたこともない為、最初はやれるかどうか不安であったが、やってみるとなかなか面白い。自分の宿善も厚くなるし、会長先生の御法座を聞いても大変役に立つ。(第109号、昭和46・6・15)とあるように学習に励むことによっても宿善が厚くなると述べている。
又、破邪顕正(正しい教えをひろめること)については『こんなことを知りたい』①(高森顕徹著)に真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうちに、いや他人に説くことによって、自分の聞法心も深まって来るのです。即ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。(八七頁)とあり『顕正新聞』には外には邪教がはびこり、内はふはい堕落の極に達している現実をみんな心配している。しかし、いたずらになげき、いたずらに怒ってみても何んにもならないのだ。それよりも、今すぐに正法宣布の行動を起すことだ。直に破邪顕正の利剣をもって立つことだ。一人でも多くの人に『邪教の正態[5]』を配布して読んで貰うことが貴方のできる破邪である。顕正しようとする者は、親戚や友人知人を尋ねて親鸞会に入って貰うことだ、一人でも多くの人に真実の幸福を頂いて貰うことである。これにまさる宿善はないし、これ以上の報謝はない。(第3号、昭和37・8・15)とあり、又破邪顕正は高森先生の偉業だと感心ばかりして見ていてはならない。幾干の会員は今すぐ一人に二人ずつ破邪し顕正していかねばならない。そこには立ちどころに幾万の正法を知る人が出来る。吾ら愚者の破邪はそこから始まり、それが最大の御報謝、宿善であると信ずる。(顕正新聞第8号、昭和38・1・15)とあり、又真実を知り、真実を求め、真実を獲得した我ら親鸞会々員は今こそ我利我利亡者の考えをふりすてて破邪顕正のために露命を如来聖人に捧げようではないか、破邪顕正こそ、無上の宿善であり、最上の報謝である。(顕正新聞第22号、昭和39・3・15)等と述べられている。このように邪教を破して、正しい教えをひろめる破邪顕正をすぐれた宿善とするのであるが、少し趣きを異にするものとして『顕正新聞』に近時迷惑防止条令の施行を契機として社会悪の一掃は今や社会の声にまでなっている。「ひったくり」を捕えたり、「割りこみ」を注意したりして、アベコベになぐられることがある。ところがハタのものはさわらぬ神にたたりなしで知らぬ顔を半兵衛ときめこむ非協力ぶりが問題になっている。(中略)釈尊は臨終に破邪顕正は仏弟子最高の任務だと遺言なされた。邪悪を見て見ぬふりをするものは仏の怨なりとまで仰言っている。この世も未来も大衆を苦しめる邪教を破ることは我等親鸞会員の最高の任務ではある。けれども邪教を破ることだけが我々の務めではない。ささやかな身辺の社会悪の追放にも努力しなければならない。破邪顕正こそ無上の宿善であり、この勇気と実践のないものが、どうして無上の信の勝利者になれるであろうか。(第13号、昭和38・6・15)とあるように、邪教を破して正しい教えをひろめることのみならず、「ひったくり」や「割りこみ」等の身辺の社会悪の追放に努力することも破邪顕正の一端であり、宿善となるものとしている。
このように宿善として、第一聴聞(聞法)、第二破邪顕正(正しい教えをひろめること)と示されているが、この他に『顕正新聞』に会費はあがったとか、又お金を集めるとか思ってはならぬ心がムクムク出て来ます。浄財をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心がでてきます。(第108号、昭和46・5・15)とあり、又そこで本会では諸物価高騰の折柄、活動の円滑化を計るために会費の改正を決定しました。実施は52年1月からです。真実の仏法のため提供される浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあたって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(顕正新聞第175号、昭和51・12・20)とあり、又後生の一大事の助かるか助からないかは、宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる。宿善は善が宿るものとも読めるのだから少しでも善根功徳を積むように心がけることが大切である(中略)時あたかも岐阜会館建設に着工している。今、会員一人一人が長者[6]のような情熱をもって財施をさせていただき、我々の財施にブレーキをかける祇多太子[7]が現れるまでに財施してこそ真の仏法者といえよう。名利のためにひげをなでるよりもやすく投げ出す千金があれば岐阜会館はたちまちのうちに建ってしまうのである。名利のためしか金を使い切れない者に次々に阿弥陀仏は宿善の勝縁を与えて下さっている。(第184号、昭和52・9・ 20)等とあるように、高森親鸞会への会費納入や献金等の財施も宿善となるものとしている。
このように高森親鸞会では、我々の信決定のための宿善をはっきり自力によるものとし、そのためのものとして、聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめる)、献金等(財施)の三つをすすめているのである。
(脚注)
- (↑) 山田行雄氏「現代における異義の研究」(一)(伝道院紀要14)、「現代における異義の研究」(二)(伝道院紀要19)三木照国氏「高森親鸞会の分析」(伝道院紀要14) 拙稿「一念覚知説の研究」(伝道院紀要19)
- (↑)『真宗異義異安心の研究』三〇七頁。
- (↑)拙稿「一念覚知説の研究」(伝道院紀要19)
- (↑) 邪しまな教えを破り正しい教えを顕して、人に正しい教えを伝えひろめること。高森親鸞会では初めのうちは、創価学会・天理教等の浄土真宗以外の宗教を邪教としていたが、後になると本願寺既成真宗教団の説く教えも邪教としている。
- (↑) 高森顕徹著『インチキと暴力的邪教創価学会の正態』
- (↑)祇園精舎建立のために努力した祇樹給孤独長者。須達長者。スダッタ。
- (↑)祇樹給孤独長者の情熱にうたれ、祇園精舎の土地を提供した人。ジェータ。
(つづく)


