★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年07月09日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (2)[般若・無分別智の意味][迷妄を喚び覚ますもの]
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (1)の続きです。
(つづく)
五、般若・無分別智の意味
Qいよいよ分からなくなってきましたが、その無分別智とか般若という智慧は私どもの知識とどう違うのですか。
Aたとえば生死一如と呼ばれるように、生と死というような決して両立することのできないと考えられている事柄が、そこでは何の矛盾も無く、同じようにありがたいこととして受け容れられるような、あえていえば生と死が一つに溶け合っているような領域を確認する智慧を無分別智というのです。
それに引き替え、私どもはあらゆる事柄を、生と死、我と汝、是と非、苦と楽というように言葉を使って明確に区別し、分類して認識しています。それを「分別知」とも、「知識」とも呼んでいます。それは私どもに生まれつき具わっている心の識別作用(あらゆる事柄を、その特徴にしたがって区分けして知るはたらき)によるのです。しかし私どもは、物事を自分の都合を中心に「分別して知る」くせがありますから、あらゆる事柄を自分の都合を中心に区別し、分け隔てをしていきます。その結果、自分に都合の悪いものは受け容れられず怒り憎み、都合の良いものは愛着し、際限もなくほしがるようになり、その結果さまざまな摩擦が生じ、争いが生まれ、苦悩が起こってまいります。そのような苦悩を起こす根元になっているのが分別知ですから、それを仏陀は「虚妄分別(こもうふんべつ)」と呼ばれたのでした。
そのような自分本位の虚妄分別を離れて、生と死、自と他を、そのあるがままの姿で受け容れ、生きることもありがたいことであり、死ぬこともありがたいことであると言い得る境地が開かれたとき、生と死は決して矛盾対立するものではなくなります。また自分と他人の隔てを超えて、人びとの苦しみを共に痛み、人びとの幸せを自分のことのように願っていく心が開かれている人にとって、敵も味方もなくなって、怨親平等(おんしんびょうどう)の心(誰かを恨み憎むこともなく、溺愛するすることもなく、すべてのものをかけがえのない一人子のように大切なものと見ていく心)が確立していきます。その境地を無分別智によって確認された涅槃(ニルバーナ・安らかなさとりの境地)と呼んでいます。
そのように私どもが虚妄分別の壁を打ち破ることができるならば、一切の矛盾対立は超えられ、あらゆることをありがたく、尊いことと受け容れる心境が開かれていきます。そのように虚妄分別を破る智慧を「般若(プラジュニャ)」と呼んでいます。こうして般若の智慧によって、虚妄分別が、すべてのものをズタズタに切り裂いていた世界を、本来の真実の相に帰らせ、万物は一つに溶け合って、同じ尊厳さに輝く豊かな「いのち」の世界を開いてくれます。その領域を一如というのです。またその般若と呼ばれる智慧を「無分別智」とも、真実を悟る「実智」とも呼んでいるのです。
しかしこうした一如の世界は、物事を区別して表す機能しか持たない言葉では表現することはできませんし、一切の限定・区分を超えていますから形で示すこともできません。それを仮に「一如」とも「真如(本当にあるがままの領域)」とも、「実相(人間の煩悩の手垢のつかない真実の姿)」とも、「無上涅槃(煩悩の消えた最高の安らかな境地)」とも、また法性法身(ほっしょうほっしん・仏陀の本体である生死を超え、自他を超えた普遍平等の真理そのもの)とも呼ばれています。六、迷妄を喚び覚ますもの
Qそれでは、そのようなさとりの領域は、虚妄分別しか持ち合わせのない私どもには、わかりようもなく、手のつけようもない世界になってしまいますね。
A確かに分別知しか持たない私どもにわかるのは、虚妄分別によって虚構された世界、つまり迷いの世界しかわかりません。しかしその安らかなさとりの境地を、虚妄分別に閉ざされて迷っている人びとに知らせて導き救うために、一如の世界から救いの手が伸ばされているのです。
それが『大経』に説き顕わされた法蔵菩薩の大悲本願の因果だったのです。すなわち、形を超えた一如の領域を形で顕わし、言葉を超えた真実の世界を絶妙の言葉をもって表現し、迷い苦しむ者を喚び覚まし、導いてくださっているのです。そのような言葉を超えた領域を表わす言葉を紡ぎ出していく智慧を「無分別後得智(ごとくち)」とも「権智(ごんち)」とも呼ばれています。法蔵菩薩はまさに形を超えた「一如」、すなわち法性法身が、大悲本願のみ言葉となって私どもを喚び覚まし、さとりの世界へと導いていく後得智(権智)の姿だったのです。一言でいえば、法蔵菩薩とは、私どもの迷いを覚ます言葉となり、形となった「一如」の姿だったのです。それを親鸞聖人は、曇鸞大師の教えに順って、法性法身が方便法身となって私どもに救いの手を差し伸べていてくださると味わわれたのでした。なお法性法身・方便法身については別の機会に詳しく述べることにします。(「【二】阿弥陀仏の本願」より)
(つづく)
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