梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (4)[浄土往生の道を選択する]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (3)[浄土建立の誓願]の続きです。

八、浄土往生の道を選択する



(中略)

選択とは、どういうことですか。

物事を取捨することで、粗悪なものを選び捨てて、仏心にかなった善妙なものだけを選び取ることです。もともと「選択」という言葉は、『大無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』に、法蔵菩薩が、諸仏の国の中で、粗悪な部分を選び捨て、善妙な事柄だけを選び取って、あらゆる諸仏の世界に超え勝れた浄土を建てられたことを意味していました。その言葉を用いて、諸仏がなし得なかった一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく、平等に救うことのできる称名念仏の一行を、往生の行と選び定められたことを選択という言葉で表わされたのは法然聖人でした。

往生の行として称名念仏を選択されたわけをもう少し詳しく述べてください。

もし自力の行を往生の行と定めたならば、人によって勝れた行者と劣った行者が出て、必ずその行徳の高下に応じて、千差万別の浄土が表われてきます。それだけではなく、私にはそれを実行できないといって落ちこぼれ、救いから漏れていく人が必ず現われてきます。それでは苦しみ悩んでいる一切の衆生を平等に救って、最高のさとりを完成させてやりたいと願われた法蔵菩薩の「平等の大悲心」を満たすことはできません。
 それに引き替え、称名はどんな愚かな者であれ、臨終の病人のような無力な者であっても称えることができるし、たとえ口に称えることができなくても、心の中で南無阿弥陀仏と念ずれば念仏したことになる究極の他力易行ですから、一人ももれなく受け容れることができます。また南無阿弥陀仏という名号には阿弥陀仏の徳のすべてがこもっていて、人びとを往生成仏させる因になるという最も勝れた徳をもっています。それゆえ称える者は煩悩具足の凡夫であっても、阿弥陀仏のさとりの領域である真実の報土に往生し、成仏することができます。
 こうして、阿弥陀仏は平等の大悲心にかなわない一切の自力の行を選び捨てて、最勝であってしかも至易の行である念仏一行を、一切衆生の往生の行として選び定められたことを、法然聖人は、とくに「選択本願の念仏」という言葉で表わされたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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