【法話】選択本願念仏集(法然上人)より、正行・雑行について 於:本願寺津村別院 2010.10.10

10日午前の続きです。午後はお二方の先生からお話を聞かせていただきました。そのお一人目、行教信校校長の利井唯明先生の講演会の記録です。

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衆生、行を起して口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく。
(法然上人『選択本願念仏集』[第七章])



脳梗塞でしばらくお休みいただいておりましたが、ようやく立てるようになりました。

前回は「正行」と「雑行」があるとお話ししました。

  • 正行
    • 読誦正行
    • 礼拝正行
    • 観察正行
    • 称名正行
    • 讃嘆供養正行
  • 雑行


5つの正行の中で、称名正行こそが、そのことひとつで往生が定まるということで「正定業」と言われます。
その他の4つ、称名正行の前の1つと後の3つ、すなわち前三後一は「助業」です。

親鸞上人のご和讃に
助正ならべて修するをば、すなわち雑修と名づけたり
とありますが、、、(うまくまとめられなかったので、詳しくは正行・助行・雑行が内容的に重なる部分があるのでそちらをご覧ください)、、、助業とは、扶助、補うものではなく、随伴、自然とついてくるもの、お念仏のお徳だということです。

「念仏したら救われる」ではなく、必ず救うぞ、と念仏する身にお育てしてくださったのです。条件ではなく、すでに救われていたんだ、と味わってゆくのが良いのでしょう。そう思えば、当然阿弥陀さまを憶い、敬うのは自然とついてくるものです。

さて、今日は、本来救いの論理からすれば比べられるものではないのですが、正行と雑行を比べてみてみます。
といっても、助業は正業に付随するものなので、雑行と称名正行の比較になります。

比べる材料として5つあります。
  1. 親疎対
  2. 近遠対
  3. 有間無間対
  4. 回向不回向対
  5. 純雑対


お念仏を申すものは、阿弥陀さまと親しい関係、近い関係にあります。これが「親疎対」「近遠対」。
3番目の「有間無間対」は、間が無いのが正行です。
「回向不回向対」というのは念仏はこちらからお願いする必要が無いということです。
「純雑対」とは、正行は純粋たる阿弥陀さまの行だということを言われています。


『観無量寿経』に
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
とあります。曇鸞大師の言葉で言うと、「尽十方無碍光如来」となりますが、光明は、皆同じように働いておられます。逆に言うと、仏様のおられないところはない、仏様に包まれているということです。私たちには見えないけど仏様の中に生かされているのです。

ちょうど、お腹の中にいる子供と同じです。子供は親を見ることはできないけど、最近エコーが発達して、親は子供を見ることが出来ます。

仏様の願いは、十方衆生が念仏の衆生となり、仰ぐべきものを仰ぎ、煩悩をよりどころとせず、仏様こそが真実であると分別がつくようになって欲しい、というものです。念仏する者は、仏様の願いにかなった者に育ったので仏様と親しい関係にある、というのが「親疎対」です。

では、雑行をしている人は疎遠なのかというと、そうではありません。阿弥陀さまは称えている人も称えていない人も、同じようにずーっと働きかけておられます。「疎遠」というのは、私たちが阿弥陀さまに背を向けているからです。

子供でも、育ってくれば、親の言うことが分かり、「片付けなさい」「風呂入りなさい」と言えば言われたようにしますが、赤ん坊に「着替えなさい」といっても言う通りにしません。親が子に近づこうとしているのは同じでも、その通りにする子と、走り回っている子がいる。そういう親子関係のようなものです。

私たちは仏様の中でお育てをいただいています。「自他一如」と言われています。仏様は煩悩に穢されることはありませんが、私たちのことはよく知っておられます。この間柄はこちらから作り上げるものではありません。そう感じさせていただける程にお育て下さっているということなのです。

今日は親疎対についてお話致しました。



Filed under: 未分類     12:00 AM
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