中西智海 / 親鸞教学入門(3)

(2)の続きです。

親鸞聖人においての善・悪の基準



 仏教において善・悪が問われるとき、善・悪の定義として、
第一義諦に順じて起こすを善といい、第一義諦に背いて起こすを悪という
(『菩薩瓔珞本業経』)
ということばが、よく使われます。「第一義諦に順じて起こす」とは、すべてのものが、もともと平等であるという道理にかなう行為、つまり、純粋無我の行為を「善」というのであります。それに対してこの道理にかなわない行為、つまり、純粋無我の立場に立ちえない行為は「悪」であるということになります。さらに云いかえれば、自分中心の発想、エゴイズム基盤とする考えはすべて「悪」となり、「善」といわれるのは、まさに自分中心の発想を脱し(超え)た行為ということになるのであります。
 仏教は「仏による教え」とともに「仏に成る教え」であるといわれます。「仏に成る」ということはどうなることかと問うとき、そこに「諸法は平等であることにめざめ、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想をほんとうに脱却しうるということでありましょう。それはまた、自利利他の完成ということがらによっていいあてられる内容でもありましょう。
 親鸞聖人はこの「仏に成る」道をひたむきに歩みつづけられた人であります。仏に成ることの実現にいのちをつくされた人であります。ですから、親鸞聖人にとって、すべての価値判断の基準は「仏に成る」という一点にあったといわねばなりません。これを、善・悪の基準という面でみると、仏に成ることのできる行為、すなわち、純粋無我の行為、自分中心の発想を超える(脱却しえる)行為が「善」であり、その他の行為は「仏に成る」ことにならない行為であるから、それは「悪」としかいえない行為だといいきられたのであります。ですから、親鸞聖人は、いっけん善に見えるような人間の行為をも、「雑毒の善」であるときっぱりいいきられたのであります。
 ですから、このような仏教の原理的立場の善・悪、つまりその実践的立場にたつ親鸞聖人の立場の善悪の次元を考えるとき、それはそのまま「真実」か「虚妄」かという次元で語られているということを知っておかねばなりません。純粋無我の世界、自己中心の発想を脱却し(超え)た世界は真実の世界であります。それに対して、いっけん善にみえようなもの、また西洋において、たえず動物と人間とのちがいをそこにおいてみてきた人間の理性をも含めて、純粋無我の行為と云えないもの、つまり自分中心の発想が根本になっているもののいっさいは虚妄であるという立場を確認しておかねばなりません。
 この立場がはっきりしてはじめて、親鸞聖人の「そらごと、たわごとまことあることなき」ということばの真意が領解されるようにおもわれます。すなわち、自分中心、利己的発想からでたものは「まこと」ではないといわれるものであります。
 さきに「雑毒の善」という面から、人間の行為の虚妄性にふれましたが、いま一つ、内外不相応の虚仮性について言及しなければなりません。仏教では身体や口に表れた行為(表業・思已業)のみではなく、表われる以前の意志行為(無表業・思業)をありのままにみつめるものであります。ですから、表面に表れた行為がいっけん善のようにみえても表面にひそく我愛(利己的愛)の心を問うことによって「善」と自認しえる行為はみあたらないというのであります。
 善導大師の「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と解釈したことばを、親鸞聖人が「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みかえなければならなかったのは、内外不相応のみずからの相をごまかしなくみつめられた告白でありましょう。
 このように親鸞聖人において善・悪の基準は、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想を脱却した行為であるかどうか、いわゆる宗教的真実の次元と同じ内容のものであるかどうか、従って究極的には「仏に成る」という一点にかかわって善とか真実といえるかどうかという高次の宗教的次元での基準であることを確認しておかねばなりません。従って、親鸞聖人のいわれる「悪人」を問おうとするとき、少なくとも次のようなレベルでないことをつきつめ、誤りのないようにしなければなりません。
 (1)法律や他律的道徳のレベルでの悪人ではない
 (2)単なる文学や、歴史(社会的階級)の立場での悪人ではない
 (3)「仏に成る」という基準をぬきにしての悪人ではない


悪人こそ救われる(悪人正機)ということ



 ところで、親鸞聖人の「悪人」のうなずきは、驚くべき領解となってあらわれました。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり
(『歎異抄』)
 意表をついたこの逆説的なことばは、親鸞聖人の教えの特色を明示したことばとして、しばしば引用される有名なものであります。善人よりも悪人こそ救われるのであるというこの思想は大きな波紋を呼んだことも事実であります。果してこのような考えは親鸞聖人に本当にあったのであろうか。『歎異抄』は親鸞聖人の直筆ではなく弟子の手になるものであるから、親鸞聖人の思想をゆがめた発言ではないかと提言した人もありました。しかし、このことについては、親鸞聖人の主著『教行信証』のはじめに
権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す
とあることばによっても明らかなように、親鸞聖人その人の思惟であることは否定できません。
 それにしても、悪人こそ救われるという云い方は極端ではないか、善人も悪人もというのならまだしも容認できるが、悪人がまさに救いの正しき相手である(悪人正機)などとは無暴な言葉であって倫理を無視した発言ではないかという批判もあります。
 しかし、われわれは、さきにあげた『歎異抄』のつづきのことばに耳を傾けなければなりません。
そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せさふらひき
 ここで言われる善人とは「自力作善のひと」と同意語として使われています。すなわち、仏に成ることが、自分の積み重ねる善根によって実現できると思い込んでいる人といってもよいでしょう。もっとつきつめていえば、「雑毒の善」しかなしえない虚妄の行為によって「仏に成る」ことを実現できると思い込んでいるひとということになりましょうか。
 それに対してここでいう「悪人」とは「煩悩具足のわれら」といわれ「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」といいかえられるひとのことであります。つまり、自己の生き方は自分中心の発想から離れることができず、仏に成るようないっさいの行為ができないものこそ「悪人」でるといわれるのであります。その「悪人」であることをほんとうに知らせたものは仏の智慧であり、大智であります。ほんとうの素肌のままの人間が知らされるということと仏を知るということは同じであるといってもよいでしょう。云いかえれば、虚妄と虚妄と知らせたものは真実であったのです。そこに親鸞聖人の人間批判と現実批判は単なるニヒリズムに転落することなく、真実へのひるがえりをもたらされる、救いあるよろこびの世界の発見と同時的であるという構造がみられます。それは、さきほどの『歎異抄』のことばでいえば、「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」といわれるように、悪人であることがほんとうにうなずきえたことと、仏に成る道が開けることが同時であるという親鸞聖人の信心の内景の構造を最もよく示されていると思われます。悪人こそ救われるとは、本願のもともとのはたらきであり(真実が虚妄を虚妄と知らせて真実化するはたらきといってもよい)、仏が仏に成ることと悪人こそ仏に成ることとが同時であるという本願の構造の具現化といってもよいでしょう。「仏に成る」ような行もできないことを身をもってうけとめられた親鸞聖人にとって
諸の衆生に於ひて平等ならざるに非ざれども然も罪なる者に於ひて、心則ち偏へに重し。放逸の者に於ひて仏則ち慈念したまふ。不放逸の者は心則ち放捨す
と記されている『涅槃経』のことばは、そのまま自己の救いのたしかさを告げた真実であったでありましょう。それであればこそ、阿弥陀仏の第十八願に「唯、五逆と正法を誹謗するものをば除く」とある文を「五逆のつみびとをきらい、謗法のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。」(『尊号真像銘文』)と身にひしと本願の音声をうけとめられたにちがいないと思われます。
『悪人ということ』より17~23頁




つづく



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ハコにキャパ制約を設けてクリムゾンやパープルを入れる

あ、音楽の話じゃありません。

IE6対策(min-height編)

です。

例えばサイトのコンテンツが少ない場合、フッター部分をある高さ以上に行かせないために「中身に応じて縦方向に可変、ただし最小値を持つボックス」を作る必要があります。

普通は「min-height」を使えばおしまいですが、IE6も考慮に入れるとハックをしなければなりません。

 

関連して、IE6に実装されていない

  • min-height
  • max-height
  • min-width
  • max-width
のすべてを使いたければ

min-width,max-width,min-height,max-heightをIEで使えるようにするjavascript[to-R]

にあるように、jsを利用すれば簡単ですが、2つ前の投稿で書き忘れたので、「IE6のバグを利用してCSSだけでmin-heightを実現させる方法」についてまとめてみました。

 

その手法は、IE6のバグを利用してIE6にも対応させるというものですが、まるで相手の力を利用して背負い投げ決まったかのようで, 美しくもあると思います。

 

 

ここではIE6のバグを2つ利用していて、1つ目は

overflow: visible; が指定されているとき(初期値)、ボックスをはみ出す内容物はボックス外に表示されると規定されているが、IEでは内容物に合わせてボックスが拡大される。

というもの。つまり、IE6では、高さ(height)を150pxにしても、その中に高さ200pxの物が入ったら外も200pxに伸びてしまう(150pxよりも小さい場合は不変)ということなんですが、、、つまり、「height」で指定しても「min-height」と同じ結果になっちゃってるんですよね(図1)。

 

(Step 1)

CSS↓

.h150 {
	background:#00f;
	width:300px;
	height:150px;
}
.dp {
	background:#707;
	color:#fff;
	width:200px;
	height:100px;
}
.kc {
	background:#802;
	color:#fff;
	width:100px;
	height:200px;
}

html↓

<p>ショッキング・ブルーの箱=高さ150px</p>
<div class="h150">
<p class="dp">深紫色<br>高さ100px<br>幅200px</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<div class="h150">
<p class="kc">深紅色<br>高さ200px<br>幅100px</p>
</div>

結果

ショッキング・ブルーの箱=高さ150px

深紫色
高さ100px
幅200px

 

深紅色
高さ200px
幅100px

 

(図1)IE6の(正しくない)見え方↓

(図2)IE6以外の(正しい)見え方↓

 

続いて、IE6以外でも「箱より大きなものが入ったら箱を拡大」させるために、「height:auto;」を使うんですが、「IE以外」でそうさせるためには、次の2つ目のバグを利用します。

WinIEでは「後に指定したものを優先する」という方を強く解釈してしまう(!importantを無視してしまう)
さっきの「height:150px;」の前に「height:auto !important;」を入れて、

 

(Step 2)

CSS↓

.h_auto {
	background:#00f;
	width:300px;
	height:auto !important; /* ← 追加*/
	height:150px;
}
.dp {
	background:#707;
	color:#fff;
	width:200px;
	height:100px;
}
.kc {
	background:#802;
	color:#fff;
	width:100px;
	height:200px;
}

html↓

<p>ショッキング・ブルーの箱=IE6以外は高さ自動</p>
<div class="h_auto">
<p class="dp">深紫色<br>高さ100px<br>幅200px</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<div class="h_auto">
<p class="kc">深紅色<br>高さ200px<br>幅100px</p>
</div>

とすると、結果はこうなります↓

ショッキング・ブルーの箱=IE6以外は高さ自動

深紫色
高さ100px
幅200px

 

深紅色
高さ200px
幅100px

(図3)IE6の見え方は変化なし↓

(図4)IE6以外で箱の高さが変化した↓

 

ただしこれだけだと、IE6以外で、箱より大きいものが中に入った場合はそれに応じて伸びてくれますが、箱より小さいものの場合は縮んでしまいます。

そこで、高さに最小値を持たせるために、いよいよIE6では認識されない「min-height」の登場です。

(Step 3)

CSS↓

.min_h150 {
	background:#00f;
	width:300px;
	min-height:150px; /* ← 追加*/
	height:auto !important;
	height:150px;
}
.dp {
	background:#707;
	color:#fff;
	width:200px;
	height:100px;
}
.kc {
	background:#802;
	color:#fff;
	width:100px;
	height:200px;
}

html↓

<p>ショッキング・ブルーの箱=高さの最小値が150pxの箱</p>
<div class="min_h150">
<p class="dp">深紫色<br>高さ100px<br>幅200px</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<div class="min_h150">
<p class="kc">深紅色<br>高さ200px<br>幅100px</p>
</div>

結果

ショッキング・ブルーの箱=高さの最小値150px

深紫色
高さ100px
幅200px

 

深紅色
高さ200px
幅100px

(図5)IE6の見え方↓

(図6)IE6以外の見え方↓

ということで、IE6とそれ以外で「min-height:150px;」としたのと同じ表示になりました。

【結論】

	{
	min-height:●●;
	height:auto !important;
	height:●●;
}

(●●は同じ高さ)としてやれば、IE6でも「min-height:●●;」と同じ結果が得られる。

んですが、素朴な疑問として、「height:auto !mportant;」よりも「min-height:●●;」が優先されているような、、、。これは「height」と「min-height」は別物として解釈されている、ということでしょうか。

とにかく、最初に書いたとおり、jsを使えば簡単だと思います。

まあ、考え方が応用が効くということで。

 

【追記】

  • 画像のキャプチャを撮った後、文言を変えましたが色の高さは変わっていません。
  • 最初上記のようにやっても上手く出来ませんでした。原因を追求したら、同じclassに「overflow:hidden;」がかかっていたからで、理由はoverflow:hiddenでfloatをclearさせるためでした。外側を<div>で囲って、そこにスタイルシートを適用させたらうまくいきました。

【BGM】

Deep Purple - Burn

 

King Crimson - The Court of the Crimson King

 

SHOCKING BLUE - Venus

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二双四重の教判

二双四重の教判: 飛雲」を読んで。

「ウソも方便」と言われることから、「方便=ウソ」と思われがちですが、方便とは真実に近づけるのに必要なもの。なんですが、全ての人に同じ様に絶対に必要なものではなく、結局は不要であり、捨てねばならないことがよく分かりました。
権仮方便とは、それが権仮方便と判らず真実と思っている人には権仮方便として必要なのであって、権仮方便が権仮方便と判っている人には不要なのです。法然上人は後者の立場で仰ったに過ぎませんが、そのために激しい非難があったので親鸞聖人は前者を説明されたのです。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出という回り道をするな、横超の直道だけだ、としか仰っていません。



出されている根拠は難しく感じられますが、非常に分かりやすい説明なので、これから仏教を学ぼうとする人にはオススメかもしれません。

二双四重とは
親鸞聖人が仏教全体と18願との関係について体系的に教えられた
もので、「18願」とは有名な「阿弥陀仏の四十八願」の中の18番目の本願です。

二双四重の教判を親鸞聖人のお言葉を列記してまとめると以下のようになります。
竪超(頓教)
大乗真実の教
難行聖道の実教、仏心・真言・法華・華厳等の教
即身是仏・即身成仏等の証果
竪出(漸教)
大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
聖道権教、法相等、歴劫修行の教
聖道、歴劫修行の証
横超(頓教)
願成就一実円満の真教、真宗
易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等
選択本願・真実報土・即得往生
横出(漸教)
三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教
浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生
親鸞聖人は、このように仏教全体を4つに分けられて、法然上人が仰ったのは、真教・真宗の横超(18願)のことであると明らかにされたのです。もちろん膨大な根拠を挙げられた上で、法然上人の教えの正しさを証明されているのです。
更には、竪超・竪出・横出は、横超へ導くための権仮方便と見做されているのです。

何度も何度も言っていますが、権仮方便とは、それが権仮方便と判らず真実と思っている人には権仮方便として必要なのであって、権仮方便が権仮方便と判っている人には不要なのです。法然上人は後者の立場で仰ったに過ぎませんが、そのために激しい非難があったので親鸞聖人は前者を説明されたのです。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出という回り道をするな、横超の直道だけだ、としか仰っていません。
ですから、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出を勧められたお言葉は、1つもないのです。

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IE6対策の覚え書き 2011.03.28

好んでInternet Explorer 6を使っている人もいるので、やはり対策は必要かと思って。

というか、この記事はIE6で見ないと意味ないかも。

続きを読む...
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中西智海 / 親鸞教学入門(2)

(1)の続きです。

親鸞聖人と真実



 人間が宗教的になるということは、いままで見えなかったものが見えてくることになり、いままで感じられなかったものが感じられてくることになり、いままであたりまえであると思っていたことがおどろきであることがしられることであるといわれます。
 親鸞聖人は、この世を、この人生をだれよりも誠実に生きようとされた人であります。比叡山の山林の間につきさす強烈な光に照らされたとき、自分の真相がはっきりとみえてきたのであります。光が強ければ強いほど、闇の影は大きく浮彫りにされてきます。それは「地獄よりも地獄的」な現実の世界が知られてくるのであります。「地獄一定」の告白は誠実なたましいのおどろきのさけびであります。
 法然上人とのめぐりあいは、歴史的邂逅であったと同時に、歴史を超える常住の真実との邂逅でもありました。「地獄よりも地獄的である」といって龍之介は自殺したが、親鸞聖人は「地獄一定」の自己の由来は、我執のこころであることを教えられ、その自己をこそひるがえし、普遍の世界によみがえらせる常住の真実(弥陀の本願ととかれる)に根拠をもって生きてゆける世界を開き示されたのであります。(この親鸞聖人の信心のしくみについては別のところで詳細にふれるはずであります。)
 こうして、親鸞聖人にとっては、素顔のままの自分、すべての虚飾がはぎとられた自己のほんとうにすがたを仏智・大智が自己にとどいた、他力廻向の信心(如来からめぐまれた信心)によってあからさまになったのであります。
 このように仏智・大智の立場からあからさまになったほんとうの自己のすがたを、真宗では「機(すくいの対象)の真実」というのであります。
 親鸞聖人は本当の自己のすがたを
一切の群生海无始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし(『教行信証』信巻)
と告白されています。その他、機の真実のすがたを「流転輪廻のわれら」「濁悪邪見の衆生」「煩悩成就のわれら」「常没流転の凡愚」などと告げられています。これらはすべて仏智の立場から、照らし破られた自己のほんとうのすがたの告白であることを忘れてはなりません。仏智の世界を知らない、一般の常識の世界や単なる法律や道徳のレベルでのことばではないことをくれぐれも注意しなければなりません。
 ともあれ、一瞬一瞬、生即死、死即生ともいうべき危機的存在であり、業縁のもよおしによって何をするかもわからない激変的存在としての私が「現」に「ここ」にいるのであります。それが私のほんとうのすがたなのであります。ありのままのすがたなのであります。これこそまさに自己の真実というに値するものであります。
 ところで、親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らせたものは、この世のだれかではなかったし、まして自分ではなかったのです。自分は自分の背中をみることができないのですから、自分の前面を知ることができないのです。本当の自己をしらせたものはまさに「この世」を超えた、如来の本願として説かれる常住の真実であります。この世を超えるなどといいますと何か観念的でわからないといわれるかもしれませんが、我執の世界を超えている世界があるといってもよいのです。超えていればこそ、如来(真如から来生する)として強く自己と世界に働くものであります。
 ですから親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らしめ、その自己と世界をこそ摂取不捨(おさめとって捨てない)するはたらきこそ、如来の本願として説かれる常住の真実の世界であったのであります。
 ここまできてはじめて、『歎異抄』の次のことばがうなずかれるとおもうのであります。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし
 ほんとうの自己の真実(機の真実)を知らしめ、その自己(機)のためにこそ成就された法は「不顛倒・不虚偽」と説かれるはたらきとして躍動するのであります。如来の本願はそれでこそ、まことといわれるに値するものであります。
 如来の本願まことさは、本願みずからが証明するというよりほかにいいようのないものでありましょう。それは「地獄一定」と自己のほんとうのすがたを照破したもの、そして、そのためにこそ建立された弥陀の本願こそ、真実そのものであったといわねばなりません。そして、この弥陀の本願のまことは、釈尊・善導・法然と仏祖の伝統としてうけつがれ、ついに「愚身の信心」を成立させたのであります。ここに親鸞聖人の信心にこそ、「まこと」「真実」の具体的なすがたをみることができます。
『真実ということ』より7~11頁




つづく



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SyntaxHighlighterでソースコードを見やすく表示

ASCII.jp:技術系サイトに必需品! ソースコードは鮮やかに
ソースコードを綺麗に表示するJS「dp.SyntaxHighlighter」|caraldo.net | WebとiPhoneとロードバイクが大好き!
などを参考に、SyntaxHighlighterを実装させてみました。

さっそく、<head></head>内に追加したコードを書いてみると、
<!-- Syntax Highlighter -->
<script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shCore.js"></script>
<script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushXml.js"></script>
<script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushCss.js"></script>
<script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushJScript.js"></script>
<script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushPhp.js"></script>
<link type="text/css" rel="stylesheet" href="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/styles/shCore.css"/>
<link type="text/css" rel="stylesheet" href="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/styles/shThemeDefault.css"/>
<script type="text/javascript">
SyntaxHighlighter.config.clipboardSwf = 'http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/clipboard.swf';
SyntaxHighlighter.all();
</script>
<!-- /Syntax Highlighter -->


いままで

<!-- Syntax Highlighter --> <script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shCore.js"></script> <script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushXml.js"></script> <script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushCss.js"></script> <script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushJScript.js"></script> <script type="text/javascript" src="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/shBrushPhp.js"></script> <link type="text/css" rel="stylesheet" href="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/styles/shCore.css"/> <link type="text/css" rel="stylesheet" href="http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/styles/shThemeDefault.css"/> <script type="text/javascript"> SyntaxHighlighter.config.clipboardSwf = 'http://charlie432.fool.jp/syntaxhighlighter/scripts/clipboard.swf'; SyntaxHighlighter.all(); </script> <!-- /Syntax Highlighter --> と見せていたものです。

ですが、ここまでくるのにちょっとした落とし穴が。


各単語を区切るために<code></code>(本当は<span></span>かもしれないですが、なぜか<code></code>になっています)で囲まれているのですが、
WordPressで<code>タグを有効にするには ≫ マイペースのLinux
にもあるように、スタイルシートを
code {
	display:block;
}

としていたので、各単語の切れ目ごとに改行されてしまいました。

また、背景に色や影を敷いたり罫線を付けたりさせていたので、かなり派手な装飾に。


ここで使っているSyntaxHighlighterは
<div class="syntaxhighlighter"></div>
で囲まれているので、

.syntaxhighlighter code {
	display:inline;
	background-color:transparent;
}


などで初期化して、ようやく思った表示になりました。

といっても、まだ少し変なところがあるので、その修正と、余裕ができたらカスタマイズしてゆきたいと思います。

どうしようもなく崩れている場合は「F5」を押したら直るかも?

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紅楳英顕先生学習会(1)[後半(1)] @築地本願寺 2011.03.12



前回の続きです。

学習会の後半、、、の前半の記録をまとめましたので、紅楳先生に許可を得て、以下に公開します。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


親鸞聖人(1173-1263)は平安時代の終わり、やがて源頼朝が鎌倉幕府を開く時代に、公家の子供として生まれました。そして9歳で出家、比叡山に登りました。天台宗、自力の仏教です。当時、仏教の勉強をしようと思ったら比叡山に登るのが普通でした。ところが、どうしても煩悩を断ち切ってさとりを開くことが出来ないという悩みを持つようになりました。これは、親鸞聖人の先生の法然上人も同じでした。一生懸命修行に励んでも、煩悩を断ち切ることが出来ないという悩み。これは、怠けたとか落第したということではないと思います。真剣に取り組むが故の悩みというべきだと思います。真面目に自分自身を振り返るが故の悩みのお言葉、沢山あります。代表的なのは、
悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
煩悩を断ち切れない私がいくらさとりを求め修行に励んだとしても、それは煩悩の毒の混じった修行でしかない、嘘の修行でしかない、とてもさとりを開ける私ではない、と。
地獄は一定すみかぞかし
最も罪の深い者がいかなくてはならないところであり、もっとも多くの苦しみを受けなければならない世界を仏教で地獄といいます。自分のような罪の深いものは、地獄より他にゆきばのないのだ、というお言葉です。

このように、自分自身を深く深く見つめて、自分は罪深きものであり煩悩具足である、自分のようなものは比叡山でいくら修行してもどうにもならないという気持ちになり、比叡山で20年間自力の修行をしましたが、その道を離れようとしたのです。そして、当時「日本のお釈迦様」と敬われていた聖徳太子にお尋ねしようと、聖徳太子のゆかりのお寺、京都の六角堂に参籠しました。29歳のときです。

そして95日目の朝方、聖徳太子より(法然上人を訪ねよ、という)夢告を受け、法然上人を訪ねます。それまでやっていた自力の仏教では自分はさとりを獲ることは出来ない、と、法然上人の教えにより、自力の力を捨てて他力(仏力による救い、弥陀の本願力)の道に入るのでした。弥陀の本願力とは四十八願、生きとし生けるものを救って、仏のさとりへ導いてやろうという願いです。その中で中心となるのが十八願です。よく「私の十八番」などといいますが、これが元です。

それで親鸞聖人は、我々が修行してさとりを獲るのではなく、必ず救い摂るという阿弥陀如来の願の願いによって救いを頂くのだ、と説いたのです。これが浄土真宗です。

本願を信じて念仏する、阿弥陀如来の本願を信じて念仏する、これが非常に大切なところです。念仏念仏と一般的に言われ、その通りなのですが、特に浄土真宗において大切なことは、本願を信じて念仏する、と、信心が非常に大事にされているのです。それで蓮如上人はこれを受けまして、『御文章』の中には「御恩報尽の念仏と心得べきなり」とおっしゃっています。念仏するのは阿弥陀如来に対するご恩報謝だ、と。

信心正因 称名(念仏)報恩

信心によって救いが定まり、念仏はご恩報謝である。ここが、親鸞聖人が非常に強調されたところです。法然上人も同じですが、親鸞聖人は信心を非常に強く言われました。

本当のよろこびというのは信から出てくる、と言えると思います。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


(続いて、本願寺出版社から出ている『浄土真宗聖典』にも収録されている『親鸞聖人御消息』について聞かせていただきました。)


【親鸞聖人御消息】

 本書題号の「御消息」とは、親鸞聖人が関東から京都に帰られ、遷化されるまでに、関東各地の門弟に与えられた手紙のことである。43通あって、そのほとんどは『御消息集』『血脈文集』や従覚上人が編集された『末灯鈔』などに収録されているが、近年公表された真蹟消息や古写本等も含まれている。その内容は門弟の質問に対する返事や聖人の身辺のことであり、門弟からの懇志に対するお礼に添えてかかれたものなどもある。これらの消息集におさめられたものには、互いに重複するものや、真蹟などとの異同が認められるものがある。このため『原典版』では、近代の確定できるものおよび年代の推定が確実視されるものを年代順に、次いで年代の推定に疑問が残るものおよび年代が不明のものを月日順に配列する編綴方法をとった。そして本聖典では、各消息の簡単な内容紹介と消息集諸本における該当通数とを各通の初めに示した。
 この消息を通して、関東の門弟たちの間で、教義的にどのようなことが問題になっていたかを推測することができある。誓願名号同一や「如来とひとし」ということについての説明、また造悪無碍の異義に対する厳しい批判などがそれである。さらに念仏停止の訴訟に関することや善鸞義絶と関連するものがいくつかみられることも注意すべきである。その他、「自然法爾章」のような短篇の法語も収録されている。
 全体としては、晩年の聖人の信心の領解がうかがわれるとともに、指導者としての聖人の態度や門弟の信仰態度などを知ることができ、初期の真宗教団の動静をうかがうのに欠かせないものである。


親鸞聖人御消息

 有念無念の事。
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終ということは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。


有念無念の事。臨終のときに我々はどういう思いをもったら良いのか、ということについて。親鸞聖人はこのことを否定されました。

浄土教、、、浄土宗でもそうですが、臨終来迎が非常に大きな問題とされていました。これは、日頃から仏さまを大事にし、お念仏を一生懸命称えていなたらば、まさに命が終わろうとしている時、臨命終時に、お浄土から救いに迎えにきてくれるということです。これは経典にも書かれていることで、当然問題にされていた訳です。

それに対し親鸞聖人は
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終ということは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。
命の終わり際に仏さまが助けにお迎えに来てくださるんだという考え方は、諸行往生(色々な自力の修行を積むことによって浄土に生まれようとする考え方)の人の言うことである。そういうことを言っている人は、真実の信心をまだ獲ていないのだ。阿弥陀さまの救いを本当に信じた心というのが定まっていないのだ、と言われています。
また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。
これは、罪深い人が命が終わるときに初めて教えを説く人にあって、すすめられるときにいうことなのだ。本当の信心を獲ている人とは違うのだ。
真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
阿弥陀さまの本願を信ずる心が定まっている人は、すでに阿弥陀さまの救いのなかに摂められて捨てられないのだから、正定聚に住すのだ。

正定聚というのは、まさしく仏になることに定まったなかま、ということです。ここでいう仏とは、さとりを開いた人です。聖人は、それまでは死後浄土に生まれてから住すと考えられていた正定聚を現生正定聚楽とし、現世で信心をえたときに住すと説かれました。現生で正定聚の位になれる、と。これは聖人の独自の釈顕です。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
命が終わるときになって、阿弥陀さまの救いのお迎えがあるのだろうか、なかろうかと、気にしながら待たなければならないということはない。仏さまのお迎えをあてにすることはないのだ。阿弥陀さまの救いを信じる心の定まったとき、往生も定まるのだ。浄土に生まれて仏にさせていただくことは、信心定まるときに定まるのだ。
来迎の儀則をまたず。
その当時、命終わるときにはこのようにしなければならないと、非常に細かく言われていました。枕元に阿弥陀さまを据えて、阿弥陀さまの手と病人の手を結んで「この人が死んだときに浄土に連れて行ってください」「私が死ぬときは間違いなく浄土へ連れて行ってください」と一生懸命お願いするということが行われていました。有名なのは、藤原道長がいよいよ命終わるときに、枕元に阿弥陀さまを据えて阿弥陀さまの手と自分の手を結んで一生懸命念仏して救いを願ったということがありました。このように、儀則(儀式)があったのですが、親鸞聖人はそういうことは一切いらない、信心定まるときに往生は定まるのだ、現生正定聚、現世からの救いなのだ、と説かれたのです。

ここで、信心というのは、信心念仏も自分の力によるものではない、如来よりたまわったものであるとする、他力回向の信心念仏です。信ずる心も称える念仏も、普通に考えると自分のしていることに間違いないのですが、全部、仏さまがしてくれているのだ、全てが他力なのだ、ということです。

そして特に現生正定聚、仏の救いは現世からなのだ、と強調されたのが親鸞聖人でありました。


(御消息は)今日はここまでとして、続きは次回に致したいと思います。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 



【質疑応答】(の前半)

(質問)阿弥陀さまが救ってくださるということを、自分が信じたら現生正定聚とさせていただけるのでしょうか。

(お答え)仏さまの本願は、必ず救いとってやるぞ、というものです。それを、自分がそのまま受け止めた。それを信心定まった人、と言われています。自分が受け止めたことには間違いないのですが、親鸞聖人はそれを他力廻向の信心と言われました。自分の心が受け止めたとは説明されません。これは実感の問題です。『歎異抄』には「如来よりたまわりたる信心」とあります。信ずる心も如来さまから頂いたものだという言い方です。
「弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」私の口から出ているものではあるけれど、阿弥陀さまからいただいたお念仏だからこの功徳は十方にみちたまうのだ、と。

(質問)阿弥陀さまが浄土に連れて行って下さるのは未来のことなのに、なぜ、現在ハッキリと断言できるのでしょうか。

(お答え)今もありましたように、これは実感です。例えば「お前は自分の子供を可愛いと思うか」と聞かれたら、実際子供を持つ人なら可愛いと躊躇なく言うでしょう。よその子供だったら口では「可愛い」というかも知れませんが、我が子に対して言うのと明らかに実感が違いますよね。

(質問)法然上人も親鸞聖人も同じ本当のよろこびを味わっておられたと思いますが、なぜ親鸞聖人だけがこのよろこびは正定聚なのだとハッキリおっしゃったのでしょうか。

(お答え)法然上人も現世の救いという思いもあったと思いますが、正定聚に関しては彼土正定聚(浄土に生まれてからの正定聚)と、経典や七祖の教えではそうなっていますから。法然上人は現生とは言われませんね。しかし救いの実感はあったと思いますよ。現世で仏さまの救いの中に入らせていただいたという実感はあったと思いますが、説明の仕方は浄土に生まれてから、となっています。

(質問)夢で法然上人のところへ行けと告げられたということですが、我々現代人は、それは一種の妄想くらいにしか思えないのですが、、、。類推するに、それ以前に、法然上人という素晴らしい先生がいらっしゃるんだという情報を少しずつ得ていて、最後のきっかけとして夢となったのかな、と思ってしまいます。

(お答え)それはそうだと思います。もちろん法然上人のことはすでに聞いておられたのですから。行ってみたいなあ、という気持ちはすでにあったと思います。それで、夢で決心がハッキリしてけじめがついたということでしょう。

(質問)「中心は十八願」とは、どういうことでしょうか。

(お答え)七高僧の中でも十八願が大事だということは言われてきましたし、法然上人も「選択本願」とか「王本願」という言い方はされていました。十八願には「若不生者 不取正覚」とあります。「若しその人が私の国に生まれることが出来なかったら私は仏に成りません」ということですので、親鸞聖人に限らず法然上人も七高僧も十八願を非常に注目していました。

(質問)その場合、本願が48あるということなのか、それとも本当は十八願だけで、それを広げると48の願になるということなのか、如何でしょうか。

(お答え)浄土というところはこういうところでありたい、と浄土の荘厳がずっと述べられているのです。

ここで、「生因三願」と言いまして、浄土に生まれるという往生の因について述べられているのが十八願、十九願、二十願です。これを生因三願と言います。この中でも特に、「若不生者 不取正覚」が注目されました。

(質問)真実の信心は難しいと思うのですが、諸行往生は臨終の人でもできるということでしょうか。

(お答え)親鸞聖人は諸行往生を否定しておられます。臨終に信心決定することが間に合わなければ諸行往生で良いのではないか、と思われるかもしれませんが、諸行往生によるべきではないと親鸞聖人はおっしゃっています。方便化土ということを聞いたことがあると思います。諸行往生の人は真実の浄土に生まれることはできません。自力往生をするようなことでは方便化土にしか往かれないぞ、真実報土へは往けないぞ、と親鸞聖人は戒めておられます。それではダメだぞ、と言われているのです。一旦化土に往って、それからゆっくり、、、とは言われていません。

現世において本当のよろこびを頂くのが十八願の世界です。それは大慶喜心です。それに対し、二十願(十九願も含まれる)は大慶喜心を獲ず、と言われています。

十八願 → 真実報土、大慶喜心を獲る
十九願、二十願 → 方便化土、不獲大慶喜心

親鸞聖人は、十九願、二十願に入らず、十八願に入りなさいと言われているのです。


先ほどの御消息でいうと
真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
と言われているところです。


(つづく)



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[html] formの部品とheight値について

htmlで、form内のよく使う部品(<textarea>、<input type="text">、<input type="button">、<select>)の高さについて、

  • IE6
  • IE7
  • IE8.0.3001.187021C
  • Safari 5.0.4(7533.20.27)
  • Google Chrome 10.0.648.151
  • Opera 11.01 Build 1190
  • Firefox 3.6.15
にて、それぞれ padding, height, line-height, font-size を変えたらどうなるか調べて表にまとめてみました。

デフォルト値は
padding:0;
line-height:1;
height:auto;
font-size:15px;
で、それぞれのプロパティに20pxと40pxを与えて比べてみました。

「○」は高さに変化のあったもの、「×」は変わらないもの、「△」は変化はあったけれど表示がおかしいものです。

「ここをクリック」ボタンを押すと、閲覧ブラウザでの表示が確認できます。

<textarea>

textarea IE6 IE7 IE8 Safari Chrome Opera Firefox
padding × × ×
height
line-height × × ×
font-size
(左)padding:20px; (右)padding:40px;

(左)height:20px; (右)height:40px;

(左)line-height:20px; (右)line-height:40px;

(左)font-size:20px; (右)font-size:40px;

<input type="text">

input[type="text"] IE6 IE7 IE8 Safari Chrome Opera Firefox
padding × × ×
height
line-height × × × × ×
font-size
(左)padding:20px; (右)padding:40px;

(左)height:20px; (右)height:40px;

(左)line-height:20px; (右)line-height:40px;

(左)font-size:20px; (右)font-size:40px;

<input type="button">

input[type="button"] IE6 IE7 IE8 Safari Chrome Opera Firefox
padding
height
line-height × × ×
font-size
(左)padding:20px; (右)padding:40px;

(左)height:20px; (右)height:40px;

(左)line-height:20px; (右)line-height:40px;

(左)font-size:20px; (右)font-size:40px;

<select>

select IE6 IE7 IE8 Safari Chrome Opera Firefox
padding × × × ×
height × × × ×
line-height × × × × × ×
font-size
(左)padding:20px; (右)padding:40px;

(左)height:20px; (右)height:40px;

(左)line-height:20px; (右)line-height:40px;

(左)font-size:20px; (右)font-size:40px;


なお、途中で改行されてしまっているのもあるので、(左)とあるのが1つめ、(右)とあるのが2つめです。


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中西智海 / 親鸞教学入門(1)

親鸞教学入門(中西智海和上) - 連続無窮で紹介されている、中西智海和上の『親鸞教学入門』を読ませていただきました。ところどころ、自分には難しく感じられるところもありましたが、親鸞聖人の教義が分かりやすく書かれていましたので、復習の意味も込めて、心に残ったところを打ち込ませて頂きました。

仏教でいう真実



 ところで仏教で「真実」といわれるとき、それはどのようなことがらをいいあてているのでありましょうか。
 真実と訳されている原語は tattva が代表的なものだといわれます。tattova とは「それ自身」ということばで、すべて存在するものそれ自身という意味で、自然にも人間にも世界にも自己にも通ずることばであるといわれます。ですから仏教では、真実を真如(そのままであること、そのとおりであること)とも、実相(存在するもの自体)ともいうのであります。
 更に「真実」とは、「ほんとうにあるもの」つまり真の実在という意味だけではなく、そのあるものがあるがままに「知られていること」という意味なのです。従って、真実は単に私たちが見る「対象としてのもの」ではなくて、そのものをあるがままに知る、ほんとうの「智」という意味が含まれているのであります。
 要するに、すべてのものの「ありのままのすがた」、かけねない実質が知られることをいうのであります。それでは、ありのままのすがたをありのままに知ることができたとき、どういうことがらがうまれるかといえば、ほんとうのことをほんとうとし、うそのことをうそとし、いつわりをいつわりとして知ることができるから、必然的に価値判断が生まれ、それによる批判精神、きびしい行動がよびおこされるのであります。
 これをまとめてみますと、仏教で「真実」というとき「真」は「ほんとう」という意味であり「実」は「実在」というときの「実」と、「誠実」「まごころ」というときの「実」をあわせた意味をもっているということになります。ですから、真実の「実」にはほんとうの在り方という、いわば存在概念と価値概念が同時に含まれているということになるのであります。
 それでは、あるがままにものをみるとはどういうことなのでありましょうか。
 私たちが、普通ものを見るというのは、まずここに見る自分があって、そして外のものをみるのであります。ものを客観的にみるという場合でも、自分が対象としてみるということにはかわりありません。人間は現に鼓動を続けている自分の心臓をじかにみることはできないし、自分の舌を自分でなめることはできないといわれます。それは何をいいあてているのかといいますと、人間はいつの場合でも、自分を中心にものを見、考えるという致命的な偏見があるのです。このエゴイズム、我執性こそものをありのままにみることができなくしているものなのです。このエゴイズム、我執性からの脱却・超克こそ、仏教の「無我」のおしえなのであります。我執の色めがねでものをみるかぎり、もののほんとうのすがた、生きたすがたをみることができないというのであります。たしかに私たちは、いつとはなしに自分中心にものをみているようです。たとえば「あの人はよい人ですね」とか「悪い人ですね」というとき、いったい何を基準にしていっているのかと考えてみると、自分にとって都合のよい人をよい人といい、自分にとって都合の悪い人を悪い人と思いこんでしまうときがないでしょうか。
 もしそうだとすれば、ほんとうに、ものをみていないことになります。従って、逆にほんとうにものをみたいとき、真実にふれたいとき、この我執性をこえた立場、すなわち大智といわれる立場から、ものをみることにならなければなりません。
『真実ということ』より5~7頁



つづく。


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ジョーダン・ルーデスが、、、(涙)

5つ前の投稿の続きとなります。

震災の直後にも「For Japan」という曲をアップしたジョーダン・ルーデスが、また日本のために書いてくれました。その名も「Japan Rebirth(日本再生)」。

前回よりも深い悲しみを湛えた曲が胸に沁みます。

JAPAN Rebirth




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