【法話】「有難うございます。なんまんだぶつ」しか、浄土真宗にはありません。@覚証寺 2011.05.07

二つ前の投稿の続きです。そちらから続けて読まれることをお勧めします。

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アインシュタインの相対性理論はマクロな科学。ミクロの科学は量子力学です。ちょっと前まではこの2つが現代科学の最高峰と言われていました。ところが、今、量子力学と一般相対性理論では説明のつかないことが出てきています。それを説明するために最先端の理論を研究しているのがホーキングと言われています。ひも理論。時間と空間が多層構造をしているという理論です。

こういう風に、今まで分からなかったことが、こう説明したら解決した、ということがあります。それが真実です。

仏教もそう。

例えば。何で寿命が違うのか。不公平ではないかと思われるかもしれません。

そこで出てくるのが「前世」です。それを言われているのが『歎異抄』の宿業。前世、後世ということを語らないと説明のつかないことです。

『歎異抄』第十三条での、親鸞聖人と唯円のやり取り。「お前、私の言うことが聞けるか」「もちろんです」「じゃあ、人を1000人殺して来い。そうしたら往生出来る」。これは冗談っぽく言われていることですが、唯円は「1000人どころか1人も殺すことは出来ません」と答えています。すると、「お前、今、私の言うことは何でも聞くと言ったではないか」と親鸞聖人に一本取られています。

「これで分かっただろう。人を殺せないのは心が良いからではなく、人をを殺す宿業がないからなのだ。宿業があれば何をするかわ分からないのが私たちなのだよ」
さるべき業縁の催さばいかなる振舞をもすべし


過去にやった行いが宿業となり、その宿業によって何をしでかすか分からないのが我々である、と言われています。

過去世のことは分かりませんよね。でも、分からないから無いというのは傲慢というものです。分からないことは、「分からないこと」なのです。

何で日本に生まれてきたのか、なんであの母の子に生まれたのか。それは、過去世に原因があるのです。そうやって説くのが仏教です。それを自業自得と言います。これは親子夫婦と言っても代わることはできません。私たちは宿業の中に生きているのです。

善導大師は、
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
と言われています。

「信ず」とは、仏様のいうことをそのまま受け入れる、ということです。

「罪悪生死」とは、苦しみのことです。「四苦八苦」と言うでしょ。「四苦」とは、「生苦」「老苦」「病苦」です。

生まれたということは、死ななければならないということです。だから苦しまなければならない。それが生苦です。

そして老いねばなりません。この苦しみはどれだけ科学が発達しても無くなりません。

「苦」とは、「思うようにならない」ということです。「人生苦なり」と聞くと、「楽しいこともあるじゃないですか」と思うかもしれませんが、インドの元の言葉の「思うようにならない」という意味を知らないからそう思うのです。

年老いたいと思う人いますか?アンチエイジングが流行っていますよね。皆んな、年取りたくないでしょ?でも、年をとらなければならない。それが老苦です。

病気になりたい人はいないでしょう。でも、病気になる。それが病苦です。

死苦。よく「死にたい」と言う人がいますが、あれは愚痴です。本当に死にたい人はいないでしょう。

善導大師が「罪悪生死」と言われている「罪悪」とは苦しみのことです。遥かなる昔から、常に没し、この流れが止まることがない。そして、そこから出られる因縁がどこにもない者である、と信ず、と言われているお言葉です。

私たちをそのように仏さまが見られたので、仏の願いがあるのです。喩えるなら「お医者さんとは病人が作っている」のです。

仏さまが、私たちの、迷いの世界から一歩も出られない姿を見られ、なんとか救ってやりたいと願われたのが仏さまの願いです。

私を抜きにして仏さまはいません。

仏様って本当にいるのですか?と聞く人がいます。でも、私っているんですか?という人はいませんよね。私がいるということは、そのまま仏さまがいるということです。

私と仏さまは縁起の関係です。母親と母親と子の関係のようなものです 。母がいなければ子はいません。これは分かるのですが、子がいなければ母はいない、と聞くと、え?っと思うかもしれません。でも、子がいるから、母になるのです。「私を母にしてくれて有難う」「生まれてきてくれて有難う」と。

私と仏さまは、そのような関係です。私に苦しみがなければ仏さまは本願を建てられなかったのです。私を離れて仏さまは存在しません。

ここがキリスト教と仏教の違いです。キリスト教は、まず神さまがいて、というところから始まります。仏教は、まず阿弥陀さまがいて、という話ではありません。苦しむ私たちがいるから、その苦しみを助けてやりたいと願われた。

それが法蔵菩薩です。「若しあなたが浄土に生まれることがてきなければ、私も仏にならない」と誓われたのが「若不生者 不取正覚」です。それが本願、仏さまの願いの根本です。あなたが救われることが、私が救われることなのだ、あなたが救われなければ私も救われません、と。

仏さまに上下序列があるわけではないけれど、このような願いは阿弥陀さまの本願にしかないので、これを親鸞聖人は「超世の悲願」といわれました。

その法蔵菩薩が仏さまになった、と説かれたのがお釈迦さまのご説法です。

ということは、すでに救いの道が開かれている、ということです。

だから「助けて下さい」とお願いする必要はないと言われたのが親鸞聖人です。

浄土宗と浄土真宗は「真」の字があるかないかの違いしかありませんが、「真」とは"混じりっけがない"ということです。阿弥陀さまの他力100%で仏になれるのだよ、というのが浄土真宗です。

浄土真宗では「助けてくれ」とお願いすることはありません。こちらから足すものは何もないのです。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり


十劫の昔から弥陀はすでに成仏されている。私たちの救いの道は開かれているのです。

そのことを知らされたら、そこにあるのは、やれやれ、有難いしかないでしよ?

だから、
この上の称名念仏は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ
なのです。「有難うございます。なんまんだぶつ」しか、浄土真宗にはありません。

あなたを仏にするから、安心しておけよ、というのが浄土真宗のご本願です。

その人生は、今晩、ただ今命が終わろうとも、仏様の世界が用意されている、という世界です。

私が安心するのではなく、与えていただいた安心だから「ご安心」というのです。「安心せよ」と呼びかけてくださっているのが、南無阿弥陀仏の呼び声なのです。

『春が来た』という歌がありますが、「春」というものを見たことがありますか?春が来たと何故分かるかというと、花が咲くからです。梅、桜、桃に花を咲かせる働きを春というのです。

春が来た



阿弥陀さまはどこにおられるのか。

南無阿弥陀仏と働きかけておられるのです。それは、隣の人の口から出ることもあれば、私の口から出ることもあります。

これが他力です。

「なんまんだぷつ」とお念仏させていただく身にさせていただいたのです。昔は、「そんな年ではない」「恥ずかしい」「縁起でもない」と言っていたのが、今こうして念仏の日暮らしにさせていただいたのは、阿弥陀さまの働きがあるからです。

なんまんだぶつのお働きの真っ只中でありました、というのを、親鸞聖人は「摂取不捨の利益」と仰いました。そして「摂取不捨」とは、逃げて逃げて行く者を追いかけて捕まえることだと解説されています。お寺参りする人は、捕まったということです。来ない人は逃げている人です。

お念仏させていただいているということは、分かりやすくいうと、阿弥陀さまに抱っこされているということです。母親に抱かれている子はニコニコ笑顔で安心して寝ておれます。

阿弥陀さまに救われ、安らかに日々を送らせていただく人は摂取不捨の利益です。救われていない人にはそれはありません。

そのために、寺があるのです。お念仏をいただいて良かったね、とお互い喜ばせていただくのがご法座です。そのお礼が、お給仕して念仏する日暮らし。そういうおじいちゃんおばあちゃんの姿を子供の頃から見て、伝わって、日本人の心を支えてきたのが浄土真宗です。

一言で750年といっても大変なことです。今年、親鸞聖人750回忌が行われました。阿弥陀さまのお働きがあってのことです。

それで、「たすけたまへとたのむ」というのはどういうことかというと、「助けてやるぞ」といわれる阿弥陀さまに対して「たすけたまへ(どうぞ助けなさいませ)」と言っているのであり、「たのむ」とは「お任せする」という意味です。決して「助けて下さいとお願いする」ということではありません。


(終了)

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この後、控え室にお邪魔して、阿部先生と直接お話しさせていただきました。そのとき聞かせていただいたことは、後日まとめます。



Filed under: 未分類     12:00 AM
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