【法話】「願い続けて下さる願いは、確かにこの私に届いている」 2012.02.05 築地本願寺

前回の続きです。

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十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる


(中略)

それでは次に、慈悲について話をしたいと思います。

慈悲とは、単純に今の時代の言葉で言えば「思いやる」ということになると思います。しかしその心と味わいを少し深めて頂くためにこれからお時間を頂戴したいと思います。

皆さん、アインシュタインという科学者をご存知でしょうか。ノーベル物理学賞を受賞した世界的な科学者であります。相対性理論で有名です。このアインシュタインは、ノーベル物理学賞を受賞した年、大正11年に来日をしています。その来日の時に、こんな体験をしています。どのような体験かというと、当時、真宗大谷派の僧侶で真宗学寮、つまり今京都にある大谷大学の教授をされていた近角常観先生と対談することになったのです。それまでアインシュタインはいわゆる無心論者で、宗教に心を奪われるというのは子供じみた大人の遊びである、悪戯ごとであるという言葉を残していたくらい宗教を毛嫌いしていたそうです。そのアインシュタインが、何のご縁か近角先生と対談することになりました。近角先生は、当時5カ国語を駆使されるほどであったと言われます。世界的に認められている科学者と宗教者でありますから、お互い認めあう中に会話は進んで行ったそうです。そんな会話の中でアインシュタインが近角先生にこんなことを言いました。「先生、仏教で言うところの仏様という方は、どんな方でしょうか。仏様の心というものはどんなものでしょうか」。そうしましたら近角先生、少し考えて間を置かれてからこんな話をされたそうです。

「この国も、最近は少しずつ物の豊かな時代を迎えてきましたけれども、これからお話しすることは、この国がまだまだ貧しかった頃、その日食べてゆくのにも精一杯だった頃の、昔々のお話です。この国のある地域では、お年寄りが一定年齢になると山に捨て去られてゆくという悲しい伝説がありました。そこに、母親思いの息子と母親が、2人仲良く暮らしていたそうです。ところが、その母も人の子ゆえ、とうとう山に捨ててゆかれなければならない年齢の時期がやってきました。息子は、大好きなお母さんをとても山には捨てておけない。しかし一方で、自分だけ村の掟を破ることも出来ない。その狭間に立って大変苦しむ日々を送ります。そうこうしているうちに、時が流れ、息子は止むに止まれず年老いた母を背負って山に入って行きました。どれだけ歩いたことか、ようやくしかるべき場所を見つけて、ここならば良かろうと思って母を背中から下ろし、そして断ち切れぬ思いを抱えながら、母に背を向けて歩みだしたその後ろ姿に、肩越しに母からのこんな声が聞こえてきました。『もうすぐ日が暮れようとしている。お前はこの暗闇を再び家に帰って行かなければならない。ここまでいくつもの山を越え谷を超えて来た。その険しい山道を再びお前は帰って行かねばならない。無事、家にたどり着けるか? ワシはそのことが心配でな。最後に、せめて何かお前にしてやろうと思ったのだが、大したことは出来なかった。ただ、手に届くところにあった枝葉を折って道端に落としてきたから、お前がもしこの暗闇や山道に迷うことがあれば、その枝葉をたどって行って欲しい。そうしたら必ずお前は家にたどり着けることができるよ。送ってくれてありがとう。さあ、早く行きなさい。お前の幸せを願っている。素晴らしい人生を過ごしてくれよ』。去り行く息子の背中に両手を合わせて母は『なんまんだぶ、なんまんだぶ』と念仏を称え、その念仏は山にこだまし、いつまでも絶えることなく変わることなく響いていました」

と。そして、ここまで話をされてから近角先生はアインシュタインにこう言います。「この母の心こそ、仏の心です。この母の姿こそ、仏の姿です」。アインシュタインは静かに耳を傾けて近角先生の話を聞いていました。そしてその目には涙がたまっていたそうです。後日談ですが、アインシュタインが日本を離れるとき、「色々な人に会い、色々な所に連れて行ってもらったが、日本人の心豊かな優しい心を支えている仏教の、人を思いやるという慈悲の心に触れられたことが、何よりも勝る、私にとっての日本の手みやげです」という言葉を残したと言われます。

この物語、皆さんすでにお気付きかと思いますが、姨捨山伝説の話を基に近角先生は話をされたのです。そしてその姨捨山伝説というのは、私の故郷である信州長野の昔話であります。

それでは、この話の味わいを話させて頂きます。なぜ、母の姿が仏の姿であり、母の心が仏の心であるのか。母は息子に背負われて山道をたどって行きました。その道はどんな道だったか。それは、自分の死が目の前に定まって、引き返すことの出来ない一方通行の道でした。普通、それが分かっていれば、頼むから助けてくれ、引き返してくれ、と子供ですからいくらでも甘えられる筈ですから、命乞いや延命を願ったりねだったりするのが関の山であります。ところが、このとき母がしたことは何だったでしょうか。自分も辛い。でも、自分を背をって行かねばならないこの子も辛かろう、と、母は自分の痛みや苦しみを置いておいて、そこにいるその子の痛み・悲しみに自分の心を寄せたのです。寄せて、その心を自分の心のように受け止められたからこそ、母は自分の命を奪おうとするその子を許したいと思い、更には、この子を生かしたいと思うが故に、自分に残されたほんのわずかな時間を自分のために使うのではなく、その思いから発露された「この子に何かしたい」という思いを、枝葉を折って道端に置き道しるべとする、という行為に及んでいったのです。つまり「自分が、自分が」という考え方ではなく、そこから少し離れて、まずそこにあった痛みに心を寄せて、その者のために何かをしたいという心の中に自分の行動を示していった。これが仏の姿、仏の心です。この心を仏教では慈悲というのです。

では一方で、母を捨て、しかしながら母に背中を拝まれた子供とは。ここがこの話の肝要として味わいをさせて頂きます。私にもかけがえのない親、母がいて、父がいました。皆さんもそれぞれに、この命を授けて下さった親がいたということに違いありません。自分が子という立場に立って親に向き合った時、私たちは親に対してどんな向き合い方をして、どんな過ごし方をして、生きてきたでしょうか。振り返ってみますと、私は親がいることが当然だと思っていました。そして親が子のために心を砕き、人生を犠牲にし、尽くしてくれることは当然だと思っていました。当たり前だと思い、当然だと思うからこそ、その尊さ・かけがえのなさに気付くことは出来ませんでした。そして自分の人生の中でかけがえなく尊いのは、自分が人生の目的を持って、その目的のために一生懸命に頑張って生き抜くこと、と信じて生きてきました。だからどんなに離れても、どんな状況でも、親の願いに向き合ってゆこうとする意識すらありませんでした。背を向けて生き続けてきました。それが私の人生だったと思います。ところが、私の親も然り、皆さんの親御さんもそうだと思いますが、どんなに振り向いてもらえなくても、向き合ってもらえなくても、背を向けて遠ざかって行く私たち子供の後ろ姿を、親は思い続け、この後ろ姿に両手を会わせて「お前の幸せを願っているぞ。素晴らしい人生を、尊い命を生き抜いておくれよ。この願いに生きてくれよ」と絶えずこの背中に手を合わせ続けて下さる。それが私たちの親ではないでしょうか。

私は、今はこうやって衣を付けておりますけれども、お寺の子供の長男として生まれたのですがお寺を継ぐのがすごく嫌でした。ですからお寺の学校には行きませんでした。お寺さんになるつもりもありませんでした。東京の大学に来て就職を決めていました。ところが、卒業の3日前に父親が倒れまして、色々な事情の中に長野の実家に帰らざるを得ませんでした。その時は、寺を継がなくても良い、帰ってこなくても良い、と両親は言ってくれたのですが、住職である父が倒れて法務が行き詰まっています。その中で苦労をしている母の姿を見ている時に、正直に、きれいごとを言う訳ではありませんが、これ以上迷惑をかけてはならない、という思いがありました。また同時に、病に倒れた父がリハビリがしっかりできれば社会復帰出来るとお医者様から言われていたものですから、いずれ再び東京には帰って来れるだろう、という打算的な思いがあって一時しのぎで長野に帰りました。ところが、そうは言いましても父の病状は重く、結果的には10年ほぼ寝たきりの中で亡くなって逝くのですが、リハビリがなかなか出来ない父の姿を毎日毎日目にしていました。学生時代一緒だった友達から東京や海外での勤務の話を色々聞かせてもらう中で、私は慣れない衣を着て、そして田舎ですからおじいちゃんおばあちゃんに交わりながら、からかわれながら、生活している。凄く自分が虚しく寂しく思いました。そんなやるせない思いを、だんだん私は父親に矛先を向けていったのです。お父さんがきちっとリハビリして社会復帰してくれれば僕は自分の夢や希望にたちかえることが出来る、なのにどうして社会復帰してくれないのだ、子供の人生を大事に思ってくれないのか。そんな思いでいました。そして父親に厳しい言葉をぶつけてゆきました。そのうちに私は、自分の父親をいつしか「お父さん」と呼べない人間になっていたのです。そうやって10年ほどが流れてゆくのですが、いよいよ父親が亡くなる時の話です。集団の部屋から病院の片隅の個室に移されます。人工呼吸器が付けられる状況の中で、母と毎晩入れ替わりながらの看護をしました。夜中だったと思います。うつらうつらしていたそのとき、ふと、何かが私の耳に聞こえてきました。何だろうと思って父親の口元に耳を当ててみました。そうしましたら父親が「あきこ、あきこ」と私の姉の名前を呼んでいます。私には2歳上の、ダウン症という知的障害者の姉がいます。まさに命が終わろうとしているその状況の中で父親が口にした言葉は姉の名前だったのです。その名前を聞いた時に、その場で、堪えることの出来ない涙が流れました。しばらく涙していたような気がします。最後に自分の名前が呼ばれなかったから悲しかった訳ではありません。嬉しかったのと悔しかったのと、その両方ではなかったかと今では思います。なぜか。自分の人生を受け止めることが出来ずに父親の状況だけを厳しく責め立てていた自分。そして、ずっと自分のこと、子供たちのことや周りの者のことを思い続けてくれた父親。最後の時に臨んで、障害を持ってこの世に残してゆかねばならない姉のことを思ってその名を呼び続けていた父の姿。そこに、間違いなく、まぎれもなく、何を差し置いてでも子のことを思う親心を見ることが出来ました。その親心を知らずに振り向くことなく父親ばかりを責め立てていた。親心という、まことに触れて初めて、自分の不実さを知らされました。だからこそ、振り向くことなく生きた自分に悔しかったのです。と同時に、その親心と生き様を最後に伝えてくれたのが嬉しかったのです。親子という名の下に、真実にあうことによって、自分中心の考え方の中で生きてきた、願いに振り向くことなく生きてきた不実な私の姿を初めて知らされました。そして、しばらくして父は亡くなるのですが、葬儀のとき「お父さん、本当にありがとう」という気持ちで父を「お父さん」と呼べるようになりました。

私事を申し上げて大変失礼致しましたが、姨捨山の中で説かれている母と子の間柄というのは、阿弥陀様と私の間柄そのものではなかろうかと思うのです。願い続けて下さる願いは、確かにこの私に届いているのに、そのことに気付けず、そのことに振り向くことなく背を向けて生き続けてきた。それが私でありました。しかし、私たちは人生の様々な縁の中に悲しみや出会いがあり、その縁を頂く中に、ようやく阿弥陀様の願いを受け止めることができた。振り向くことが出来た。そしてそのご縁の中に「あなたを願い続けている。そしてあなたを見放さない」という真実の阿弥陀の願いと呼び声に照らされて初めて、私たちは、自己中心的に生きてきた人生や、周りの愛しい者に思いやりの欠けた言動をした生き方、不実さに気付かされてゆく。その姿そのままが、この姨捨山の母と子の姿、つまり阿弥陀と私の関係だと、なぞらえて受け止めることが出来ると思います。

阿弥陀様は背く者・逃げる者を救おうとされています。そして更に言えば、背けば背くほど、逃げれば逃げるほど、それを追い、必ず胸の中に抱き摂って決して見放さない、捨て去らない、と願う中に私を抱き摂って下さいます。その願いの中にある私でありました。その願いに生かされる私を知り、その私がどう生きるのか、という中に、自分の命を見つめてゆくという大事な視点を、慈悲、近角常観先生のお話の中から学ばせて頂きたいと思うのであります。

最後に、親鸞聖人は慈悲をどう受け止められたか。『歎異抄』には
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり
という言葉が出てきます。お慈悲には、聖道の慈悲と浄土の慈悲の2つがあるのですよ、という受け止め方で教えて下さっています。

聖道とは、分かりやすく言うと私たちの日常における慈悲と受け止めて頂ければよろしいかと思います。日常の慈悲とはどんなものか。例えば病に苦しむ人がいた、愛しい人と別れた方がいた。その痛みや悲しみを知ったときに、ああ辛いだろうなあ、悲しいだろうなあ、苦しいだろうなあ、という思い、つまり同情を感じずにはおれません。それが私たち人間です。しかしその同情する心を感じてみても、何かしたいと思ってはみても、実はそれは完結しません。何か手を差し伸べたい、何か悲しみを無くさせたいと思ってはみても、実はそれは叶わぬことなのだ、日常の私たちの慈悲には限界があるのだ、貫き通せる慈悲の姿ではないのだ、と、残念ながら私たちの日常的慈悲の有限性を親鸞聖人はここで教えて下さっているのです。

それに対して浄土の慈悲とは、阿弥陀様の願いを主体として、お念仏頂く我が身を通して頂くお慈悲です。言葉面として分かっても、意味合いとしては難しいとは思いますが、どういうことかというと、相手の事実、現実を否定するのではなく、ありのままの現実を受け止めて、それを私が生きる生き方の上に恵んでゆく、というのが浄土の慈悲の姿だと親鸞聖人は受け止められている訳です。理解は出来ても実際はどういうことなのだろう、と思われる方があるでしょうし、私自身もはっきりと伝えることがなかなか出来なかったのですが、最近こんな話を聞かせて頂きました。ある看護師さんとお話をさせて頂いた時なのですが、その現場には命の先がもう見えてしまった若い女性がいらっしゃったようです。その方は癌に冒されている状況の中で子供を出産されたそうです。しかし自分の命はもう幾許もない。そういう厳しい状況の中で必死に自分の命に向き合い、生きられていました。その状況を知れば誰もが声を掛けたい、何か手を差し伸べたい、助けてあげたいと思います。しかし、それを助けることの出来ない苦しみを抱えながらその方(看護師さん)は日々過ごされていたそうです。そして深夜の勤務の中で、病院ですからベッドにカーテンが巻かれます。そのカーテンの先に、厳しい現実の中で命に向き合われている方がいらっしゃる。何かしたい。しかし手を差し伸べることが出来ない。それはなぜか。厳しい現実かもしれないけれども、その(癌の)方には、心の中に生きるための支えを用いていたから。その方を支える大事な何かに、自分(看護師さん)が触れてはならないと感じられたからだそうです。言葉を与え、手を差し伸べるのは簡単ですが、その行為は終始完結できるものではありません。その方を支えている大事なものに触れることの出来ない痛みを抱え続けながらも、何も出来ない自分と実感しながらも、その方と同じ方向を向いて、たとえ自分が傷つき苦しむことがあったとしても、生きることを分かち合おうとする。そんなお話を(看護師さんから)聞きました。このお話を聞かせて頂いたとき、これが「ありのままの現実を受け止め、それを我が生きることに恵んでゆく姿」なのだと学ばせて頂きました。手を出せば良い、口を出せば良い、ということではない、ということです。その事実に共にあろうとし、同じ方向を向いて行こうとする。それが浄土の慈悲の姿なのかもしれません。

今日は、智慧と慈悲をテーマにお取り次ぎをさせて頂きました。阿弥陀様の、私たちを真実に導いてゆく願いは、絶えず私たちに注がれています。それに背き通しの私たちでありましたけれども、尊いものを頂いて、その願いに今であわせて頂きました。そして、であったからこそ、私の至らないところに大きな慚愧が生まれてきます。しかしその慚愧があればこそ、「申し訳ありませんでした、しかし勿体ないことでありました」という思いの中から、今その願いにあえた喜びの中に報恩のお念仏を頂いて、お念仏と共に世の中のすべての痛みや悲しみや苦しみと一緒に生き抜こうとするところに、お念仏を頂いた現世の利益になってゆく、と教えられるのです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、。


築地本願寺 2012.02.05



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