【法話】「2000年前も2000年後も変わらない真実があります」@覚証寺 2011.05.07 (1)

5月7日、調布市の覚証寺にて阿部信幾先生より仏さまのお話を聞かせていただきました。


無上甚深微妙の法は
百千万劫にも遭い奉ること難し
我今見聞し受持することを得たり
願わくは如来の真実義を解し奉らん



まず始めに、地震の話をさせていただきます。

頑張ろう、頑張れ、と、どこへ行っても言われていますね。その通りです。

仏さまの説いた教えに、布施があります。

これは、"持っている者は持っていない者に施しをしなさい"ということです。それはお金だけでなく、才能、知識も含まれます。そうすることによって、平和が保たれるのです。

以前フランスに行ったとき、ベルサイユ宮殿に行った人が「あんなことやったら革命がおきる訳だ」と言っていました。宮殿の内外では大変な貧富の差。持てる者がどんどん持っていったのです。アメリカでもそうだと思います。成功した人だけがさらに成功してゆく。中国でも、例えば西太后など。持てる者が贅沢三昧。

持てる者が持てない者を利用してゆくと、世の中どんどん悪くなって行くのです。商才のある者に収入が増えること自体は良いのですが、持てるものが持てないものに施すというのは一つの智慧ですので、覚えておいたら良いでしょう。

被災しなかった人が、震災にあった人に義援金を送るのは、仏さまの教えからして当然のことです。

私は3月11日、群馬県高崎にいましたが、他のところと比べると被害はあまりありませんでた。あの日、朝起きて今日が人生最後の日だと思った人がいたでしょうか。今朝起きて、今日自分が死ぬ日だと思った人がいるでしょうか?いつ何が起きても不思議ではないのが日本です。そういうことを学ばないと、亡くなった方に申し訳ありません。

蓮如上人の『御文章』。「聖人一流章」がお筆はじめ、一番最初に書かれたといわれます。短いし、内容も素晴らしいので、「肝要は御文章」と、浄土真宗ではよく拝読されます。しかし、宗派を超えて有名な御文章があります。それは「白骨の章」です。

禅宗の一休が元旦に、棒の先にシャレコウベをつけて、「めでたいめでたい」と歩いて回っていました。「一休さん、何がめでたいんですか」と言われると、「よく見なさい。目がないだろう。だから"めでたい"のだ」と答え、こう詠ったといわれます。

門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

「白骨の章」も、まさにそのことを説いておられます。

堺の豪商の17~18の娘が亡くなったとき、その豪商に蓮如上人が出されたお手紙が白骨の御文です。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


一休にある人が「一休さん、めでたいことを書いて下さい」と頼んだことがありました。そのとき一休はこう書いたといわれます。

爺が死ぬ。子が死ぬ。孫が死ぬ。

「一休さん、めでたいものを書いてくれと言ったのに、それはあんまりではないですか」と、その人が言うと、一休。「めでたいではないか。これが逆だったらどうだ?」

朝起きたら、夕方には白骨になっているかもしれない。そして、その順番は決まっていない。それが世の中なのです。

そして、問題は次。

「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」

『領解門』にもありますが、「後生たすけたまへとたのむ」。これについて本願寺で大騒動が起きたことがありました。

今の知識で読むと、「阿弥陀さまどうか助けて下さい、とお願いする」という意味になります。そうすると、往生一定・御助け治定なのだ、と。(しかしそうではありません。)

往生とは「生まれて往く」という意味です。往く場所が浄土だったら浄土往生。その上に「極楽」と付くと「極楽浄土」。「極楽」とは「極」とは「最高」という意味です。「楽」とは、「楽ちん」の「楽」、「楽しい」といっても良いですが、元の意味からいうと、「幸せ」という意味です。ですから、「極楽」とは「最高の幸せ」ということです。

最高の幸せとは何ですか?

美味しいものを食べたら「いやあ、幸せ」と言いますね。人間が天にも昇る幸せとは、人生に何度もないと思いますが、その一つに結婚があると思います。よく披露宴に呼ばれて行くことがありますが、嬉しそうにしているのは大抵は男性の方ですね。それは、普通、男が結婚してくれと言って、女性の方が承諾するからです。許しを請うて承諾を得られたとき、それは幸せでしょうね。

でも、最後はさよならするんですよ。最高の相手と出会ったその未来には、最高の悲しみが待っているのです。だから「何でこんな人と」と思っている人、嘆く必要はありません(笑)

人間世界の喜びには、必ず悲しみがついているのです。紙の裏と表の関係のようなものです。そして、私たちは紙の表側を一生懸命求めているのです。これが最高の幸せと言えるでしょうか?

お経には「不苦不楽」という言葉があります。そして、「これを快楽と名づく」と。この、「快楽」が、イコール「極楽」なのです。これを手に入れた方が仏さまです。

ところが私たちはそれを求めません。そんな私たちに、「極楽を求めなさい」と呼びかけておられるのが阿弥陀さまです。

では極楽とはどんなところなのか?それが説かれているのが『阿弥陀経』です。

極楽の木は、幹がサンゴ、葉っぱがメノウで出来ていると説かれています。ところが、隣の木を見ると、それは幹がメノウ、葉っぱがサンゴで出来ている、と書かれてあります。これは何を表しているかというと、極楽では、全てのものが境目なく混ざり合っている、ということです。

私たちはどうでしょうか。これは自分のもの、あれは彼のもの、と区別していないでしょうか。これを「我他彼此」と言います。「ガタピシ」って言いますね。

一方極楽世界は「融通無碍」と説かれています。本来、物事は境目なく一体となっているのです。それなのに、これは俺のものだ、あれはお前のものだと線を引いている。そこにありとあらゆる問題が生じてくるのです。極楽浄土は、すべてのものが一体となって、自他の垣根が無い世界です。

そうすると、私の悩み苦しみは、仏さまの悩み苦しみになるのです。

人間の世界は、他人の不幸が自分の喜びになります。例えば大学受験。誰かが落ちないと入ることはできません。片一方では泣いているのに片一方では笑っている、と。

仏さまの世界は境がありません。だから、どんなちっぽけな命でも、仏さまの悲しみになるのです。それを「大悲」といいます。

頼んだことないのにどうして阿弥陀さまは私を救うといわれるのか。それは、お前が救われないと俺が救われないからだ。だから助かってくれよ、任せてくれよ、と呼びかけておられるのです。

それが「南無阿弥陀仏」の六字の呼び声。そう受け止められたのが親鸞聖人です。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀さまが、私たちに呼びかけておられる呼び声だと。仏教界広しといえども、そのように受け止められたのは親鸞聖人だけです。

優れた科学者にコペルニクス、ガリレオがいます。天が回っているのではない、地球が回っているのだ、と地動説を唱えました。何でそんなこと分かったのかな、と思います。今だったら、スペースシャトルで外に出れば分かる事ですが、当時はそんなことは出来ませんでしたから。

真実とは全てそうだと思いますが、そういう風に受け止めたら今まで分からなかった謎が皆解けた、ということがあると思います。そのように受け止めたら無理がない、なるほどねー、納得、というのが真実です。お釈迦さまが言ったから真実なのではなく、本当のことを言ったから仏陀というのです。

現代人がなぜお経を受け止められないのかというと、あそこには2500年前のインドの宇宙観で説かれているからです。それを読むと、そんな馬鹿な、と私たちは笑いますが、あと1000年後の人が我々の宇宙観をみたら同じように笑われると思いますよ。

そういうことは時代に応じて変えてゆかなければなりませんが、2000年前も2000年後も変わらない真実があります。

それは何か。

死んでゆかねばならないという真実です。命が終わるという問題を悩まない人はありません。それを「後生の一大事」といいます。その解決が説かれているのが仏教です。

長くなりますので、休憩の後に続けます。

覚証寺






法然聖人と親鸞聖人 @築地本願寺 2011.05.03

5月3日、築地の本願寺にて喜多唯信師から仏さまのお話を聞かせていただきました。

法然聖人と親鸞聖人 @築地本願寺 2011.05.03


以下、その記録です。

★法然上人の表記は「法然聖人」と統一してあります。

無量寿如来に帰命し 不可思議光に南無したてまつる


今年、京都の本願寺で親鸞聖人750回忌が勤まりました。
本当は、来年の1月16日が、正しき親鸞聖人の750回忌法要です。
お東では今年の11月28日に勤められます。

親鸞聖人がお浄土に還られて、来年が749回目のご法事になります。

あれ?と思われた方があると思いますので、、、
例えば今年亡くなられた方は、来年が一回忌。再来年が三回忌です。
東洋人は数え年で数えます。西洋とは違います。
これは、命の捉え方が違うからなのです。
西洋と東洋とでは、命の出発点が違います。
ヨーロッパは、命が母親の体内から生まれ出たのが出発なのに対し、
東洋人は、母親の体内に宿ったその瞬間から命の出発点と考えます。
だからうまれた時が1歳と数えるのです。
今年の1月1日にうまれた赤ちゃんも、12月31日にに生まれた赤ちゃんも、
どちらも来年の1月1日に2歳になり、数え歳と違ってくるのです。

また、今年は、法然さまの800回忌であります。



そこで、今日は、親鸞聖人と法然聖人のお出会いを通してお取次させていただきます。


私達、「なんまんだぶつ」と称えますが、ここにお念仏が届いているということ自体が、非常に、稀なことです。

それを明らかにされたのが、法然聖人であり、
その法然聖人の仰ったことをそのまま仰り、
さらに、その先に行かれたのが親鸞聖人さまです。
本当はこれが法然聖人が言いたかったことだよ、と、
前人未到の教え方をされた方が親鸞聖人であります。

この二人が出会うことによって、私の救いが開かれたのです。



一口に真宗といっても、

浄土真宗本願寺派
真宗大谷派
真宗仏光寺派
真宗木変化派

と色々ありますが、「浄土」とつくのは私たち(浄土真宗本願寺派)だけです。
これは、私たち、申請する時に抜けがきして、ちょっといけないことを、、、(笑)

しかし、親鸞聖人は、
「浄土真宗」とは、一つの宗派の名前ではありませんよ、と言われるはずです。

浄土真宗とは、浄土の真実の宗(むね)、教えです。

では、開祖はあなた(親鸞聖人)ですか?とお聞きすると、首を横に振るはずです。
法然聖人だとお答えになられるはずです。これは100パーセント間違いありません。

私(親鸞聖人)は、法然さまにお出会いすることによって、
私の救いの道にあうことができたと喜ばれ、
50年以上、亡くなられる時まで「法然さま、法然さま」と慕われていました。

29際から90歳まで、半世紀以上、
法然聖人のお徳を褒め称えて生きてゆかれました。
親鸞聖人にとって法然聖人は、そのくらい大切ななお方であったのです。

では、法然聖人は何を教えられたのでしょうか。
浄土の真実の教えです。

それについて、この3日間、味わってゆきたいと思います。

ちなみに、浄土真宗というのが、
教団の名前、宗派の名前として使われるようになったのは蓮如さま以降です。
蓮如上人は一向宗という言葉を使用されませんでした。
浄土真宗を多用されました。

親鸞聖人に、は宗派をおこされたという意識もなく、
親鸞聖人のお寺、というものもありません。
各寺に赴いて法然聖人の教えを説いてゆかれました。

法然聖人の教えは、専修念仏、念仏往生

それを伝えるために、関東の念仏集団から招かれて関東へいらっしゃったのだ、
と言われる先生もあります。

いずれにしても、(親鸞聖人は)宗派をおこそうとされた方ではありません。

先日、娘の歴史の教科書を見たらこう書いてありました。
「親鸞は法然の教えを受けて、悪人正機という説を初めて唱えた」と。
これは、専門家から言うと、○でもなく×でもなく、△です。

悪人が阿弥陀さまの救いの正客であるというのは、
もともとは法然聖人が唱えたものです。
しかし、法然聖人のどの本をみても、
歎異抄第3条にあるように明確にはありません。
しかし、●●(←地名。忘れました)にある法然聖人の伝記を見ると
「善人なおもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と似た表現があります。

親鸞聖人と法然聖人の違いは、失礼ですが法然聖人は筆不精です。
『選択本願念仏集』も、口述筆記です。
それに対して親鸞聖人は筆まめです。

しかし、親鸞聖人の御著書、どれをみても「悪人正機」という言葉はありません。
『歎異抄』を書いたとされる唯円が初めて「悪人正機」という言葉を文章にされたのです。
この言葉は、非常に危ない言葉だと分かっておられたので、
法然聖人も親鸞聖人も文章にされませんでした。
しかし、親鸞聖人の教えが曲がってゆくのを恐れて、
唯円が文章にされたのでしょう。

この人なら大丈夫、と思った人だけに対して法然聖人は口伝で伝えられました。
親鸞聖人も同じです。
そして、唯円なら大丈夫だろう、と、悪人正機の教えを説いたのです。
それを唯円が、このままだと親鸞聖人の教えが誤って伝えられる、これは文章にしなければ、
ということで『歎異抄』ができたのでしょう。

普通は、悪人正機など説かれないのです。
(悪人正機とは、)悪人が目当て、ということですから、
悪人とは誰か、ということから問題にしなければなりません。


親鸞聖人の教えの特徴に、「現生正定聚」というのがあります。
これは、阿弥陀仏の本願をそのまま受け入れたなら、
命の終わった瞬間から、阿弥陀さまのお力で、今からお浄土に参らせて頂く仲間になる、
ということです。
これは法然聖人の教えにはありません。
唯円さまも理解できなかったことです。
だから法然聖人は説かれなかったのでしょう。

法然さまは「念仏往生」を唱えられました。
これは唯円も理解できたことです。

それを一歩も二歩も進めたのが「現生正定聚」。
今が救いの完結なのだ、という教えです。

また、「往生即成仏」というのがあります。
これは、人間としての命が終わって、
阿弥陀さまのお力によってお浄土に往かせて頂いたその瞬間、
仏様にさせていただく、ということです。
ここまでは唯円は理解できました。

しかし、『踊る大捜査線』ではありませんが、
「今が救いの現場なのだ」、と説かれたのが現生正定聚。
それは唯円さまも理解できなかったのでしょう。
『歎異抄』にはあまり出てきません。


法然聖人の教えをそのまま伝えられたという側面もありますが、
親鸞聖人にはそれをさらに押し進めたものがあります。
法然聖人の念仏往生も、
当時としては破天荒で、あり得ないことでしたが、
親鸞聖人はさらにそれを押し進められたのです。

ある先生は「師匠を超えた時に、その人はお弟子になったと言える」と教えられました。
親鸞聖人にはそのような自覚はなかったでしょうが、
この時点で親鸞聖人は法然聖人を超えてゆかれました。
そこで親鸞聖人は法然聖人のお弟子になられたということができると思います。

お釈迦さまの教えは分かりやすいです。
「こうしてはいけませんよ」「こうしなさいよ」というものです。
それが(親鸞聖人に至るまで)どんどんどんどん(教えられ方が)深まってゆきました。
お釈迦さまに「現生正定聚」「念仏往生についてどうですか?」とインタビューしたら、
「まあまあ、そこまで知らんでも。そういうこともいえますね~。」と答えられるのではないでしょうか。

法然聖人と親鸞聖人の宗教的天才がで現れることによって、
はじめて私の救いが明らかにされたといえるでしょう。

そのことについてこの3日間、話をしたいと思います。



(つづきにはご縁がなかったので、これにて終了です)


法然聖人と親鸞聖人 @築地本願寺 2011.05.03





宗祖讃仰作法(音楽法要)@築地本願寺 2011.04.29

4月29日、築地本願寺にて、
宗祖讃仰作法(音楽法要)で歌われる御文の説明を聞かせていただきました。

(関連)名号を となえんものをば (真宗の味わい)

宗祖讃仰作法(音楽法要)

弥陀の本願ともうすは 名号をとなえんものをば
極楽へむかえんと ちかわせたまひたるを
ふかく信じて とのうるが めでたきことにて候なり


有阿弥陀仏という、この一通だけで知られているご門弟が親鸞聖人に出された質問に対する御返事です。

有阿弥陀仏というお名前から、天台宗の坊さんが親鸞聖人のお弟子になったのではないかという学者さんもいます。

「浄土真宗では念仏で往生すると説いているが、念仏称えて往けるところは辺地(極楽の片隅)だけだ」と他の宗派から言われ、親鸞聖人にお尋ねしようと有阿弥陀仏が出された質問です。

それに対して親鸞聖人が、そんなことはありません、と、キッパリ答えられているのがことお言葉です。

続きを読んでみると、、、
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

念仏を声に出して称えないならば、また、念仏を称えても信心が浅かったら往生は難しいと言われています。

名号を称えて、ご信心も深ければ必ず往生することは疑いありません。


他力本願を信じさせていただくことは、お念仏を称えさせていただくことが大切です。


そして、

この身はいまはとしきはまりてそうらえば
さだめてさきだちて往生し候わんずれば
浄土にてかならずかならず
まちまいらせそうろうべし


と続きます。


「ふかく信じて」というのが大切だと思います。

浅い、深いとは何なのか。それが問題です。

「あの人は信心が深い」とか「あの人は信心浅い」とよく言われますがそういうことではありません。

深いとは、「自力の心をふり捨てて」とか「疑いなく」ということです。

『疑惑和讃』という和讃があります。仏智の不思議を疑うと辺地に生まれるのだ、と教えられた和讃です。


浅いというのは、自分で阿弥陀様をこしらえる、念仏をこしらえる、信心がないということです。

浄土真宗は、愚か者になって聞かせて頂く教えです。ただただ愚痴で愚かな者と思っているのが本当に念仏を喜んでいる人で、「阿弥陀様こうだ」「念仏はこうだ」と説明し出す人は大丈夫だろうか、と親鸞聖人は御手紙に書かれています。



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十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる


『阿弥陀経』には、なぜ阿弥陀と名付けられたのかが説かれています。

『阿弥陀経』は、舎利弗尊者のご臨終の、お釈迦様のご説法です。舎利弗はお尋ねするお元気もなかったのでしょう。無問自説のご説法で、なぜ阿弥陀と名づけられたのか説いておられます。

十方を微塵にしたほどの無数の世界の、念仏をのお心を頂いて称える衆生を、抱きとめて捨てない仏様、それを阿弥陀様というのだよ、というご説明です。

仏様から逃げて逃げて逃げ回ろうとする私たちの前に、すっと現れて抱きとめてくださる。それが阿弥陀と名付けられた理由です。




宗祖讃仰作法(音楽法要)

宗祖讃仰作法(音楽法要)

宗祖讃仰作法(音楽法要)




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