宮崎学 / 突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五十年 – (4)

(3)の続きです。

 前述したように、寺村組の若衆や寺村建産の鳶、職人の多くは社会の底辺の出身である。悲惨な生活ぶりに加えて、京都という旧弊な地で厳しい差別にさらされていた。差別される側の人間が玄関先から訪問しようとすると、「裏口へまわれ」といって殴られるといった差別がまかり通っていた。戦後初期までは、祭りの見物に行った被差別民が「お前らが見ると、神輿(みこし)が汚れる」と殴られ追い返されたりしていたという。
 直接的な差別以外にも、間接的・心理的な差別もむろんあった。普通の家の母親が「勉強せんかったら○○町の連中みたいに、一生“犬獲り”せんならんのやで。それでええんか」と勉強嫌いの子供を脅かすなどは、ごく日常的なことだった。
 このほかにも、就職や結婚など人生の根幹にかかわることにも厳とした差別があった。就職に限っていえば、被差別部落民を雇う会社や店は皆無といってよく、就職口がなかった。あるとすれば、土方ぐらいだった。だから、いくら“犬獲り”と蔑まれようとも、それをやるほかなかったのだ。
 そもそも京都は古い町だけに、階級ないし階層秩序が今もって厳然として存在している。天皇家と縁戚関係にある公家衆が、表面には顔を出さないが絶大な発言力を有していたりする。この公家衆を取り巻くようにして、本願寺などの坊主衆、茶道・華道の家元衆、西陣の織元である室町衆が上層階層を形成している。これらの各衆は血縁や寺と檀家の関係などによって緊密なつながりをもっている。
 そして、この上層階層のサロンともいうべきものが祇園の高級料亭である。その旦那や女将は花街衆と呼ばれ、これまた京都はもとより日本の上層階級に対して隠然たる力を有している。わが国の上層ないし権力階層には祇園の高級料亭で遊ぶことをそのステータスの証のようにみなす馬鹿げた風潮が昔からあり、功なり名とげるとだれもが祇園の客になりたがる。
 それだけに、祇園で旦那と呼ばれる客、例えば室町の遊びぶりなどは豪放を通りこして無茶苦茶である。しょっちゅう出入りしてべらぼうな料金を払うだけで旦那とは呼ばれない。時には半玉の芸奴を何千万もかけて水揚げしたり、料亭のパトロンになって建物の改築費を全部負担したり、料亭の旦那や女将の生家の墓を途方もなく立派なものに建て直してやったりする。
 しかも、こんなことを10年、20年やり続けて平気な顔をしていて初めて祇園の旦那衆と呼ばれるようになるのである。こうした途方もない遊びが繰りひろげられている一方で、室町衆に雇われている西陣の織子などは天井裏で雑魚寝する日々を送っていたわけである。
 この頃の京都にはこうした階層秩序が厳としてあり、寺村の関係者はその最底辺の衆の集合体のような感があった。若い土方のなかには中学に通わず働きにきている者もいた。
 そうかと思うと、室町衆のぼんくら息子などは女に手を出すわ、生意気に高級レストランで散財するわ、のし放題だった。こんな貧富の差に加え、差別までのしかかったのではたまったものではない。人間は平等といいながら、その実は不条理、理不尽極まりないものだった。それがまたヤクザの温床にもなっていた。中学生になってしばらく経った頃から、ようやく、身のまわりのこうした不条理な社会の構造の矛盾を次第に強く感じ始めていた。
(「喧嘩と資本論」p.58~60)





 そもそも大阪のヤクザは当時の京都のヤクザに較べてはるかにハングリーであって、それだけヤクザとしての無茶苦茶ぶりの度合いが違っていた。関東と関西のヤクザを較べてみると、関東のヤクザがインテリジェントでありイデオロギッシュデモあるのに対し、関西はハングリー精神が強く、何よりも力を奉じる。関東ヤクザのように難しいことをいうこともなく、「わし、そういうことはわからん」といいながら、しゃにむに力にものをいわせる。そうしたハングリーでパワフルな関西ヤクザのなかでも、大阪ヤクザはその特質が際立っている。
 さらには、装備の近代化という点でも決定的な懸隔があった。山口組の拳銃に対して、寺村組は猟銃と日本刀が主体だった。喧嘩装束にしても、ニッカーボッカーに地下足袋で黒装束の寺村組に対し、山口組は背広ないし戦闘服、しかも一流ホテルに泊り込んでいた。大阪のような流動社会に較べて、今日とは停滞社会で、しかも中島会の伝統的支配があったせいで、当時の京都のヤクザは時代に即応した脱皮が遅れ、総じて甘さが目立ったのである。
 それに加えて、山口組にはしっかりした組織論があった。3、4人一組の襲撃班を傘下の各組混成で多数組織し、コントロールセンターの指揮の下に整然と効果的に動かした。相手の所在や動向を探る偵察班も多数放たれ、襲撃班を側面からサポートする。さらに抗争を山口組主導の下に終息させるための練達の納め役もちゃんと用意してある。この各班がチームプレイに徹し、怒涛のように攻めに攻める。
 祭りのときのように樽酒をあおって集団で街をうろつき、相手に遭遇したところでドンパチやればいいといったような行き当たりばったりの当時の寺村組などがどだい勝てる相手ではないのである。これは、皮肉なことに、後に学生運動のゲバルト部隊の組織論においても、大いに教訓になった。
 後で聞いた話では、抗争時の出処進退は人さまざまだったようだ。日頃はおとなしく目立たない若衆が人が変わったように戦闘的になって特攻隊的な役割を果たすかと思えば、その一方で、普段は能書きばかり垂れている若衆が病気と称して肝心なときに雲隠れしたりする。雲隠れした若衆は以後「幽霊××」と陰で呼ばれているとのことだった。
 その話を聞いて、男というのは土壇場で逃げる男と逃げない男の二種類しかないという厳たる一面があって、土壇場で試されるのは唯一それなんだということがよくわかった。これはヤクザも左翼も同じ、普通の市民だって同じだということを後でたっぷり思い知ることになる。
(「喧嘩と資本論」p.75~76)





 この頃には、差別が簡単に解消されるものではないことが、私なりにわかりかけていた。差別は差別する多数派と差別される少数派という単純な二元的な問題ではない。被差別者もまた差別する。私を幼稚園に送り迎えしてくれた被差別部落出身のおばちゃんが三条大橋の乞食を見下したように、被差別部落の人間が在日朝鮮人を見下し、差別する。その逆もまたある。
 もっと複雑な差別もある。これはこの頃に寺村組の若衆から聞いた話なのだが、遊郭の連中が被差別部落を差別する。水上勉の『五番町夕霧樓』で有名な宮川町遊郭の近くに被差別部落がある。遊郭の女郎が勤めが嫌になって郭を逃げ出そうとしたときには、遣り手婆が被差別部落を指差して、「あそこ見てみなはれ。あそこに較べたら、ここは極楽やないか」というのがならいになっていた。この一言に、社会の最底辺出身の女郎たちは弱かったそうだ。
 これは、少なくとも私の周辺の世界の哀しい一面だった。差別というのは人間のあり方の根源にかかわる問題であり、一筋縄では解決できないだろうことは、ガキなりにわかっていた。だからこそ、上田のような優秀な奴は運動にも従事すべきだ、と本気で思っていたのだった。
 もちろん、部落解放運動のなかで、法の外にいるヤクザと運動理念が相容れるわけがない。だから解放運動のなかでは、ヤクザや犯罪に走る者を「彼らは差別に負けた姿だ」と位置づけている。しかし、あらゆる運動がそうであるように、すべてみんながその理念に基づいて行動するとは限らない。なかには「鉢巻して坐り込んで、それでベンツに乗れるようになるんかい」という若者が出てくるのも、長い差別の歴史のなかではむべなるかなである。
(「喧嘩と資本論」p.78~79)







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宮崎学 / 突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五十年 – (3)

(2)の続きです。

 14、5のガキの頃は、働くということがとてつもなく大人っぽいことに思え、妙な憧れのようなものを抱くものらしい。それにエネルギーに溢れ、自分の身体をもて余し気味であったから、日曜日や夏休みは父親の会社でアルバイトをすることにした。組員や鳶らと解体現場で働くのは楽しいことだったし、家計のやり繰りに苦労しているおふくろを思って小遣いくらいは自分で稼ごうという気持ちも少しはあった。
 当時の解体は、現在のようにショベルカーで闇雲にぶち壊すという味もそっ気もないものではなく、職人芸の世界だった。大工が建物を建てるのとまったく逆の工程、つまり屋根の瓦をはがすのに始まって最後は土台を撤去することで終えるのだが、柱や小さな木材はもちろん、釘に至るまですぐさま再利用できるように丁寧に壊していく。若衆がぞんざいに釘をねじ曲げて抜いたりすると大変だった。年配の組員がすっ飛んできて、「このドアホが! 半端しやがって!」と思い切りぶん殴る。釘を抜くようなささいなことにまで技量と精根を傾け、それを誇りにするような職人気質がまだ残っていた。
 こんな連中だから、身体や命に執着するのを嫌う気風があった。ことに高所で危険な作業に携わる鳶たちにはそれが顕著で、仲間が危険に瀕したときは命懸けで救うのを当たり前のことと考えていた。実際、仲間を救おうとして高所から転落して大怪我をしたのを何度か実見している。日頃はボロクソにいっていながら、目下の者の危難に年配者が身体を張ることもよくあった。これは江戸時代以来の鳶社会の伝統なのだろうが、その行為と心性はやはり感動的だった。
 身体の扱いもいい加減極まりなかった。解体現場では古釘がいっぱいあり、それを踏んで怪我するのは再々のことである。私も五寸釘が足の甲まで突き抜けたことがあった。古釘の傷は破傷風を誘発することが多いため治療が必要で実際手当てをするのだが、これがなんともいい加減なものだった。マッチ棒を短く切って、火をつける頭の部分が傷口からのぞくように傷口に突っ込み、それに火をつけて灼くだけ。
 これは実に痛い。だが、痛いなどといえば「それでも男か、ボケ!」と怒鳴られるし、灼いた途端に地下足袋を履きなおして仕事にかからなければ「いつまで遊んどるんじゃ、ボケ!」とどやしつけられる。解体現場では、私ら若い連中は殴られ怒鳴られの連続だった。
 それまで博打や喧嘩をしているヤクザな部分しか知らなかった寺村ファミリーの面々と仕事をして、私は連中を見直すようになった。一転して仕事場ではみんなキリッとしているし、父親にしても現場ではなかなかの職人で仕事ぶりも真剣だった。それになによりも連中には仲間や関係者との絆を自分の命より重くみたり、一身を顧みずに目下の者を助ける「侠」のごときものがあった。
 これはやはり、格好のいいものだった。「俺もこんな生き方をしたい」と、つい思い込ませられもした。それやこれやで土建の仕事が楽しくもあり、中学から高校にかけてずっと父親の会社のアルバイトを続けた。
 アルバイトを続けることで、私は次第に寺村ファミリーの一員として若衆たちから認知されるようになった。中学2年のときに、若衆の私に対する見方を変えるちょっとした出来事があった。大阪の高級料亭で開かれた解体工事の談合の席でのことである。父親は大阪造幣局などの大阪の工事もよく請け負っており、この談合も大阪の大きな工事をめぐってのものだった。
「談合に行くんで一緒に来いと、おやっさんがいうとるんやけど」
 見習いの若衆が学校に呼び出しにきた。それを聞いて、「今度は俺が少年鉄砲玉の番か」と思った。この役割はかつては兄貴がやっていたのだが、兄貴が立命館大を中退してヤクザになったために私にそのお鉢がまわってきたのである。
 この当時はヤクザも多い荒っぽい業界だったから、談合といっても穏やかな話し合いではなく、腕力勝負で請負業者が決まった。「こいつに逆らったら何をされるかわからん」という恐怖感を相手に与えて、入札を力でもぎ取るのである。ささいなことにいんねんをつけて「何をぬかしとんじゃ、こら!」といきなり殴りつけて競争相手を降ろすのが手っ取り早い常套手段になっていた。父親もこの手をよく使ったらしい。
 ただ、この手はヤクザ同士では通用するが、相手が堅気だと難点がある。ヤクザが堅気を公然と殴るのは格好のいい話ではないし、警察沙汰になることもあるからだ。そこで登場するのが、堅気でしかも未成年の私というわけである。
 立派な料亭の大広間に十数人の業者が集まっていた。全員土建屋の親方だけに、貫禄というか迫力があり、みんなどう見ても堅気とは思えない。身なりも立派な背広やニッカーボッカーなどで、土建屋の談合以外の何ものでもない雰囲気だった。私はニッカーボッカー姿の父親の横の席に、急遽着替えたニッカーボッカー姿で坐った。
 冒頭からひとしきり悶着があった。殴り合いこそなかったものの、脅しめいた文句や怒号が飛びかった。もちろん談合は初体験だったが、中学生相手のチャラチャラした喧嘩の啖呵とは別世界の言葉のやりとりは震えがくるほど迫力があった。しばらくしてヤクザらしい業者は全員降りた。父親との間で事前に話がついていたのである。父親の脅しやすかしで堅気の業者も降り、最後に四国からきた業者が一人残った。そして、
「わざわざ四国からきたんやから、手ぶらで帰るわけにはいかん」
 と執拗にいいつのる。うんざりした顔で聞いていた父親が私に向かって小声で「一発、どついてこい」といった。前もって父親からこんなことになるかもしれないと聞いていた私は、仕方なく立ち上がって四国の業者の席に向かった。大勢の注視を浴びていると思うと、気持ちが上ずって雲の上を歩いているような気分だった。それでも、なんとか気をふるい立たせて、
「おっさん! いつまでごじゃごじゃぬかしとんじゃ、こらっ!」
 と一丁前に怒鳴りつけ、頬をひとつ張り飛ばした。ひどく硬い頬だった。
「こッ、この、くそガキ! 何をするんぞ!」
 でっぷり太った赤ら顔を朱に染め、しばらく口をわなわな震わせた後で、おっさんが喚(わめ)いた。四国から大阪に乗り込んでくるくらいだから、堅気とはいえ海千山千に違いはない。だが、子供に叩かれた衝撃ですっかり調子が狂ってしまい、後は急に意気阻喪状態となった。
 相手が子供では本気で喧嘩するわけにもいかなかっただろうし、「こんなガキまでがどつきにくるのだから、これ以上突っ張ったら後で何をされるか知れたものではない」という恐怖もあったのだろう。他の業者はといえば、大半が笑い顔で事の推移を眺めていた。結局、父親の会社が談合を制した。父親は上機嫌で全業者に談合金をばらまき、私にもかなりの額の小遣いをよこした。
 その直後に恒例の博打が開帳された。びっくりしたことに、四国のおっさんも何事もなかったかのような顔で参加していた。あれだけの厳しい談合の後で一体これは何なのだと、わけがわからなかった。後で父親が「談合なんちゅうもんは出たとこ勝負で、一寸先は闇や。こっちがなんぼ命懸けで気張っても、もっと強いのが出てきたら、それでしまいや」というのを聞いて、要するに「やるだけやって、駄目なら仕方がない」という一発主義の世界なのだろうと思った。
 父親は「どうや、土建屋のことがちっとはわかったか?」ともいった。父親にすれば教育のつもりもあったのだろう。後日、談合のことは「ぼん、ようやってくれましたな」と寺村の若衆に大いに喜ばれた。「ぼん」ではなくファミリーの一員として初めて認知されたような気がして、内心はやはり嬉しかった。
 寺村ファミリーの論理は単純極まりないものであた。子供だろうが女だろうが、ファミリーに属する者にはそれぞれの役割があり、個々がその役割を果たしながら、どんなことをしてでも仕事を取ってくる。そして、その仕事で得た金を全員にばらまく。基本的にはこの論理だけで成り立っていた。いうなれば徹底した身内、あるいは身贔屓の論理であり、内側に閉ざされた論理でもある。それだけに身内内部の密度やボルテージはきわめて濃厚で高いものであった。その人と人との結びつきのなかで、負担をみんなで担い分けるという貧者の論理がまだ残っていた。
 中学時代の私は、そんなファミリーと学校の間を行ったり来たりしていた。
(「少年鉄砲玉」p.48~52)







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宮崎学 / 突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五十年 – (2)

(1)の続きです。

 喧嘩が問題になった最初は、小学5年のときのことだった。北海道から転校してきた中野という同級生を上級生が再三にわたっていじめた。中野は我慢強くずっと耐えていたが、ついに辛抱できなくなって私のところに相談にきた。「先生に告げ口するのは嫌だし、どうしたらいいんだろうか」と悩んでいた。
 この当時は学校や家庭とは別に子供たちだけの世界があり、そのなかでの揉め事は子供同士ではぼ決着をつけていた。今のように暴力を病的に忌避することもなく、男の子が喧嘩するのは仕方がないと考えられていたから、たいがいの揉め事は喧嘩で決着がついた。ひどいいじめなどが起っても上級生や喧嘩自慢の同級生などが登場して「弱い者いじめはするな」と、どやしつけて終りだった。乱暴ではあったけれども、風通しはよかったような気がする。そんな子供だけの世界では、喧嘩の強い奴は重宝がられ尊敬を受けもし、生意気に兄貴風を吹かしていた。私もその一人だった。
 おおっぴらな喧嘩ならともかく、陰でいじめるような奴は我慢ならなかった。しかも、初めての土地で心細がっている者を上級生がいじめたのでは話にもならない。さっそく、その上級生を引っ張り出して殴った。
 ちょどこの頃はガキの喧嘩から少年の喧嘩に脱皮しかかる時期で、見よう見真似のボクシングスタイルになっていた。パンチを繰り出すと、これが面白いようにヒットする。調子に乗って殴っていたら、相手の顔が赤たんだらけになってしまった。
 家に帰ると、おふくろが台所で晩飯の支度をしながらいった。
「お前、今日学校で喧嘩したんやてな、なんでや?」
「転校してきた奴をいじめよったからや」
「そうか、ふ~ん」包丁を使いながらそういって、後はうんでもすんでもなかった。
 後で女衆から聞いた話では、赤たんができた奴と母親が文句をいいに来たらしい。血相を変えて「これをどうしてくれる」と詰め寄る母親に、おふくろが「男の子同士喧嘩するのは、当たり前やないですか。いちいち親が出張ることもおませんやろ」というと、文句の継ぎ穂を失って帰っていったとのことだった。
(「少年鉄砲玉」p.37~39)





 小学校時代はこうして過ぎ、中学は京都の私立中学校に入った。高校との一貫教育を売り物にしたミッション系の学校で、京都では指折りの進学校だった。両親はわけのわからないまま、けっこう喜んでいた。ところが、早くも1年生の秋に退学になってしまった。原因は喧嘩だった。
 上級生5人と同級生4、5人がグラウンドで遊んでいるうちに悪ふざけが始まった。上級生の一人が同級生の金タマを握った。そのお返しに、今度は同級生が上級生の金タマを握り返した。進学校の優等生だけに、遊びも歳のわりには子供っぽいのである。こんなことをゲラゲラ笑いながら、二、三度繰り返しているうちに、同級生の一人が故意か本気か強く握りすぎたらしい。
 握られた上級生が顔をひきつらせて怒りだし、握った同級生を殴った。痛かったのだろうが、殴り方が尋常ではなかった。狂ったように顔や頭を殴る。それにつられたのか、他の上級生も暴行に加わったため、乱闘のようなことになった。かっとなった私は、近くにあった線引用の手押し車で一番派手に暴れている上級生の頭をどやしつけた。すると、派手にひっくり返ってのびてしまった。
 まったく馬鹿馬鹿しい限りの成り行きなのだが、どついた相手がPTA会長の息子だったこともあって、これが大問題になった。とり澄ました学校でなじめないものを感じていたし、大したこととも思えないことを大犯罪のごとくに大げさに騒ぐ教師たちにも嫌気がさしていたから、どうなってもいいやという気持ちになった。だが、すっかりしょげ返っている同級生まで一緒に処分されるのは可哀相でもある。そこで、教師の聴取に「全部自分がやった」と答えておいた。結局は私だけが退学処分になり、ほかの者は軽い処分ですんだ。
 処分が決まった夜、父親が境内町の家にやってきた。坐るなり、
「せっかく、ええ学校に入れたのに、もう放り出されたんか。これから、どないすんねん?」
 と渋い顔でいった。
「学校なら、なんぼでもあるがな」私がこう答えると、「お前がそういうんなら、それでええ。親子でも喧嘩するんやから、他人同士仕方がない。そやけど、他人相手の喧嘩は生半可にしたらいかんぞ。ところで、喧嘩のもとは何や?」
 今さら面倒くさいとは思ったが、簡単に説明すると、
「金タマの握り合い! なんとまあ、アホなことでクビになったもんやなあ」
 途中で父親が頓狂な声でいって笑い出した。横にいるおふくろも一緒になって笑い出した。そんなことは、こちらのほうが一番よくわかっている。馬鹿馬鹿しくなったので説明を止めると、父親が続けろという。仕方なくさらに話した。するとまた途中で、
「お前が友だちをかぼうたんか、それはええことや。それやったら、もう何もいうことない。もうええ、もうええ」
 と勝手に納得して、しきりに頷いていた。父親は学校のことはまるで無関心だったし、教育めいたことも一切口にはしなかった。ただ、「男らしくしろ」ということだけは馬鹿のひとつ覚えのように繰り返しいっていた。父親のいう男らしさとは、弱者・年少者や友だちが難儀な目にあったときは身体を張ってでもかばえ、強者から不当ないいがかりをつけられたときは絶対に引かずに徹底的に闘え、弁解はするな、といった類のことである。生意気盛りの私には父親のいう行動規範があまりにも単純すぎるように思えて、「わかっとるから、もうええがな」といつも聞き流していたが、この騒ぎもそんな調子でチャラになった。
(「少年鉄砲玉」p.39~41)





 私の喧嘩が原因で組と組との抗争に発展したというのは、以下のような顛末であった。兄貴の息子、つまり甥の宮崎優と近くの銭湯に行ったときのことだ。
 伏見に、篠原会という京都のヤクザ組織の親分の自宅があって、その親分の中学生の息子とたまたま銭湯で鉢合わせた。これが意地の悪い奴で、まだ小学生にもならない優に水をかけたりしていじめる。我慢していた優が、たまらずに泣き出した。頭にきた私は、風呂桶でそ奴の頭を思いきりどついた。すると、頭から血を噴いてひっくり返ってしまった。
 家に帰ってしばらくたった頃、寺村組の組員がダッと集まってきた。手には猟銃、日本刀、竹槍などの武器をもち、まったくの喧嘩支度をしている。みんな黒の長袖シャツや黒のジャンパー、下半身も黒のニッカーボッカーなどに黒の地下足袋という全身黒ずくめで、頭には真っ白の鉢巻をしめている。なぜ黒装束かといえば、怪我をして血を流してもそれを相手に気取られないためである。一種の見栄でもあるのだが、血を見せて相手からかさにかかって攻撃されるのを避けるという実利的な効用も勘案されていたようだ。
 加藤鉄次郎という武闘派の組員などは、猟銃を手にし、弾帯を胸に十字にたすきのようにかけ、おまけに太った腹のまわりにダイナマイトを十数本巻きつけている。身長が160センチで、体重は100キロ近くある。真っ黒なサングラスを書け、指が何本もない。それがこんな目いっぱい武装してあれこれ指揮している様は滑稽でもあった。
 庭の何箇所かに置かれたドラム缶で火を焚き、まわりで若衆が樽酒を呑んだり日本刀の柄に包帯を巻いたりしている。家のなかでは、足元が滑らないように若衆や男衆が総出で畳を全部裏返しにしている。窓は銃弾を撃ち込まれないように目張りをしている。窓や障子のガラスも割れて飛び散らないように半紙を糊で貼りつけている。台所では、おふくろの指揮のもと、女衆が総出で炊き出しの用意でてんてこ舞いしていた。
「何が起こったんや?」と、びっくりして加藤鉄次郎に訊くと、
「ぼんがさっき、風呂屋で篠原のガキをいわしましたやろ。そしたら、あろうことか、篠原の代貸がおやっさんのとこへ、『おたくのぼんがうちのぼんをやってくれたらしいな、どないしてくれまんのや』といちゃもんをつけにきよったんや。おやっさんが鼻で笑うて、『やられて仕返しにくるんやったら、いつでも来い』と突っぱねたんで、これですわ」と加藤鉄次郎が大声で解説し、
「ぼん、ようやってくれましたな。後はわしらであんじょういわしたりまっさ」
 とつけ加えた。そのうち父親が別宅からやって来て、
「喧嘩のもとは何や?」と訊く。事情を説明すると、
「優をかぼうたんか、お前は偉い。ようやった」
 といった。まわりに集まっていた若衆も「ぼんは偉い」と同調した。
 普通の親なら、子供が喧嘩してきたら理由のいかんにもかかわらず叱りつけるものだろうが、わが家では問題はその理由であって、それがわが家の道理に合致してさえいれば大いに称賛された。喧嘩にまつわるわが家とその周辺の道理は、「身内がやられたときは、たとえこちらに非があろうとも、相手に復讐しろ。それをやらない者は人間のクズだ」という単純極まりないものだった。喧嘩をしたことだけで叱られたことは一度もなかった。
 このときの父親は強気一本槍だった。組員に対して「ええか、もろてくうなよ」と盛んに檄を飛ばしていた。「もろてくうな」とは「貰って食うな」のことだと思うのだが、もしかしたら「諸手食うな」のことかもしれない。いずれにしても、たえず優位で攻撃的であってやられるな、というほどの意味で、抗争や相手の組に掛け合いに行くときなどに使われる極道世界独特のいいまわしである。
 父親が強気だったのには理由がある。篠原会が寺村組より弱小の組織であったがために、甘く見ていたのである。父親には相手を見て喧嘩するところがあって、これはいけると判断した組相手にはイケイケドンドンだった。ところが、後に寺村組は山口組と大きな抗争になるのだが、このときなどはイケイケの面などまるでなかった。現金なものなのである。
 猟銃や日本刀をもった若衆が走りまわり、何回か小競り合いがあった。単独ないし少数のヒットマンが主体になる最近のヤクザの抗争と違って、この当時のヤクザの喧嘩は集団戦だった。集団同士が直接ぶつかって殴り合ったり、武器を使ったりして決着をつけた。このときの喧嘩はもともとが子供の喧嘩が発端だっただけに、2、3日後、篠原会が詫びを入れて抗争は終わった。実際には縄張りのいくつかを奪って話をつけたのだろう。
 ヤクザの喧嘩には、たかが子供の喧嘩にも大人が出張って面子の立てあいをするという独特の道理的な一面と、子供の喧嘩さえ利用して縄張り争いを演じるという現実政治的な一面がある。そして、ヤクザの抗争の面白いところは、その二面が混沌と混じり合っていて、当の本人さえどの面で動いているのかわかってないふうがあるところである。このときの喧嘩などはその典型だったように思う。
(「少年鉄砲玉」p.46~48)







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