★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年12月08日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
宮崎学 / 突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五十年 – (4)
(3)の続きです。
前述したように、寺村組の若衆や寺村建産の鳶、職人の多くは社会の底辺の出身である。悲惨な生活ぶりに加えて、京都という旧弊な地で厳しい差別にさらされていた。差別される側の人間が玄関先から訪問しようとすると、「裏口へまわれ」といって殴られるといった差別がまかり通っていた。戦後初期までは、祭りの見物に行った被差別民が「お前らが見ると、神輿(みこし)が汚れる」と殴られ追い返されたりしていたという。
直接的な差別以外にも、間接的・心理的な差別もむろんあった。普通の家の母親が「勉強せんかったら○○町の連中みたいに、一生“犬獲り”せんならんのやで。それでええんか」と勉強嫌いの子供を脅かすなどは、ごく日常的なことだった。
このほかにも、就職や結婚など人生の根幹にかかわることにも厳とした差別があった。就職に限っていえば、被差別部落民を雇う会社や店は皆無といってよく、就職口がなかった。あるとすれば、土方ぐらいだった。だから、いくら“犬獲り”と蔑まれようとも、それをやるほかなかったのだ。
そもそも京都は古い町だけに、階級ないし階層秩序が今もって厳然として存在している。天皇家と縁戚関係にある公家衆が、表面には顔を出さないが絶大な発言力を有していたりする。この公家衆を取り巻くようにして、本願寺などの坊主衆、茶道・華道の家元衆、西陣の織元である室町衆が上層階層を形成している。これらの各衆は血縁や寺と檀家の関係などによって緊密なつながりをもっている。
そして、この上層階層のサロンともいうべきものが祇園の高級料亭である。その旦那や女将は花街衆と呼ばれ、これまた京都はもとより日本の上層階級に対して隠然たる力を有している。わが国の上層ないし権力階層には祇園の高級料亭で遊ぶことをそのステータスの証のようにみなす馬鹿げた風潮が昔からあり、功なり名とげるとだれもが祇園の客になりたがる。
それだけに、祇園で旦那と呼ばれる客、例えば室町の遊びぶりなどは豪放を通りこして無茶苦茶である。しょっちゅう出入りしてべらぼうな料金を払うだけで旦那とは呼ばれない。時には半玉の芸奴を何千万もかけて水揚げしたり、料亭のパトロンになって建物の改築費を全部負担したり、料亭の旦那や女将の生家の墓を途方もなく立派なものに建て直してやったりする。
しかも、こんなことを10年、20年やり続けて平気な顔をしていて初めて祇園の旦那衆と呼ばれるようになるのである。こうした途方もない遊びが繰りひろげられている一方で、室町衆に雇われている西陣の織子などは天井裏で雑魚寝する日々を送っていたわけである。
この頃の京都にはこうした階層秩序が厳としてあり、寺村の関係者はその最底辺の衆の集合体のような感があった。若い土方のなかには中学に通わず働きにきている者もいた。
そうかと思うと、室町衆のぼんくら息子などは女に手を出すわ、生意気に高級レストランで散財するわ、のし放題だった。こんな貧富の差に加え、差別までのしかかったのではたまったものではない。人間は平等といいながら、その実は不条理、理不尽極まりないものだった。それがまたヤクザの温床にもなっていた。中学生になってしばらく経った頃から、ようやく、身のまわりのこうした不条理な社会の構造の矛盾を次第に強く感じ始めていた。(「喧嘩と資本論」p.58~60)
そもそも大阪のヤクザは当時の京都のヤクザに較べてはるかにハングリーであって、それだけヤクザとしての無茶苦茶ぶりの度合いが違っていた。関東と関西のヤクザを較べてみると、関東のヤクザがインテリジェントでありイデオロギッシュデモあるのに対し、関西はハングリー精神が強く、何よりも力を奉じる。関東ヤクザのように難しいことをいうこともなく、「わし、そういうことはわからん」といいながら、しゃにむに力にものをいわせる。そうしたハングリーでパワフルな関西ヤクザのなかでも、大阪ヤクザはその特質が際立っている。
さらには、装備の近代化という点でも決定的な懸隔があった。山口組の拳銃に対して、寺村組は猟銃と日本刀が主体だった。喧嘩装束にしても、ニッカーボッカーに地下足袋で黒装束の寺村組に対し、山口組は背広ないし戦闘服、しかも一流ホテルに泊り込んでいた。大阪のような流動社会に較べて、今日とは停滞社会で、しかも中島会の伝統的支配があったせいで、当時の京都のヤクザは時代に即応した脱皮が遅れ、総じて甘さが目立ったのである。
それに加えて、山口組にはしっかりした組織論があった。3、4人一組の襲撃班を傘下の各組混成で多数組織し、コントロールセンターの指揮の下に整然と効果的に動かした。相手の所在や動向を探る偵察班も多数放たれ、襲撃班を側面からサポートする。さらに抗争を山口組主導の下に終息させるための練達の納め役もちゃんと用意してある。この各班がチームプレイに徹し、怒涛のように攻めに攻める。
祭りのときのように樽酒をあおって集団で街をうろつき、相手に遭遇したところでドンパチやればいいといったような行き当たりばったりの当時の寺村組などがどだい勝てる相手ではないのである。これは、皮肉なことに、後に学生運動のゲバルト部隊の組織論においても、大いに教訓になった。
後で聞いた話では、抗争時の出処進退は人さまざまだったようだ。日頃はおとなしく目立たない若衆が人が変わったように戦闘的になって特攻隊的な役割を果たすかと思えば、その一方で、普段は能書きばかり垂れている若衆が病気と称して肝心なときに雲隠れしたりする。雲隠れした若衆は以後「幽霊××」と陰で呼ばれているとのことだった。
その話を聞いて、男というのは土壇場で逃げる男と逃げない男の二種類しかないという厳たる一面があって、土壇場で試されるのは唯一それなんだということがよくわかった。これはヤクザも左翼も同じ、普通の市民だって同じだということを後でたっぷり思い知ることになる。(「喧嘩と資本論」p.75~76)
この頃には、差別が簡単に解消されるものではないことが、私なりにわかりかけていた。差別は差別する多数派と差別される少数派という単純な二元的な問題ではない。被差別者もまた差別する。私を幼稚園に送り迎えしてくれた被差別部落出身のおばちゃんが三条大橋の乞食を見下したように、被差別部落の人間が在日朝鮮人を見下し、差別する。その逆もまたある。
もっと複雑な差別もある。これはこの頃に寺村組の若衆から聞いた話なのだが、遊郭の連中が被差別部落を差別する。水上勉の『五番町夕霧樓』で有名な宮川町遊郭の近くに被差別部落がある。遊郭の女郎が勤めが嫌になって郭を逃げ出そうとしたときには、遣り手婆が被差別部落を指差して、「あそこ見てみなはれ。あそこに較べたら、ここは極楽やないか」というのがならいになっていた。この一言に、社会の最底辺出身の女郎たちは弱かったそうだ。
これは、少なくとも私の周辺の世界の哀しい一面だった。差別というのは人間のあり方の根源にかかわる問題であり、一筋縄では解決できないだろうことは、ガキなりにわかっていた。だからこそ、上田のような優秀な奴は運動にも従事すべきだ、と本気で思っていたのだった。
もちろん、部落解放運動のなかで、法の外にいるヤクザと運動理念が相容れるわけがない。だから解放運動のなかでは、ヤクザや犯罪に走る者を「彼らは差別に負けた姿だ」と位置づけている。しかし、あらゆる運動がそうであるように、すべてみんながその理念に基づいて行動するとは限らない。なかには「鉢巻して坐り込んで、それでベンツに乗れるようになるんかい」という若者が出てくるのも、長い差別の歴史のなかではむべなるかなである。(「喧嘩と資本論」p.78~79)



