★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2008年12月10日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
小林秀雄 / 近代絵画
これを書いている時点で、アマゾンの
「美術の専門書、美術の専門家による批評ではないので、決して難解ではなく、絵画に関心のない人でも充分読むに足る」
というレビューが、
10人中、10人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
となっているのですが、正直いって難解でした(大汗)
たとえば、パラパラ~とめくって適当に開いた240ページを引用してみると、
こんな調子で、改行も少なく永遠と続くので、読解力の欠如を知らされつつ、300ページ足らずを読むのに1ヶ月以上かかりました。それも、読んだというより、文字を目で追った、というのに近い読み方ですが。
ただ一つ、理解できたのは、音と光の違いについての記述です。耳は、異なる波長の音が混じっていると、それを「和音」と識別できるのに対し、視覚はプリズムを使わない限り光を分解することは出来ない、、、なるほど、それはその通り。すべての周波数の音が同強度であるホワイトノイズが、不快な雑音なのに対し、白色の光はそれ自体が一つの色に見えます。
また、たとえば赤いリンゴは、それ自体が赤い光を発しているのではなく、リンゴが赤以外の光の波長を吸収しているから赤く見える、、、これは元々知識があったから理解できたことでした。
それはさておき、肖像画にせよ、風景画にせよ、画家は、目の前の物をどう捕らえ、どう表現するか、苦心して作品を残していますが、難しいことは分からなくとも、絵を鑑賞して何か感ずるところから始めたいと思いました。
以下、本書に掲載されている作品の目録です。 (続きを読む…)
「美術の専門書、美術の専門家による批評ではないので、決して難解ではなく、絵画に関心のない人でも充分読むに足る」
というレビューが、
10人中、10人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
となっているのですが、正直いって難解でした(大汗)
たとえば、パラパラ~とめくって適当に開いた240ページを引用してみると、
12??((´‐公‐`))??
何故、絵かきが、絵はフォルムであるなどと断らなければならないのか。フォルムとは嘘であるフォルムであり、嘘とは真実を会得させる為の嘘である、という様な言葉で、詰まるところ、ピカソは何が言いたいのであるか、又しても、ピカソの、世論に抗したい発言の動機の方が問題だろう。そして、問題の核心は、要するに、フォルムというものに附したピカソの意味と、世人の解するフォルムとの食違いに帰する様に思われる。恐らくピカソは、もっと乱暴な言葉が吐きたかったのではあるまいか。私はフォルムを経験しているが、諸君にとって、フォルムとは単なる言葉ではないかと。 絵はフォルムである、と画家が言う。現代の教養は、絵かきの言い分なら、尤もだと言うだろう。凡ての芸術はフォルムである、という事になれば、小首を傾げるだろうが、美学者の寝言なら、仕方があるまい、と言うことだろう。ところで、世界はフォルムだと誰かが言ったとすれば、これはもう気違いだという事になるだろう。しかし、本当に気違いであるか、どうか。少なくともフォルムというものは、現代で不当に軽視されている、と考える余地はあろう。文化は時代々々で、それぞれの盲点を持つものである。 フォルム(form)とは言うまでもなく形の事だ。形と言えば、それは形に過ぎないと続くであろう。形と聞けば、直ちにその内容と考える。形を重んずるとは、形式主義を意味する。という事は、現代人は形に関しては形式主義者であるという事にならないか。この形式主義は明らかに近代の産物であると言える。form という言葉は forma から発したのであろうが、中世紀の教養人にとって、フォルマとは、恐らく世界観の上で根底的な考えを現していたであろう。凡そ物の形とは、物の本質である事を、思索人は疑いはしなかったであろう。それよりも、私達が日常使っている「かたち」だとか「すがた」などとかいう言葉は、私達の記憶とともに古いのだが、万葉の「すがた」とか源氏の「かたち」とかという言葉に比べて、どれほど極限された貧しい意味合いに使われているかを想いみれば足りるのである……
こんな調子で、改行も少なく永遠と続くので、読解力の欠如を知らされつつ、300ページ足らずを読むのに1ヶ月以上かかりました。それも、読んだというより、文字を目で追った、というのに近い読み方ですが。
ただ一つ、理解できたのは、音と光の違いについての記述です。耳は、異なる波長の音が混じっていると、それを「和音」と識別できるのに対し、視覚はプリズムを使わない限り光を分解することは出来ない、、、なるほど、それはその通り。すべての周波数の音が同強度であるホワイトノイズが、不快な雑音なのに対し、白色の光はそれ自体が一つの色に見えます。
また、たとえば赤いリンゴは、それ自体が赤い光を発しているのではなく、リンゴが赤以外の光の波長を吸収しているから赤く見える、、、これは元々知識があったから理解できたことでした。
波長を受ける眼の受信機は、耳のように整備されていない。(中略)そこで、私達が、極めて純粋な色と感じているものも、本当は純粋だかどうかまるで当てにならない。例えば黄色の色ガラスは、実に沢山の、殆どすべての色を透過させているのに黄色に見える。眼に色の分析能力がないという事実は、画布の上の色の斑点によって、色感を思う様に合成しようとする画家の企てに大変な障碍(しょうがい)になる、音の合成の様には参らない。音響学が作曲家に役立つ様には、色彩に関する科学は画家を助ける事は出来なかった。モネの弟子のシニャックは、色彩の理論による、技法の合理化の道を押し進めてみたが、絵は、本能的に悪戦苦闘するモネの絵を抜けず、冷たく死んで行くより他はなかった。話はそれますが、聴覚が視覚より研ぎ澄まされているというのは、興味深いところです。普通のCDのサンプリング周波数は44.1kHzですが、動画が、動く絵として違和感なく認識できるのはわずかに30フレーム/1秒(映画の場合は24f/s)で、その差は1000倍以上! また、聴覚は1/1000秒のずれも感知することができるので、左右の耳への到達時刻の差から、音の方向を認識できるそうです。 それに加え、約340m/sの音速と、300,000,000m/sの光速の違いを考えると、視覚より聴覚の方が分解能力が高いというのも分かる気がします。
それはさておき、肖像画にせよ、風景画にせよ、画家は、目の前の物をどう捕らえ、どう表現するか、苦心して作品を残していますが、難しいことは分からなくとも、絵を鑑賞して何か感ずるところから始めたいと思いました。
以下、本書に掲載されている作品の目録です。 (続きを読む…)



