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	<title>徒然 &#187; し：白石一文</title>
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	<description>音楽鑑賞記録や読書メモ・感想文、パソコン関係、写真や動画の撮影あれこれなどを徒然なるままに綴ってゆきます。リンクは[Ctr]＋クリックにより、新規タブで開きます。コメントの返信がすごく遅くなる時もあるかと思いますが、半年以内には書きたいと思います。 m(_ _)mスミマセン</description>
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		<title>白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（５）</title>
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		<pubDate>Fri, 20 Feb 2009 15:00:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[
白石一文
僕のなかの
壊れていない部分
白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（４）の続きです。
一時期、学校の校長先生が自殺する例が続いたことがありました。
校長に限らず、先生といえば子供を指導する人。
「頑張って生きなさい」と言わねばならない立場です。
いじめを苦に自殺する生徒が絶えず、
「どうか死なないで下さい」と懇願していた校長が、
責任の重さに耐え切れず、自殺する。
大人も子供も、共に苦しんでいるのだと思いました。
自殺する人は「死んだ方が楽になれる」と思っているから、自ら命を絶つのですが、
では、
「生きる権利があるなら、死ぬ権利もあって良いではないか」
「なぜ死んではいけないのですか？」
と問われたらどう答えればよいか、考えてしまいます。
「生きる」ことと「死ぬ」ことは表裏一体、切り離せるものではないと思います。
どうして僕は自殺しないのだろう？
生きていく上で、非常に大切な問いではないでしょうか。

　ほのかの痩せた寝顔を眺めながら、彼女はしばしば死にたくなるのだろう、と思った。それは現代に生きている多くの人間たち、ことに彼女やかろうじて自分のような、まだ若いと呼ばれる者たちにとってはごく当たり前の現実に過ぎないのだろう。たしかにこの世界は、むろんいつの世も似たようなものだったにせよ、そこで生きるには余りに魅力に乏しいように思われる。だが、僕はきっとほのかほどには死にたいとは思っていない気がした。生まれてこなければよかった、という感覚は死を願う感覚とはさほど重なるところはあるまい。
　ただ、昔から、「生まれてこなければよかった」とか「誰も産んでくれなどとは頼まなかった」とか「こんなことなら死んだほうが楽だ」などと口にすると、僕の数少ない体験では、親身になってくれる人ほど決まって、
だったら死んでみろよ。
　と言ったものだ。それは少し考えてみれば、逆説的な効用を持つ言葉の最たるものだったし、そういう人は、最初にそれを口にしたあと、こちらの話を深く聴き取り、みずからの体験にまつわるさまざまな話を披露し、僕を懸命にそして賢明になぐさめ、あたたかく励ましてくれたのだった。
　だが、僕は、そうした彼らの、当のその最初の言葉にいつも失望した。その後の彼らのどんな話もろくに耳に入らないほどに実は徹底的に失望したのだ。
　だいいち「生まれてこなければよかった」からといって「じゃあ死ねよ」と言われる筋合いはない。仮に「死にたい」と訴えたとしても、そう訴える相手に対して「死ね」と言い放つ権利が誰にあるというのだろうか。
　そんな乱暴な言葉を口ずさむならば、せめて、「だったら一緒に死んでやるよ」くらいのことは言ってくれてしかるべきだろう。
　死にたいと言い募る人間を止めることはできない、死に魅入られた人を救うすべはない――などと俗に言うが、そんなことはない。１日２４時間、手分けしてでもその人を監視しつづければ物理的に自殺は防げる。僕は常々、本来、自殺というのは激減させることができると思っている。減らせないのは自殺する人間の周囲にいる者たちが、妙な遠慮を働かせてしまうのが最大の原因で、その根底にあるのは現代に蔓延する西欧的個人主義崇拝の悪しき風潮であると確信している。
私はほんとうに死にたいのだろうか？
　と
私はほんとうに死にたくないのだろうか？
　という問いはどちらが重要であるのか、と僕はそのときほのかの寝息を耳にしながら考えた。いつかは必ず死んでしまう僕らにとって、後者の方がはるかに重要な問いであろうと感じた。
あなたはほんとうに死にたくはないのですか？
もしそうだとしたら、
その理由は何ですか？
　と問われたらみんなは一体何と答えるのだろうか？　ぼくに限って言えば、自分にも他人にも対しても十分に説得的な「その理由」はどう思案してもひねり出せないような気がするのだが、愛する人や愛する家族がいる人達は、きっとその人達のために死にたくないと答えて、その先のことは何も考えないで適当に済ませるのだろうと思う。中にはもっと楽しみたい、もっと幸福になりたいから、などと「人の定め」と「その定めに至る単なる状態」とを混同してしまって、質問自体をはぐらかす人もいるだろう。そういう人は、自分が死ぬということから目を背けているのだけれど、きっと死ぬ瞬間にその分の多大なツケが回ってきて苦しむことになるに違いない。
　ある医師の書いた文章によると、１９９８年以降３年連続で自殺者が３万人を超えており、これは戦後の自殺者急増第３期なのだそうだ。彼は書いていた。
＜５８年をピークとした第１期は、日米安保条約の改定を目前に控えた激動の時代であり、３０歳未満の若者が全体の半分を占めた。第２期は８３年から８６年のバブル景気突入直前だ。このときも急増の原因は、この世代。９８年から始まった第３期は、どの世代も増えているが、今度は、いま５０代前半の団塊の世代が中心である＞
　これを読むと、昭和３０年代前半には、僕のような３０歳未満の人々が年間に少なくとも１万人以上は自殺していたようだ。これは大層な数字だと、この文章を読んだときに僕は驚いた。正確に１万人だとしても１日に２７人も死んでいた勘定になり、ということは実質的には３０分に１人の若者が日本のどこかで必ず自殺していたことになると思ったからだ。
＜ただ、第１期に見られた、３０歳未満の若者が自殺者の半分を占めるという傾向は、以後は弱くなり、いまでは自殺者の１０数パーセントにすぎなくなっている。若い人は自殺しなくなった＞
　とも書かれていた。この部分を読んで、僕はなぜいまの若い人は自殺しなくなったのかを少し考えてみたが、その理由はよく分からなかった。
　しかし、一方でそのときつくづくと思ったものだ。
どうして僕は自殺しないのだろう？
　と。そしてその理由もそうやすやすとは見つからない、と僕は考えたのだった。
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			<content:encoded><![CDATA[<div class="amazon"><a href="http://charlie432.fool.jp/wordpress/wp-content/uploads/bokunonakano.jpg" target="_blank"><img src="http://charlie432.fool.jp/wordpress/wp-content/uploads/bokunonakanos.jpg" alt="僕のなかの壊れていない部分" border="0" /></a><br />
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僕のなかの<br />
壊れていない部分</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=charlie432-22&#038;l=ur2&#038;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div>
<p><a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-category-782.html" target="_blank">白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（４）</a>の続きです。<br />
一時期、学校の校長先生が自殺する例が続いたことがありました。<br />
校長に限らず、先生といえば子供を指導する人。<br />
「頑張って生きなさい」と言わねばならない立場です。<br />
いじめを苦に自殺する生徒が絶えず、<br />
「どうか死なないで下さい」と懇願していた校長が、<br />
責任の重さに耐え切れず、自殺する。<br />
大人も子供も、共に苦しんでいるのだと思いました。<br />
自殺する人は「死んだ方が楽になれる」と思っているから、自ら命を絶つのですが、<br />
では、<br />
「生きる権利があるなら、死ぬ権利もあって良いではないか」<br />
「なぜ死んではいけないのですか？」<br />
と問われたらどう答えればよいか、考えてしまいます。<br />
「生きる」ことと「死ぬ」ことは表裏一体、切り離せるものではないと思います。<br />
<span style="font-weight:bold;color:#FF0000;">どうして僕は自殺しないのだろう？</span><br />
生きていく上で、非常に大切な問いではないでしょうか。</p>
<p><span id="more-2442"></span></p>
<blockquote><p>　ほのかの痩せた寝顔を眺めながら、彼女はしばしば死にたくなるのだろう、と思った。それは現代に生きている多くの人間たち、ことに彼女やかろうじて自分のような、まだ若いと呼ばれる者たちにとってはごく当たり前の現実に過ぎないのだろう。たしかにこの世界は、むろんいつの世も似たようなものだったにせよ、そこで生きるには余りに魅力に乏しいように思われる。だが、僕はきっとほのかほどには死にたいとは思っていない気がした。生まれてこなければよかった、という感覚は死を願う感覚とはさほど重なるところはあるまい。<br />
　ただ、昔から、「生まれてこなければよかった」とか「誰も産んでくれなどとは頼まなかった」とか「こんなことなら死んだほうが楽だ」などと口にすると、僕の数少ない体験では、親身になってくれる人ほど決まって、<br />
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;">だったら死んでみろよ。</p></blockquote>
<p>　と言ったものだ。それは少し考えてみれば、逆説的な効用を持つ言葉の最たるものだったし、そういう人は、最初にそれを口にしたあと、こちらの話を深く聴き取り、みずからの体験にまつわるさまざまな話を披露し、僕を懸命にそして賢明になぐさめ、あたたかく励ましてくれたのだった。<br />
　だが、僕は、そうした彼らの、当のその最初の言葉にいつも失望した。その後の彼らのどんな話もろくに耳に入らないほどに実は徹底的に失望したのだ。<br />
　だいいち「生まれてこなければよかった」からといって「じゃあ死ねよ」と言われる筋合いはない。仮に「死にたい」と訴えたとしても、そう訴える相手に対して「死ね」と言い放つ権利が誰にあるというのだろうか。<br />
　そんな乱暴な言葉を口ずさむならば、せめて、「だったら一緒に死んでやるよ」くらいのことは言ってくれてしかるべきだろう。<br />
　死にたいと言い募る人間を止めることはできない、死に魅入られた人を救うすべはない――などと俗に言うが、そんなことはない。１日２４時間、手分けしてでもその人を監視しつづければ物理的に自殺は防げる。僕は常々、本来、自殺というのは激減させることができると思っている。減らせないのは自殺する人間の周囲にいる者たちが、妙な遠慮を働かせてしまうのが最大の原因で、その根底にあるのは現代に蔓延する西欧的個人主義崇拝の悪しき風潮であると確信している。<br />
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;">私はほんとうに死にたいのだろうか？</p></blockquote>
<p>　と<br />
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;">私はほんとうに死にたくないのだろうか？</p></blockquote>
<p>　という問いはどちらが重要であるのか、と僕はそのときほのかの寝息を耳にしながら考えた。いつかは必ず死んでしまう僕らにとって、後者の方がはるかに重要な問いであろうと感じた。<br />
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;">あなたはほんとうに死にたくはないのですか？<br />
もしそうだとしたら、<br />
その理由は何ですか？</p></blockquote>
<p>　と問われたらみんなは一体何と答えるのだろうか？　ぼくに限って言えば、自分にも他人にも対しても十分に説得的な「その理由」はどう思案してもひねり出せないような気がするのだが、愛する人や愛する家族がいる人達は、きっとその人達のために死にたくないと答えて、その先のことは何も考えないで適当に済ませるのだろうと思う。中にはもっと楽しみたい、もっと幸福になりたいから、などと「人の定め」と「その定めに至る単なる状態」とを混同してしまって、質問自体をはぐらかす人もいるだろう。そういう人は、自分が死ぬということから目を背けているのだけれど、きっと死ぬ瞬間にその分の多大なツケが回ってきて苦しむことになるに違いない。<br />
　ある医師の書いた文章によると、１９９８年以降３年連続で自殺者が３万人を超えており、これは戦後の自殺者急増第３期なのだそうだ。彼は書いていた。<br />
<i>＜５８年をピークとした第１期は、日米安保条約の改定を目前に控えた激動の時代であり、３０歳未満の若者が全体の半分を占めた。第２期は８３年から８６年のバブル景気突入直前だ。このときも急増の原因は、この世代。９８年から始まった第３期は、どの世代も増えているが、今度は、いま５０代前半の団塊の世代が中心である＞</i><br />
　これを読むと、昭和３０年代前半には、僕のような３０歳未満の人々が年間に少なくとも１万人以上は自殺していたようだ。これは大層な数字だと、この文章を読んだときに僕は驚いた。正確に１万人だとしても１日に２７人も死んでいた勘定になり、ということは実質的には３０分に１人の若者が日本のどこかで必ず自殺していたことになると思ったからだ。<br />
<i>＜ただ、第１期に見られた、３０歳未満の若者が自殺者の半分を占めるという傾向は、以後は弱くなり、いまでは自殺者の１０数パーセントにすぎなくなっている。若い人は自殺しなくなった＞</i><br />
　とも書かれていた。この部分を読んで、僕はなぜいまの若い人は自殺しなくなったのかを少し考えてみたが、その理由はよく分からなかった。<br />
　しかし、一方でそのときつくづくと思ったものだ。<br />
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;">どうして僕は自殺しないのだろう？</p></blockquote>
<p>　と。そしてその理由もそうやすやすとは見つからない、と僕は考えたのだった。</p></blockquote>
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		<title>白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（４）</title>
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		<pubDate>Sun, 18 Jan 2009 15:00:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[
白石一文
僕のなかの
壊れていない部分
白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（３）の続きです。
アルバムジャケット展覧会（５） [地獄絵図]にも書きましたが、
殺生せずしては生きてはゆけない
のが人間の偽らざる姿で、
生きるということは、動物の命を殺すこと、すなわち、
生かされるということだと思います。
菜食主義といっても、野菜を育てるにはどれだけの虫が殺されているか分かりません。
草食動物の餌を、どれだけ奪っているか分かりません。
食べ物以外の場面でも、人間の安全を確かめるためには、動物実験が行われます。
無益な殺生はしたくない、というのはその通りですが、
生き物を殺さないというその思想全体が人間という存在の摂理に逆らっていると書かれている通りだと思います。

　ほのかは菜食主義で、肉や魚は一切口にしなかった。その分、たまにこうして作ってくれる惣菜の味付けは匠で、どれもなかなかに旨かった。
「動物の肉を食べることに嫌気がさしちゃったの。牛でも豚でも鳥でも魚でも、生き物を殺して食べるのは、とにかく私はもう厭なの」
　僕が知り合ったときから、彼女はそう言っていた。そんなほのかに影響されたのか、もともと魚は決して口にしない雷太が、最近は肉もあまり食べなくなってきているようだった。
　ほのかに勉強を教えている頃、一度、彼女の部屋に紛れ込んだ蚊を潰したらひどく辛そうな目をされたこともあった。
「私って無視も殺さないような女よ」
　中学生だった彼女は、しばらくするとそう言って照れ笑いを浮かべ、と思うと、
「だけど、こういう人間って、長く生きることできないよね」
　不意に冷めきった顔になってつけ加えたものだ。
　生き物を食べないという彼女のこころがけを僕は悪いことではないと思っている。だた、そういう人間は長く生きることができないという彼女の直感もまた正しいような気はしていた。生理的なことではなしに、生き物を殺さないというその思想全体が人間という存在の摂理に逆らっていると僕は思う。
「別に自分がやりたくないことをやり通してまで長生きする必要はないさ」
　あの時はそんなふうに言った覚えがある。

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			<content:encoded><![CDATA[<div class="amazon"><a href="http://charlie432.fool.jp/wordpress/wp-content/uploads/bokunonakano.jpg" target="_blank"><img src="http://charlie432.fool.jp/wordpress/wp-content/uploads/bokunonakanos.jpg" alt="僕のなかの壊れていない部分" border="0" /></a><br />
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僕のなかの<br />
壊れていない部分</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=charlie432-22&#038;l=ur2&#038;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div>
<p><a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-category-257.html" target="_blank">白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（３）</a>の続きです。</p>
<p><a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-entry-815.html" target="_blank">アルバムジャケット展覧会（５） [地獄絵図]</a>にも書きましたが、</p>
<p><strong>殺生せずしては生きてはゆけない</strong></p>
<p>のが人間の偽らざる姿で、<br />
<span style="font-weight:bold;color:#FF0000;">生きるということは、</span>動物の命を殺すこと、すなわち、<br />
<span style="font-weight:bold;color:#FF0000;">生かされるということ</span>だと思います。</p>
<p>菜食主義といっても、野菜を育てるにはどれだけの虫が殺されているか分かりません。<br />
草食動物の餌を、どれだけ奪っているか分かりません。<br />
食べ物以外の場面でも、人間の安全を確かめるためには、動物実験が行われます。</p>
<p>無益な殺生はしたくない、というのはその通りですが、<br />
<span style="font-weight:bold;color:#FF0000;">生き物を殺さないというその思想全体が人間という存在の摂理に逆らっている</span>と書かれている通りだと思います。</p>
<p><span id="more-2404"></span></p>
<blockquote><p>　ほのかは菜食主義で、肉や魚は一切口にしなかった。その分、たまにこうして作ってくれる惣菜の味付けは匠で、どれもなかなかに旨かった。<br />
「動物の肉を食べることに嫌気がさしちゃったの。牛でも豚でも鳥でも魚でも、生き物を殺して食べるのは、とにかく私はもう厭なの」<br />
　僕が知り合ったときから、彼女はそう言っていた。そんなほのかに影響されたのか、もともと魚は決して口にしない雷太が、最近は肉もあまり食べなくなってきているようだった。<br />
　ほのかに勉強を教えている頃、一度、彼女の部屋に紛れ込んだ蚊を潰したらひどく辛そうな目をされたこともあった。<br />
「私って無視も殺さないような女よ」<br />
　中学生だった彼女は、しばらくするとそう言って照れ笑いを浮かべ、と思うと、<br />
「だけど、こういう人間って、長く生きることできないよね」<br />
　不意に冷めきった顔になってつけ加えたものだ。<br />
　生き物を食べないという彼女のこころがけを僕は悪いことではないと思っている。だた、そういう人間は長く生きることができないという彼女の直感もまた正しいような気はしていた。生理的なことではなしに、生き物を殺さないというその思想全体が人間という存在の摂理に逆らっていると僕は思う。<br />
「別に自分がやりたくないことをやり通してまで長生きする必要はないさ」<br />
　あの時はそんなふうに言った覚えがある。</p></blockquote>
<p>
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		<title>白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（３）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Oct 2008 15:00:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[
白石一文
僕のなかの
壊れていない部分
　白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（２）の続きです。

　昨日、一昨日とお釈迦さまのお話が続きましたが、今日もお釈迦さまの名前が登場します。

　下に引用した文章に「万人共通の老・病・死」「老・病、死が万人にとってまぬがれがたい真実」とあるように、現在の幸福の一切を覆すものが万人共通のものだとすれば、真の幸福へ通じるみちもまた、万人共通なのではないでしょうか。

　それこそが「生きるということ」であり、生きる意味、生きる目的なのだと思います。

　午後になり、客足が途絶え、カメラマンがフィルムの整理を始めると、僕は大晦日から手をつけていた本を開いて毎日車の中で読みふけった。その本は、或る有徳の女性仏教者が晩年に著した随想集で、釈尊の教えをわかりやすく弁じたものだったが、幾度か読み返すに値する立派な文章だった。たとえば「生きるということ」と題された一文では、釈尊の有名な「四門遊観」の説話を紹介した上で、彼女は次のように記していた。
　――若い日の私は、この伝説を実によそよそしい作りごととして聞いた。時には、大事なお釈迦さまをこんなひ弱な世間知らずに仕立ててよいものだろうかとさえ思って反発した。しかし７０年近くを生きて来てみて、まさに老いが至り、その老いは必然として病を含み、その向こうに死が見えるようになった今、ここに語られている言葉の一つ一つの真実にほとほと驚嘆し、そうだ、そうだ、全くその通りだ、生きるということは、そういうことだったのだ、人間存在から、若さや、美しさや、愛や、情念や、富や、地位や、世間的能力など、うつろい行くものすべてを、ささらでも使って根こそぎかきだしてみれば、あとに残る骨組みは万人共通の老・病・死があるばかりだったのだ。自分をはじめ人は誰でも、老いに直面し、死に直面してみてはじめてそのことに気がつく、いやもしかしたら、気づくことさえなく死ぬのかも知れない。
　それに対して釈尊は、漆黒の髪を持ち、人生の花開いた美しい青春の日に、生存のまごうかたなき骨組みを、老・病・死の「苦」とうけとめた。しかもそれを、生存するものすべて（一切衆生）の苦ととらえ、その苦を超える道を求めて出家された。何という宇宙大の感性、何という宇宙大の優しさ――更に私が喜悦するのは、若き日の釈尊は老・病、死が万人にとってまぬがれがたい真実であるにもかかわらず、人がそれをいとわしく思う底に、

　若さには　老いに対する
　健康者には　病者に対する
　生きているものには　死者に対する

　無意識の優越感、傲慢の思いがあるということに思い至ったと伝えられることである。ああ７０年を生きてかかえこんだ私のこの腐ったはらわたをつかみ出して見せてくれるこんな言葉を、一体他の誰が私の耳もとで語ってくれるだろうか。これほどわかり易く、これほど理路整然と――。

　そして後段で彼女は、現在の自らの心境を以下のように書いているのだった。

　――老・病・死をかかえこんだ髑髏（どくろ）にいのちの衣をきせたのが「生」というものであるならば、ひとときまとうその衣は、出来得れば美しくたおやかでありたい。
　日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有り難い。
　活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくことだと納得すれば、心やすらぐ。
　仏教で「生死一如」という言葉がありますが、生きるということは死に近づくこと、生と死は常に隣り合わせで切り離せることは出来ません。
「日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿」であり、「活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくこと」という思いを持ち続けることが、美しく、たおやかな、いのちの衣を着ることが出来るのだと思いました。
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僕のなかの<br />
壊れていない部分</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=charlie432-22&#038;l=ur2&#038;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div>
<p>　<a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-entry-781.html" target="_blank">白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（２）</a>の続きです。<br />
<br />
　<a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-entry-805.html" target="_blank">昨日</a>、<a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-entry-806.html" target="_blank">一昨日</a>とお釈迦さまのお話が続きましたが、今日もお釈迦さまの名前が登場します。<br />
<br />
　下に引用した文章に<b>「万人共通の老・病・死」「老・病、死が万人にとってまぬがれがたい真実」</b>とあるように、現在の幸福の一切を覆すものが万人共通のものだとすれば、真の幸福へ通じるみちもまた、万人共通なのではないでしょうか。<br />
<br />
　それこそが「生きるということ」であり、生きる意味、生きる目的なのだと思います。</p>
<p><span id="more-1312"></span></p>
<blockquote><p>　午後になり、客足が途絶え、カメラマンがフィルムの整理を始めると、僕は大晦日から手をつけていた本を開いて毎日車の中で読みふけった。その本は、或る有徳の女性仏教者が晩年に著した随想集で、釈尊の教えをわかりやすく弁じたものだったが、幾度か読み返すに値する立派な文章だった。たとえば「生きるということ」と題された一文では、釈尊の有名な「四門遊観」の説話を紹介した上で、彼女は次のように記していた。</p>
<p>　――若い日の私は、この伝説を実によそよそしい作りごととして聞いた。時には、大事なお釈迦さまをこんなひ弱な世間知らずに仕立ててよいものだろうかとさえ思って反発した。しかし７０年近くを生きて来てみて、まさに老いが至り、その老いは必然として病を含み、その向こうに死が見えるようになった今、ここに語られている言葉の一つ一つの真実にほとほと驚嘆し、そうだ、そうだ、全くその通りだ、生きるということは、そういうことだったのだ、人間存在から、若さや、美しさや、愛や、情念や、富や、地位や、世間的能力など、うつろい行くものすべてを、ささらでも使って根こそぎかきだしてみれば、あとに残る骨組みは万人共通の老・病・死があるばかりだったのだ。自分をはじめ人は誰でも、老いに直面し、死に直面してみてはじめてそのことに気がつく、いやもしかしたら、気づくことさえなく死ぬのかも知れない。<br />
　それに対して釈尊は、漆黒の髪を持ち、人生の花開いた美しい青春の日に、生存のまごうかたなき骨組みを、老・病・死の「苦」とうけとめた。しかもそれを、生存するものすべて（一切衆生）の苦ととらえ、その苦を超える道を求めて出家された。何という宇宙大の感性、何という宇宙大の優しさ――更に私が喜悦するのは、若き日の釈尊は老・病、死が万人にとってまぬがれがたい真実であるにもかかわらず、人がそれをいとわしく思う底に、<br />
<br />
　若さには　老いに対する<br />
　健康者には　病者に対する<br />
　生きているものには　死者に対する<br />
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　無意識の優越感、傲慢の思いがあるということに思い至ったと伝えられることである。ああ７０年を生きてかかえこんだ私のこの腐ったはらわたをつかみ出して見せてくれるこんな言葉を、一体他の誰が私の耳もとで語ってくれるだろうか。これほどわかり易く、これほど理路整然と――。<br />
<br />
　そして後段で彼女は、現在の自らの心境を以下のように書いているのだった。<br />
<br />
　――老・病・死をかかえこんだ髑髏（どくろ）にいのちの衣をきせたのが「生」というものであるならば、ひとときまとうその衣は、出来得れば美しくたおやかでありたい。<br />
　日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有り難い。<br />
　活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくことだと納得すれば、心やすらぐ。</p></blockquote>
<p>　仏教で「生死一如」という言葉がありますが、生きるということは死に近づくこと、生と死は常に隣り合わせで切り離せることは出来ません。<br />
「日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿」であり、「活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくこと」という思いを持ち続けることが、美しく、たおやかな、いのちの衣を着ることが出来るのだと思いました。<br />
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		<title>白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（２）</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Sep 2008 15:00:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[
白石一文
僕のなかの
壊れていない部分
　白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（１）の続きです。

　ノンフィクション作家の、実母の死を看取る場面が生々しいです。自分も、母親の死に目に立ち合うことが出来、ある意味幸せなことだったと思いますが、その記憶は強烈に脳裏に焼きついています。まさに「老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦い」という表現の通りでした。

　母は浄土真宗の話を聞いていたことがあり、そのためか、臨終３日前に、衰弱した体にもかかわらず、力強く父の腕を握り、「阿弥陀様が助けに来てくれたよ！　阿弥陀様が助けに来てくれたよ！」と繰り返し、大きな声で言っていました。どんな孤独な戦いをしたのかは想像にも及びませんが、死を「乗り切る」こととはどういうことか、考えさせられる場面です。

僕はさっきまで読んでいた原稿のことを考えていた。筆者は女性のノンフィクション作家で、彼女が３９歳のときに実母が脳貧血で倒れて身体の自由も言葉も奪われてしまうという体験をする。原稿は、半年ほど前に亡くなったその母親を、老いた父と共に介護しつづけた以後１３年間にわたる彼女の悪戦苦闘を克明に綴ったもので、半ば私小説とも言うべき迫真の作品であった。
　終章で母の死を看取る場面が詳細に描写されている。
　――深夜、明りを落とした部屋で、私は母と二人きりだった。ベッドのそばに座って私は母の手をさすり続けていた。母の胸はふいごのように激しく音を立てていた。ずっと苦しそうだった。誰もなにも言わなかったが、母が死に向かって助走を始めたのだと、私は気がついていた。もうなにを言っても母は答えなかったし、表情を変えることもなかった。見開いた目はぼうっと宙を捉えていた。母はもう休みたがっているように見えた。平穏な眠りにつきたがっているように思えた。が、肉体がそれを許さない、まだ駄目だ、まだ駄目だと、母を強引に引き止めているようだった。
　だが、今、母は苦しそうだった。もう、こんなこといい、と言っているようだった。私は母の激しい呼吸に合わせて呼吸をした。でも、苦しみを共有することなどできなかった。母は一人で闘っていた。徹頭徹尾、それは孤独な闘いだった。
　私はもう、頑張って、とは言えなかった。できることなら、喉の管をはずし、酸素を止め、なにもかも終わりにしてあげたかった。後戻りできないゴールに向かって、母は、一人でただ走っていた。その姿をひたすら見つづけている私の時間の観念は失われ、それからは時がたつのも気づかなかった。
　朝７時半を過ぎた頃だ。医師から電話があった。変わりはないが、ずっと息が苦しそうなんです、と言うと、朝一番で看護婦をこちらから派遣すると言われた。
　その直後だった。母の呼吸がさらに激しくなった。まるで、急な坂道を必死であえぎあえぎ登る機関車のように、シュワーッ、シュワーッと息を吐き、身体が持ち上がり、胸が大きく波打った。その激しさに思わず、横たわる母に抱きつき「おかあさん」と呼んで必死で抱きかかえた。私の腕の中で母が深々と息を吸い、胸がきしみ声をあげた。そして、突如、機関車が急停車したように母の息が止まった。一瞬、あたりが静寂に包まれ、母の口許から管がぽろりと落ちた。
「お父さん、お母さんの息が止まった……」
　父は茫然自失としてそこに立っていた。それから「そうか」と言った。
　老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない。
　だから、「人が死ぬということは、こういうことなのよ」と母はこの日、私にしかと教えてくれたのだ。
　大丈夫。やれる。きっと。お母さん、あなたのように、私も。同じようにやれる。
　僕は会社で、この文章を息を詰めながら何度も繰り返し読んだ。死は最後は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない、という。そして彼女は宣言していた。自分も同じようにやれる――と。しかし、僕は思った。死が戦いだとすれば、一体何に対する誰のための戦いなのだろうか。また死を自力で乗り切るとは一体どういうことなのだろうか。
　――かあちゃんは、この作者の母、さらにはこの作者のように、どれほどか困難な死というものを果たして自力で乗り切れるだろうか。
　僕は歩きながら、そう考えると胸苦しくなってくるような気がした。
　死とは本当は取るに足らない、なんでもない現象に違いない。死に際しての苦痛は生と死の転換点を苦闘物語として演出するし、過去の累積された記憶は本人やその身近に佇む人間たちを、深い未練の沼に誘い込む。しかしそれは死という現象のいわば周辺機器であって決して本体ではない。
　死の本体とは、誰にでも必ず起こる事実――つまりは誕生と並ぶ人間にとって唯一無二の絶対現象というだけで、それ以上のことは実のところ誰にも分かってはいないのだ。死を正確に形容するとすれば、それはやはり「取るに足らない」、「ありふれた」、「平凡な」出来事と言う以外にはあるまい。
　それでも、と僕はかねてから思っているのだった。
　僕たちは、その死の先にあるものを、たとえ不可能であっても必死に思考せねばならない。この作者の言うように死が「乗り切る」ものだとするならば、僕達は是が非でも、その乗り切った先にあるものの正体を掴まなければならないのだ、と。
　だが、かあちゃんにはそんなことは絶対に無理だ。だから、僕は、かあちゃんは無事に死を「乗り切る」ことができないのではないかと考え込んでしまう。
（５１ページ）
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もったいないオバケ


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僕のなかの<br />
壊れていない部分</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=charlie432-22&#038;l=ur2&#038;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div>
<p>　<a href="http://charlie432.blog92.fc2.com/blog-entry-778.html" target="_blank">白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（１）</a>の続きです。<br />
<br />
　ノンフィクション作家の、実母の死を看取る場面が生々しいです。自分も、母親の死に目に立ち合うことが出来、ある意味幸せなことだったと思いますが、その記憶は強烈に脳裏に焼きついています。まさに<b>「老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦い」</b>という表現の通りでした。<br />
<br />
　母は浄土真宗の話を聞いていたことがあり、そのためか、臨終３日前に、衰弱した体にもかかわらず、力強く父の腕を握り、「阿弥陀様が助けに来てくれたよ！　阿弥陀様が助けに来てくれたよ！」と繰り返し、大きな声で言っていました。どんな孤独な戦いをしたのかは想像にも及びませんが、死を「乗り切る」こととはどういうことか、考えさせられる場面です。</p>
<p><span id="more-1288"></span></p>
<blockquote><p>僕はさっきまで読んでいた原稿のことを考えていた。筆者は女性のノンフィクション作家で、彼女が３９歳のときに実母が脳貧血で倒れて身体の自由も言葉も奪われてしまうという体験をする。原稿は、半年ほど前に亡くなったその母親を、老いた父と共に介護しつづけた以後１３年間にわたる彼女の悪戦苦闘を克明に綴ったもので、半ば私小説とも言うべき迫真の作品であった。<br />
　終章で母の死を看取る場面が詳細に描写されている。</p>
<blockquote style="background-color:#FFFFFF;"><p>　――深夜、明りを落とした部屋で、私は母と二人きりだった。ベッドのそばに座って私は母の手をさすり続けていた。母の胸はふいごのように激しく音を立てていた。ずっと苦しそうだった。誰もなにも言わなかったが、母が死に向かって助走を始めたのだと、私は気がついていた。もうなにを言っても母は答えなかったし、表情を変えることもなかった。見開いた目はぼうっと宙を捉えていた。母はもう休みたがっているように見えた。平穏な眠りにつきたがっているように思えた。が、肉体がそれを許さない、まだ駄目だ、まだ駄目だと、母を強引に引き止めているようだった。<br />
　だが、今、母は苦しそうだった。もう、こんなこといい、と言っているようだった。私は母の激しい呼吸に合わせて呼吸をした。でも、苦しみを共有することなどできなかった。母は一人で闘っていた。徹頭徹尾、それは孤独な闘いだった。<br />
　私はもう、頑張って、とは言えなかった。できることなら、喉の管をはずし、酸素を止め、なにもかも終わりにしてあげたかった。後戻りできないゴールに向かって、母は、一人でただ走っていた。その姿をひたすら見つづけている私の時間の観念は失われ、それからは時がたつのも気づかなかった。<br />
　朝７時半を過ぎた頃だ。医師から電話があった。変わりはないが、ずっと息が苦しそうなんです、と言うと、朝一番で看護婦をこちらから派遣すると言われた。<br />
　その直後だった。母の呼吸がさらに激しくなった。まるで、急な坂道を必死であえぎあえぎ登る機関車のように、シュワーッ、シュワーッと息を吐き、身体が持ち上がり、胸が大きく波打った。その激しさに思わず、横たわる母に抱きつき「おかあさん」と呼んで必死で抱きかかえた。私の腕の中で母が深々と息を吸い、胸がきしみ声をあげた。そして、突如、機関車が急停車したように母の息が止まった。一瞬、あたりが静寂に包まれ、母の口許から管がぽろりと落ちた。<br />
「お父さん、お母さんの息が止まった……」<br />
　父は茫然自失としてそこに立っていた。それから「そうか」と言った。<br />
　老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない。<br />
　だから、「人が死ぬということは、こういうことなのよ」と母はこの日、私にしかと教えてくれたのだ。<br />
　大丈夫。やれる。きっと。お母さん、あなたのように、私も。同じようにやれる。</p></blockquote>
<p>　僕は会社で、この文章を息を詰めながら何度も繰り返し読んだ。死は最後は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない、という。そして彼女は宣言していた。自分も同じようにやれる――と。しかし、僕は思った。死が戦いだとすれば、一体何に対する誰のための戦いなのだろうか。また死を自力で乗り切るとは一体どういうことなのだろうか。<br />
　――かあちゃんは、この作者の母、さらにはこの作者のように、どれほどか困難な死というものを果たして自力で乗り切れるだろうか。<br />
　僕は歩きながら、そう考えると胸苦しくなってくるような気がした。<br />
　死とは本当は取るに足らない、なんでもない現象に違いない。死に際しての苦痛は生と死の転換点を苦闘物語として演出するし、過去の累積された記憶は本人やその身近に佇む人間たちを、深い未練の沼に誘い込む。しかしそれは死という現象のいわば周辺機器であって決して本体ではない。<br />
　死の本体とは、誰にでも必ず起こる事実――つまりは誕生と並ぶ人間にとって唯一無二の絶対現象というだけで、それ以上のことは実のところ誰にも分かってはいないのだ。死を正確に形容するとすれば、それはやはり「取るに足らない」、「ありふれた」、「平凡な」出来事と言う以外にはあるまい。<br />
　それでも、と僕はかねてから思っているのだった。<br />
　僕たちは、その死の先にあるものを、たとえ不可能であっても必死に思考せねばならない。この作者の言うように死が「乗り切る」ものだとするならば、僕達は是が非でも、その乗り切った先にあるものの正体を掴まなければならないのだ、と。<br />
　だが、かあちゃんにはそんなことは絶対に無理だ。だから、僕は、かあちゃんは無事に死を「乗り切る」ことができないのではないかと考え込んでしまう。<br />
（５１ページ）</p></blockquote>
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		<title>白石一文 / 僕のなかの壊れていない部分（１）</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Sep 2008 15:00:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[
白石一文
僕のなかの
壊れていない部分
　まだ読み始めたばかりで、５０ページも読んでいないのですが、これは良い！と思える予感のする本です。そもそもタイトルからして良いと思います。

　主人公は出版社に勤務する２９歳の「僕」、少しひねくれた人格として描かれているようにも思えますが、思考や発言には同調できる部分が多く、また深い示唆に富んでいると思います。

　普通なら、全部読み終えてから感想を書くところですが、後から振り返って書こうとしても忘れてしまいそうなので、この際、メモを取りながら読み進めて行こうと思いました。

　以下、枝里子という女性との旅の最中、彦根城での会話です。「生」と「死」について考えさせられます。

　彦根城の天守は、かの大隈重信が廃城撤去の寸前に視察に訪れ、その威容を惜しみ、わざわざ明治天皇に奏上して残したというだけはあって、さすがに立派なものだった。といってもこの天守は京極高次の居城・大津城から移築されたもので、それでいえばここの天秤櫓も、元は秀吉ゆかりの長浜城の櫓だという。
　胸を突くような急な階段を上り、三層三階の天守の最上階にのぼって北西の眼下に広がる琵琶湖を間近に望みながら、僕がそんな話をすると、
「昔もそうやってちゃんとリサイクルしてたんだ」
と枝里子が言う。
「そりゃあそうだよ。城の造営というのは莫大な費用がかかる大事業だからね。合戦のたびに火をかけて燃やしたりもしたけど、焼け残った築材や石垣はちゃんと再利用してたんだよ。でなきゃ金も時間もかかって仕方ないからね」
「戦国の殿様たちも、経済観念は以外にしっかりしてたので」
「当たり前だよ。彼らはいまの人間よりはるかにちゃんと生きていたからね」
「だけど戦争ばっかりしてたわけでしょ」
「その分、彼らは死ぬことを知ってた。死ぬことを知らなくては人はきちんとは生きられないだろ」
「じゃあ、あなたは死ぬことを知ってるの」
「いや。僕はただ生まれてこなければよかったと毎日思って生きてるだけだけどね」
「また、変ちくりんなことばっかり」
　枝里子は僕の手をとって一緒に晴れ渡った景色を見つめる。穏やかな湖面にはさざ波ひとつなかった。しばらく黙ったあと、彼女は、
「生まれてこなきゃよかったなんて言っちゃいけないわ。そんなこと言ったらきっと罰が当たるわよ。生きたくても生きられない人たちも沢山いるのに」
と言った。
　僕はその言葉に、ふと、かあちゃんのことを思った。
　あの人も、やはり生きつづけたいと念じながら、今日この時この瞬間を病院のベッドの上でやり過ごしているのだろうか」
「そういう人は、一体いつまで生きれば、もういいって思えるんだろうか……」
　僕は小さな声で、別に枝里子に言うでもなく呟いてみた。
「そういう人って」
　彼女が訊き返す。
「だから、生きたくても生きられない人たちだよ」
　僕はちりちりと照り返す湖面から目を離さずに、枝里子の手を強く握り返した。
「どうしても生きたい人がいたら、こんな僕の命でよければいつでもあげていいような、そんな気がするよ。だけど、そうやって仮に僕の限りある命をその人に渡したとしたって、やがて何十年かすれば、再び生きたくても生きられなくなる時間がやってくる。そしたら、その人はまたきっと『どうしても生きたい』と言いだすんじゃないかな」
「でも、あと一年でもいいからって、死にそうな人はみなそう思ってるんじゃない？」
「じゃあ、一年たったら死んでもいいってこと」
「気持ちとしては、そうじゃないかな。そうやって自分の死を受け入れる準備をしたいんじゃないかな」
「そうだろうか……」
　少し考えてみる。死ぬことに準備などあるのか？　準備というのなら生きていることそれ自体がまるまる死ぬための準備ではないのか？
　そして僕は言った。
「僕はそうならないと思うよ。あと一年余計に生きられたとしたら、きっとみんな必死に生きようとするばかりで、死ぬときはただ一年前よりはっきりと諦めがつくだけのことだと思う」
「その諦めがきっととても大切なのよ」
　枝里子がすかさず言い返す。
　だが、僕はそうは思わなかった。諦めるなんてことが大切なことであるはずがないし、大したことのはずもない。諦めとは所詮、一瞬の覚悟にすぎないのだから。それに、諦めることが「きっととても大切」というのなら、「生まれてこなきゃよかった」というのがどうして「きっと罰が当たる」ようなことなのか。
　枝里子の言うことは、聞き流す分にはいかにももっともらしいが、ちょっと子細に検討してみると、いつだってこんな風にいい加減で整合性が薄い、と僕は感ずる。

（１７ページ）
　これを読んで思い出したのが、良寛とある老人との逸話です。『光に向かって１２３のこころのタネ』（高森顕徹：著）という本で読みました。
(82)　死なぬ祈祷をお頼みします　本音を吐いた八十翁

「まだやりたい事があるので、今しばらく、長命の祈祷をお願いしたい」
　　　　　８０歳の人が高徳の噂を聞いて良寛の所へやって来た。
「長命と言っても一体、何歳くらいまでお望みかな。それが分からぬと祈祷のしようがない」
「９０では１０年しかない、１００歳までお願いしましょうか」
「あとたった２０年。１０１になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願い出来ましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ１５０歳までいかがでしょう」
「１５０歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても……」
「そんな遠慮は無用じゃ」
　それでは２００歳、３００歳と、次第に寿命をせりあげてくる可笑しさに
　　　　　耐えながら良寛、
「どうせお願いするついでだ。本心言ってみなされ」
　　　　　　　　　　　　と促すと、
「それじゃ、いっそのこと、死なぬ祈祷をお頼みします」。
　　　　　　とうとう本音を吐いたという。
　ある人が、数人の友達にフグをご馳走したが、中毒を恐れてだれも食べない。
そこへ一人の旅人がやってきた。
　試しに一皿すすめたがなんともなかったので、それなら大丈夫とみな安心して
　　　　　　　食べる。
　後で旅人に“うまかったか”とたずねると、
「もう、あなた方は食べられましたか。それでは私もこれから頂きましょう」
と言ったという。
　一休の再来と騒がれた博多の禅僧。仙崖が臨終を迎えた。
「ぜひ最後の、ご教訓を」
と弟子たちが紙と筆を捧げてお願いすると、
　　　　　　　「死にともない、死にともない」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　とだけ書かれている。
　どんな尊い辞世が貰えるかと、固唾をのんでいた弟子たちは、あれほど大徳といわれた高僧の、これが辞世とあっては師匠の徳にキズがつく、なんとかせねばと協議の末、
「先ほどのお言葉も結構ではありますが、いま一つお言葉を……」
と再度お願いすると、快諾して、くれた書面を見て仰天した。
　先ほどの言葉の上に“ほんまに、ほんまに”と
　　　　　　　　　　　　つけ加えられていただけだったという。
　　　誰しも究極の願いは変わらぬようだ。
　どこで読んだかは忘れましたが、人間の五願というのがあって、その最後が「死んでも命がありますように」というものだそうです。

「あと少しでいいから生きたい」と言って、あと少したっても、その心は変わらないのだと思います。死を迎えたとき「諦め」ることが肝要と聞けば、その通りと思いがちですが、そこには人間の究極の望みが忘れられているのかもしれません。

　枝里子の、もっともらしい考え方を、「いい加減で整合性が薄い」と感ずる僕の考察はにはなるほどと思いました。

　人間の生きる目的は、諦めとは異なる「死んでも悔い無し」と思えることがあるならば、長生きすることではないことが知らされます。長く生きることは、その目的にむかう「手段」だと思います。
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僕のなかの<br />
壊れていない部分</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=charlie432-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div>
<p>　まだ読み始めたばかりで、５０ページも読んでいないのですが、<span style="font-size:xx-large;font-weight:bold;color:#FF0000;">これは良い！</span>と思える予感のする本です。そもそもタイトルからして良いと思います。<br />
<br />
　主人公は出版社に勤務する２９歳の「僕」、少しひねくれた人格として描かれているようにも思えますが、思考や発言には同調できる部分が多く、また深い示唆に富んでいると思います。<br />
<br />
　普通なら、全部読み終えてから感想を書くところですが、後から振り返って書こうとしても忘れてしまいそうなので、この際、メモを取りながら読み進めて行こうと思いました。<br />
<br />
　以下、枝里子という女性との旅の最中、彦根城での会話です。「生」と「死」について考えさせられます。</p>
<p><span id="more-1285"></span></p>
<blockquote><p>　彦根城の天守は、かの大隈重信が廃城撤去の寸前に視察に訪れ、その威容を惜しみ、わざわざ明治天皇に奏上して残したというだけはあって、さすがに立派なものだった。といってもこの天守は京極高次の居城・大津城から移築されたもので、それでいえばここの天秤櫓も、元は秀吉ゆかりの長浜城の櫓だという。<br />
　胸を突くような急な階段を上り、三層三階の天守の最上階にのぼって北西の眼下に広がる琵琶湖を間近に望みながら、僕がそんな話をすると、<br />
「昔もそうやってちゃんとリサイクルしてたんだ」<br />
と枝里子が言う。<br />
「そりゃあそうだよ。城の造営というのは莫大な費用がかかる大事業だからね。合戦のたびに火をかけて燃やしたりもしたけど、焼け残った築材や石垣はちゃんと再利用してたんだよ。でなきゃ金も時間もかかって仕方ないからね」<br />
「戦国の殿様たちも、経済観念は以外にしっかりしてたので」<br />
「当たり前だよ。彼らはいまの人間よりはるかにちゃんと生きていたからね」<br />
「だけど戦争ばっかりしてたわけでしょ」<br />
「その分、彼らは死ぬことを知ってた。死ぬことを知らなくては人はきちんとは生きられないだろ」<br />
「じゃあ、あなたは死ぬことを知ってるの」<br />
「いや。僕はただ生まれてこなければよかったと毎日思って生きてるだけだけどね」<br />
「また、変ちくりんなことばっかり」<br />
　枝里子は僕の手をとって一緒に晴れ渡った景色を見つめる。穏やかな湖面にはさざ波ひとつなかった。しばらく黙ったあと、彼女は、<br />
「生まれてこなきゃよかったなんて言っちゃいけないわ。そんなこと言ったらきっと罰が当たるわよ。生きたくても生きられない人たちも沢山いるのに」<br />
と言った。<br />
　僕はその言葉に、ふと、かあちゃんのことを思った。<br />
　あの人も、やはり生きつづけたいと念じながら、今日この時この瞬間を病院のベッドの上でやり過ごしているのだろうか」<br />
「そういう人は、一体いつまで生きれば、もういいって思えるんだろうか……」<br />
　僕は小さな声で、別に枝里子に言うでもなく呟いてみた。<br />
「そういう人って」<br />
　彼女が訊き返す。<br />
「だから、生きたくても生きられない人たちだよ」<br />
　僕はちりちりと照り返す湖面から目を離さずに、枝里子の手を強く握り返した。<br />
「どうしても生きたい人がいたら、こんな僕の命でよければいつでもあげていいような、そんな気がするよ。だけど、そうやって仮に僕の限りある命をその人に渡したとしたって、やがて何十年かすれば、再び生きたくても生きられなくなる時間がやってくる。そしたら、その人はまたきっと『どうしても生きたい』と言いだすんじゃないかな」<br />
「でも、あと一年でもいいからって、死にそうな人はみなそう思ってるんじゃない？」<br />
「じゃあ、一年たったら死んでもいいってこと」<br />
「気持ちとしては、そうじゃないかな。そうやって自分の死を受け入れる準備をしたいんじゃないかな」<br />
「そうだろうか……」<br />
　少し考えてみる。死ぬことに準備などあるのか？　準備というのなら生きていることそれ自体がまるまる死ぬための準備ではないのか？<br />
　そして僕は言った。<br />
「僕はそうならないと思うよ。あと一年余計に生きられたとしたら、きっとみんな必死に生きようとするばかりで、死ぬときはただ一年前よりはっきりと諦めがつくだけのことだと思う」<br />
「その諦めがきっととても大切なのよ」<br />
　枝里子がすかさず言い返す。<br />
　だが、僕はそうは思わなかった。諦めるなんてことが大切なことであるはずがないし、大したことのはずもない。諦めとは所詮、一瞬の覚悟にすぎないのだから。それに、諦めることが「きっととても大切」というのなら、「生まれてこなきゃよかった」というのがどうして「きっと罰が当たる」ようなことなのか。<br />
　枝里子の言うことは、聞き流す分にはいかにももっともらしいが、ちょっと子細に検討してみると、いつだってこんな風にいい加減で整合性が薄い、と僕は感ずる。<br />
<br />
（１７ページ）</p></blockquote>
<p>　これを読んで思い出したのが、良寛とある老人との逸話です。<a href="http://www.10000nen.com/book/123tane/123tane.htm" target="_blank">『光に向かって１２３のこころのタネ』</a>（高森顕徹：著）という本で読みました。</p>
<blockquote><p><b><u>(82)　死なぬ祈祷をお頼みします　本音を吐いた八十翁</u></b><br />
<br />
「まだやりたい事があるので、今しばらく、長命の祈祷をお願いしたい」<br />
　　　　　８０歳の人が高徳の噂を聞いて良寛の所へやって来た。<br />
「長命と言っても一体、何歳くらいまでお望みかな。それが分からぬと祈祷のしようがない」<br />
「９０では１０年しかない、１００歳までお願いしましょうか」<br />
「あとたった２０年。１０１になれば死なねばならぬが、いいかな」<br />
「もっと、お願い出来ましょうか」<br />
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」<br />
「それじゃ１５０歳までいかがでしょう」<br />
「１５０歳でよろしいか」<br />
「あんまり厚かましくても……」<br />
「そんな遠慮は無用じゃ」<br />
　それでは２００歳、３００歳と、次第に寿命をせりあげてくる可笑しさに<br />
　　　　　耐えながら良寛、<br />
「どうせお願いするついでだ。本心言ってみなされ」<br />
　　　　　　　　　　　　と促すと、<br />
「それじゃ、いっそのこと、死なぬ祈祷をお頼みします」。<br />
　　　　　　とうとう本音を吐いたという。<br />
　ある人が、数人の友達にフグをご馳走したが、中毒を恐れてだれも食べない。<br />
そこへ一人の旅人がやってきた。<br />
　試しに一皿すすめたがなんともなかったので、それなら大丈夫とみな安心して<br />
　　　　　　　食べる。<br />
　後で旅人に“うまかったか”とたずねると、<br />
「もう、あなた方は食べられましたか。それでは私もこれから頂きましょう」<br />
と言ったという。<br />
　一休の再来と騒がれた博多の禅僧。仙崖が臨終を迎えた。<br />
「ぜひ最後の、ご教訓を」<br />
と弟子たちが紙と筆を捧げてお願いすると、<br />
　　　　　　　「死にともない、死にともない」<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　とだけ書かれている。<br />
　どんな尊い辞世が貰えるかと、固唾をのんでいた弟子たちは、あれほど大徳といわれた高僧の、これが辞世とあっては師匠の徳にキズがつく、なんとかせねばと協議の末、<br />
「先ほどのお言葉も結構ではありますが、いま一つお言葉を……」<br />
と再度お願いすると、快諾して、くれた書面を見て仰天した。<br />
　先ほどの言葉の上に“ほんまに、ほんまに”と<br />
　　　　　　　　　　　　つけ加えられていただけだったという。</p>
<p>　　　<b>誰しも究極の願いは変わらぬようだ。</b></p></blockquote>
<p>　どこで読んだかは忘れましたが、<b>人間の五願</b>というのがあって、その最後が「死んでも命がありますように」というものだそうです。<br />
<br />
「あと少しでいいから生きたい」と言って、あと少したっても、その心は変わらないのだと思います。死を迎えたとき「諦め」ることが肝要と聞けば、その通りと思いがちですが、そこには人間の究極の望みが忘れられているのかもしれません。<br />
<br />
　枝里子の、もっともらしい考え方を、「いい加減で整合性が薄い」と感ずる僕の考察はにはなるほどと思いました。<br />
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