★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年10月28日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
宮崎学 / 突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五十年 – (3)
(2)の続きです。
14、5のガキの頃は、働くということがとてつもなく大人っぽいことに思え、妙な憧れのようなものを抱くものらしい。それにエネルギーに溢れ、自分の身体をもて余し気味であったから、日曜日や夏休みは父親の会社でアルバイトをすることにした。組員や鳶らと解体現場で働くのは楽しいことだったし、家計のやり繰りに苦労しているおふくろを思って小遣いくらいは自分で稼ごうという気持ちも少しはあった。
当時の解体は、現在のようにショベルカーで闇雲にぶち壊すという味もそっ気もないものではなく、職人芸の世界だった。大工が建物を建てるのとまったく逆の工程、つまり屋根の瓦をはがすのに始まって最後は土台を撤去することで終えるのだが、柱や小さな木材はもちろん、釘に至るまですぐさま再利用できるように丁寧に壊していく。若衆がぞんざいに釘をねじ曲げて抜いたりすると大変だった。年配の組員がすっ飛んできて、「このドアホが! 半端しやがって!」と思い切りぶん殴る。釘を抜くようなささいなことにまで技量と精根を傾け、それを誇りにするような職人気質がまだ残っていた。
こんな連中だから、身体や命に執着するのを嫌う気風があった。ことに高所で危険な作業に携わる鳶たちにはそれが顕著で、仲間が危険に瀕したときは命懸けで救うのを当たり前のことと考えていた。実際、仲間を救おうとして高所から転落して大怪我をしたのを何度か実見している。日頃はボロクソにいっていながら、目下の者の危難に年配者が身体を張ることもよくあった。これは江戸時代以来の鳶社会の伝統なのだろうが、その行為と心性はやはり感動的だった。
身体の扱いもいい加減極まりなかった。解体現場では古釘がいっぱいあり、それを踏んで怪我するのは再々のことである。私も五寸釘が足の甲まで突き抜けたことがあった。古釘の傷は破傷風を誘発することが多いため治療が必要で実際手当てをするのだが、これがなんともいい加減なものだった。マッチ棒を短く切って、火をつける頭の部分が傷口からのぞくように傷口に突っ込み、それに火をつけて灼くだけ。
これは実に痛い。だが、痛いなどといえば「それでも男か、ボケ!」と怒鳴られるし、灼いた途端に地下足袋を履きなおして仕事にかからなければ「いつまで遊んどるんじゃ、ボケ!」とどやしつけられる。解体現場では、私ら若い連中は殴られ怒鳴られの連続だった。
それまで博打や喧嘩をしているヤクザな部分しか知らなかった寺村ファミリーの面々と仕事をして、私は連中を見直すようになった。一転して仕事場ではみんなキリッとしているし、父親にしても現場ではなかなかの職人で仕事ぶりも真剣だった。それになによりも連中には仲間や関係者との絆を自分の命より重くみたり、一身を顧みずに目下の者を助ける「侠」のごときものがあった。
これはやはり、格好のいいものだった。「俺もこんな生き方をしたい」と、つい思い込ませられもした。それやこれやで土建の仕事が楽しくもあり、中学から高校にかけてずっと父親の会社のアルバイトを続けた。
アルバイトを続けることで、私は次第に寺村ファミリーの一員として若衆たちから認知されるようになった。中学2年のときに、若衆の私に対する見方を変えるちょっとした出来事があった。大阪の高級料亭で開かれた解体工事の談合の席でのことである。父親は大阪造幣局などの大阪の工事もよく請け負っており、この談合も大阪の大きな工事をめぐってのものだった。
「談合に行くんで一緒に来いと、おやっさんがいうとるんやけど」
見習いの若衆が学校に呼び出しにきた。それを聞いて、「今度は俺が少年鉄砲玉の番か」と思った。この役割はかつては兄貴がやっていたのだが、兄貴が立命館大を中退してヤクザになったために私にそのお鉢がまわってきたのである。
この当時はヤクザも多い荒っぽい業界だったから、談合といっても穏やかな話し合いではなく、腕力勝負で請負業者が決まった。「こいつに逆らったら何をされるかわからん」という恐怖感を相手に与えて、入札を力でもぎ取るのである。ささいなことにいんねんをつけて「何をぬかしとんじゃ、こら!」といきなり殴りつけて競争相手を降ろすのが手っ取り早い常套手段になっていた。父親もこの手をよく使ったらしい。
ただ、この手はヤクザ同士では通用するが、相手が堅気だと難点がある。ヤクザが堅気を公然と殴るのは格好のいい話ではないし、警察沙汰になることもあるからだ。そこで登場するのが、堅気でしかも未成年の私というわけである。
立派な料亭の大広間に十数人の業者が集まっていた。全員土建屋の親方だけに、貫禄というか迫力があり、みんなどう見ても堅気とは思えない。身なりも立派な背広やニッカーボッカーなどで、土建屋の談合以外の何ものでもない雰囲気だった。私はニッカーボッカー姿の父親の横の席に、急遽着替えたニッカーボッカー姿で坐った。
冒頭からひとしきり悶着があった。殴り合いこそなかったものの、脅しめいた文句や怒号が飛びかった。もちろん談合は初体験だったが、中学生相手のチャラチャラした喧嘩の啖呵とは別世界の言葉のやりとりは震えがくるほど迫力があった。しばらくしてヤクザらしい業者は全員降りた。父親との間で事前に話がついていたのである。父親の脅しやすかしで堅気の業者も降り、最後に四国からきた業者が一人残った。そして、
「わざわざ四国からきたんやから、手ぶらで帰るわけにはいかん」
と執拗にいいつのる。うんざりした顔で聞いていた父親が私に向かって小声で「一発、どついてこい」といった。前もって父親からこんなことになるかもしれないと聞いていた私は、仕方なく立ち上がって四国の業者の席に向かった。大勢の注視を浴びていると思うと、気持ちが上ずって雲の上を歩いているような気分だった。それでも、なんとか気をふるい立たせて、
「おっさん! いつまでごじゃごじゃぬかしとんじゃ、こらっ!」
と一丁前に怒鳴りつけ、頬をひとつ張り飛ばした。ひどく硬い頬だった。
「こッ、この、くそガキ! 何をするんぞ!」
でっぷり太った赤ら顔を朱に染め、しばらく口をわなわな震わせた後で、おっさんが喚(わめ)いた。四国から大阪に乗り込んでくるくらいだから、堅気とはいえ海千山千に違いはない。だが、子供に叩かれた衝撃ですっかり調子が狂ってしまい、後は急に意気阻喪状態となった。
相手が子供では本気で喧嘩するわけにもいかなかっただろうし、「こんなガキまでがどつきにくるのだから、これ以上突っ張ったら後で何をされるか知れたものではない」という恐怖もあったのだろう。他の業者はといえば、大半が笑い顔で事の推移を眺めていた。結局、父親の会社が談合を制した。父親は上機嫌で全業者に談合金をばらまき、私にもかなりの額の小遣いをよこした。
その直後に恒例の博打が開帳された。びっくりしたことに、四国のおっさんも何事もなかったかのような顔で参加していた。あれだけの厳しい談合の後で一体これは何なのだと、わけがわからなかった。後で父親が「談合なんちゅうもんは出たとこ勝負で、一寸先は闇や。こっちがなんぼ命懸けで気張っても、もっと強いのが出てきたら、それでしまいや」というのを聞いて、要するに「やるだけやって、駄目なら仕方がない」という一発主義の世界なのだろうと思った。
父親は「どうや、土建屋のことがちっとはわかったか?」ともいった。父親にすれば教育のつもりもあったのだろう。後日、談合のことは「ぼん、ようやってくれましたな」と寺村の若衆に大いに喜ばれた。「ぼん」ではなくファミリーの一員として初めて認知されたような気がして、内心はやはり嬉しかった。
寺村ファミリーの論理は単純極まりないものであた。子供だろうが女だろうが、ファミリーに属する者にはそれぞれの役割があり、個々がその役割を果たしながら、どんなことをしてでも仕事を取ってくる。そして、その仕事で得た金を全員にばらまく。基本的にはこの論理だけで成り立っていた。いうなれば徹底した身内、あるいは身贔屓の論理であり、内側に閉ざされた論理でもある。それだけに身内内部の密度やボルテージはきわめて濃厚で高いものであった。その人と人との結びつきのなかで、負担をみんなで担い分けるという貧者の論理がまだ残っていた。
中学時代の私は、そんなファミリーと学校の間を行ったり来たりしていた。(「少年鉄砲玉」p.48~52)




