Home > ★読書 > 著者別(ロシア・ソ連)

著者別(ロシア・ソ連) Archive

ドストエフスキー / 死の家の記録

久々の(ような気がする)読書感想文


『死の家の記録』というタイトルから


連想されるイメージと、


ペトラシェフスキー事件で逮捕されて、


シベリア(オムスク)に4年間抑留された体験記、


ということから、


どんなにか過酷な労働状況が書かれているのか、


と思っていましたが、


意外と淡々とした、第三者的な記述に貫かれた人間観察日記でした。




中には、不衛生な病院の実態の描写は生々しいものがありましたが、


それ以外は、娑婆の世界とさほど変わらないと思いました。


(娑婆とは本来「堪忍土(堪忍しつつ生きる世界)」という意味だそうです)




巻末の解説にもありましたが、


ここでの人達が、後の『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のモデルになったのだろう、


と想像させされます。




名誉や自尊の強い囚人が、何百、何千の笞(鞭:むち)打ちの刑に耐えるとか、


上官の目を盗んで酒やタバコ、博奕(博打:ばくち)を楽しんだり、


自分の過去物語を自慢げに語りあい、


言い争いが起きたり、友情や信頼関係が生まれるなど、


血の通った、生身の人間的なものを感じました。




そして、


冷酷なシベリアの地にあって、囚人たちの苦しみは、


肉体的な労働の厳しさにあるのかと思いきや、


そうでないことが知らされます。




生きる希望を剥奪され、
無目的な労働を強制的に課せられる
事。




これは、囚人であろうがなかろうか、


人間なら共通に感じる苦痛だと思います。


そして、なぜ生きるかを知らず、生きるために生きている人生ならば、


どんな人であっても、意味の無い行為を余儀なくされている人と変わりが無いのでは、とも。






また、囚人たちの望むところは、共通して「自由」ではありますが、


完全なる自由を謳歌している人が世間にいるかといえば、


皆何かしらの不自由を感じている訳で、


本当の自由とは、仏教で説かれている「無碍の一道」であり、


それこそが人生の目的と言えるのだと思いました。








以下、長くなりますが、なるほど、と感銘を受けた箇所です。






最後の場面は、『歎異抄』第9章の


「苦悩の旧里はすてがたく、安養の浄土は恋しからず」


が思い出される、人間の心理ですね。

全文を読む

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

ドストエフスキー / カラマーゾフの兄弟(まんがで読破)

 原作は光文社古典新訳文庫から出ている亀山郁夫さんの訳で読みました。昨年秋のことです。「読みやすい!」ということで評判でしたので。通勤電車の中で、読破するのに4~5ヶ月かかったと思います。


 そして、、、


 この度、マンガ版をたまたま見つけたので、興味本位で買って読んでみると、、、非常に分かりやすいのに驚きました。原作を一度読んだけでは、正直なところ消化不良のところもありましたが、普通のマンガ(たとえば「DMC」など)を読むような感覚ですらすらと、1時間ほどで読了しました。各場面が、どのような必然性から描かれているのか、よく分かりました。実にすっきりまとめられています。


 読む前は、あの大部な『カラマーゾフの兄弟』を本当にこんな1冊にまとめられるのだろうかと思っていましたが、読み終えるとよくぞここまで簡潔に編集したものぞ、と感心させられます。中には「薄っぺらい」「中身がない」「原書に対する冒涜だ」と思われる方もありましょうし、圧巻の大審問官やゾシマ長老の死臭騒動などが端折られていますが、これはこれで良く出来た本だと思います。「分かりやすく読ませる」ことの難しさを克服していると思います。


 背景となる宗教的な知識がなくても充分理解でき、むしろテンポよく読めて爽快です。そもそもこの小説は、3日間の出来事ですし。これを読んで「へぇ~」と思って原作を読み始めるきっかけとなるなら、こういう本は大いにアリだと思います。 


 各キャラクターの絵はこんな雰囲気です↓ 酒に溺れ、金銭、女性をめぐって争う父親ヒョードルと長男ミーチャ、無神論者の次男イワンと純真な三男アリョーシャ、カテリーナとグルーシェニカなど、イメージとピッタリでした。臆病者スメルジャコフも。


カラマーゾフの兄弟 主な登場人物


カラマーゾフ2  カラマーゾフ1




 俺は明日、君(カテリーナ)に3000ルーブル返す。それで俺たちは終わりだ。確かなところから手に入る金だ。心配はいらない。しかし仮にその金が手に入らなくても親父の部屋に3000ルーブルはある! 俺は親父を殺してでも金を手に入れて君に返す。必ずだ!!
ドミートリー・カラマーゾフ
 今この国は病んでいる! 国も人民も省みず、金と利権を貪る腐敗した貴族ども。そいつらに政治は支配され、貧困と差別は増長するばかり。それを野放しにする無能な皇帝!
(富めるものだけが富み、貧しい者は搾取され朽ちていく)
 こんな不平等な社会は間違っているとは思わないのか!? この国を救うためだ…人民を救うためだ…。悪を滅ぼすんだ!
そのとおりだ! 正義は俺たちにある! 神にも裁けぬ悪を裁く! 正義の審問官だ!
 イヤ…ちょっと違うな…。真の正義に神など必要ない! 神に祈りを捧げたところで…誰も救われはしないのだ!
 俺たちは神をも裁く…いわば――…大審問官だ!
 人々に気づかせるんだ! 神の無力さに! 帝政の間違いに! しかし人は信じるものを簡単には捨てられない…。だからこそ我々の手で救わなければならない! あらゆる不幸と悪を廃絶し…すべての人民が平等に暮らす…新たな国を作るんだ!!
 革命だ 神を裁け! 皇帝を倒せ! 自由と幸福を手に入れるんだ!
イワン・カラマーゾフ
 兄さん(イワン)にも良心があるでしょう! 良心こそ心の中にある神の姿です。人はお互いを許し合えない生き物なのかもしれない。それでも…それでも人間は心の中の神に従い、正しくありたいと願っているのです。僕は人間を信じます。兄さんを信じます。
アレクセイ・カラマーゾフ


 出来れば、未完成の部分も有力な説をまとめて描きあげてもらいたい、と思ってしまいました。


 あと、イワンの見る悪魔は、まるでデス・ノートみたいだ、とも(笑)

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

ガルシン / 紅い花 他四篇 (四日間、信号、夢がたり、アッタレーア・プリンケプス)

 知人から沢山本を頂いて、少しずつ読んだ中の一冊、恥ずかしながら、ガルシンという作家は名前すら知りませんでした(汗)


「あとがき」によると、、、


 ガルシンは、1855年2月、南ロシアエカテリノスラーフ県なる母方の領地で生まれ、父方の家系は古くキプチャク汗国時代に発祥すると伝えられる小地主貴族です。
 ペテルブルグの中学卒業直前の17歳のとき、最初の狂疾の発作に襲われて、しばらく精神病院に収容されます。
 1877年4月、一兵卒を志願、ブルガリヤの戦線へ向けての辛労多い行軍に加わり、8月、アヤスラルの激戦で左脚負傷、同月にハリコフの家に後送されます。この療養中に脱稿した作品が『四日間』で、10月、人民派の雑誌として権威のあった「祖国時報」にかかげられ、異常なセンセイションを巻きおこします。


 1888年3月、コーカサスへ転地療養を決心しますが、その出発の朝、迫りくる発狂の恐怖におびやかされ、発作的に階段の上から飛び降り自殺を図ります。そして脚部に致命傷を負い、5日間の苦悶の後に息を引き取ります。
 臨終の床を見舞った友人の「痛むか」という問いに、彼は心臓を指さしながら、「ここの苦しみに比べれば、こんな痛みは何でもない」と答えたと伝えられます。
 その33年の短い生涯を通じて完成された作品は20篇に満たず、業績は決して大きくはないのであるが、しかも彼が長く愛慕されるゆえんは、その病弱の身をもってあの窒息せんばかりの空気のなかに、一点の弱々しくはあるが曇りない良心の灯をよく守り通したところにある。このささやかな灯はやがて、コロレンコの不撓(ふとう)の実践力や、チェーホフの魔のごとき現実直視の力によってうけ継がれることになったのを思えば、晩年の彼がこのニ作家にあつい信頼を置いていたのも決して偶然ではないのである。
(訳者・神西 清)
 そのガルシンの短編5話が収まっている、非常に薄い本を読んだのですが、意外にアタリ!結構面白かったです。


 善へのあこがれ、自己犠牲の精神、理不尽な社会への嘆き、人生とは? 労働とは? などが比喩的に表現されているのですが、その描き方が良かったです。


 被害者妄想とも思える程、執拗なまでに善にこだわった『赤い花』、戦争体験に基づいて書かれた『四日間』、スリリングな趣も感じさせる『信号』は、読んでいて非常に濃い映像が思い起こさせられました。例えばこんな感じ。
『赤い花』
Iron Maiden - No Prayer For The Dying
『四日間』
death
『信号』
Manowar-Warriors Of The World

『赤い花』は IRON MAIDEN、『信号』は MANOWAR のアルバムジャケットを起想させますが、音楽とは関係ありません。『四日間』から連想されるイメージは、他にもHalloween Props – Haunted House Props & Accessories – Dead & Bloody Bodies / Heads というサイトに沢山あります。キモチワルイです、、、。




 かと思えば、『夢がたり』『アッタレーア・プリンケプス』はメルヘンチックな童話のようで、小さな子供に読み聞かせる絵本のような印象を受けました。例えば、、、


maya jack jack2 mario


のような雰囲気。


ガルシン、ステキです。ちょっとオススメ。






Links:
「赤い花」
薔薇十字制作室:Ameba出張所
とんぼの目
古書・田井座
Andre’s Review
人間のクズより愛を込めて
POWER LUNCH
パラダイムシフトふぁくとりー資材置き場

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

トルストイ / イワン・イリッチの死

 岩波文庫、米川正夫訳のを読みました。100ページ程度の薄い本ですが、この中に、人生における最も大事なことが書かれている、大変な名作だと思わずにおれません。


 時代や場所、人種や年齢、性格、また、能力や経験の有無などに関係なく、全ての人間が共通して直面しなければならない「死」……トルストイは、イワン・イリッチという一人の平凡な官僚の人生を通して、この一大事を読者に迫ってきます。誰もが死ぬまで、本当の死を体験することはありませんが、あたかも、既に死んだ人が、死ぬ間際の心理を克明に告白しているような、生々しい迫力があります。


 癌を告知された公務員の苦悩を描いた黒澤明『生きる』と同質のテーマを読者は考えずにおれなくなります。


 必ず死んでゆかねばならないのに、なぜ生きるのか。


「欲を満たすため」「楽しむため」「真理探究のため」「達成感を得るため」「社会奉仕のため」「子や孫のため」「そんなこと考えず、今を一生懸命生きる」……。色々と考えられると思います。何を趣味、生き甲斐にし、価値を重きにするかは一人一人異なるものです。


 では、それら、趣味、生き甲斐、目標、価値観といったものは、「このために生まれてきた」という生きるの目的となり得るのでしょうか? 死を目前にしてもその思いは変わらないものなのか?と考えずにおれませんでした。


 逆にいえば、いつ死が来ても崩れることのない心の支え、究極的な人生の目的を知ることが、生きている目的なのかもしれません。


 平生元気な時は、死といっても他人事で遠い未来のこととしか思えませんが、この作品では、非常にリアルに死が描かれています。
イワン・イリッチは一人になるとうなりだしたが、それは痛みのためというより(痛みもずいぶん恐ろしかったが)、むしろ悩ましさのためであった。『いつもいつも同じことだ、いつまでたっても果てしのない昼と夜、いっそ早く……なにが早くだ? 死、闇……いやだ、いやだ。どんなことでも死ぬよりましだ!』


(中略)
「いったいお前は何が必要なのだ? 何がほしいというのだ?」と彼は自分で自分に言った。「何が?──苦しまないことだ。生きることだ」と彼は答えた。彼は再び全身注意に投入した。痛みによってさえまぎらわされぬ緊張した注意。
 「生きる? どう生きるのだ?」と心の声がたずねた。
 「なに、今まで生きて来たのと同じように生きるのだ、気持ちよく、愉快に。」
 「今まで生きてきたように、気持ちよく愉快に?」と心の声がたずねた。で、彼は自分の想像のうちで、過去の愉快な生活の中でも、とりわけ幸福な瞬間を選り分けはじめた。しかし──不思議なことには──こうした愉快な生活の幸福な瞬間が、今になってみると、前とはまるで別なふうに感じられた。なにもかも──幼少時代の最初の追憶を除くほか──ことごとくそうであった。


(中略)
 幼年時代から遠ざかって、現在に近づけば近づくほど、喜びはますますつまらない、疑わしいものになってきた。(中略)美しいところはいっそうすくなくなった。それから先はまたさらに減じて行き、年をとればとるほど状態が悪くなる。


(中略)
 それでは、いったいどうしたというのか? なんのためだろう? そんな事があるはずはない! 人生がこんなに無意味で、こんなに穢らわしい、無意味なものであるにもせよ、いったいなぜ死ななければならないのだ? なぜ苦しみながら死ななければならないのだ? なにか間違ったところがあるに相違ない。
 事によったら、おれの生き方は道にはずれていたのかもしれない? ふとこういう考えが彼の頭に浮かんだ。しかし、おれはなにもかも当然しなければならぬことをしたのに、どうしてそんな理屈があるのだ?


(中略)
 しかし、彼がどんなに考えてみても、答えをみつけることはできなかった。これはつまり、自分の暮らし方が間違っていたからだ、こういう想念が心に浮かんだ時(こんな事は前にもたびたびあった)、彼はとたんに自分の生活の正しさを思い起こし、この奇怪な想念を追いのけるのであった。


(中略)
自分の生活が正しく法にかなって、しかも、作法にはずれていなかったことを思いだしながら、彼はこう考えた。『そんな事はとても承認するわけにはゆかない。』彼は唇に微笑を浮かべながら口ばしった、誰か彼を見ているものがあって、この微笑に騙されでもするかのように。「説明のしようはない! 苦痛、死……いったいなんのためだ?」


(中略)
 イワン・イリッチの精神的な苦しみというのはほかでもない。(中略)『もしおれの生活が、意識的生活が、本当にすっかり間違っているとしたらどうだろう?』


(中略)
勤務も、生活の営みも、家庭も、社交や勤務上の興味も──すべて間違いだったかもしれない。(中略)
「もしそうだとすれば」と彼はひとりごちた。「自分に与えられたすべてのものを台なしにしたうえ、回復の見込みがないという意識をもちながら、この世を去ろうとしてるのだったら、その時はどうしたものだ?」彼はあおむけになって、すっかり新しい目で自分の全生涯を見直しはじめた。夜が明けてから下男を見、それに続いて妻、さらに続いて娘、そして最後に、医者を見た時──彼らの一挙手一投足、一言一句が、夜の間に啓示された恐ろしい真理をことごとに確かめていた。彼はその中に自分自身を見た、自分の生活を形づくっていたすべてのものを見た。そして、それがなにもかも間違っていて、生死を蔽う恐ろしい大がかりな欺瞞であることをはっきり見てとった。この意識が彼の肉体上の苦痛を十倍にした。彼はうめき悶えながら、かけている夜具をひきむしるのであった。


(中略)
『過去現在においてお前の生活を形づくっていたものは、なにもかもみんな虚偽だ、お前の目から生死を隠していた機関にほかならない。』こう考えるやいなや、憎悪の念がむらむらとこみ上げてきた。そして、憎悪の念とともに、悩ましい肉体の苦痛が襲い、苦痛とともに避け難い間近な終焉の意識が浮かんできた。なにかしら変わったことが始まった。──体じゅう締めあげられるような、鉄砲で撃たれるような気持ちがし、息がつまってきた。


(中略)
 この瞬間、なんとも言えないほど恐ろしい叫び声がはじまった。これが三日の間ひっきりなしに続いたのである。それは二間へだてた所で聞いても、ぞっとせずにいられないほどであった。妻に返事をしたその瞬間、彼はもうだめだと悟った。もうとり返しはつかない、最後がきたのだ、本当の最後がきたのだ。しかし、疑惑はいぜんとして解決されず、そのまま疑惑として残っている。
「うう! ううう! うう!」彼はさまざまな音調でわめいた。彼は『死のう』と叫びだしたのだけれど、そのままただ『う』の音を続けているばかりだったのである。
 その三日の間、彼にとっては時間というものが存在しなかった。かれはその間ひっきりなしに、打ち勝つことのできない、目に見えぬ力により押し込まれた、黒い袋の中でもがき続けた。ちょうど死刑囚が首斬人の手の中で暴れるように、しょせんたすからぬと知りながら、暴れまわった。どんなに一生懸命もがいても、しだいしだいに恐ろしいもののほうへ近よってゆく、彼はそれを各瞬間ごとに感じた。彼は感じた──自分の苦しみは、この黒い穴の中へ押し込まれることでもあるが、またそれと同時に、ひと思いにこの穴へ滑り込めない事に、より多くの苦痛が含まれている。ひと思いにすべり込むじゃまをしているのは、自分の生活が立派なものだったという意識である。こうした生の肯定が彼を捕らえて、先へ行かせまいとするために、それがなによりも彼を苦しめるのであった。
 作品では、主人公の最大の苦しみは肉体的なものではなく、眼前に死を控えた時に生ずる、自身の人生への疑惑と、それにもかかわらず捨てきれない生への執着として描かれています。そして「黒い穴」と表現される、暗黒の未知。仏教経典(『大無量寿経』)に、


大命将終 悔懼交至(大命まさに終わらんとして 悔懼交々至る)


と説かれている通りです。悔とは過去に対する後悔、懼とは未来に対する恐れを意味するそうです。「死んだらどうなるのか?」未来に対するこの不安は、それまで築き上げた経験や知識、学問で解決出来るものではないということでしょうか。


 考えてみれば、賢愚・美醜・貧富・善悪の隔てなく、全ての人に平等に残酷に降りかかる、人生において最も理不尽な終幕が「死」です。その死の恐怖のあまり、自殺まで考える人の矛盾した気持ちは、分からないでもありません。


 この「死」に対する心の準備が本当の生きる目的なのかもしれません。そしてそれを教えるものが本来の宗教、まさしく「宗(むね)となる教え」だと思います。


「生死一如」という言葉もあります。「死」を考えずして、本当の「生」を満喫することは出来ないのでしょう。


 ちなみにこの作品では、上述した通り、重い空気が支配していますが、最後、イワンが救われる(?)場面は実に感動的です。
『なんていい気持ちだ、そして、なんという造作のないことだ』と彼は考えた。『痛みは?』と自問した。『いったいどこへ行ったのだ? おい、苦痛、お前はどこにいるのだ?』
 彼は耳を澄ましはじめた。
 『そうだ、ここにいるのだ。なに、かまやしない、勝手にするがいい。』
 『ところで死は? どこにいるのだ?』
 古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
 これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、この一瞬間の意味はもはや変わることがなかった。しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。彼の胸の中でなにかことこと鳴った。衰えきった体がぴくぴくとふるえた。やがて、そのことこと鳴る音もしわがれた呼吸も、しだいに間遠になって行った。
 「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。
 彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』
 彼は息を吸いこんだが、それも途中で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。
 死に対する恐怖がなかったというのは、死に対して無知な人が「俺は死を恐れない」と言っているのとは異なる未来に対する揺らぎない確信、ある種の宗教的体験を果たした結果を示唆しているのだと思います。
 また、『もう死はおしまいだ』と言ってなくなった「死」は、肉体の死ではなく、「疑惑の心」の死ととらえるべきなのでしょう。


 人として生まれたからには、一度は読んでおきたい本だと思いました。




Links:
本と映画と、僕の日常。
颯々日記
Anima
クラシック音楽のある毎日
身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
電車に揺られて@明大前駅行き
文の小屋
格言収集

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

ドストエフスキー ~ カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫・訳)

 哲学者ウィトゲンシュタインが「最低でも50回は精読した」と言い、全文を諳(そら)んじるほど細部を読み込んだ(゚д゚;)とされる、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、亀山郁夫さんの訳が読みやすいということで通勤の行き帰りで挑戦しました。途中で挫折することなく、何とか読み終えるのに4~5ヶ月かかりました。
 確かに日本語としては読みやすいのですが、内容が奥深く、込められたメッセージも盛りだくさんで消化不良のところが多くあります。知人の解説によれば、この小説は「キリストはなぜ復活しなかったのか」「キリスト教の孕む矛盾点」「宗教と人間との関わり」などに明確な解答を与える世界文学の最高峰!だそうですが、そこまで理解するには背景となる当時のロシア情勢やキリスト教などの知識がないと無理だと思いました。また、癲癇(てんかん)を患い、シベリアで服役経験をもつ作者の自伝的要素も強いので、先に5巻目の「ドストエフスキーの生涯」や「解題」、また各巻末の「読書ガイド」を先に読んでから本文を読むと少しは理解の助けになるかと思います。


「父殺しの犯人は誰か?」「フョードル、ミーチャと、カテリーナ、グルーシェニカの恋の行方はいかに?」あるいは、「“わたしの主人公”アリョーシャと、彼との婚約を解消したリーザ、また、少年イリューシャやコーリャとその友達、との関わり」など、ストーリー的に読んでいて面白いところは沢山ありました。スメルジャコフとイワンとのやり取りなども引き込まれるものがあります。登場人物一人一人が個性的なのが、難解ながらも面白く読める魅力だと思います。他にもゾシマ長老やイッポリート検事、フェチュコーヴィチ弁護士など挙げればきりがありません。こちらにも書きましたが、それぞれの巻のしおりに、おもな登場人物の説明が書かれているので、光文社古典新訳文庫の良心に助けられました。


『カラマーゾフの兄弟』は、“エピローグ付、4部からなる長編小説”ですが、その前の「著者より」という序文にあるように、エピローグの後には更に“第二の小説”が書かれる予定でしたが未完で終わっています。小林秀雄はそれを「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と評していますが、訳者・亀山郁夫氏も以下のように「あとがき」で述べています。分からないなりに何となく共感できる気になるのは、それだけ氏の解説に説得力があるということでしょうか。
 わたしはいま、読者のすべてに代わって、この小説が未完に終わったことを惜しむ。未完の音楽は数知れずある。モーツァルトの『レクイエム』、マーラーの『第10番』──。しかしドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』こそは、人類がついに手にできなかった、もっともまばゆい遺産のひとつであるにちがいない。ドストエフスキーの60歳の死は、その意味であまりにも惜しまれる、あまりにも早すぎる死であった。
 なお、同じく5巻目の解題から、この小説の構想メモが興味深かったので、少し長いですが引用させていただきます。
 知られるかぎり、『カラマーゾフの兄弟』の最初の稿が書きとめられたのは1878年4月のことだが、その構想のヒントを得たのははるかに古く、1850年代にさかのぼる。当時、オムスクの「死の家」に流刑中のドストエフスキーは、そこで出会った囚人仲間のドミートリー・イリインスキーから、次のような話を知らされることになった。
 かつてトボリスクの国境大隊に勤務していたこの男は、父殺しの罪を着せられて、懲役20年の判決を言い渡され、オムスクの監獄ですでに何年間か徒刑の苦しみを嘗めていた。ところが、刑期半ばにして、実際の犯人はその弟であることが判明し、刑期を10年つとめた段階で釈放された。


(中略)
 彼(ドストエフスキー)は、現実的な意味ではまだ『カラマーゾフの兄弟』への結晶を夢見ることなく、次のようなメモを書きとめることになった。(中略)


「悲劇。トボリスクで、約20年間。イリ(イン)スキーの物語のようなもの。二人の兄弟、年老いた父親、一人には許婚(いいなずけ)がいて、その女に弟がひそかに横恋慕している。しかし、彼女は兄を愛している。にもかかわらず、兄の、若い少尉補は放蕩したり、愚行に走ったり、父親と喧嘩したりする。父親が消える。ニ、三日、なんの音沙汰もない。兄弟が遺産の話をしているときに、とつぜん、官憲が地下室から死体を探し出してくる。兄の犯行の証拠があがる(弟はいっしょに暮らしていなかった)。兄は裁判にかけられ、懲役を言い渡される……世間の連中には、犯人はだれかたしかなところはわからない。舞台は監獄。みんなが彼を殺そうとする。上官、彼は裏切らない。囚人たちは彼に兄弟の誓いを立てる。上官は父親を殺したことを責める。12年が経って、弟が彼に会いにやってくる。沈黙のうちにたがいに理解しあう場面。それからさらに7年、弟は官職についているが、苦しんでいて、ヒポコンデリー患者。妻に自分が殺したと言明する。『どうしてわたしに言ったの?』彼は兄のところに行く。妻も駆けつける。妻は懲役囚に何もいわず、夫を救ってほしいと膝を折って頼む。懲役囚は『おれはもう慣れっこになってしまった』と言い、和解する。『おまえはそんなことしなくとも、もう罰せられている』と兄が答える。弟の誕生日。客が集まっている。外に出る。おれが殺したのだ。みんなは精神錯乱だと思う。ラスト。ひとりは家に帰され、ひとりは罪人護送所に送られる。彼は解雇される……弟は兄に、自分の子どもの父親になってくれと頼む。『正しい道に踏み出したのだ』」
 ちょうど、聴きなれた曲のデモテープを知ったときのような新鮮な味わいでした。
 この走り書きの内容は、シラーの戯曲『群盗』と驚くほど似ているそうですが、そう知ると『群盗』も読みたくなってきます。「はは~ん、このギターソロは、あの曲からヒントを得たな」と気づいて結構嬉しくなるときがありますが、果たして『群盗』から同質の発見が得られるかどうか、楽しみです。




Link:
読まずに死ねるかドストエフスキー~『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』亀山郁夫著(評:山本貴光+吉川浩満)

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

おぉ w(゚o゚)w

翻訳者のブログによると、


カラマーゾフの兄弟4』が12日に出るそうな!


ちょうど読みかけの


『ドリアン・グレイの肖像』オスカー=ワイルド


も、もうすぐ終わりそうなのでナイスなタイミングです。


3巻までをもう一度復習してみたいと思います。


それにしても、
 ドストエフスキーがすごいと思わせるのは、すべての登場人物が病んでいることだ。病人たちのドラマである。そして、私たちもみな病んでいる。現代の世界は、病人たちの巣窟だ。
の言葉に、妙に引き付けられます。

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

ドストエフスキー ~ カラマーゾフの兄弟(第1部~第3部)

 6月20日(水)19時からNHK教育の『地球ドラマチック』という番組を、冒頭2分ほど(^_^;)見ました。うろ覚えですが、こんな内容でした。


 これまで出版された、あらゆる本を分析して、ベストセラーとなり得る条件を入力し、コンピューターに本を書かせてみた。その結果出て来た文章はこのように始まるものだった──女王様が言った。「神様!教えてください!私をレイプした本当の犯人を!」


 なるほど、文学と言っても、所詮は色と欲にまみれた、罪深い人間の本性を暴いたものがほとんどで、多くの読者が求めているものも、そういった類なのかと納得してしまいました。というのも、ちょうど今、通勤中に睡魔と闘いながら少しずつ読み進めている『カラマーゾフの兄弟』が、まさにそんな内容で、しかもそれが「世界文学の最高峰」と絶賛されているからです。宗教的、崇高な心を求め、少しでも神のような存在に近づきたいと願いながらも、実態は自分でも呆れるほど低俗で、愚かな存在が人間の偽らざる姿なのだろうと思いました。


 本書に出てくるヒョードル・カラマーゾフは、光文社新古典文庫のしおりによると“無一文から身を起こし、一財産を築いた。無類の悪党にして道化、女好き”、長男ドミートリー・カラマーゾフ“放蕩の限りをつくす激しい性格だが、高貴な心をあわせもつ”人間として描かれています。預かった金を一気に使い果たし、わが身の面目のために金集めに東奔西走、ようやく手にした3000ルーブルも、またパーッと使ってしまう、そんなドミートリーはいわゆるダメ男の典型と思わずにおれません(あ、でも、学生時代、試験前なのに勉強せず、試験中に居眠りをして、終了直前に慌てふためいた経験のある者は、同類ですね)。そして、そんな男を次第に愛するようになるグルーシェニカ。まるでだめんず・うぉ~か~のようですが、これが、昔も今も変わらない人間の姿なのでしょう。


 一方、“誰からも愛される清純な青年”で主人公と思われるアリョーシャ“慈愛にみちた高徳の人物で信者の尊敬を一身に集める”ゾシマ長老が出てくる場面では、「人間の心にも美しいものがあるのではないか」と思わされますが、有名な大審問官や、長老の遺体が悪臭を放ち、信者の信仰が動揺する場面では、「信仰」とは一体何かと考えさせられました。遠藤周作の『沈黙』に通ずるものがあります。


 当初は1巻ずつ感想をアップしていこうと思ったのですが、何せ全体のストーリーを的確に理解するだけの読解力がない為に、何も書けないまま3巻目後半まで来てしまいました。ヒョードルが何者かに殺害され、怨恨関係にあったドミートリーが嫌疑にかけられるようになり、ようやく本格的に面白いと感じるようになりました。実は、あるきっかけで真犯人を知ってしまったのですが、それでも先を読みたい、いや、なおさら続きが読みたくなりました。
 恐らく、3巻を読み終える頃には亀山訳の第4巻が発売されるでしょう。


(関連)
古典 新訳
群衆
浮遊図書館(別館)
『カラマーゾフの兄弟』について
大審問官を読もう!

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ

ドストエフスキー ~ カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟(1)
 随分前から読みたいと思っていた『カラマーゾフの兄弟』は、訳あってなかなか読むことが出来ませんでしたが、ようやく読み始めることが出来ました。
 ロシア文学は、そもそも固有名詞に馴染みがなく、難しいイメージがあるのですが、亀山郁夫さんの訳が分かりやすい、と評判だったので光文社古典新訳文庫を買ってみました。


 まず表紙からして、これまでのとは違って明るくおしゃれな感じがします。これだけで、読み手のモチベーションを高めてくれます(前の方が良い、と思われる方も当然おられるとは思いますが……)。『カラマーゾフ~』に限らず、ゴーゴリトルストイトゥルゲーネフなどの古典も、パステルカラーの装丁に、書店でつい手が出てしまいます。人づてに聞いた、光文社編集者の話によると、最初は「いまさら古典なんて」と社内では反対の嵐だったようですが、結果は豈図らんや、といったところではないでしょうか。


 実際に買って感動したのは、以下のような「『カラマーゾフの兄弟』主な登場人物」が、しおりになっているところです。巻頭、巻末ではなく、しおりにするあたり、読者の立場に立った、光文社の良心的な姿勢がうかがえます。これなら、読解力のない自分でも、最後まで挫折せずに読み通せそうです。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 


アリョーシャ(アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの三男。誰からも愛される清純な青年。町の修道院で暮らす。ゾシマ長老を心から尊敬する。
ミーチャ(ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの長男。先妻アデライーダの子。退役将校で、放蕩のかぎりをつくす激しい性格だが、高貴な心をあわせもつ。
イワン(イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの次男。アリョーシャと同じく、後妻ソフィアの子。大学で工学を学んだインテリで、シニカルな無神論者。
フョードル(フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ)
カラマーゾフ家の父親。地主。無一文から身を起こし、一財産を築いた。無類の悪党にして道化、女好き。
スメルジャコフ
カラマーゾフ家の下男。同家の召使グリゴーリーとマルファの夫婦に育てられる。モスクワで料理を習い、同家で料理人を務める。
ゾシマ長老
町の修道院の長老。慈愛にみちた高徳の人物で、信者の尊敬を一身に集める。かつて決闘事件を起こした体験をもつ。
グルーシェニカ(アグラフェーナ)
町の老商人の囲われ者だった、妖艶な美人。カラマーゾフ家の父親、兄弟たちと深くかかわる。
カテリーナ(カテリーナ・イワーノヴナ、カーチャ)
ペテルブルグの女学校を出た知的な美人。中佐の父がある横領事件でミーチャに助けられたことで、彼に恩義を感じている。
リーズ(リーザ)
町の裕福な未亡人ホフラコーワ夫人の娘。十四歳。身体は弱いが茶目っ気があり、アリョーシャを愛している。


(参考)
ネット書店『文学館』
いい庭師は、シワにいい
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
IVC JOURNAL (加藤ビル4F 宣伝日記)
「カラマーゾフの兄弟(1・2・3)」
『カラマーゾフの兄弟』について

つぶやくどうぞ twitter に引用しちゃってください(^^)ノ
Page 1 of 11

ホーム > ★読書 > 著者別(ロシア・ソ連)

検索
フィード
メタ情報

Return to page top