中西智海 / 親鸞教学入門(3)

(2)の続きです。

親鸞聖人においての善・悪の基準



 仏教において善・悪が問われるとき、善・悪の定義として、
第一義諦に順じて起こすを善といい、第一義諦に背いて起こすを悪という
(『菩薩瓔珞本業経』)
ということばが、よく使われます。「第一義諦に順じて起こす」とは、すべてのものが、もともと平等であるという道理にかなう行為、つまり、純粋無我の行為を「善」というのであります。それに対してこの道理にかなわない行為、つまり、純粋無我の立場に立ちえない行為は「悪」であるということになります。さらに云いかえれば、自分中心の発想、エゴイズム基盤とする考えはすべて「悪」となり、「善」といわれるのは、まさに自分中心の発想を脱し(超え)た行為ということになるのであります。
 仏教は「仏による教え」とともに「仏に成る教え」であるといわれます。「仏に成る」ということはどうなることかと問うとき、そこに「諸法は平等であることにめざめ、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想をほんとうに脱却しうるということでありましょう。それはまた、自利利他の完成ということがらによっていいあてられる内容でもありましょう。
 親鸞聖人はこの「仏に成る」道をひたむきに歩みつづけられた人であります。仏に成ることの実現にいのちをつくされた人であります。ですから、親鸞聖人にとって、すべての価値判断の基準は「仏に成る」という一点にあったといわねばなりません。これを、善・悪の基準という面でみると、仏に成ることのできる行為、すなわち、純粋無我の行為、自分中心の発想を超える(脱却しえる)行為が「善」であり、その他の行為は「仏に成る」ことにならない行為であるから、それは「悪」としかいえない行為だといいきられたのであります。ですから、親鸞聖人は、いっけん善に見えるような人間の行為をも、「雑毒の善」であるときっぱりいいきられたのであります。
 ですから、このような仏教の原理的立場の善・悪、つまりその実践的立場にたつ親鸞聖人の立場の善悪の次元を考えるとき、それはそのまま「真実」か「虚妄」かという次元で語られているということを知っておかねばなりません。純粋無我の世界、自己中心の発想を脱却し(超え)た世界は真実の世界であります。それに対して、いっけん善にみえようなもの、また西洋において、たえず動物と人間とのちがいをそこにおいてみてきた人間の理性をも含めて、純粋無我の行為と云えないもの、つまり自分中心の発想が根本になっているもののいっさいは虚妄であるという立場を確認しておかねばなりません。
 この立場がはっきりしてはじめて、親鸞聖人の「そらごと、たわごとまことあることなき」ということばの真意が領解されるようにおもわれます。すなわち、自分中心、利己的発想からでたものは「まこと」ではないといわれるものであります。
 さきに「雑毒の善」という面から、人間の行為の虚妄性にふれましたが、いま一つ、内外不相応の虚仮性について言及しなければなりません。仏教では身体や口に表れた行為(表業・思已業)のみではなく、表われる以前の意志行為(無表業・思業)をありのままにみつめるものであります。ですから、表面に表れた行為がいっけん善のようにみえても表面にひそく我愛(利己的愛)の心を問うことによって「善」と自認しえる行為はみあたらないというのであります。
 善導大師の「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と解釈したことばを、親鸞聖人が「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みかえなければならなかったのは、内外不相応のみずからの相をごまかしなくみつめられた告白でありましょう。
 このように親鸞聖人において善・悪の基準は、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想を脱却した行為であるかどうか、いわゆる宗教的真実の次元と同じ内容のものであるかどうか、従って究極的には「仏に成る」という一点にかかわって善とか真実といえるかどうかという高次の宗教的次元での基準であることを確認しておかねばなりません。従って、親鸞聖人のいわれる「悪人」を問おうとするとき、少なくとも次のようなレベルでないことをつきつめ、誤りのないようにしなければなりません。
 (1)法律や他律的道徳のレベルでの悪人ではない
 (2)単なる文学や、歴史(社会的階級)の立場での悪人ではない
 (3)「仏に成る」という基準をぬきにしての悪人ではない


悪人こそ救われる(悪人正機)ということ



 ところで、親鸞聖人の「悪人」のうなずきは、驚くべき領解となってあらわれました。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり
(『歎異抄』)
 意表をついたこの逆説的なことばは、親鸞聖人の教えの特色を明示したことばとして、しばしば引用される有名なものであります。善人よりも悪人こそ救われるのであるというこの思想は大きな波紋を呼んだことも事実であります。果してこのような考えは親鸞聖人に本当にあったのであろうか。『歎異抄』は親鸞聖人の直筆ではなく弟子の手になるものであるから、親鸞聖人の思想をゆがめた発言ではないかと提言した人もありました。しかし、このことについては、親鸞聖人の主著『教行信証』のはじめに
権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す
とあることばによっても明らかなように、親鸞聖人その人の思惟であることは否定できません。
 それにしても、悪人こそ救われるという云い方は極端ではないか、善人も悪人もというのならまだしも容認できるが、悪人がまさに救いの正しき相手である(悪人正機)などとは無暴な言葉であって倫理を無視した発言ではないかという批判もあります。
 しかし、われわれは、さきにあげた『歎異抄』のつづきのことばに耳を傾けなければなりません。
そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せさふらひき
 ここで言われる善人とは「自力作善のひと」と同意語として使われています。すなわち、仏に成ることが、自分の積み重ねる善根によって実現できると思い込んでいる人といってもよいでしょう。もっとつきつめていえば、「雑毒の善」しかなしえない虚妄の行為によって「仏に成る」ことを実現できると思い込んでいるひとということになりましょうか。
 それに対してここでいう「悪人」とは「煩悩具足のわれら」といわれ「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」といいかえられるひとのことであります。つまり、自己の生き方は自分中心の発想から離れることができず、仏に成るようないっさいの行為ができないものこそ「悪人」でるといわれるのであります。その「悪人」であることをほんとうに知らせたものは仏の智慧であり、大智であります。ほんとうの素肌のままの人間が知らされるということと仏を知るということは同じであるといってもよいでしょう。云いかえれば、虚妄と虚妄と知らせたものは真実であったのです。そこに親鸞聖人の人間批判と現実批判は単なるニヒリズムに転落することなく、真実へのひるがえりをもたらされる、救いあるよろこびの世界の発見と同時的であるという構造がみられます。それは、さきほどの『歎異抄』のことばでいえば、「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」といわれるように、悪人であることがほんとうにうなずきえたことと、仏に成る道が開けることが同時であるという親鸞聖人の信心の内景の構造を最もよく示されていると思われます。悪人こそ救われるとは、本願のもともとのはたらきであり(真実が虚妄を虚妄と知らせて真実化するはたらきといってもよい)、仏が仏に成ることと悪人こそ仏に成ることとが同時であるという本願の構造の具現化といってもよいでしょう。「仏に成る」ような行もできないことを身をもってうけとめられた親鸞聖人にとって
諸の衆生に於ひて平等ならざるに非ざれども然も罪なる者に於ひて、心則ち偏へに重し。放逸の者に於ひて仏則ち慈念したまふ。不放逸の者は心則ち放捨す
と記されている『涅槃経』のことばは、そのまま自己の救いのたしかさを告げた真実であったでありましょう。それであればこそ、阿弥陀仏の第十八願に「唯、五逆と正法を誹謗するものをば除く」とある文を「五逆のつみびとをきらい、謗法のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。」(『尊号真像銘文』)と身にひしと本願の音声をうけとめられたにちがいないと思われます。
『悪人ということ』より17~23頁




つづく



二双四重の教判

二双四重の教判: 飛雲」を読んで。

「ウソも方便」と言われることから、「方便=ウソ」と思われがちですが、方便とは真実に近づけるのに必要なもの。なんですが、全ての人に同じ様に絶対に必要なものではなく、結局は不要であり、捨てねばならないことがよく分かりました。
権仮方便とは、それが権仮方便と判らず真実と思っている人には権仮方便として必要なのであって、権仮方便が権仮方便と判っている人には不要なのです。法然上人は後者の立場で仰ったに過ぎませんが、そのために激しい非難があったので親鸞聖人は前者を説明されたのです。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出という回り道をするな、横超の直道だけだ、としか仰っていません。



出されている根拠は難しく感じられますが、非常に分かりやすい説明なので、これから仏教を学ぼうとする人にはオススメかもしれません。

二双四重とは
親鸞聖人が仏教全体と18願との関係について体系的に教えられた
もので、「18願」とは有名な「阿弥陀仏の四十八願」の中の18番目の本願です。

二双四重の教判を親鸞聖人のお言葉を列記してまとめると以下のようになります。
竪超(頓教)
大乗真実の教
難行聖道の実教、仏心・真言・法華・華厳等の教
即身是仏・即身成仏等の証果
竪出(漸教)
大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
聖道権教、法相等、歴劫修行の教
聖道、歴劫修行の証
横超(頓教)
願成就一実円満の真教、真宗
易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等
選択本願・真実報土・即得往生
横出(漸教)
三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教
浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生
親鸞聖人は、このように仏教全体を4つに分けられて、法然上人が仰ったのは、真教・真宗の横超(18願)のことであると明らかにされたのです。もちろん膨大な根拠を挙げられた上で、法然上人の教えの正しさを証明されているのです。
更には、竪超・竪出・横出は、横超へ導くための権仮方便と見做されているのです。

何度も何度も言っていますが、権仮方便とは、それが権仮方便と判らず真実と思っている人には権仮方便として必要なのであって、権仮方便が権仮方便と判っている人には不要なのです。法然上人は後者の立場で仰ったに過ぎませんが、そのために激しい非難があったので親鸞聖人は前者を説明されたのです。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出という回り道をするな、横超の直道だけだ、としか仰っていません。
ですから、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超・竪出・横出を勧められたお言葉は、1つもないのです。

中西智海 / 親鸞教学入門(2)

(1)の続きです。

親鸞聖人と真実



 人間が宗教的になるということは、いままで見えなかったものが見えてくることになり、いままで感じられなかったものが感じられてくることになり、いままであたりまえであると思っていたことがおどろきであることがしられることであるといわれます。
 親鸞聖人は、この世を、この人生をだれよりも誠実に生きようとされた人であります。比叡山の山林の間につきさす強烈な光に照らされたとき、自分の真相がはっきりとみえてきたのであります。光が強ければ強いほど、闇の影は大きく浮彫りにされてきます。それは「地獄よりも地獄的」な現実の世界が知られてくるのであります。「地獄一定」の告白は誠実なたましいのおどろきのさけびであります。
 法然上人とのめぐりあいは、歴史的邂逅であったと同時に、歴史を超える常住の真実との邂逅でもありました。「地獄よりも地獄的である」といって龍之介は自殺したが、親鸞聖人は「地獄一定」の自己の由来は、我執のこころであることを教えられ、その自己をこそひるがえし、普遍の世界によみがえらせる常住の真実(弥陀の本願ととかれる)に根拠をもって生きてゆける世界を開き示されたのであります。(この親鸞聖人の信心のしくみについては別のところで詳細にふれるはずであります。)
 こうして、親鸞聖人にとっては、素顔のままの自分、すべての虚飾がはぎとられた自己のほんとうにすがたを仏智・大智が自己にとどいた、他力廻向の信心(如来からめぐまれた信心)によってあからさまになったのであります。
 このように仏智・大智の立場からあからさまになったほんとうの自己のすがたを、真宗では「機(すくいの対象)の真実」というのであります。
 親鸞聖人は本当の自己のすがたを
一切の群生海无始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし(『教行信証』信巻)
と告白されています。その他、機の真実のすがたを「流転輪廻のわれら」「濁悪邪見の衆生」「煩悩成就のわれら」「常没流転の凡愚」などと告げられています。これらはすべて仏智の立場から、照らし破られた自己のほんとうのすがたの告白であることを忘れてはなりません。仏智の世界を知らない、一般の常識の世界や単なる法律や道徳のレベルでのことばではないことをくれぐれも注意しなければなりません。
 ともあれ、一瞬一瞬、生即死、死即生ともいうべき危機的存在であり、業縁のもよおしによって何をするかもわからない激変的存在としての私が「現」に「ここ」にいるのであります。それが私のほんとうのすがたなのであります。ありのままのすがたなのであります。これこそまさに自己の真実というに値するものであります。
 ところで、親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らせたものは、この世のだれかではなかったし、まして自分ではなかったのです。自分は自分の背中をみることができないのですから、自分の前面を知ることができないのです。本当の自己をしらせたものはまさに「この世」を超えた、如来の本願として説かれる常住の真実であります。この世を超えるなどといいますと何か観念的でわからないといわれるかもしれませんが、我執の世界を超えている世界があるといってもよいのです。超えていればこそ、如来(真如から来生する)として強く自己と世界に働くものであります。
 ですから親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らしめ、その自己と世界をこそ摂取不捨(おさめとって捨てない)するはたらきこそ、如来の本願として説かれる常住の真実の世界であったのであります。
 ここまできてはじめて、『歎異抄』の次のことばがうなずかれるとおもうのであります。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし
 ほんとうの自己の真実(機の真実)を知らしめ、その自己(機)のためにこそ成就された法は「不顛倒・不虚偽」と説かれるはたらきとして躍動するのであります。如来の本願はそれでこそ、まことといわれるに値するものであります。
 如来の本願まことさは、本願みずからが証明するというよりほかにいいようのないものでありましょう。それは「地獄一定」と自己のほんとうのすがたを照破したもの、そして、そのためにこそ建立された弥陀の本願こそ、真実そのものであったといわねばなりません。そして、この弥陀の本願のまことは、釈尊・善導・法然と仏祖の伝統としてうけつがれ、ついに「愚身の信心」を成立させたのであります。ここに親鸞聖人の信心にこそ、「まこと」「真実」の具体的なすがたをみることができます。
『真実ということ』より7~11頁




つづく



    2012年5月
    « 4月    
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031