梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]の続きです。

十三、第十八願中心の本願観

四十八願の中心が第十八願であると最初に言われた方は誰ですか。

さかのぼれば中国の曇鸞大師(476~542)や、道綽禅師(562~645)も言われていましたが、特にはっきりと仰せられたのは、善導大師(613~681)でした。それを承けて徹底していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。



善導大師はどのように言われていたのですか。

『観経疏』「玄義分」に、阿弥陀仏が報身仏であり、その浄土がさとりの領域である報土であることを証明するのに、『大経』の本願を引いて、
『無量寿経』にのたまわく、「法蔵比丘、世饒王仏(せにょうおうぶつ)の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。
(『註釈版聖典・七祖篇』316頁)
と言われています。



そのこころを簡単に説明してください。

『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩と名告る修行者であったとき、四十八願を発されたが、その一々の願に、「もし私が仏陀になり得たとしても、十方の衆生の中で、わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っているのに、もし生まれることができないようなことがあるならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。このように本願の因に報いて完成された仏陀ですから阿弥陀仏は明らかに報身仏であり、その浄土もこの本願に報いて完成された領域ですから報土であるといわねばならないというのです。こうして凡夫が往生できる阿弥陀仏の浄土は、程度の低い応身、応土にすぎないといわれていた通説を破って阿弥陀仏の報身、報土説を確立していかれたのでした。
 そればかりか同時に、報身仏、報土といわれる高度なさとりの領域であるならば、すでにさとりを開いた大菩薩だけが、その智慧の程度に応じて往生し、感得できるだけで、凡夫は決して往生できないという通説を破って、凡夫が直ちに往生できる報土であるということを証明していかれたのでした。



そのようなことがどうして言えるのですか。

阿弥陀仏は「わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っている者を、もし生れさせることができないようならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。それゆえ、本願の因に報いてなられた仏であり、浄土であるという論理で、報身、報土説を証明されたことは、同時にその阿弥陀仏は、わずかに十声の念仏しかできない煩悩具足の凡夫であっても、本願によって成就した報土へ往生させる本願力を完成されていることを証明していることになるからです。
 こうして、本来ならば、すでにさとりの境地に到達している大菩薩でなければ往生できない報土へ、念仏往生を誓われた第十八願を信じ、念仏する者は、どれほど煩悩が深重であっても、その本願力に乗じて、往生させていただけると論証されたのでした。これを善導大師の凡夫入報説と呼んでおります。



しかしそれが、第十八願に他の四十七を収めているとはどうして言えるのですか。

そこに、「一々の願にのたまはく」といって、第十八願の念仏往生の誓願をあげられているからです。四十八願といっても、第十八の念仏往生のこころをひろげて説明しているだけで、開けば四十八願になりますが、収約すれば、第十八願の一願に帰すると見られていたことがわかるからです。
 その心を承けて法然聖人は、『選択集』特留章に「念仏往生の願をもって本願中の王となすなり」と言い、阿弥陀仏の本願は、第十八願の念仏往生の法義のほかにないと言い切っていかれたのでした。



法然聖人や親鸞聖人は、第十八願をどのように味わわれたのですか。

第十八願はこの本願を信じて、念仏する者を、必ず浄土に往生させるということを、次のような言葉で誓願されています。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く
というのです。



それを現代語に訳すれば、どのようになりますか。

「たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称える者は、必ず往生させましょう、もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし、五逆の罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます」というのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (7)[四十八願の分類]の続きです。

十二、四十八願の中心

四十八願には、さまざまなことが誓われていることはわかりましたが、その中で一番大切な中心の願は、どれですか。

四十八願は、ただ雑然と誓われているのではなくて、一つの核となる誓願を中心にして展開していると見られていますが、それが第十八願であると見られたのが善導大師であり、法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。いわゆる浄土門の祖師方でした。しかし自力聖道門の学僧たちは、そのようにはご覧になりませんでした。



自力聖道門の人たちは、四十八願をどのようにご覧になっていたのですか。

今から千年あまり前、平安時代の中期に、比叡山延暦寺に慈恵大師良源(913~985)という高僧が出られました。この方は、比叡山天台宗の中興の祖師と仰がれている方です。実はこの方は浄土真宗の七高僧の中の第六祖にあたる源信僧都(942~1017)のお師匠さまにあたる方で、『極楽浄土九品往生義』という書物を著されています。『観無量寿経』の九品段の解説書なのですが、その中に四十八願の説明がしてあります。そこに四十八願の中で一番大事なのは第十八願ではなくて第十九願であるといわれています。
 先ほども申しましたが、衆生の往生の因を誓われた願に、第十八願と第十九願と第二十願の三願があります。それはこの三願に限って、このような行いをし、このような信心を発して浄土を願う者を往生させると誓われているからです。この三願の中で阿弥陀仏の本意にかなった修行と信心を往生の因として誓願されているのは、第十九願であるといわれています。
 大師は、この願を「行者命終現前導生(行者が命終するとき阿弥陀仏が眼前に現れて浄土へ導き往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願には、十方の衆生の中で、まず菩提心を発して、もろもろの功徳を修行し、浄土に生まれたいと、まごころをこめて願う人の臨終には、阿弥陀仏自らが、観世音菩薩や大勢至菩薩をはじめとする多くの聖衆を引き連れて、迎えに行ってあげようと誓われているからです。それは自分のさとりの完成を目指すばかりでなく、一切の衆生を救済しようという崇高な菩提心(求道心)を発して、自力の限りを尽くしてさまざまな功徳を積み、浄土にふさわしい上善人になって、浄土へ生まれたいと願っている人ですから、阿弥陀仏のご本願にかなった人であるというのです。
 だからこそ阿弥陀仏はその業績を評価して、多くの聖衆を伴ってその人の臨終にわざわざ迎えに行ってあげようと誓われているというのです。阿弥陀如来が自ら聖衆を引き連れて迎えに行くといわれているのは、阿弥陀如来のご本意にかなっている証拠であるというのです。それゆえ阿弥陀如来のご本意にかなった生き方をしようと思う者は、まず出家して菩提心を発し、力の限りを尽くして修行にいそしみ、臨終の来迎を祈りなさいと大師は仰っているのです。
 また大師は、第十八願は、五逆罪とか正法を誹謗するというような極重の罪を犯していない凡夫で、阿弥陀仏を深く信じて浄土へ生まれたいという願いを発し、余念をまじえず心を集中して阿弥陀仏の名号を称え、十念を完成した者は往生させると誓われた願であると見ています。それで、第十八願を「聞名信楽十念定生(名号を聞いて信楽し、十念する者は定めて往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願に誓われた人よりも功徳が劣っていますから、阿弥陀仏自らの来迎は誓われていないというのです。いいかえれば、浄土へは往生させてあげるが、阿弥陀如来がわざわざ迎えに来るような値打ちのない功徳の劣った者の往生を誓った願と見られていました。ですから、第十八願の者が浄土で受ける果報は、第十九願の人に比べたら、劣った果報でしかないというのです。
 なお第二十願は、念仏や諸善を修行しているが、その功徳が劣弱で、次の生(順次生)では往生できない場合には、次の次の生(順後生)では往生させるという三生果遂を誓った願であると見られていました。自力聖道門の人びとが『無量寿経』を読まれたときは、だいたいこのようにご覧になっていました。
 こうした聖道門の方々の本願観に対して、それは自力聖道門の教典を解釈するときの考え方を、他力浄土門を説く教典である『大無量寿経』に適用した誤った解釈であると否定していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。そして他力浄土の法門を明かした『大無量寿経』の四十八願は、第十八願を軸として説かれており、開けば四十八願であるが、合すれば「本願中の王」である第十八願に帰すると言われたのが法然聖人だったのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




【法話】極楽とは場所の移動先の話ではないのです 2011.11.03 柏市西方寺

2011年11月3日、千葉県柏市の西方寺へ報恩講に行きました。

2011.11.03 西方寺

以下、その時の記録です。講師は山口県の藤岡道夫先生です。

=======================================================

平成14年6月14日、前のご門主がご成仏なされ、そのご葬儀が7月18日に行われ、その日の『正信偈』葬儀のご和讃がこの三首でした。

  • 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
    師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
  • 無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること
    如来二種の廻向の 恩徳まことに謝しがたし
  • 南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
    往相回向の利益には 還相回向に回入せり


これは蓮如様以来の宗門の伝統です。

皆さん、『恩徳讃』をお歌いになられるでしょ? 歌わん人は、、、

お説教というのは、今までしばしば聞いてきた人、レギュラーも、レギュラーでないゲストメンバーも、知ったふりして聞いたら都合が良いんです(笑)。疑問符を付けながら聞かれるよりは、分かったふりして聞いてもらった方が話がしやすいです(笑)。どうぞ一つ、お付き合い下さい(笑)。

浄土真宗のご門主のご葬儀、ないしは、ご門主に近いご縁の方については、このご和讃三首という伝統がございます。500年を超える歴史があります。

この3つを伝えられたというのはどういうことかというと、如来の恩徳を明らかにされたということです。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
『恩徳讃』


それでは、恩徳というのは何がご恩徳なのか? 何が功徳なのか? 功徳とは利益、恵みこのことです。「如来大悲の恩徳」とどれだけ皆が声をそろえて斉唱しましょうとも、功徳は何ぞというのがおさえられていないのが『恩徳讃』です。

でしょ? そういう時は、首を振るんです(笑)。分からん人も首振っとりゃええんです(笑)。

如来大悲の恩徳を何万遍繰り返し歌いましょうと、ご恩なるものが見えないのが『恩徳讃』です。ところが、御開山様は、そんなぬかりごとをなさるお方ではないので、きちんと353首のご和讃の中に、『恩徳讃』を別途に二首お作りになっておられます。

それが、今の
無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること
如来二種の廻向の 恩徳まことに謝しがたし

南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には 還相回向に回入せり

です。

この二首が、如来大悲の恩徳を具体的に親鸞聖人がおさえてかざされた事柄です。

眠くなりました方はどうぞ、ご遠慮はいりません。ただ、隣をお誘いになりません程度によろしくお願いします(笑)。お説教は、教育ではないのです。阿弥陀様のお慈悲は、あなた方を教育して、能力、才能、性格、性質、人間性、どういうものを仕立てていって、ある程度向上したら救うという方法はとられません。命に着目されたのです。問題は命なんです。その命を根こそぎ成仏の命にするというのが阿弥陀様のお誓い。そのことを今日は少し申し上げて帰ろうと思います。

私は今、一言だけ「成仏」と申しました。ところが蓮如様にかかると全部「往生」と浄土真宗の義を述べる癖があります。これはちょっと問題です。

親鸞聖人がご自身で書かれた『教行信証』の、ご自身が述べられた文章部分ではほとんど「涅槃」と言われています。さとりのことです。成仏のことです。一回だけ「滅度」と、私たちが通常読みますお経さまに出てくるおさとりのお言葉を使われている所がありますが、親鸞様は「涅槃」という言葉を親しまれ、十数回本典に使われています。例えば
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
『教行信証』(行巻)
と「往生すべし」とは仰っていられません。親鸞聖人は「成仏」です。
しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば(乃至)すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり
『教行信証』(行巻)
ここに「大般涅槃」と仰っています。「普賢の徳に遵ふ」とは、迷いのいのち救済活動に入って行くということです。極楽に往っただけでは救済活動どころではなく、場所を変えただけの話です。

法然さま流儀で、浄土宗風に「往生」「往生」と言いますと、涅槃、さとりに触れられていないのです。娑婆の迷いの世界から極楽という環境設備の整った所に移るというだけの意味しかない、如き感があります。

比叡山も高野山も「極楽往生」と言うのです。言うのですが、親鸞聖人とは根本的に違います。何なのかというと場所移動の話なのです。

私は山口県岩国市の者です。岩国の次のインターが私ので入りするインターです。そのインターを出ようとすると、そのインターに入って行くバスと出会いました。何気なく見たら、バスの中に大きな男が一人二人ではない。若者です。何事かと思ってふっと横を見ましたら「広島東洋カープ」と」書いてあります。すぐ近くに、広島東洋カープの2軍の練習場があるのです。宮島近くに宿舎がありまして、そこから私の町はずれの練習場に行って帰るところでした。皆背が高かった。そりゃそうだろうな、と思いました。1軍選手ではない。しかし2軍の練習場に行くと、能力を向上させるに足るだけの設備がそこには投じてあります。だから日々2軍選手は練習しています。あなた方を連れて行ってもものにはなりません(笑)。2軍選手と抜擢されたメンバーだから間に合うのです。

今、何の話をしているかというと、極楽往生の話です。設備の整っている所に行けば、仏様のさとりに到達できるだけの仏道修行ができようから、「極楽に往く」という往生思想が日本国中に満ちたのです。問題はそこです。娑婆ではさとりに到達できない。しかし『阿弥陀経』に「無有衆苦」とありますように極楽は苦がない世界だから。日本の国に往生思想が蔓延した。親鸞聖人のお師匠様の法然上人まで「念仏往生」「念仏往生」と、本願も「往生の願」として受け入れられまして、生涯、念仏往生の願と言い続けられました。

ところが、往きさえすれば良いという話ではないのです。極楽に往けば仏道修行が本格に出来るぞ、という意味で「往生」と言う人等と紛らわしいです。それらと根本的に違います。親鸞聖人は一貫して、一代、『教行信証』の中に通されたのは「成仏」「涅槃」。涅槃、滅度イコール成仏です。ここは大事なことだから話をしておきます。

ご開山様のお言葉の中に「往生」と無いことはないです。しかしそれは、七祖とりわけ道綽・善導・源信・源空さまのお書物をご引用なされたものです。親鸞聖人はふっ切れております。親鸞聖人は成仏法を生きられた。私どもはそのことをしっかりと受けて、そのことを喜ぶ。「往生治定」ではない。『聖人一流章』にあるから困ったなと思いながら日頃読んでいますが、それは蓮如さま、一般向けの文章です。浄土真宗の御法の筋目として言えば、浄土真宗は念仏成仏法です。

本典信巻には
大信心はすなわちこれ(乃至)世間難信の捷径は、証大涅槃の真因
捷径とは早道のことです。
涅槃の真因は唯信心を以てす
成仏の種になる真実のものがらは、ただ信心だということです。
真の仏弟子というは、釈迦・諸仏の弟子なり(乃至)必ず大涅槃を超証すべきが故に、真の仏弟子という
私どもは、紛れもない仏弟子。「私ども」とは坊さんのことではないですよ。ここに居合わせておられることごとくの生命体が真の仏弟子だとご開山様は仰るのです。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
一念とは信念のことではなく時間のことです。極限にまで縮めた時間の話です。間隔を挟まない時剋です。命終わって瞬時にして成仏し遂げる、これが念仏成仏ということです。

はい、もう分からんでも首振っておいて下さい(笑)。

「往生」が間違っている訳ではないです。間違っている訳ではないですが、ご開山様から言わせると、何所に往くかというと、涅槃。阿弥陀様のおさとりと同質のおさとりに往き着くのです。往き着いて還ったところが極楽です。駅前のロータリーのようなものです。タクシーがいて、お客が来ないか待っている。そして客があれば八方へ散って行きます。私は大涅槃の阿弥陀様と同質量のさとりの如来、仏となりきったら智慧と慈悲の生命体になります。慈悲というのは、案じられてならない、命のために行動せざるを得ない性質のものです。そうするとどうなるかというと、極楽で駅前ロータリー風に待機して、そして自由自在に十方世界ことごとくの生命体に出て行って、迷いの命にタッチして行く慈悲行動を起こすのです。それが、おさとりから極楽ということ。極楽とは場所の移動先の話ではないのです。ときどき布教師が「極楽から娑婆に還ってくるのを"還相回向"」と言いますが、還ってくるのは涅槃から還ってくることです。これが親鸞聖人の浄土真宗です。

そこで。

親鸞聖人はたくさんのお書物をお書きになられました。その中に『入出二門偈』というのがあります。天親さま、曇鸞さま、道綽さま、善導さま、この4人のお方の手柄ごとを『入出二門偈』という偈にしておられます。『正信偈』より少し長いもの、80過ぎてのお書物です。その最後に、善導大師さまのお手柄を述べられて
煩悩を具足せる凡夫人、仏の願力によって摂取を獲る、この人は凡数の摂に非ず、是れ人中の分陀利華なり
と親鸞聖人は仰っています。
「煩悩を具足せる凡夫人」私どもは煩悩で構成されている生命体だ、という意味です。煩悩とは貪欲(欲望)、瞋恚(怒り)、愚痴(愚かさ)です。愚かさとは、何所から来たかという命の由来を知らない愚かさ、死んでこの命が何所へ往くか知らない愚かさです。これを「末代無知」と言います。『大無量寿経』というお経の中の言葉です。家計簿の中身をどれだけ知っておろうとて、なんぼ亭主の操作法を心得ていようとて、我が命の由来と命の行方を知らないということを仏法で「智慧が無い」というのです。智慧が無いというのは、やりくりという話ではありません。私の生命存在が見えていないということを、愚かであり無知であるというのが仏教です。
「仏の願力によって摂取を獲る」とは、阿弥陀様の智慧と慈悲の願いをもってあなたの命は成仏治定という生命体になりました、ということです。
その状態を「凡数の摂に非ず」。凡夫というメンバーに収まるものではない、念仏行者、信心の行者、本願の行者、成仏治定の命、その者はすでに凡夫のメンバーから離脱しておりますぞ、と親鸞聖人は述べられたのです。善導さまの言い方とは違います。善導さまは「極楽に往った者は凡夫ではない」と仰っていますが、親鸞聖人は「現在ただいま念仏成仏の命になった私は、もはや凡夫と呼ばれるメンバーから離脱した生命体ですぞ」というお言葉がこれです。これを喜ぶのです。よかったな、というのはそれをいうのです。


ちょっと長くなりましたので、ここで休憩します。


2011.11.03


こちらに続きます。

【法話】慈悲ある側が変わるのです。慈悲は片道です。望まれて、請求されて、行動を起こすのではありません 2011.11.03 柏市西方寺


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