★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年04月17日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]の続きです。
(つづく)
十三、第十八願中心の本願観
Q四十八願の中心が第十八願であると最初に言われた方は誰ですか。
Aさかのぼれば中国の曇鸞大師(476~542)や、道綽禅師(562~645)も言われていましたが、特にはっきりと仰せられたのは、善導大師(613~681)でした。それを承けて徹底していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。
Q善導大師はどのように言われていたのですか。
A『観経疏』「玄義分」に、阿弥陀仏が報身仏であり、その浄土がさとりの領域である報土であることを証明するのに、『大経』の本願を引いて、『無量寿経』にのたまわく、「法蔵比丘、世饒王仏(せにょうおうぶつ)の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。と言われています。(『註釈版聖典・七祖篇』316頁)
Qそのこころを簡単に説明してください。
A『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩と名告る修行者であったとき、四十八願を発されたが、その一々の願に、「もし私が仏陀になり得たとしても、十方の衆生の中で、わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っているのに、もし生まれることができないようなことがあるならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。このように本願の因に報いて完成された仏陀ですから阿弥陀仏は明らかに報身仏であり、その浄土もこの本願に報いて完成された領域ですから報土であるといわねばならないというのです。こうして凡夫が往生できる阿弥陀仏の浄土は、程度の低い応身、応土にすぎないといわれていた通説を破って阿弥陀仏の報身、報土説を確立していかれたのでした。
そればかりか同時に、報身仏、報土といわれる高度なさとりの領域であるならば、すでにさとりを開いた大菩薩だけが、その智慧の程度に応じて往生し、感得できるだけで、凡夫は決して往生できないという通説を破って、凡夫が直ちに往生できる報土であるということを証明していかれたのでした。
Qそのようなことがどうして言えるのですか。
A阿弥陀仏は「わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っている者を、もし生れさせることができないようならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。それゆえ、本願の因に報いてなられた仏であり、浄土であるという論理で、報身、報土説を証明されたことは、同時にその阿弥陀仏は、わずかに十声の念仏しかできない煩悩具足の凡夫であっても、本願によって成就した報土へ往生させる本願力を完成されていることを証明していることになるからです。
こうして、本来ならば、すでにさとりの境地に到達している大菩薩でなければ往生できない報土へ、念仏往生を誓われた第十八願を信じ、念仏する者は、どれほど煩悩が深重であっても、その本願力に乗じて、往生させていただけると論証されたのでした。これを善導大師の凡夫入報説と呼んでおります。
Qしかしそれが、第十八願に他の四十七を収めているとはどうして言えるのですか。
Aそこに、「一々の願にのたまはく」といって、第十八願の念仏往生の誓願をあげられているからです。四十八願といっても、第十八の念仏往生のこころをひろげて説明しているだけで、開けば四十八願になりますが、収約すれば、第十八願の一願に帰すると見られていたことがわかるからです。
その心を承けて法然聖人は、『選択集』特留章に「念仏往生の願をもって本願中の王となすなり」と言い、阿弥陀仏の本願は、第十八願の念仏往生の法義のほかにないと言い切っていかれたのでした。
Q法然聖人や親鸞聖人は、第十八願をどのように味わわれたのですか。
A第十八願はこの本願を信じて、念仏する者を、必ず浄土に往生させるということを、次のような言葉で誓願されています。たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除くというのです。
Qそれを現代語に訳すれば、どのようになりますか。
A「たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称える者は、必ず往生させましょう、もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし、五逆の罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます」というのです。(「【二】阿弥陀仏の本願」より)
(つづく)





