梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (6)[親鸞一人がため(2)]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (5)[親鸞一人がため(1)]の続きです。

(中略)

十、親鸞一人がため



(中略)

二種深信とは、どういうことですか。

善導大師が、『観経』に説かれている至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)という三心の中で、特に深心というのは、念仏往生の本願(第十八願)を疑いなく深く信じる心であるといい、その一つの信心の有様を機と法の両面に開いて示された釈を機法二種(きほうにしゅ)の深信(じんしん)といいます。
 機とは助けていただく私のことをいいますが、如来さまがご覧になった私の本当の姿は、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫であって、自力ではさとりを開く手がかりさえもない身であると知らされたことを「機の深信」といいます。法とは、そのような私を支え救ってくださる本願の法則をいいます。すなわち本願他力の法則にまかせている状態を「法の深信」といいます。それを善導大師は、
「二には深心」と。「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心(しん)なり。また二種あり。一には決定(けつじょう)して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没(もっ)しつねに流転して、出離(しゅつり)の縁(えん)あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)したまふこと、疑(うたがい)なく慮(おもんぱか)りなくかの願力(がんりき)に乗じてさだめて往生を得(う)と信ず。
(『註釈版聖典・七祖篇』457頁)
といわれています。
 実は信心を獲るということは、私を救うために法蔵菩薩が五劫ものあいだ思惟されて、この念仏往生の本願を選び定め、成就されたという経説を疑いなく聞き開くことを意味していました。そこには、二つの事柄が教示されていました。
 その一つは、法蔵菩薩が五劫もの時をかけて思惟しなければ救いの道が見出せなかったほど愚悪な煩悩具足の私が、救いの目当てであるということを知らされます。二つには、法蔵菩薩が、思いの限りを尽くしたうえで、念仏を与えて必ず救うと見きわめられた本願の救いであったということを知らされます。前者は、私に自力成仏の能力はないことを思い知らせて、自力のはからいを離れる機の深信を成立させていきます。そして後者は、本願力の救いの確かさを知らせて、他力にまかせる法の深信を成立させていきます。こうして私どもは「五劫思惟の本願」をはからいなく聞き受けるとき、機法二種の深信として表わされるような構造をもった信心が恵まれるわけです。
 なお唯円房はさらに言葉を継いで、聖人のこのお言葉によって、自身の愚かさをいよいよ深く思い知らされると受け取り、
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。
『註釈版聖典』853頁
と領解しています。「それゆえ恐れ多いことですが、これは聖人が、ご自身にひきよせて、私どもが、自分の罪悪の深いことにも気づかず、このような愚鈍の身を救おうと願い立たれた如来のご恩がどれほど高く尊いものであるかも知らずに迷っているのを、思い知らせようとして仰せられたのに違いありません。まことに勿体ないことです」というのです。



(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (5)[親鸞一人がため(1)]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (4)[浄土往生の道を選択する]の続きです。

(中略)

『歎異抄』の後序には
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを……
(『註釈版聖典』853頁)
という親鸞聖人の「つねの仰せ」が収録されていることは有名であります。

十、親鸞一人がため



生きとし生けるすべてのものを救うと願い立たれた阿弥陀仏の普遍の救いを、「ひとへに親鸞一人がため」と言われるのは、自分一人のこととして、矮小化したことになりませんか。

決してそうではありません。普遍の救いといっても、底引網で魚を掬(すく)いあげるようなことではありません。一人ひとりを、本願を信じ念仏する者に育てあげ、真の仏弟子に転換させることです。したがって如来の呼びかけは「我よく汝を護らん」と二人称単数で呼びかけられ、「私お救いにあずかる」と「信知」することが肝要なのです。その意味で一人一人の救いなのです。
 とりわけ『歎異抄』の「親鸞一人がため」と言われた言葉には、特別の意味が籠(こ)められていました。それは、すぐ次に「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という言葉が続いていることによってわかります。

どういうことがわかるのですか。

さとりの智慧を極めた阿弥陀仏(法蔵菩薩)ほどの方が、五劫の間も思惟しなければ、一切衆生を必ず救えるという救済法を選択して、本願を建てることができなかったのは、ほかでもない、この親鸞のような、愚かで罪深い者がいたからであると読み取られたのです。さとりを開く手がかりさえももたないこの親鸞をどうすれば救えるかと、まるで死者を甦らせるような救済法を見出そうとされたから、五劫もの時間がかかったに違いない。そのように味わったとき、五劫思惟して、念仏往生の本願を選択されたという教説を聞くにつけても、そのような長い長いご苦労をおかけしたのは親鸞一人のせいであったと慚愧されているのです。
 ですから「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめちたちける本願のかたじけなさよ」という、しぼりだすようなお言葉が続くわけです。「それほどの業」とは、法蔵菩薩が五劫の間も思惟しなければ救う道が見つからなかったほど、「それほどの重い罪業」を指していたのです。それは、何よりも五劫思惟という教説を通して思い知らされた、自身の罪業の底知れぬ深さに気づいた人の深い慚愧の言葉だったのです。しかしそこには、そのような愚かな私を必ず救う本願念仏の大道を、選定して与えてくださっていることの勿体なさを慶ぶ心が同時に起こってまいりますから、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とご述懐されたのです。
 要するに聖人が「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言われたのは、ただあっけらかんと「私一人がお救いにあずかる」といわれたのではなく、私のような愚悪な者がいたから如来さまに大変なご迷惑をお掛けしなければならなかったと深く慚愧しつつ、そのご恩を偲んでおられるのです。

『歎異抄』の中には、その文章を「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを」と書いてある一本がありますが、どちらが正しいのですか。

『歎異抄』の原本はまだ発見されていませんので、原本と照合して確かめることはできませんが、現存する最古の写本である蓮如上人書写本(西本願寺蔵・重文)と、上人の滅後17年目の永正13(1516)年に写された古写本には、「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを」と記されています。しかし上人滅後20年たって、永正16年に書写された一本(大谷大学蔵)には、「そくばくの業」となっています。
 「そくばく」とは「そこばく」のなまりで、数量を明示しないで、「幾らかの」という意味と、「数量の非常に多いさまを表わす」場合とがあります。ですから「そくばくの業」を、「数え切れないほどの罪業」という意味で理解すれば、「それほどの業」という場合と内容的には変わりません。しかし「それほどの業」の方が『歎異抄』の文脈にも合致しており、原型であったと思いますので、私は蓮如上人にしたがって、「それほどの業」と読んでいくことにしています。

『歎異抄』の文脈に親しいというのは、どういうことですか。

『歎異抄』の著者(唯円房)は、この親鸞聖人のご述懐に続いて、自身の領解を述べていきますが、まず初めに、この聖人のお言葉が、善導大師の「散善義」に示された二種深信の中の機の深信のこころとまったく同じであると言っているからです。
いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
(『註釈版聖典』853頁)
と言われたものがそれです。

二種深信とは、どういうことですか。


(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (3)[浄土建立の誓願]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (2)[般若・無分別智の意味][迷妄を喚び覚ますもの]の続きです。

七、浄土建立の誓願



(中略)

法蔵菩薩は、どのような本願を立てられたのですか。

その大きな特徴は浄土を建立して、そこへ人びとを生まれさせて、さとりを完成させようという誓願を立てられたということです。

なぜ浄土を建立しようとされたのですか。

煩悩に汚れたこの娑婆(しゃば)では、人びとにさとりを開かせることは極めて困難であるとお考えになったからです。

それをもう少し詳しく説明してください。

仏陀は、人びとが苦しむのは、自己中心の想念(愚痴)に惑わされて、自分に都合のいいものばかりを求め(貪欲)、自分に都合の悪いものを排除しようとする心(瞋恚)に振り回されながら生きているからであると仰せられました。そのような汚れた心のはたらきを煩悩(心身を煩わせ、悩ますもの)と呼んでいます。したがって煩悩さえ無くすれば、安らかなさとりの境地(涅槃)に至ることができると教えられていました。いわれてみれば確かにその通りです。事実、釈尊はその通りに煩悩を完全に制御して、さとりの境地に到達された方でした。
 もちろん貪欲・瞋恚・愚痴の三種は代表的な煩悩をあげただけで、実際には状況に応じて驕慢とか、疑惑とか、悪見など無数にあります。貪欲だけでも財産欲、名誉欲、食欲、色欲(性欲)、睡眠欲(なまけ心)という五欲があげられ、また何時までも生きていたいという自己保存欲と、自分の勢力圏を少しでも広げたいという自己拡張欲に分類することもできましょう。いずれにせよこうしたさまざまな欲望の充足を求めて生きているのが人間ですから、人間というのは、欲望が形を採っているようなものです。その我欲を妨げるものに対して起こすのが怒りであり憎しみですから、我欲に限りがないように瞋憎にも際限はありません。
 いいかえれば煩悩は単に心の問題というよりも、むしろ身体の問題であるというべきでしょう。自己保存の欲求と、自己拡散の欲望は、細胞のひとかけらにも備わっている機能なのです。我欲を無くすことは自分の存在それ自体を否定することに連なっていますから、無くすることはもちろん、完全にコントロールすることも至難の業であるといわねばなりません。そのような煩悩を断ち切ることができずに、むしろ煩悩を増長するような生活をしている者を煩悩具足の凡夫と呼んでいます。それはもう自分の力ではさとりを開く手がかりさえもない者でした。法蔵菩薩はそのような私どもを救うために浄土の建立を誓願されたのでした。

自分の力では煩悩を断ち切ることのできない者のために、浄土を建立されたといわれるのですか。

そうです。この娑婆世界で成仏しようとすれば、釈尊がそうされたように、出家し、無欲の生活を持続し、心身を浄化していかねばなりません。しかし、この世界は、自分の内にも、私をとり巻く環境にも、あまりにも悪縁が多く、修行を妨げる邪魔が多すぎます。せっかく必至の修行によって良いところまで進んでいても、ふとした悪縁に惑わされて転落し、元の凡夫に返ってしまう修行者がほとんどでした。
 法蔵菩薩は、そのような自分も環境も浄化するどころか、いつの間にか自分もまた人びとの悪縁に成り下がって、自他ともに迷いを重ねていく愚かな煩悩具足の凡夫をご覧になって、このような者を救うためには、全く悪縁のない、清浄無垢(しょうじょうむく)な世界に迎え入れるしかないと見通されたのでした。
 愛欲や憎悪を起こすような悪縁が全くないならば愛憎の煩悩も起こらないはずです。また如来の清浄無垢な智慧と慈悲の領域である浄土に至れば、自ずから大智大悲の徳に同化し、無明煩悩(むみょうぼんのう)は消滅し、さとりが完成していきます。
 そのことを曇鸞大師(どんらんだいし)は、行動するときには必ず曲がるのが蛇の性質ですが、真っ直ぐな筒に入れるならば、真っ直ぐになるようなものだと仰せられていました。また清らかな川の水も、濁った河の水も、ひとたび大海に流れ込めば、みな浄化されて、同じ一つの塩味に転換されます。そのように、如来の智慧を慈悲の徳を本体としている広大無辺な浄土に往生すれば、善人であれ、悪人であれ、知者であれ愚者であれ、分け隔てなく大智大悲の徳に転換されていくとも仰せられていました。
 こうして煩悩具足の凡夫を救うためには、悪縁が全くなく、往生した者の無明煩悩を浄化することのできるような智慧と慈悲を本体とした、広大無辺な清浄仏国を建立しようと法蔵菩薩は決心されたのでした。これを「浄仏国土、成就衆生」の誓願と呼んでいます。仏国土を浄化して(自利)、衆生の往生成仏を成就させよう(利他)とする願いだからです。
 こうして自分と他人との隔てを超えて、自他を一如と見きわめられた法蔵菩薩は、煩悩具足の凡夫の愚かしい心情や行動を他人事としてではなく、菩薩ご自身の痛みと感受し、ご自身の責任と感じて、「浄土建立」という壮大な誓願を発し、衆生救済に立ち上がられたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



つづく




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