動く静止画、消える周辺視野

前に、静止画が動いて見えたり、一点を凝視していたら、周囲が見えなくなった、というのをやりましたが、その原因が明らかにされつつあるようです。
といってもまだ正確にはわかっていない状況ですが、マイクロ・サッカードと呼ばれる眼球運動が解明の鍵をにぎっているらしいです。マイクロ・サッカードとは、目が1点を注視する際に行なわれる小さな運動の一種で、

固視微動

マイクロ・サッカード
一点を注視しているとき、目の動きは止まっているように見えるが、実際には小さな動きを絶えず行っている。固視微動には、ドリフトとトレマ、フリックがある。ドリフトは、小さな滑らかな動き、トレマは非常に小さな高周波の振動、フリックは小さな跳ぶような動きで、跳躍運動(サッカード)を小さくした動きとしてマイクロサッカードとも呼ばれている。固視微動は単なるノイズではなく、空間上に浮かんでいる眼球の方向を一定に保つための動きや、網膜像を鮮明に保つための動きと考えられている。フリックは神経のインパルスを反映しているとも考えられ、脳内の視覚情報処理機構を考える上で、見過ごすことのできない眼球運動である。
というもの。
今回の研究は、「静止画が動いて見える原因は脳か? 眼球か?」という論争に対し、「眼球」という答えを与えるもので
マイクロ・サッカードが関与していると証明できれば、錯視は脳の視覚野のみが原因だとする仮説は除外される。視覚野も関与しているかもしれないが、錯覚はまず眼球で生じるのだ
と、Martinez-Conde 氏は述べています。
その仕組みが、まだ正確には突き止められていない、という段階ですが、これが明らかになれば、マイクロ・サッカードを利用した新たな視覚効果のアイディアも膨らむかもしれません。
小林秀雄の『近代絵画』のところでも少し書きましたが、視覚をだますのは聴覚より簡単なようですので、表現技法のひとつとして、「だまし絵」的な面白い芸術作品が今後も生まれたら、楽しいと思います。
以上、"静止画が動いて見える「エニグマ錯視」の原因は"を参考にさせていただきました↓ (続きを読む…)

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小林秀雄 / 近代絵画

 これを書いている時点で、アマゾンの
「美術の専門書、美術の専門家による批評ではないので、決して難解ではなく、絵画に関心のない人でも充分読むに足る」
というレビューが、
10人中、10人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
となっているのですが、正直いって難解でした(大汗)
 たとえば、パラパラ~とめくって適当に開いた240ページを引用してみると、
12
 何故、絵かきが、絵はフォルムであるなどと断らなければならないのか。フォルムとは嘘であるフォルムであり、嘘とは真実を会得させる為の嘘である、という様な言葉で、詰まるところ、ピカソは何が言いたいのであるか、又しても、ピカソの、世論に抗したい発言の動機の方が問題だろう。そして、問題の核心は、要するに、フォルムというものに附したピカソの意味と、世人の解するフォルムとの食違いに帰する様に思われる。恐らくピカソは、もっと乱暴な言葉が吐きたかったのではあるまいか。私はフォルムを経験しているが、諸君にとって、フォルムとは単なる言葉ではないかと。  絵はフォルムである、と画家が言う。現代の教養は、絵かきの言い分なら、尤もだと言うだろう。凡ての芸術はフォルムである、という事になれば、小首を傾げるだろうが、美学者の寝言なら、仕方があるまい、と言うことだろう。ところで、世界はフォルムだと誰かが言ったとすれば、これはもう気違いだという事になるだろう。しかし、本当に気違いであるか、どうか。少なくともフォルムというものは、現代で不当に軽視されている、と考える余地はあろう。文化は時代々々で、それぞれの盲点を持つものである。  フォルム(form)とは言うまでもなく形の事だ。形と言えば、それは形に過ぎないと続くであろう。形と聞けば、直ちにその内容と考える。形を重んずるとは、形式主義を意味する。という事は、現代人は形に関しては形式主義者であるという事にならないか。この形式主義は明らかに近代の産物であると言える。form という言葉は forma から発したのであろうが、中世紀の教養人にとって、フォルマとは、恐らく世界観の上で根底的な考えを現していたであろう。凡そ物の形とは、物の本質である事を、思索人は疑いはしなかったであろう。それよりも、私達が日常使っている「かたち」だとか「すがた」などとかいう言葉は、私達の記憶とともに古いのだが、万葉の「すがた」とか源氏の「かたち」とかという言葉に比べて、どれほど極限された貧しい意味合いに使われているかを想いみれば足りるのである……
??((´‐公‐`))??
 こんな調子で、改行も少なく永遠と続くので、読解力の欠如を知らされつつ、300ページ足らずを読むのに1ヶ月以上かかりました。それも、読んだというより、文字を目で追った、というのに近い読み方ですが。
 ただ一つ、理解できたのは、音と光の違いについての記述です。耳は、異なる波長の音が混じっていると、それを「和音」と識別できるのに対し、視覚はプリズムを使わない限り光を分解することは出来ない、、、なるほど、それはその通り。すべての周波数の音が同強度であるホワイトノイズが、不快な雑音なのに対し、白色の光はそれ自体が一つの色に見えます。
 また、たとえば赤いリンゴは、それ自体が赤い光を発しているのではなく、リンゴが赤以外の光の波長を吸収しているから赤く見える、、、これは元々知識があったから理解できたことでした。
波長を受ける眼の受信機は、耳のように整備されていない。(中略)そこで、私達が、極めて純粋な色と感じているものも、本当は純粋だかどうかまるで当てにならない。例えば黄色の色ガラスは、実に沢山の、殆どすべての色を透過させているのに黄色に見える。眼に色の分析能力がないという事実は、画布の上の色の斑点によって、色感を思う様に合成しようとする画家の企てに大変な障碍(しょうがい)になる、音の合成の様には参らない。音響学が作曲家に役立つ様には、色彩に関する科学は画家を助ける事は出来なかった。モネの弟子のシニャックは、色彩の理論による、技法の合理化の道を押し進めてみたが、絵は、本能的に悪戦苦闘するモネの絵を抜けず、冷たく死んで行くより他はなかった。
 話はそれますが、聴覚が視覚より研ぎ澄まされているというのは、興味深いところです。普通のCDのサンプリング周波数は44.1kHzですが、動画が、動く絵として違和感なく認識できるのはわずかに30フレーム/1秒(映画の場合は24f/s)で、その差は1000倍以上!  また、聴覚は1/1000秒のずれも感知することができるので、左右の耳への到達時刻の差から、音の方向を認識できるそうです。  それに加え、約340m/sの音速と、300,000,000m/sの光速の違いを考えると、視覚より聴覚の方が分解能力が高いというのも分かる気がします。
 それはさておき、肖像画にせよ、風景画にせよ、画家は、目の前の物をどう捕らえ、どう表現するか、苦心して作品を残していますが、難しいことは分からなくとも、絵を鑑賞して何か感ずるところから始めたいと思いました。

 以下、本書に掲載されている作品の目録です。 (続きを読む…)

Filed under: こ:小林秀雄  タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (0)

ドストエフスキー ~ カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫・訳)

 哲学者ウィトゲンシュタインが「最低でも50回は精読した」と言い、全文を諳(そら)んじるほど細部を読み込んだ(゚д゚;)とされる、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、亀山郁夫さんの訳が読みやすいということで通勤の行き帰りで挑戦しました。途中で挫折することなく、何とか読み終えるのに4~5ヶ月かかりました。  確かに日本語としては読みやすいのですが、内容が奥深く、込められたメッセージも盛りだくさんで消化不良のところが多くあります。知人の解説によれば、この小説は「キリストはなぜ復活しなかったのか」「キリスト教の孕む矛盾点」「宗教と人間との関わり」などに明確な解答を与える世界文学の最高峰!だそうですが、そこまで理解するには背景となる当時のロシア情勢やキリスト教などの知識がないと無理だと思いました。また、癲癇(てんかん)を患い、シベリアで服役経験をもつ作者の自伝的要素も強いので、先に5巻目の「ドストエフスキーの生涯」や「解題」、また各巻末の「読書ガイド」を先に読んでから本文を読むと少しは理解の助けになるかと思います。
「父殺しの犯人は誰か?」「フョードル、ミーチャと、カテリーナ、グルーシェニカの恋の行方はいかに?」あるいは、「“わたしの主人公”アリョーシャと、彼との婚約を解消したリーザ、また、少年イリューシャやコーリャとその友達、との関わり」など、ストーリー的に読んでいて面白いところは沢山ありました。スメルジャコフとイワンとのやり取りなども引き込まれるものがあります。登場人物一人一人が個性的なのが、難解ながらも面白く読める魅力だと思います。他にもゾシマ長老やイッポリート検事、フェチュコーヴィチ弁護士など挙げればきりがありません。こちらにも書きましたが、それぞれの巻のしおりに、おもな登場人物の説明が書かれているので、光文社古典新訳文庫の良心に助けられました。
『カラマーゾフの兄弟』は、“エピローグ付、4部からなる長編小説”ですが、その前の「著者より」という序文にあるように、エピローグの後には更に“第二の小説”が書かれる予定でしたが未完で終わっています。小林秀雄はそれを「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と評していますが、訳者・亀山郁夫氏も以下のように「あとがき」で述べています。分からないなりに何となく共感できる気になるのは、それだけ氏の解説に説得力があるということでしょうか。
 わたしはいま、読者のすべてに代わって、この小説が未完に終わったことを惜しむ。未完の音楽は数知れずある。モーツァルトの『レクイエム』、マーラーの『第10番』──。しかしドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』こそは、人類がついに手にできなかった、もっともまばゆい遺産のひとつであるにちがいない。ドストエフスキーの60歳の死は、その意味であまりにも惜しまれる、あまりにも早すぎる死であった。
 なお、同じく5巻目の解題から、この小説の構想メモが興味深かったので、少し長いですが引用させていただきます。
 知られるかぎり、『カラマーゾフの兄弟』の最初の稿が書きとめられたのは1878年4月のことだが、その構想のヒントを得たのははるかに古く、1850年代にさかのぼる。当時、オムスクの「死の家」に流刑中のドストエフスキーは、そこで出会った囚人仲間のドミートリー・イリインスキーから、次のような話を知らされることになった。  かつてトボリスクの国境大隊に勤務していたこの男は、父殺しの罪を着せられて、懲役20年の判決を言い渡され、オムスクの監獄ですでに何年間か徒刑の苦しみを嘗めていた。ところが、刑期半ばにして、実際の犯人はその弟であることが判明し、刑期を10年つとめた段階で釈放された。
(中略)
 彼(ドストエフスキー)は、現実的な意味ではまだ『カラマーゾフの兄弟』への結晶を夢見ることなく、次のようなメモを書きとめることになった。(中略)
「悲劇。トボリスクで、約20年間。イリ(イン)スキーの物語のようなもの。二人の兄弟、年老いた父親、一人には許婚(いいなずけ)がいて、その女に弟がひそかに横恋慕している。しかし、彼女は兄を愛している。にもかかわらず、兄の、若い少尉補は放蕩したり、愚行に走ったり、父親と喧嘩したりする。父親が消える。ニ、三日、なんの音沙汰もない。兄弟が遺産の話をしているときに、とつぜん、官憲が地下室から死体を探し出してくる。兄の犯行の証拠があがる(弟はいっしょに暮らしていなかった)。兄は裁判にかけられ、懲役を言い渡される……世間の連中には、犯人はだれかたしかなところはわからない。舞台は監獄。みんなが彼を殺そうとする。上官、彼は裏切らない。囚人たちは彼に兄弟の誓いを立てる。上官は父親を殺したことを責める。12年が経って、弟が彼に会いにやってくる。沈黙のうちにたがいに理解しあう場面。それからさらに7年、弟は官職についているが、苦しんでいて、ヒポコンデリー患者。妻に自分が殺したと言明する。『どうしてわたしに言ったの?』彼は兄のところに行く。妻も駆けつける。妻は懲役囚に何もいわず、夫を救ってほしいと膝を折って頼む。懲役囚は『おれはもう慣れっこになってしまった』と言い、和解する。『おまえはそんなことしなくとも、もう罰せられている』と兄が答える。弟の誕生日。客が集まっている。外に出る。おれが殺したのだ。みんなは精神錯乱だと思う。ラスト。ひとりは家に帰され、ひとりは罪人護送所に送られる。彼は解雇される……弟は兄に、自分の子どもの父親になってくれと頼む。『正しい道に踏み出したのだ』」
 ちょうど、聴きなれた曲のデモテープを知ったときのような新鮮な味わいでした。  この走り書きの内容は、シラーの戯曲『群盗』と驚くほど似ているそうですが、そう知ると『群盗』も読みたくなってきます。「はは~ん、このギターソロは、あの曲からヒントを得たな」と気づいて結構嬉しくなるときがありますが、果たして『群盗』から同質の発見が得られるかどうか、楽しみです。

Link: 読まずに死ねるかドストエフスキー~『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』亀山郁夫著(評:山本貴光+吉川浩満)

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