お経の出るお線香 – 南無阿弥陀佛

お経の出るお線香、「南無阿弥陀佛」というものを頂きました。

お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛3


早速火をつけ(ながら写真を撮るのは難しい)、、、
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


しばらく待つと(供物の果物が買ったままの状態ですみません^_^;。奥の人形は故人のものです)、、、
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


何やら見えてきました。
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


おおぉ!
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


仏様です。立撮即行の阿弥陀如来。
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


つづいて、


な、
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


む、あ、
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


み、だ、
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


ぶつ。
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛


煙は出ず、ほのかにお香が漂う上品なお線香。この中にご絵像、ご名号として阿弥陀如来が現れられました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


途中で灰が崩れはしまいかとドキドキしましたが、分厚いのでしっかりしています。
お経の出るお線香 - 南無阿弥陀佛



そのお姿をみて
心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
(教行信証)
のお言葉を思い出しました。


さて、”お経の出るお線香”ということですが、「南無阿弥陀仏」はお経のどこに出てくるかといえば、例えば『観無量寿経』には「称南無阿弥陀仏」とあります。

『観無量寿経』については、

仏説 観無量寿経

 『無量寿仏観経』ともいい、略して『観経』とも称される。この経は釈尊在世当時、王舎城におこった事件を契機として説かれたもので、はじめに次のような事情が示される。悪友の提婆達多にそそのかされた阿闍世という王子が、父頻婆娑羅王を幽閉し、その王のために食物を運んだ王妃の韋提希夫人をも宮殿の奥に閉じこめた。夫人は遠く耆闍崛山におられる釈尊を心に念じ、仏弟子を遣わして説法してくださるよう求め、これに応じて釈尊みずから王宮の夫人の前に姿を現された。そこで夫人は、この濁悪の世を厭い、苦悩なき世界を求め、特に阿弥陀仏の極楽浄土を選んで、そこに往生するための観法を説かれるように請うた。

 こうして、まず精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれる。この観法の中心は第九の真身観(阿弥陀仏の相好を観ずること)である。

 さらに、釈尊はみずから精神を統一しないままで修する善について、上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれる。まず、上品には大乗の善が説かれ、中品には小乗の善や世間の善が説かれる。そして下品にはこれらの善を修することができない悪人のために念仏の教えが説かれるのである。

 ところが、このようなさまざまな観法や善を説き終ったあとで、最後に阿難に対して無量寿仏の名号を心にとどめよと説かれている。そこで親鸞聖人は、釈尊の本意がこれまで説かれてきた観法や諸善にはなく、他力念仏の一行を勧めることにあると見られた。
ということですが、他にも観無量寿経を読みましょうというサイトに詳しく書かれています。それは少々難しいですが、その中から深川倫雄和上の『観経拝読についての要点』を引用させて頂きます。ゆるゆるお読み下さい。

『観経拝読についての要点』 勧学 深川倫雄

一、経典

私どものご法義は『浄土三部経』のご法義です。この『三部経』をどう解釈するかというと、親鸞聖人のご指南に従うものです。聖人を宗祖と仰いで、そのご教化に従ってまいります。この聖人の『三部経』解釈は『ご本典』や『ご和讃』に示されてあります。
浄土三部経はお釈迦さまがお説きになったものです。お釈迦さまは仏さまです。『三部経』は仏さまのお言葉です。お釈迦さまは澤山のお経をお説き下さいましたが、この『三部経』がお釈迦さまの本懐です。お釈迦さまが『三部経』の中にお説き下さった内容は。阿弥陀さまという仏さまのことです。即ち、『三部経』のご法義は阿弥陀さまのご法義です。この度はその中の一つ、『観無量寿経』略して『観経』のお説教を解説いたしましたので、ゆるゆるこの本をお読み下さい。
経典解釈というものは素人が取りかかってはならないものです。経典は達人の指導によって理解すべきものです。私どもは親鸞聖人という達人のご指導に従います。この本の中の趣旨は、一つ一つに指示はなくても、全部、親鸞聖人の解釈の通りです。執筆者の意向は入っていません。

二、阿弥陀さまの願心

『三部経』の第一である『無量寿経』略して『大経』には阿弥陀さまの衆生済度が説かれてあります。阿弥陀さまの四十八願の中第十八願が中心です。願というのは、如来さまが、こういう仏になりたい、こういうお浄土にしたいという願いです。第十八願は名号ナマンダブになって一切衆生に宿り称えられて、衆生を仏にしたいというものであって、四十八願の願心の根本ですから、第十八願を本願と申します。如来さまは私どものことを隅から隅まで洞察、研究なさいました。それを五劫思惟と申します。私どもの智慧も心も行いも、すべて愚鈍にして不実、虚妄である、衆生は功徳を積むこと不可能である。一切衆生は貪欲、瞋恚、愚痴という煩悩に引きずられ、罪業に縛られて、流転輪廻限りないものである。この者たちが虚妄の世界を流転してゆく繋縛から解放され、智慧の悟りの者になることは、如来さまのお力による外はないと考えました。如来さまの仏徳の全部は同時にナマンダブという、称えられる声の仏さまになって、衆生に自分のこととして信受させ、称えさせて、この名号ナマンダブの功徳の力によって、衆生を極楽浄土に往生させ、覚りの仏にしようと願われました。これが第十八の本願です。名号ナマンダブを信受、称名するということは、この本願の仰せをそのまま受け入れることです。即ち、自分の智慧も思いも行いも、力のないものとし、用いないことにして、私に来て下さった名号ナマンダブただ一つを、受け入れ称えて生きるのであります。
如来さまは、この名号でのお救いによって、一切衆生一人残らず仏にすることに自ら絶対の信をお持ちです。
ところで、この仰せの通りの名号、ご苦労の願心のこめられたナマンダブを仰せの通りに信受しない人がいるであろう。即ち仏さまの前に自分の智慧を無価値のものとして投げ捨てることが出来ない人、自分の思いを価値ありとして大切にする人、自分の行いを功ありと思う人たちです。その人たちの中、自己のすべてを無価値とし得ないで、名号に自分を託することの出来ない人々は、自分の善根、自分の功徳、自分の智慧を誇って、第十八願の宗教である名香の法を受けつけないでしょう。如来さまはそのような、仏心に添わない人々のことを予想されました。しかしこの人々を見放しません。いま、仏力=他力にまかせよといっても、その大慈大悲の仏心に背く者たちを暫く許して、そのような者のために第十九願をお立てになりました。即ち自分の智慧と思いを意味ありとして何らかの善根を励み、その功徳によって浄土に往こうとする者、それは実は如来さまには不本意の人々ですが、不本意の人々の為に不本意の宗教を用意されたのが第十九願です。従って第十九願の願心には、如来さまのご本心の宗教である第十八願のご法義に、自力を捨てて、早く立ち帰ってほしいというお心があります。純粋他力の念仏は素晴らしい宗教です。自分の智慧の力を捨てきれない人々が、善をなし、念仏を称えて、その功を誇ろうとするのは、自力善根の人です。宗教として不純であり、不淳ですので、如来さまは不本意な道であるとされます。そこで、第十九願には、第十八願の他力の法から外れた人々に用意下さった、不本意なお心と、第十八願に帰入せよというご本意と、二つの願心があることになります。

三、お釈迦さまの教意

お釈迦さまは仏さまですから、以上の阿弥陀如来の願心をよくご承知です。お釈迦さまは阿弥陀さまのご本意、、第十八願のご法義、名号ナマンダブの法を『大経』にまさしくお説きになりました。即ち『大経』は第十八願ー名号法を開設された経です。第十九願の宗教も説かねばならないお釈迦さまは、王舎城の王宮で興った逆害の事件をチャンスとして、『観経』を説かれました。即ち『観経』は第十九願開設の経です。第十九願は阿弥陀さまが不本意の人々のために立てられた不本意の願です。従って第十九願の正面は不本意の法であり、背後に隠れてご本意の願心があります。ご承知のお釈迦さまは、『観経』の教意に二つを説かねばなりません。即ち『観経』の正面の教説は自力諸善をして往生しようというご法義、背後には他力信心のお念仏を彰してあります。『観経』の教意にニ面があることを見抜いて下さったのは善導大師と親鸞聖人です。これらのお話を整頓して表にしますと、次のようになります。
(略)
そういう意味でこの『観経』は解釈して示すことの困難なお経です。この本では、第十八願の他力念仏をお勧めの面、即ち阿弥陀さまのご本意の側に立って書き進めて参りましたから、そのつもりでお読み下さい。

四、『観経』の大概

『観経』の全体をあらましで示しますと次のようです。

序文(序分)
王宮の逆害と教説の起縁

本文(正宗分)
禅定の心でする善(定善)
散雑の心でする善(散善)
念仏

結び(流通分)
他力念仏の勧め

お経は千五百年の昔、中国仏教このかた、序分・正宗分・流通分の三つに区分して解釈することになっています。流通分とは、一経の教説を結論し、後世に伝え弘めることを命じられる所ですから付属流通と申します。会座の長老及び阿難尊者にそのお経をお渡しになって、流通を命じられるわけです。お経の結論を説示し、後世への流通を説かれる所ですから、流通分は大層大切です。殊に『観経』では、長時間にわたって説かれた定善、散善という教説は差し置いて付属せず、
「阿難よ、お前は如来さまの名号を大切に頂いて生きなさい」
と結ばれます。『観経』はこの流通分を大切にし、これから反顕して読むものです。流通分の教意でもって、序分から理解してゆくものです。

五、悪人正機とお示し

序分に述べられてある王舎城の逆害は悲しい出来事です。頻婆娑羅王の王子阿闍世太子が、お釈迦さまの従兄弟である提婆達多にそそのかされて、王権を手に入れるクーデターを起こしました。父王を幽閉し、母后・韋提希夫人をも軟禁しました。耆婆、月光、雨行という大臣達もこの騒ぎに巻き込まれます。血生臭い中に蠢く凡夫達の浅ましい姿です。韋提希夫人が軟禁された王宮の一室にお釈迦さまがお降りになって、夫人に対してお説法をなされたのが『経』の大部分です。
『大経』はナマンダブのご法義の原則の全体を阿難尊者や弥勒菩薩に対して説かれたものです。『観経』では浅ましい人間模様を織りなす人々にお念仏が説かれました。韋提希夫人その他みな凡夫であって、歴史上初めて念仏を称えて喜ぶ凡夫が現れたことを示すお経です。『観経』は凡夫の為に説かれたお経です。たとい定善の高度な禅定の行が説かれてあっても、あれも凡夫の中の積学の人達のすることであって、菩薩のために説かれてあるのではありません。積学の凡夫にして、自力で定善を行って往生しようとする人は、如来さま不本意の道をゆく姿です。積学の人で他力信心の人は、ご恩を思いながら定善段を行って念仏生活の楽しみとするでしょう。即ち他力の人から言えば定善、散善はご報謝のたのしみです。
お釈迦さまが韋提希夫人に対して、「汝は凡夫にして心想劣悪である」と仰せの場面があります。『観経』は凡夫の為の経であることが知れます。親鸞聖人は右の経語を重視して、「悪人が往生の機であることを彰わす」と仰せです。『大経』では名号法が悪人を正機とすると思われる文はありません。上輩を可とし、下輩を不可とし、悪人を不可とし、善人を可とする文勢です。『観経』を拝読して夫人のような浅ましい凡夫、下品五逆の者が念仏して救われるということが知られます。それで『大経』は真実法の法を説き、『観経』は真実法の機を顕わすと申します。親鸞聖人は『観経』によって第十八の本願は悪人を正機とするご法義を誓われてあると理解されました。
更に、『観経』に登場する人達はすべて浅ましく罪深い凡夫であるが、このお方々は凡夫の姿を示現した聖者方の仮の姿であると見られました。即ち権仮方便をもって罪業の凡夫の姿をあらわし、悪人凡夫がナマンダブで救われるのであると教えて下さったものと教えて下さいました。『ご和讃』に、
大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみひとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり
と詠ぜられましたのがそれです。『ご本典』の序にもこの意味を仰せです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、



高森顕徹 / 歎異抄をひらく

歎異抄をひらく
高森顕徹
歎異抄をひらく
著者とされている高森顕徹氏の出版物には、他にも『親鸞聖人の花びら』という書名のものがあります。
「歎異抄」「親鸞聖人」と聞くと、浄土真宗のご法義が書かれているように思いがちですが、これらは氏が会長を勤める「浄土真宗親鸞会」の教義徹底に使われている本、と言えると思います(といっても最近では「教義はどうでも良い」と、弁当事業や会館建設に力を入れているようですが)。

どういうことかというと、「浄土真宗親鸞会」の教義は、一見、親鸞聖人のお言葉によって成立しており、その論理体系をまとめた『聖典』も存在していますが、よく調べてみると、それは「捏造」「改竄」「断章取義」や誤解に満ちているというのです。

その結果、浄土真宗・他力本願の御法と異なるどころか、正反対のものとなっているならば注意が必要です。そういえば『高森顕徹 / 光に向かって100の花束』で、「向きが逆ではないか」と書きました。

断章取義については、会員との問答(聖教の読み方について): 飛雲を読むと、
親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることも
あるそうです。

実際、親鸞聖人が勧められなかったことを勧め、勧められたことを軽んじていると受け止められるところがあり、藁人形論法(詭弁)によって他力念仏を説く人を批判し、自力修善を強調する姿勢が感じられるのが高森氏の特徴と言えるかもしれません。

最近ではそのカラクリを見破らせない為に、会で認められている以外の仏教書を読むことを禁じているとか、いないとか。

他にも、聖人が特定の人に言われたことをすべての人のことを言われたお言葉のように紹介したり、強引な解釈をしているところもあると聞きます。

具体的な、親鸞聖人と高森氏の違いについては、親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口: 飛雲
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- – - – - – - – - – -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 自力

6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
とまとめられており、その後、
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
の項目が追加されています。

これらはすべて、梯實圓氏の言葉を借りれば「自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせる」謗法と言えるかもしれません。


どうしてそう言えるのか、詳しいことは
飛雲
安心問答(浄土真宗の信心について)
真偽検証
元会員から見た浄土真宗親鸞会
親鸞会邪義を破る
などを参照すると理解できるのではないかと思います。


もし、本書を手にする人があれば、最低限この事実くらいは知っておいた方が良いだろうと思い、参考サイトを紹介させてもらいました。

最後に、蓮如上人風に書くと、「宿善の機においては左右なく之を許すべからざるものなり」ということになるのでしょうか。「正反対」ということにおいては、ことごとく徹底しているように思えてなりません。





【法話】闇を晴らして下さる、それが光のお仕事です。 2012.01.08 築地本願寺

1月8日、本願寺築地別院で加藤真悟師から聞かせて頂いたお話の記録です。

築地本願寺 2012.01.08 築地本願寺 2012.01.08

(事情により途中からとなります)
(続きを読む…)

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