★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年06月29日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(1)の続きです。
(つづく)
目次
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
↓↓今回はここから↓↓
2.2 二 宗祖における宿善論2.3 三 蓮如上人の宿善論
↑↑今回はここまで↑↑
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
二 宗祖における宿善論
宗祖における宿善に関する文としては、『教行信証』総序には遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(真聖全の二の一)とあり、『浄土文類聚妙』には遇たま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ(真聖全二の四四七)等とある信をえたならば遠く宿縁を慶べとある文(a)、又『唯信鈔文意』には過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて、今、大願業力にまふあふことをえたり、(真聖全二の六三四)とあり、又『御消息集』には世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生のあいだ諸仏菩薩の御勧めにより、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候、御恩を知らずして、よろずの仏菩薩をあだにまふさんは深き御恩を知らず候うべし。(真聖全二の七〇〇)とあり、又『正像末和讃』には三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり。(真聖全二の五一八)等とある過去の善根について述べている文(b)。そして『浄土和讃』にたとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり。(真聖全二の四八九)とあり、又定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する。(真聖全二の四九三)等とある獲信のために聴聞(聞法)や称名にはげむべきことをすすめているのかとも思われる文(C)等を挙げることが出来よう[8]。
(a)においては、獲信したならば遠い過去から現在に至るまでの宿縁を慶ぶべきことが述べられているわけであるが、これに関連して取り挙げておかねばならないことは覚如と唯善(覚如の父覚恵の異父弟)の間で行われた宿善必要説と宿善不必要説である。
このことは、覚如の第二子従覚の『慕帰絵詞』や、覚如の弟子乗専の『最須敬重絵詞』に述べられている。即ち覚如が宿善開発の機が善知識に値って教えをきけば、信心歓喜して報土に往生するのであると宿善必要説を主張したのに対して唯善は本願に十方衆生とちかってあるのだから宿善の有無には関係なく往生することが出来るから不思議の大願なのであると述べて宿善不必要説を主張したのである。覚如はこれに対して『大経』の「若人無善本、不得聞此経、清浄有戒者、及獲聞正法(中略)宿世見諸仏、楽聴如是教」の文、更に善導の『礼讃』の「若人無善本、不得聞仏名、溝慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸仏、則能信此事」の文により、宿善が必要であることは経釈共に歴然であることを示す。唯善はこれに対し、それならば念仏往生ではなくて宿善往生ではないかと非難するのに対して、覚如は宿善によって往生するというのなら宿善往生というのであろうが、そうではなく宿善の故に善知識にあって信心歓喜する時に往生決定し定聚に住して不退に住するというのであるから宿善往生をいっているのではない[9]、と述べている。
『最須敬重絵詞』に教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による、聖人まさしく遇獲信心遠慶宿縁と釈し給ふうへは、余流をくみながら、相論におよびがたきかと云々。(真聖全三の八四五)とあるように、宿善必要説を主張する覚如がここで指摘しているように宗祖の言葉に「遇獲信心遠慶宿縁」、「遇獲行信遠宿縁」とあるのであるから、宗祖も宿善必要説の立場であったものと考えるのが妥当であろう。
次に(b)についてであるが、これらは宗祖が自身の過去における善根について語っているものであり、『唯信鈔文意』の「過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて今、大願業力にまふあふことをえたり」とある文などは過去の善根によりて大願業力にあふことをえた、という宿善が自力によるものとすることを述べているようにみえるものである。
このことは、『教行信証』「信巻」至心釈に一切群生海、無始より己来、乃至今日今時に至るまで機悪汚善にして清浄の心なく、虚仮諮偽にして真実の心无し、(真聖全二の六二)とあるものや、信楽釈の然るに无始より己来、一切群生海、无明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦論に繋縛せられて、清浄の信楽无し、法爾として真実の信楽无し、(真聖全二の六二)とある文や、更には「信巻」引用の「散善義」の自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし。(真聖全二の五二)等とある「曽無一善」「無有出縁」と語っている言葉と矛盾するように感じられる。しかしこの点については(b)の次の文である。『御消息集』に「世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏菩薩の御勧めによりて、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候」とあり、『正像末和讃』には「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり(真聖全二の五一八)とあるように、過去に修した自力の善の功徳によって今大願業力にあったというのではなく、過去に修した自力の善はあくまでも捨てものとするのであり、その善根の功徳によって今大願業力にあうことが出来たとする宿善自力説を称えるものではないことが明らかである。
次に(c)であるが『浄土和讃』に「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとはながく不退にかなふなり」とあるのは聴聞(聞法)をすすめているものである。又「定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそ、おしえざれども自然に、真如の門に転入する」「信心のひとにおとらじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」であるが、この二首については、古来一部の学者によって獲信のための信前称名を策励するものとされて来たものであり、現在もそれを主張する人もいる[10]。
先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)とあり、又『一念多念文意』にはきくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。
又、次の和讃の「定散自力の称名」とある真門(第二十願)の称名であるが、宗祖は「化巻」真門釈には凡そ大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以て己が善根とするが故に信を生ずること能はず、仏智を了らず。(真聖全二の一六五)とあるように「本願の嘉号を以て己が善根とする」真門念仏を修していては信ずることは出来ないことを述べ、又『疑惑和讃』(真聖全二の五二三以下)では真門念仏を厳しくいましめている。このような点から真門念仏をすすめる意が宗祖にあったとは考えられない。更に、「化巻」三願転入の文には然るに今、特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂之誓良に由へ有る哉。(真聖全二の一六六)とあるが、ここでいわれている「果遂の誓良に由へ有る哉」とは、宗祖が願海(第十八願)に転入した後において、自己を第十八順に転入せしめた果遂の誓(第二十願)に対する感謝の意の表明である。従って「果遂のちかひに帰してこそ、おしへざれども自然に真如の門に転入する」とある文の意は未だ第十八願にはいりえず、定散自力の心を離れえないままで念仏しているような人でも、果遂の誓いによって自然に真如の門(第十八願)に転入せしめられるのであると述べて、果遂の誓の徳を讃えているのであり、決して定散自力の称名の称功を主張しているものではない。又「如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」という文であるが、宗祖においては如来大悲の恩は信を得ることによってはじめて知り得るものとされている。
即ち『教行信証』「総序」には真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。(真聖全二の一)とあり、「化巻」三願転入の文には爰に久しく願海に入りて深く仏思を知れり。(真聖全二の一六六)とあり、『正像末和讃』には釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ。(真聖全二の五二〇)等とあるように「如来大悲の恩」とは、信によってこそ知られるものであると述べられており、又「化巻」真門釈には真に知んぬ、専修にして雑心なる者は、大慶喜心を獲ず。故に宗師は彼の仏恩を念報することなし、業行を作すと雖も心に軽慢を生ず(中略)と云へり。(真聖全二の一六五)と、未だ第十八願の信のない真門念仏の人には仏恩はわからないとあるように、獲信することによってこそ「如来大悲の恩」は知りうるとするのが宗祖の立場である。従って「如来大悲の恩を知り称名念仏はげむべし」ということは、信を得て如来大悲の恩を知り、そして報恩の念仏にはげむべきことをすすめているのであり、決して信前の信を得るための自力の念仏の称功をみとめそれをすすめているのではない。このように「定散自力の称名は……」の称名も「如来大悲の恩を知り称名念仏にはげむべし」の称名も、ともに獲信のための自力念仏をすすめているのではないことは明らかである。従ってこれらの文は宿善自力を意味しているのではないのである。
『高僧和讃』に釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便しわれらが无上の信心を 発起せしめたまひけり(真聖全二の五一○)とあるようにわれらの信心の発起は決して自力によるものではなくすべて釈迦弥陀の善巧方便によるものだとする宿善を他力とするが、宗祖の立場であったものと考えられる。三 蓮如上人の宿善論
蓮如上人は宿善についての見解を諸処に述べているが、獲信の因縁を示して『御文章』に「五重の義」をたてている。即ち、これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずば往生はかなふべからずとみえたり(二の一一、真聖全三の四四二)とあるように、第一に宿善を挙げ、我々の往生のために欠くべからざるものとしている。又、この光明の縁にあひたてまつらずば、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなおるといふことは、さらにもてあるべからざるものなり、しかるに光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふこといますでにえたり。(御文章二の十三、真聖全三の四四五)とあり、又されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は宿因のもよほしにあらずば、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。(御文章四の一、真聖全三 の四七五)等とあるように、獲信のための宿善が欠くべからざるものとして重視されている。
宗祖においても聴聞(聞法)は勧められるところであったが、蓮如上人においても『蓮如上人御一代記聞書』には仏法には世問のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべき様に思ふ事、浅間敷ことなり。仏法には明日といふ事はあるまじき由の仰せに候。「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名を きく人は、ながく不退にかなふなり」と『和讃』にあそばされ候。(真聖全三の五六九)とあり、又いかに不信なりとも、聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只仏法は聴聞にきはまることなりと云云。(蓮如上人御一代記聞書一九三、真聖全三の五七八)等とあるように聴聞にはげむことをすすめるのである。しかし乍ら、これも宗祖の場合と同様にはげむことによって、それが宿善となって信が得られるという宿善を自力によるとすることを意味しているのではない。即ち『御文章』におほよそ当流には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたまふことはりをきゝひらくことは、宿善の開発によるがゆへなりとこゝろえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこゝろうるが、すなはち平生業成の義なり。(一の四、 真聖全三の四〇六)とあるように、宿善開発が自力によるところでなく、仏智他力によるところであると述べ、又この光明の縁にもよほされて宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方によりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。(御文章二の一三、真聖 全三の四四五)とあるように、光明の縁にもよほされて宿善の機あり、という宿善を他力とする立場をとっていることが明らからである。又『蓮如上人御一代記聞書』には宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善有難と申がよく候由仰られ候。(二三三、真聖全三の五九〇)とあるように、宿善は有難いものであると述べていることも、決して宿善は自力によるものではなく、仏智他力によるものであるとする意が述べられているものと窺うことが出来よう。
又、存覚上人も『浄土見聞集』に聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、きゝてうたがはず、たもちてうしなはざるといふ。思といふは信なり、きくも他力よりきゝ、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。(真聖全三の三八一)と「きくも他力よりきゝ」と述べているように、聴聞することもすべて仏力願力によるものとし、自力によるところのものとはしないのである。
(脚注)
- (↑)『歎異抄』第十三章の宿善については、『歎異抄』が宗祖の直接の著述ではないことと、そこにでてくる宿善は獲信に関係ないものであるので取り挙げない。
- (↑)真聖全三の七八五。
- (↑)信楽峻麿氏「親鸞における信心と念仏」(真宗学45・46)
(つづく)


