★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年05月17日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
【法話】「人間の最期を死ととるのが人間の眼差し、人間の最期を往生ととるのが念仏者の眼差し」 2012.02.05 築地本願寺
2012年2月5日、本願寺築地別院にて長原真了師から聞かせて頂いたお話の記録です。
十返舎一九という人がいましたが、辞世の句でこんな詠をよんでいます。
私は実は数年前まで「おおぢぬし」だったんです。「大地主」ではありません。「大痔主」です。「痔」というのは「病だれ」に「寺」と書きますが、どうやらお寺さんの職業病のようです。お寺さんと話をしていると結構多いのです。なぜ「病だれ」に「寺」と書くのか、その意味は定かではありませんが、昔から本堂は寒いと言われますし、そこで長い間正座をするとお尻が鬱血しますので、どうしても切れやすい。そこにお酒をたくさん飲む。こういったことが重なり重なって、寺の病が痔になった、とまことしやかに言われています。その「大痔主」に私も大変苦しんだことがあります。最初は放っておいたのですが、何年かした結果、単なる痔では済まなくなりまして肛門直腸膿腫という腫瘍になってしまいました。これは大変だと病院に行ったのですが、慌ただしく動かれる看護師さんを見てハッと思いました。当時、下の子が生まれたばかりでしたし、私は新しいお寺を作りたいと思いまして銀行から借金をしていたものですから、もし自分に何かがあったらこれからどうやって行きてゆこう。本当に、人生で初めて自分の死に向き合ったときでした。その時は住職になって14~15年経っていましたので、たくさんの葬儀に出会ってきました。それなのに、ご縁を頂いた葬儀の命の問題がすべて他人事であった、と感じました。
「人間の最期を死ととるのが人間の眼差し、人間の最期を往生ととるのが念仏者の眼差し」そうおっしゃって下さった先達の方がいらっしゃいます。私たちは、死んでしまえばおしまい、死にたくない、という小さな殻に閉じこもり、そして生死流転にある身であります。だからこそ、そんなお前を見放すことなく救い摂るという阿弥陀様の働き、そしてそのご信心を賜ることによって、死んでおしまいではない、浄土という世界に参らせて頂く。それが念仏の大きなお徳でありました。だからこそ浄土というのは単なる死後の世界ではありません。死後、私たちが生きる世界が定まればこそ、その浄土という世界は今この時を生きる私に働きかけて下さっているのです。その働きと、恵まれて注がれている光の中に、どう自分の人生と命を受け止めて過ごしてゆくか。そのことが求められているのが私たち念仏者であると思っています。
今日は、阿弥陀様の肝心要の智慧と慈悲をテーマにお取り次ぎをさせて頂きたいと思います。
住職を務めておりますので、色々なご縁を頂いて、そのご縁の中で思いを共にし、苦悩を共にし、共に泣き、笑い、その中で多くの学びをさせて頂いております。
智慧というのは、ありのままに物事を見つめてゆく、という仏の視点、眼差しのことです。その仏の眼差しの中に開かれて行った世界、そこに気付かれてゆかれた方のお話をします。私が出会った葬儀の中で学ばせて頂いた実際の話です。数年前の暮れに、一本の電話がお寺にありました。「子供が亡くなりましたので、門徒ではありませんが葬儀を勤めて頂くことは出来ないでしょうか」というご相談でした。そういうことは東京等ではもっと顕著なのかもしれませんが、長野とはいっても県庁所在地の長野市ですから、門徒さんの流入といいますか、檀家制度にとどまらずお寺と宗派と住職を選ぶという動向が長野でもあります。ですからお取り次ぎをする葬儀も、半分は、色々なご縁の中で選んで頂いてのこと、ということが多くなってきました。そういったご縁でありますので、できるだけそういった声に応えたいということでお家に伺いました。そこには3歳の男の子のご遺体がご安置されてあります。小さなお子さんのご葬儀のご縁でした。勤めさせて頂いてご葬儀の打ち合わせに入るのですが、その打ち合わせの冒頭、ご両親からこんなご相談がありました。「実はこの子は亡くなるまで家に帰って来ることが出来なかったのです。ようやく亡くなってこういった形で帰って来ることが出来たのですが、そういった事情で、この子のために用意したベッドも部屋も一度も使われることがありませんでした。もし出来れば、この子をこの部屋のこのベッドに寝かせてやりたいのですが、都合がつきますでしょうか」。親御さんの気持ちはよく分かります。都合がついたものですから、じゃあそうしましょうということで、寒い時期であったから出来たのですが、2晩仮通夜をして、3日目に本通夜、4日目にご葬儀を勤めました。その間、若いご両親と色々な話をすることが出来ました。そうやって迎えたご葬儀の当日。通常、東京等では葬式が勤まってから出棺というのが当たり前だと思います。しかし長野の葬式の仕方は少し変わっておりまして全国的には「長野方式」と言われることもあるようですが、出棺をして、そして斎場に行ってお骨をご安置してからご葬儀をするのが長野流です。ですから葬儀が終わりますと、すぐお斎(会食の席)が始まります。そこで喪主さんやお家の方々から色々なお言葉を頂きます。その時は、ご両親それぞれからお言葉を是非みなさんに伝えたいということで、お父さん、お母さんという順番でお話しになりました。今日はそのお母さんのお話を皆さんに聞いて頂きたいと思います。
皆さんの前に立たれてお母さんはいきなりこう言われました。「この子は3年という時間を生きました」。正直に言えば非常に違和感を感じました。そこにいらっしゃった方々もきっと同じような思いだったと思います。なぜか。通常人前に立てば、色々な事情や思いはあるでしょうけれども、まずある程度のご挨拶、定型のものがあって、その後言葉が始まりますが、その時にはお母さん、即座に「この子は3年という人生を生きました」とおっしゃったのです。続いて「この子が亡くなって、皆さんから色々な言葉をかけて頂きました。『幼かったのにね』『早かったね』『残念ですね』『もっと一緒にいたかったでしょ』。色々な言葉をかけて頂きましたが、その言葉をかけられればかけられるほど、『そうじゃない、違う』と皆さんの心を素直に受け止めることの出来ない私がいたのです。申し訳ありませんでした。許して下さい」そう言ってお母さんはしばらく泣かれました。涙がおさまってから、こんな思い出話をして下さいました。「この子が私のお腹の中に宿った時、私の人生の中で一番の大きな幸せでした。ところがお腹の中で大きくなるにつれて、障害があることが分かりました。最後は危険を承知で出産をしました。普通は子供が授かると、先生や看護師さんから『男の子ですよ』『女の子ですよ』と言われるのでしょうが、私たちは違いました。先生に呼ばれて『いいですか、非常に厳しいことを申し上げますが、障害の度合いが非常に重いのであまり長くは生きられないでしょうから、覚悟をして下さい』と言われました」。命を授かったという大きな喜びが、その言葉で一瞬にして奈落の底に叩き付けられた、そんな苦しみを抱かれたはずです。それからしばらくして、2人で我が子のところに行ってみたそうです。そこには何本かの管につながれて、保育器という容器に入ってはいるけれども、懸命に心臓を動かして息をしている我が子の姿がある。それはまさに「お父さん、お母さん、僕は生きたいんだ、僕は生きるんだよ」という思いの中で懸命に息をし、心臓を動かしている我が子の姿に間違いない。そう思った時にご両親はハッとされたそうです。「厳しい事実ではあるけれども、その事実に、たとえわずかであっても、向き合うことの出来ない私たちがいた。子供がこんなに一生懸命生きようとしている。しかしその心に寄り添うことが出来なかった。親として何としても申し訳ないことだった。これからどれだけの時間が残されているか分からないけれども、親子3人の時間を大事にしながら、お互い命に向き合いながら、これからの時間を過ごしてゆこう」そう誓ったのだそうです。それから「闘病」というよりは、お互いの命に向き合って生きる家族の時間・人生が始まりました。お母さんは毎日介護をされながら、お父さんは仕事が終わると毎日病院に向かって、そして家族で色々な話をしたそうです。きっと、その日あったことの嬉しかったことや悲しかったことや辛かったことや愚痴などを交えながら、言葉にしてそれを分かち合ったのだと思います。そして言葉にならない時にはあえて言葉にせずに、皆で手を握りあって、握りあう手の中から伝わってくる温もりや力を通じて、みんなここにいるね、みんな一緒だね、と日暮らしを送ったと思います。「そうやって、それぞれの、巡り会った家族の縁というものの中に、命を通して過ごしていった3年という時間が流れてゆきました」。こんなことをお母さんが一通り話して下さって、こうおっしゃるのです。
「世の中には、長生きをすることや、健康であることが素晴らしいという価値観、それが幸せであるという考え方がまかり通っていますが、それは本当でしょうか。それが幸せの絶対条件なのでしょうか。もしそれが本当だとしたら、そこから漏れてしまう人たちや人生、、、まさに私たちがそうでした。障害を持って生まれ、3年という短いわずかな時間の中で生きた命、、、もしそれが本当だとしたら、私たちやこの子の人生、私たち家族の時間が不幸だったと言われなければならないのでしょうか。長生きが素晴らしい、健康であることが素晴らしいという言葉で人はどれだけ、そう思えない人の心を簡単に傷つけいるのでしょうか」。そう言われて私もハッとしました。「その一般的な物差し、命の価値観というものに測られて、私はこの家族の命とかけがえのない時間を推し量って欲しくないと思っていたのです。だから『短かったね』『幼かったね』『早かったね』という言葉を素直に受け止めることが出来ませんでした」。そして、私が一生懸命話をしたことをそのお母さんなりに咀嚼をして下さいまして、こうおっしゃいました。「浄土真宗の阿弥陀様という仏様は、人の命は長さではないとおっしゃって下さる仏様だと聞きました。生まれて、生きて、その人に出会って、その人のことが好きになって、たくさんの思い出を作った時に、ずーっと一緒にいたい、ずーっとこの幸せを手にしていたい、と思うのは人として当たり前のこと。しかしそう思ってみてはいても、それを許さない厳しい現実や事実が私たちにはあります。実際には、死という絶対にすべての人に避けられない現実の中で、すべてを失い、すべてを手放して別れてゆかなければなりません。幸せのために長生きをしたい、健康でありたい、と思うのは人として当たり前のことです。でも、願いが当たり前だとしても、その願いが叶うか叶わないかは全く別のことであって、叶うことよりもむしろ叶わないことの方が多い人生の中に私たちは生きています。だから仏様は、私たちがどうしようも出来ないこと、叶えられないこと、力の及ばぬことに価値を見いだしてはならないとおっしゃって下さるのです。大事なことは命の深さと、輝きに目覚めることだとおっしゃって下さる仏様が阿弥陀様だと聞きます。生まれたということを素直に喜ぶ。出会えたという喜びをお互いが分かち合ってそれを抱きしめてゆく。そうやって、今を、この人生を、この命を生きられたならば、それが比べられることのない何よりの輝き、そして深い深い尊い命に出会えたということになります。そう聞かせて頂いて本当に救われました」と、お母さんはおっしゃって下さいました。そして最後にこう話をまとめて下さるのです。「この子が亡くなるまで、私は、人間というものは生きているということが当たり前だと思っていました。しかし我が子を亡くして初めて、この悲しみの中にあって初めて、人の命は永遠ではないということ、そして同時に、生きていることは当たり前ではないことを知りました。そのことを住職に話すと『そうですね。だから有り難い、有ることが難い私たちの命ですね。有ることが難しい命、しかし願われ生かされ支えられてここにある私の命であるからこその"有り難うございました"という感謝の言葉ではないですか』と聞かせて頂きました。私たちを支えて下さった皆さんに、何一つ恩返しできることを持ち合わせていませんが、この息子から、この別れから教えられた"有り難う"という思いを皆さんに伝えたいと思います。有り難うございました」。
この言葉を聞きながら、涙を止めることが出来ませんでした。そしてそこにいらっしゃった多くの方々が、やはり涙をされていました。私は多くの葬儀に立ち会いますので、いわゆる先生と言われる職種の方々や地元の名士と言われる方々や、色々な方々とお話をしたり、挨拶を聞かせて頂くことがありますが、正直言ってあまり心に響いたことはありませんでした。それを引き合いに出す訳ではありませんが、これほど素晴らしい言葉を聞いたことはありませんでした。そして、私自身の大きな学びのご縁とさせて頂きました。
この話は、別れ行く命と出会った中に、仏の目線・仏の視点からありのままに命・物事を見つめていった智慧に、悲しみに打ちひしがれるのではなくその縁をどう受け止めてゆくかという中に、自分の心をみ教えを依りどころにして、目線を上げてゆかれた一人のお母さんの話ですが、実はこれには後日談があります。私がご葬儀の中で話をさせて頂いた中で、これだけのことを感じられるそのお母さんの感性は凄い、どういう人なのだろう、とすごく興味があったのですが、その後、月参りがありましたので色々話をさせて頂くご縁がありました。そこで分かったのは、このお母さんは元々富山県のご出身で、小さい頃からお寺の日曜学校に通っていたのだそうです。小さい頃からお寺で、家で、おじいちゃん・おばあちゃん・お母さん・お父さん、家族みんな揃って、必ずご飯を食べる前には「帰命無量寿如来」と『正信偈』をお勤めしてからご飯を頂くという生活が日常だったようです。つまり、一つ一つ、一息一息の中に、自分の心に蓄積されていった宗教的情操と言いますか感性があったればこそ、きっとそれが言葉になって出たのがこの話であったと受け止めて、なるほどと思った次第であります。
そのときにこんな言葉を聞きました。「恩送り」。これは富山のある地方の方言だそうです。普通「恩返し」といったら頂いた恩をその方に返すことです。恩返しは、頂いて返すという相互関係の中でしか行ったり来たりしません。しかし恩送りというのは、自分が辛い時や悲しい時に誰かが手を差し伸べてくれた、その心によって私の心が温められた、その喜びや思いを今度はその人に返すのではなくて、悲しみを知ったればこそ、今までは気付けなかった身近な時代や社会の悲しみにその恩を送ってゆく、そのことが尊いことなのだ、という教えのこもった言葉だそうです。私たち真宗門徒にはとても温かい言葉だと味わい学んだご縁でした。まさに亡くなった父親から聞かせてもらった通りでした。住職や僧侶というのは育てられるものなのだ、と。
それでは次に、慈悲について話をしたいと思います。
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(次回につづく)
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる今日、こうやって皆さんにお会いすることができましたけれども、昨日寝られる時に、今朝、またこの時間、今日という日が果たして来るのだろうかという疑いをもって命に向き合われた方がいらっしゃるでしょうか。この世の習いとして、始めあるものはすべてに終わりがあります。そして、諸行無常と言われるようにすべてのものは移ろい変わって失われてゆくのがこの世の道理であります。その道理の中に、すべてのもの、この私もあるということは間違いのないことで、私もひとたび無常の風が吹けば、そこにどんな事情があったにせよ、この世からすべてを手放してこの命を滅してゆかねばなりません。しかし、普段の日常の中で死の自覚を持たないのも私たちであります。
十返舎一九という人がいましたが、辞世の句でこんな詠をよんでいます。
今までは 人のことと思へども 俺が死ぬとは これはたまらんあまりに滑稽で笑いが出そうな詠ではありますが、滑稽と笑う前に、まさにそれは私のことであった、他人事、他人事と受け流してきていた命の問題が、実は私のことであった、と受け止めてゆかねばならないと思います。
私は実は数年前まで「おおぢぬし」だったんです。「大地主」ではありません。「大痔主」です。「痔」というのは「病だれ」に「寺」と書きますが、どうやらお寺さんの職業病のようです。お寺さんと話をしていると結構多いのです。なぜ「病だれ」に「寺」と書くのか、その意味は定かではありませんが、昔から本堂は寒いと言われますし、そこで長い間正座をするとお尻が鬱血しますので、どうしても切れやすい。そこにお酒をたくさん飲む。こういったことが重なり重なって、寺の病が痔になった、とまことしやかに言われています。その「大痔主」に私も大変苦しんだことがあります。最初は放っておいたのですが、何年かした結果、単なる痔では済まなくなりまして肛門直腸膿腫という腫瘍になってしまいました。これは大変だと病院に行ったのですが、慌ただしく動かれる看護師さんを見てハッと思いました。当時、下の子が生まれたばかりでしたし、私は新しいお寺を作りたいと思いまして銀行から借金をしていたものですから、もし自分に何かがあったらこれからどうやって行きてゆこう。本当に、人生で初めて自分の死に向き合ったときでした。その時は住職になって14~15年経っていましたので、たくさんの葬儀に出会ってきました。それなのに、ご縁を頂いた葬儀の命の問題がすべて他人事であった、と感じました。
「人間の最期を死ととるのが人間の眼差し、人間の最期を往生ととるのが念仏者の眼差し」そうおっしゃって下さった先達の方がいらっしゃいます。私たちは、死んでしまえばおしまい、死にたくない、という小さな殻に閉じこもり、そして生死流転にある身であります。だからこそ、そんなお前を見放すことなく救い摂るという阿弥陀様の働き、そしてそのご信心を賜ることによって、死んでおしまいではない、浄土という世界に参らせて頂く。それが念仏の大きなお徳でありました。だからこそ浄土というのは単なる死後の世界ではありません。死後、私たちが生きる世界が定まればこそ、その浄土という世界は今この時を生きる私に働きかけて下さっているのです。その働きと、恵まれて注がれている光の中に、どう自分の人生と命を受け止めて過ごしてゆくか。そのことが求められているのが私たち念仏者であると思っています。
今日は、阿弥陀様の肝心要の智慧と慈悲をテーマにお取り次ぎをさせて頂きたいと思います。
住職を務めておりますので、色々なご縁を頂いて、そのご縁の中で思いを共にし、苦悩を共にし、共に泣き、笑い、その中で多くの学びをさせて頂いております。
智慧というのは、ありのままに物事を見つめてゆく、という仏の視点、眼差しのことです。その仏の眼差しの中に開かれて行った世界、そこに気付かれてゆかれた方のお話をします。私が出会った葬儀の中で学ばせて頂いた実際の話です。数年前の暮れに、一本の電話がお寺にありました。「子供が亡くなりましたので、門徒ではありませんが葬儀を勤めて頂くことは出来ないでしょうか」というご相談でした。そういうことは東京等ではもっと顕著なのかもしれませんが、長野とはいっても県庁所在地の長野市ですから、門徒さんの流入といいますか、檀家制度にとどまらずお寺と宗派と住職を選ぶという動向が長野でもあります。ですからお取り次ぎをする葬儀も、半分は、色々なご縁の中で選んで頂いてのこと、ということが多くなってきました。そういったご縁でありますので、できるだけそういった声に応えたいということでお家に伺いました。そこには3歳の男の子のご遺体がご安置されてあります。小さなお子さんのご葬儀のご縁でした。勤めさせて頂いてご葬儀の打ち合わせに入るのですが、その打ち合わせの冒頭、ご両親からこんなご相談がありました。「実はこの子は亡くなるまで家に帰って来ることが出来なかったのです。ようやく亡くなってこういった形で帰って来ることが出来たのですが、そういった事情で、この子のために用意したベッドも部屋も一度も使われることがありませんでした。もし出来れば、この子をこの部屋のこのベッドに寝かせてやりたいのですが、都合がつきますでしょうか」。親御さんの気持ちはよく分かります。都合がついたものですから、じゃあそうしましょうということで、寒い時期であったから出来たのですが、2晩仮通夜をして、3日目に本通夜、4日目にご葬儀を勤めました。その間、若いご両親と色々な話をすることが出来ました。そうやって迎えたご葬儀の当日。通常、東京等では葬式が勤まってから出棺というのが当たり前だと思います。しかし長野の葬式の仕方は少し変わっておりまして全国的には「長野方式」と言われることもあるようですが、出棺をして、そして斎場に行ってお骨をご安置してからご葬儀をするのが長野流です。ですから葬儀が終わりますと、すぐお斎(会食の席)が始まります。そこで喪主さんやお家の方々から色々なお言葉を頂きます。その時は、ご両親それぞれからお言葉を是非みなさんに伝えたいということで、お父さん、お母さんという順番でお話しになりました。今日はそのお母さんのお話を皆さんに聞いて頂きたいと思います。
皆さんの前に立たれてお母さんはいきなりこう言われました。「この子は3年という時間を生きました」。正直に言えば非常に違和感を感じました。そこにいらっしゃった方々もきっと同じような思いだったと思います。なぜか。通常人前に立てば、色々な事情や思いはあるでしょうけれども、まずある程度のご挨拶、定型のものがあって、その後言葉が始まりますが、その時にはお母さん、即座に「この子は3年という人生を生きました」とおっしゃったのです。続いて「この子が亡くなって、皆さんから色々な言葉をかけて頂きました。『幼かったのにね』『早かったね』『残念ですね』『もっと一緒にいたかったでしょ』。色々な言葉をかけて頂きましたが、その言葉をかけられればかけられるほど、『そうじゃない、違う』と皆さんの心を素直に受け止めることの出来ない私がいたのです。申し訳ありませんでした。許して下さい」そう言ってお母さんはしばらく泣かれました。涙がおさまってから、こんな思い出話をして下さいました。「この子が私のお腹の中に宿った時、私の人生の中で一番の大きな幸せでした。ところがお腹の中で大きくなるにつれて、障害があることが分かりました。最後は危険を承知で出産をしました。普通は子供が授かると、先生や看護師さんから『男の子ですよ』『女の子ですよ』と言われるのでしょうが、私たちは違いました。先生に呼ばれて『いいですか、非常に厳しいことを申し上げますが、障害の度合いが非常に重いのであまり長くは生きられないでしょうから、覚悟をして下さい』と言われました」。命を授かったという大きな喜びが、その言葉で一瞬にして奈落の底に叩き付けられた、そんな苦しみを抱かれたはずです。それからしばらくして、2人で我が子のところに行ってみたそうです。そこには何本かの管につながれて、保育器という容器に入ってはいるけれども、懸命に心臓を動かして息をしている我が子の姿がある。それはまさに「お父さん、お母さん、僕は生きたいんだ、僕は生きるんだよ」という思いの中で懸命に息をし、心臓を動かしている我が子の姿に間違いない。そう思った時にご両親はハッとされたそうです。「厳しい事実ではあるけれども、その事実に、たとえわずかであっても、向き合うことの出来ない私たちがいた。子供がこんなに一生懸命生きようとしている。しかしその心に寄り添うことが出来なかった。親として何としても申し訳ないことだった。これからどれだけの時間が残されているか分からないけれども、親子3人の時間を大事にしながら、お互い命に向き合いながら、これからの時間を過ごしてゆこう」そう誓ったのだそうです。それから「闘病」というよりは、お互いの命に向き合って生きる家族の時間・人生が始まりました。お母さんは毎日介護をされながら、お父さんは仕事が終わると毎日病院に向かって、そして家族で色々な話をしたそうです。きっと、その日あったことの嬉しかったことや悲しかったことや辛かったことや愚痴などを交えながら、言葉にしてそれを分かち合ったのだと思います。そして言葉にならない時にはあえて言葉にせずに、皆で手を握りあって、握りあう手の中から伝わってくる温もりや力を通じて、みんなここにいるね、みんな一緒だね、と日暮らしを送ったと思います。「そうやって、それぞれの、巡り会った家族の縁というものの中に、命を通して過ごしていった3年という時間が流れてゆきました」。こんなことをお母さんが一通り話して下さって、こうおっしゃるのです。
「世の中には、長生きをすることや、健康であることが素晴らしいという価値観、それが幸せであるという考え方がまかり通っていますが、それは本当でしょうか。それが幸せの絶対条件なのでしょうか。もしそれが本当だとしたら、そこから漏れてしまう人たちや人生、、、まさに私たちがそうでした。障害を持って生まれ、3年という短いわずかな時間の中で生きた命、、、もしそれが本当だとしたら、私たちやこの子の人生、私たち家族の時間が不幸だったと言われなければならないのでしょうか。長生きが素晴らしい、健康であることが素晴らしいという言葉で人はどれだけ、そう思えない人の心を簡単に傷つけいるのでしょうか」。そう言われて私もハッとしました。「その一般的な物差し、命の価値観というものに測られて、私はこの家族の命とかけがえのない時間を推し量って欲しくないと思っていたのです。だから『短かったね』『幼かったね』『早かったね』という言葉を素直に受け止めることが出来ませんでした」。そして、私が一生懸命話をしたことをそのお母さんなりに咀嚼をして下さいまして、こうおっしゃいました。「浄土真宗の阿弥陀様という仏様は、人の命は長さではないとおっしゃって下さる仏様だと聞きました。生まれて、生きて、その人に出会って、その人のことが好きになって、たくさんの思い出を作った時に、ずーっと一緒にいたい、ずーっとこの幸せを手にしていたい、と思うのは人として当たり前のこと。しかしそう思ってみてはいても、それを許さない厳しい現実や事実が私たちにはあります。実際には、死という絶対にすべての人に避けられない現実の中で、すべてを失い、すべてを手放して別れてゆかなければなりません。幸せのために長生きをしたい、健康でありたい、と思うのは人として当たり前のことです。でも、願いが当たり前だとしても、その願いが叶うか叶わないかは全く別のことであって、叶うことよりもむしろ叶わないことの方が多い人生の中に私たちは生きています。だから仏様は、私たちがどうしようも出来ないこと、叶えられないこと、力の及ばぬことに価値を見いだしてはならないとおっしゃって下さるのです。大事なことは命の深さと、輝きに目覚めることだとおっしゃって下さる仏様が阿弥陀様だと聞きます。生まれたということを素直に喜ぶ。出会えたという喜びをお互いが分かち合ってそれを抱きしめてゆく。そうやって、今を、この人生を、この命を生きられたならば、それが比べられることのない何よりの輝き、そして深い深い尊い命に出会えたということになります。そう聞かせて頂いて本当に救われました」と、お母さんはおっしゃって下さいました。そして最後にこう話をまとめて下さるのです。「この子が亡くなるまで、私は、人間というものは生きているということが当たり前だと思っていました。しかし我が子を亡くして初めて、この悲しみの中にあって初めて、人の命は永遠ではないということ、そして同時に、生きていることは当たり前ではないことを知りました。そのことを住職に話すと『そうですね。だから有り難い、有ることが難い私たちの命ですね。有ることが難しい命、しかし願われ生かされ支えられてここにある私の命であるからこその"有り難うございました"という感謝の言葉ではないですか』と聞かせて頂きました。私たちを支えて下さった皆さんに、何一つ恩返しできることを持ち合わせていませんが、この息子から、この別れから教えられた"有り難う"という思いを皆さんに伝えたいと思います。有り難うございました」。
この言葉を聞きながら、涙を止めることが出来ませんでした。そしてそこにいらっしゃった多くの方々が、やはり涙をされていました。私は多くの葬儀に立ち会いますので、いわゆる先生と言われる職種の方々や地元の名士と言われる方々や、色々な方々とお話をしたり、挨拶を聞かせて頂くことがありますが、正直言ってあまり心に響いたことはありませんでした。それを引き合いに出す訳ではありませんが、これほど素晴らしい言葉を聞いたことはありませんでした。そして、私自身の大きな学びのご縁とさせて頂きました。
この話は、別れ行く命と出会った中に、仏の目線・仏の視点からありのままに命・物事を見つめていった智慧に、悲しみに打ちひしがれるのではなくその縁をどう受け止めてゆくかという中に、自分の心をみ教えを依りどころにして、目線を上げてゆかれた一人のお母さんの話ですが、実はこれには後日談があります。私がご葬儀の中で話をさせて頂いた中で、これだけのことを感じられるそのお母さんの感性は凄い、どういう人なのだろう、とすごく興味があったのですが、その後、月参りがありましたので色々話をさせて頂くご縁がありました。そこで分かったのは、このお母さんは元々富山県のご出身で、小さい頃からお寺の日曜学校に通っていたのだそうです。小さい頃からお寺で、家で、おじいちゃん・おばあちゃん・お母さん・お父さん、家族みんな揃って、必ずご飯を食べる前には「帰命無量寿如来」と『正信偈』をお勤めしてからご飯を頂くという生活が日常だったようです。つまり、一つ一つ、一息一息の中に、自分の心に蓄積されていった宗教的情操と言いますか感性があったればこそ、きっとそれが言葉になって出たのがこの話であったと受け止めて、なるほどと思った次第であります。
そのときにこんな言葉を聞きました。「恩送り」。これは富山のある地方の方言だそうです。普通「恩返し」といったら頂いた恩をその方に返すことです。恩返しは、頂いて返すという相互関係の中でしか行ったり来たりしません。しかし恩送りというのは、自分が辛い時や悲しい時に誰かが手を差し伸べてくれた、その心によって私の心が温められた、その喜びや思いを今度はその人に返すのではなくて、悲しみを知ったればこそ、今までは気付けなかった身近な時代や社会の悲しみにその恩を送ってゆく、そのことが尊いことなのだ、という教えのこもった言葉だそうです。私たち真宗門徒にはとても温かい言葉だと味わい学んだご縁でした。まさに亡くなった父親から聞かせてもらった通りでした。住職や僧侶というのは育てられるものなのだ、と。
それでは次に、慈悲について話をしたいと思います。
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(次回につづく)
















