高森顕徹 / 歎異抄をひらく

歎異抄をひらく
高森顕徹
歎異抄をひらく
著者とされている高森顕徹氏の出版物には、他にも『親鸞聖人の花びら』という書名のものがあります。
「歎異抄」「親鸞聖人」と聞くと、浄土真宗のご法義が書かれているように思いがちですが、これらは氏が会長を勤める「浄土真宗親鸞会」の教義徹底に使われている本、と言えると思います(といっても最近では「教義はどうでも良い」と、弁当事業や会館建設に力を入れているようですが)。

どういうことかというと、「浄土真宗親鸞会」の教義は、一見、親鸞聖人のお言葉によって成立しており、その論理体系をまとめた『聖典』も存在していますが、よく調べてみると、それは「捏造」「改竄」「断章取義」や誤解に満ちているというのです。

その結果、浄土真宗・他力本願の御法と異なるどころか、正反対のものとなっているならば注意が必要です。そういえば『高森顕徹 / 光に向かって100の花束』で、「向きが逆ではないか」と書きました。

断章取義については、会員との問答(聖教の読み方について): 飛雲を読むと、
親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることも
あるそうです。

実際、親鸞聖人が勧められなかったことを勧め、勧められたことを軽んじていると受け止められるところがあり、藁人形論法(詭弁)によって他力念仏を説く人を批判し、自力修善を強調する姿勢が感じられるのが高森氏の特徴と言えるかもしれません。

最近ではそのカラクリを見破らせない為に、会で認められている以外の仏教書を読むことを禁じているとか、いないとか。

他にも、聖人が特定の人に言われたことをすべての人のことを言われたお言葉のように紹介したり、強引な解釈をしているところもあると聞きます。

具体的な、親鸞聖人と高森氏の違いについては、親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口: 飛雲
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- – - – - – - – - – -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 自力

6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
とまとめられており、その後、
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
の項目が追加されています。

これらはすべて、梯實圓氏の言葉を借りれば「自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせる」謗法と言えるかもしれません。


どうしてそう言えるのか、詳しいことは
飛雲
安心問答(浄土真宗の信心について)
真偽検証
元会員から見た浄土真宗親鸞会
親鸞会邪義を破る
などを参照すると理解できるのではないかと思います。


もし、本書を手にする人があれば、最低限この事実くらいは知っておいた方が良いだろうと思い、参考サイトを紹介させてもらいました。

最後に、蓮如上人風に書くと、「宿善の機においては左右なく之を許すべからざるものなり」ということになるのでしょうか。「正反対」ということにおいては、ことごとく徹底しているように思えてなりません。





梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (7)[四十八願の分類]の続きです。

十二、四十八願の中心

四十八願には、さまざまなことが誓われていることはわかりましたが、その中で一番大切な中心の願は、どれですか。

四十八願は、ただ雑然と誓われているのではなくて、一つの核となる誓願を中心にして展開していると見られていますが、それが第十八願であると見られたのが善導大師であり、法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。いわゆる浄土門の祖師方でした。しかし自力聖道門の学僧たちは、そのようにはご覧になりませんでした。



自力聖道門の人たちは、四十八願をどのようにご覧になっていたのですか。

今から千年あまり前、平安時代の中期に、比叡山延暦寺に慈恵大師良源(913~985)という高僧が出られました。この方は、比叡山天台宗の中興の祖師と仰がれている方です。実はこの方は浄土真宗の七高僧の中の第六祖にあたる源信僧都(942~1017)のお師匠さまにあたる方で、『極楽浄土九品往生義』という書物を著されています。『観無量寿経』の九品段の解説書なのですが、その中に四十八願の説明がしてあります。そこに四十八願の中で一番大事なのは第十八願ではなくて第十九願であるといわれています。
 先ほども申しましたが、衆生の往生の因を誓われた願に、第十八願と第十九願と第二十願の三願があります。それはこの三願に限って、このような行いをし、このような信心を発して浄土を願う者を往生させると誓われているからです。この三願の中で阿弥陀仏の本意にかなった修行と信心を往生の因として誓願されているのは、第十九願であるといわれています。
 大師は、この願を「行者命終現前導生(行者が命終するとき阿弥陀仏が眼前に現れて浄土へ導き往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願には、十方の衆生の中で、まず菩提心を発して、もろもろの功徳を修行し、浄土に生まれたいと、まごころをこめて願う人の臨終には、阿弥陀仏自らが、観世音菩薩や大勢至菩薩をはじめとする多くの聖衆を引き連れて、迎えに行ってあげようと誓われているからです。それは自分のさとりの完成を目指すばかりでなく、一切の衆生を救済しようという崇高な菩提心(求道心)を発して、自力の限りを尽くしてさまざまな功徳を積み、浄土にふさわしい上善人になって、浄土へ生まれたいと願っている人ですから、阿弥陀仏のご本願にかなった人であるというのです。
 だからこそ阿弥陀仏はその業績を評価して、多くの聖衆を伴ってその人の臨終にわざわざ迎えに行ってあげようと誓われているというのです。阿弥陀如来が自ら聖衆を引き連れて迎えに行くといわれているのは、阿弥陀如来のご本意にかなっている証拠であるというのです。それゆえ阿弥陀如来のご本意にかなった生き方をしようと思う者は、まず出家して菩提心を発し、力の限りを尽くして修行にいそしみ、臨終の来迎を祈りなさいと大師は仰っているのです。
 また大師は、第十八願は、五逆罪とか正法を誹謗するというような極重の罪を犯していない凡夫で、阿弥陀仏を深く信じて浄土へ生まれたいという願いを発し、余念をまじえず心を集中して阿弥陀仏の名号を称え、十念を完成した者は往生させると誓われた願であると見ています。それで、第十八願を「聞名信楽十念定生(名号を聞いて信楽し、十念する者は定めて往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願に誓われた人よりも功徳が劣っていますから、阿弥陀仏自らの来迎は誓われていないというのです。いいかえれば、浄土へは往生させてあげるが、阿弥陀如来がわざわざ迎えに来るような値打ちのない功徳の劣った者の往生を誓った願と見られていました。ですから、第十八願の者が浄土で受ける果報は、第十九願の人に比べたら、劣った果報でしかないというのです。
 なお第二十願は、念仏や諸善を修行しているが、その功徳が劣弱で、次の生(順次生)では往生できない場合には、次の次の生(順後生)では往生させるという三生果遂を誓った願であると見られていました。自力聖道門の人びとが『無量寿経』を読まれたときは、だいたいこのようにご覧になっていました。
 こうした聖道門の方々の本願観に対して、それは自力聖道門の教典を解釈するときの考え方を、他力浄土門を説く教典である『大無量寿経』に適用した誤った解釈であると否定していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。そして他力浄土の法門を明かした『大無量寿経』の四十八願は、第十八願を軸として説かれており、開けば四十八願であるが、合すれば「本願中の王」である第十八願に帰すると言われたのが法然聖人だったのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




高森顕徹 / 光に向かって100の花束

高森顕徹 / 光に向かって100の花束 高森顕徹 / 光に向かって100の花束

高森顕徹 / 光に向かって100の花束


著者とされている高森顕徹氏は、富山県に本部を置く「浄土真宗親鸞会」という名の団体の会長。

・他人のものを無断で我がもののように使ってはならない
・耳に逆らう諫言もしっかり傾聴し、過ちに気づいたら直ちに改めるべし
・我が身に降りかかる悪果は自業自得である

などの、知れば容易に理解できるが(ただし実践はなかなか難しい)ついつい忘れがちな、日常で心がけたいことが100の小話でまとめられています。

非常に良い内容で繰り返し読める本ですが、前々回前回の投稿を読み返しながら少し気になりました。

タイトルの『光に向かって』というところ。
向きが逆ではないか?と。

わざわざ動かない腰を持ち上げるまでもなく光は音速よりも速く我が身に届いていることは、物理の知識がなくても知られていることです。また「我が目にて 月を眺むと思うなよ 月の光で 月を眺むる」と故人が詠んだように、光は向こうからやって来るもので、こちらから向かうものではないのではないでしょうか。

ましてや、仏様の光明、あるいはお救いの世界になぞらえての書名であるとするならば、これでは浄土真宗ではなくなってしまいますので、僭越ながら『光を仰いで』もしくは『光につつまれて』の方が適切ではないかと思いました。

しかし「はじめに」を読むと
 光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。
 有縁の方と、光に向かって、少しでも進みたいと、この小著は努力した。
とあるように「光→私」ではなく「光←私」という意味でつけられたタイトルであると分かります。

とすれば、この本で訴えたいことは何か?執筆にあたり、わざわざこのようなタイトルをつけられた意図は、他力廻向のご法義とは別の、何か異なることを主張するところにあると受け止めざるを得ません。

あるいは、すでに多く指摘されている通り「執筆」というよりは「剽窃」という言葉が相応しいと思えるほど、この本には大沼法龍師の文章が使われていますが、うっかりその大沼師の言葉(光に向う者は栄える)を書名にしただけのこと、と理解するのが妥当かもしれません。

いずれにしても、「著者」の所属する団体名に浄土真宗や親鸞聖人のお名前が含まれているだけに、教義的な事が気になり残念でなりません。




(参考)
大沼法龍師の言葉
高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)
高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(4)
高森顕徹氏の盗作問題: さよなら親鸞会
「浄土真宗親鸞会 被害」家族の会 掲示板 過去ログ(184)
「浄土真宗親鸞会 被害」家族の会 掲示板 過去ログ(7)


大沼法龍氏
23 音階に五ヵ年

 イタリアの有名な音楽家の許に音楽の教授を受けたいと訪ねて来た青年があった。「止したほうがよかろう音楽を学ぶことは一通りの苦辛ではないから」「どんな苦労でもします」「どんな苦労があっても決して苦情も不足もいうてはならないぞ」と教授しはじめた。今の青年は師の家に起居して炊事掃除から一切の面倒を見て暇に教を受けた。はじめ一年は音階だけで終った、二年目もやはり音階だけを繰返された、第三年目こそは変った音符をと楽しんでいたけれども依然として音階のみであった。はじめから不服は言わぬということになっているから青年は忍んでいた、第四年目も音階であったから青年はたまりかねて「何か変った曲譜を教えてください」といった。けれども師匠は一言の下に叱り飛ばした。五年目になって半音階と低音使用法とを教えた。その年の暮青年はまた「何か変った音符」と頼んだ時「もうお前は俺の家から帰ってもよい、俺の教えることは終った。如何なる人の前で唱うても、決してイタリア否全世界でお前は他人に退けを取ることはない」その青年はカファレリと言いイタリア第一の名歌手となった。音階位いはたった一日でできるはずである、それを二年三年と言わず五年までも魂打込んでの教授には人の知らない微妙な点があるのだ、基礎が決ればどんな難しい楽譜でも自由に操ることができるのだ。真宗の信仰も只の只と聞く位いなら一度や二度で決定心はつくはずだ、しかしその只の中には本師法皇の五兆の願行が打込まれ八萬の法蔵も封じ込まれてあるのだもの只の中には無限の妙味が溢れているのだ。一曲に達するにさえ心身を捧げているのだもの無形の信仰の決定を得るに居睡り半分に解決するものかい、極難の信の境を突破して信楽開発さえすれば基礎が決定するから総てに満足して生活することができるのだ。
(「教訓」p25~p26)


高森顕徹氏
(7)もうおまえは、帰ってもよろしい

 イタリアの有名な音楽家のもとへ、1人の青年が、音楽の教授を求めて訪ねた。
「よしたほうがよかろう。音楽の道は、たいへんだから」
 音楽家はキッパリと断る。
「必ず、どんな苦労でもいたしますから、ぜひ教えてください」
 青年は必死にたのんだ。
 どんな苦しいことがあっても一切、不足や小言は言わないという約束のうえで教授を許した。
 それから青年は、その家に起居して炊事、洗濯、掃除など一切の家事の面倒をみて、その合間に音楽の教授を受けた。
 はじめの1年は音階だけで終わった。2年目も同じく音階だけ。
 3年目こそは、なにか変わった楽譜を、と期待していたが、いぜんとして音階だけで終わる。
 4年目も音階だけであったので、たまりかねた青年は不足をならした。
「なにか変わった楽譜を教えてもらえないでしょうか」
 師匠は一言のもとに叱りとばした。
 5年目になって、半音階と低音使用法とを教えた。
 その年の暮れ。
「もうおまえは、帰ってもよろしい。私の教えることは、すべて終わった。おまえは、いかなる人の前でうたっても、他人にひけをとることはなかろう」
と、免許皆伝したのである。
 その青年はカファレリといい、イタリア第一の名歌手となった。

 音階ぐらいと、ばかにしてはならない。それを5年間も魂を打ちこんで教授したのは、基礎が完成すれば、どんな難しい楽譜でも、自由自在にあやつることができるからである。
  何事も基礎が肝要。
(「光に向かって100の花束」p35~p37)






    2012年5月
    « 4月    
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031