2011年12月24日、天岸浄圓先生から聞かせていただいたお話の記録です。
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無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる
「真実のより処」と題して話をさせていただきます。
お話の最初に、親鸞聖人がお書きになられたお書物の一節をまず読ませていただきまして、「今日はこういうお言葉を通して真実の拠り所を皆様にお聞きいただきたい」と、ご讃題を読んだ訳です。元の漢文に戻しますと、
帰命無量寿如来 南無不可思議光
と、私たち浄土真宗とご縁が結ばれている者には『正信偈』の最初の言葉ですので、ほとんどの方がご存知かと思います。『正信偈』は親鸞聖人が作られた漢詩です。正しい念仏の心を親鸞聖人がわずかな漢詩にまとめられて、自らの書物の中に書き納められました。
親鸞聖人がお亡くなりになりまして、およそ200年ほど時が過ぎて本願寺に蓮如上人というお方が出られました。従来本願寺では、僧侶は僧侶の勤めがありましたが、聞信徒の方にはこれといってお勤めをさせてもらう決まりが無かったようでありました。そこで蓮如上人が、僧侶も一般の方々も一緒にお勤めが出来てこそ親鸞聖人のお気持ちに叶うであろうと、『正信偈』を元の書物から抜き出して、浄土真宗の縁ある方々の共通のお勤めとして定められて以来、およそ500年以上、このお言葉が浄土真宗のお勤めの基本となりました。真宗の門徒の方々には大変馴染みの深いお言葉だと思います。
大阪高槻に、行信教校という、130年ほどの歴史のある、浄土真宗の特に西本願寺の僧侶を養成する学校があります。皆さん龍谷大学という学校名はご存知かと思います。龍谷大学は西本願寺のお坊さんたちが勉強する場所です。その龍谷大学は、明治の時は大教校と呼ばれていました。その後、学制の変化に従いまして、今は龍谷大学という名前で定まっています。
ちなみの話で恐縮ですが、「龍谷」という学校名は本願寺の山号から来ています。谷へんに龍という字があるそうです。その字を「おおたに」と読ませるそうです。その「おおたに」という字をへんとつくりに分けて「龍谷」としたそうです。
江戸時代の末から明治の初めにかけて、全国のお坊さんたちが京都で学べるという訳ではございませんでした。従いまして、各地の学者たちが私費を投じまして近隣の若い僧侶を育成しようという動きが出て参りました。そのときに成立したのが教行という学校制度でございました。多くの強行は短期大学になられたり高等学校になられたり、それぞれの専門的な学校に変容したのですが、行信教行だけは残ったのです。そして今でも畳の上に正座して勉強しています。
私は、その行信教行と申します学校で、浄土真宗の教えを若い方達に講義をしています。やはり『正信偈』は門徒といわれる方々が親しみ深く唱えておられる言葉ですから、若い方々にもよくよくその意味合いを講義しなければなりません。そういう時に、先ほど読みました「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句を昔の先生方から「帰敬の頌(じゅ)」という言葉で教えるのですよ、と伝えられています。「帰敬式」という儀式がございます。一般に「おかみそり」と言われるものですが正式な名称は「帰敬式」と申します。その言葉の出処はこの「帰敬頌」に遡ることができます。
「帰」とは「帰る」ではなく「帰依する」ということです。この「帰依」という言葉が「拠り所」を意味しています。まだ漠然としていますので意味を確定しますと、拠り所とは、私たちが生活を営む上の判断の拠り所、という意味を持ちます。私たちは日常でも非常でも、様々な判断を迫られながら生きています。判断をするとき、何を判断の拠り所として是非を定めるか、それが問題になってきます。その判断の拠り所を確定することを「帰依する」という言葉で仏教では表してきました。
「敬」とは「尊い」「敬う」ということを意味しています。「尊敬」といいますね。
その「帰依」「尊敬(そんきょう)」から一字ずつ取りまして「帰敬」ということを表しているのです。
もう少し広く説明致しますと、この人生を歩む中で何を尊敬し、何を判断の拠り所となされるか、それを自らと仏様とにはっきりと告白する儀式のことを「帰敬式」と呼ぶ訳です。
先ほど「帰敬頌」と申しました。『正信偈』では「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉が用いられています。
「帰命」の「帰」は「帰依」でございます。そして「命」の方ですが、上に「生」を付けると「生命」となりますが、「令」の字を付けると「命令」になります。そうすると、「帰命」とは、「命に帰る」という意味ではなく、「命令に帰依する」という意味になります。仏様の命令、仏様の教えを拠り所にするというのが、帰命という言葉の意味でございます。
「南無」とは「南無阿弥陀仏」の「南無」です。元はインドの発音でございます。現在でも、インドの方々は人とお会いしますと合掌して「ナマステ」という挨拶をします。現在も生きて使われている言葉です。それが日本に伝わって「南無」という字で音だけ移したのです。意味は読みません。ローマ字とかひらがなと同じように使います。では、意味はというと「心から敬い拝む」ということです。だから「ナマステ」と手を合わせているのですね、インドの方達は。意味は「心から敬い尊敬し、頭を下げ礼拝する」ということでございます。
この二つを合わせると「帰依」と「尊敬」になります。その対象を「無量寿如来」「不可思議光如来」と親鸞聖人は述べておられるのです。『正信偈』では「不可思議光」で終わっていますが七字に合わせるためです。限りなき命の仏様、不可思議な、人間の常識を超絶した仏様を拠り所とし、私は人生をかけてこの方を尊敬しつつ生きて参ります、と仰っているのが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という、親鸞聖人の信仰の全体を告白された言葉なのです。信仰といいますか、宗教、もっと広い言葉で申しますと、ご自身の尊敬すべきもの、拠り所とすべきものを確定するということなのです。これが実は、信仰、宗教、信心といわれる事柄の内容でございます。
厳しいことを申させていただいてお気を悪くされるかもしれませんが、数珠を持っておればそのお人が仏様を本当に尊敬している人であるかは確かではありません。誰でも持ちますからね。本当に仏様を拝んでいるか、というと、そうでない場合も多いです。「拝んでいる」といっても、仏様を拠り所として生活をしているか、となりますと、極めて危ないのが現実でございます。
親鸞聖人に「あなたは何を敬い、何を尊敬されて90年の生涯を生き抜かれるのですか」もしくは「生き抜かれたのですか」とお尋ねをしたとき、「私は、無量寿と名乗り、不可思議光と名乗られた仏様を人生の拠り所とし、最も尊敬すべきお方としてこの生涯を生き抜きました」と仰せになっておられるのがあの『正信偈』の始まりの言葉なのです。
その言葉に心を合わせて、その言葉によって生きて行こうと勤める者を「浄土真宗の門徒」「親鸞聖人の門徒」と称するのでございます。そういうお言葉を皆様方は、日々お勤めの中で読ませていただいておられる訳でございます。その言葉の心を正しく受け止めておく必要があろうかと思います。
「無量寿如来」「不可思議光如来」。元のインドの言葉に戻しますと「南無阿弥陀仏」という言葉になりましょう。しかし、「無量寿如来」「不可思議光如来」「阿弥陀仏」と言われましても実感が難しいですね。私たちは「仏様」という言葉はよく使っております。しかし、仏様という言葉を馴染み深く使っているということと、仏様ということを感じ取れるということとは意味が違います。小さな子供から「仏様ってどんな方?」と尋ねられたら、それに対して答えられますか? 案外言えないですよね。これは皆さんの責任ではございません。話をする側の責任です。
では、仏様とはなにか。そして、どうして仏様を尊敬するのか。どうして仏様を拠り所にしなければならないのか。そういうことを少しお話申し上げておきたいと思います。
親鸞聖人が大切にされたお経の中に『観無量寿経』というお経がございます。「観」「無量寿」経ですから、無量寿如来のお謂れが説かれている、ということはご理解いただけると思います。その無量寿如来のお心とは。それがお経に説明されています。そこには
仏心とは大慈悲これなり
と書かれてあります。心とは、心臓のことではなく、感受性ということです。仏は物事をどのように感じ取られるのか、ということです。
皆さんも、感受性に従って好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかを作っているんでしょ? 今日、年末の大切な時間に皆さんお参りになられました。これだけ大勢の方がお参りでございますと、私が提示するお話が、自分の感受性に合う方と合わない方がおられますね。「こういう話が聞きたかったな」と思われる方の心は私のことを「良い講師だ」と感受していらっしゃいます。ここに良い講師が立っているように錯覚していらっしゃいます。ところが私の話が気に食わない方は「嫌な講師が来た」と私を見ていらっしゃいます。それもその方の感受性が描き出した心の投影です。だから良い講師の天岸浄圓がいるわけでもなく、嫌な講師の天岸浄圓がいるわけでもないのです。では、私は一体何者なんですか? 皆さんの心が描き出している天岸浄圓は私の実態ではないのです。こういう様に、人の評価からものの味わいまで、すべて自分の感受性、感性を中心として物事を判断しているのです。仏教とはこういうことを教える宗教なのです。我々が、ここに居ていると思っているのは実は、心が描いているのであって実態ではない、と教えるのです。難しい言葉で「諸法無我」「諸行無常」と言います。もし私が、皆さんが好きな人となったら、どれだけ私が変わっても皆さんは私のことを好きな人と思い続けることが出来ますか? 今まで嫌いだと思っていても、皆さんの好きなものを持って行って良いことを言ったらいっぺんに評価が変わるでしょ? だから隣の方が聞いていらっしゃるお話と、今自分が聞いているお話は違うのです。
では、仏の心とは、仏の感性とは何か。仏様とは、仏の心、仏の感性で行動される方です。その時に、仏の心、仏の感性とは大慈悲である、と言われています。「慈」とは、人々の幸せを自らの幸せと感受しそのように行動する心です。人の幸せを自らの幸せと受け止める。そのような行動を起こすことを「慈」と言います。インドの言葉で「マイトリー(maitrī)」と言うのだそうです。それが中国語に「慈」と翻訳されました。そして、人の悲しみ、人の不幸を自らのこととして受け止め、その人の苦しみを抜き、悲しみを取り除き、痛みを共にする心と、それに従う行いのことを「悲」と翻訳されたのだそうです。だから人の不幸を見ることが自らの不幸であるような心と行動です。インドの言葉で「カルナー(karunā)」と言うそうです。人の幸せを自らの幸せとし、人の不幸を自らの不幸と感受する心とそれによる行動、これをあらゆる人々に分け隔てなく実現できることを大慈悲と呼んだのだそうです。これが仏様という方の本当のあり方だそうです。
一度、自分を振り返ってみてはどうでしょう。あまりピンときませんか?
浄土真宗ではこういうしきたりはしないところが多いのですが、2月になりますと節分という行事がありますね。あの行事の時、なぜか知りませんが豆まきというのをしますね。あのとき「福は内、鬼は外」と言いますね。そして関西ではすぐ「戸を閉めなさい」。せっかく外に出した鬼が入ってこない様に。
これの逆なんですね。
「福は内」とは「幸せは私の所へ」、「鬼は外」は「不幸は外へ」。これで良いように思いますけれど、「外」とは隣近所。隣が不幸になっても自分自分は知らん。そう言って豆をまいているのです。この感性を不幸というのです。この心を持っている人、この心を起こしている状態を何とも思わない人には、悲しいけれども幸せはめぐってきません。なぜか? 私は幸せになる者、隣は幸せであろうが不幸せであろうが私は関係ない人。しかし実際はそう簡単には行かないでしょ? 「私は幸せになるべき人」といっても、そう簡単になりますか? 隣は不幸せになっても構わん、といっても隣が調子よく行ったらどうなりますか? 私がなるべき幸せを、どうしてあの人が手にするのか、とそこには腹立ちと妬みと敗北感、劣等感が出てくるでしょ? そして自分が良くなって隣に悲しいことが起きたら、私の所でなくて良かったという優越感が出るんですね。その優越感と劣等感が、幸せというものを自らの中に作り上げることの出来ない原因となっているのです。
この「福は内、鬼は外」を逆転すると、仏様はどう仰っているかというと「人が幸せになって下さることを幸せといい、人が不幸せになることを自らの悲しみと受け止めて行く」。そしてそれを実現して行こうとする。それを仏様というのです。
しかし、皆さん仏法をお聞きになられる方だから「あー、良いなー。結構だなー」「尊いなー」と思って下さるかもしれませんが、ごく普通の方にこの話をしたら「今の時代に何ということを言うのか」と言われます。「勝つか負けるかのこの時代に人の幸せとか自分の不幸せとか、そんなこと思ってられん」というのが常識です。人間の作った常識の世界ではそういうことで世の中を生きようとするのです。
果たしてそれで良いのですか?ということです。なれ、とは言えません。自分もなれていないですから。しかし、お聞きくださった方々の中に、慈悲ということのあり様を聞き受けられて、そのあり方と自分の今のあり方、感じ方を比べてみた時に「仏様っていいな、尊いんだな、それに比べて私は恥ずかしいんだな、浅ましいんだな、だから本当の意味での豊かさ、幸せを感受できないんだな」と思われると思います。大仰なことは言えませんけれども、人が喜んでいらっしゃる時に一緒になって喜ぶ心を起こしてご覧なさい。気持ち良いですよね、思い上がりでなしに。共に喜ぶというのは良いですよー。あれはある程度努めねばイカンですな。「喜べるか!」ではなく「喜ばせてもらおう」と思ってご覧なさい。そうすると、喜べなかった時「恥ずかしいな」と思うのです。そういう心を私に起こさせて下さるのが仏様で、そのとき私が気づいた自分自身のことを仏教の用語では「凡夫」と言うのです。お説教でも講演でも「凡夫」という言葉はよく使われますが、凡夫というのは生まれた時から凡夫ではないのです。生まれた時は、自分を中心にものを考える、極めて傲慢な生き方をしている私たちです。そして自分が考えていることが一番正しいと思い込んでいる私たちです。だから、先ほども言ったようにごく一般には「こんな厳しい時代に人の幸せなんか考えていられるかい。人の不幸せなんていちいち受け止めることが出来るかい」ですが、これは今の時代だけではなく、いつの今も私たちはそうなのです。今に始まったことではなく、ずーっとそうなのです。そしてそれが正しい生き方だと錯覚しているのです。それで、それが錯覚ですよ、実はそれが虚しいんですよ、浅ましいんですよ、すぐにそれ(仏様の感受性)になりなさいとは言わないけれど、それを恥ずかしいことだと気づかせてもらいなさい、ということなのです。その、気づかせてもらった姿が、仏様に向かって手を合わせる姿だし、仏様を敬う姿だし、仏様を敬えば、私が敬われるような者ではなかったという自覚が凡夫という意識を起こさせるのです。こうした時に、その人の許に正しい拠り所、本当の意味で命恵まれた者として持つべき拠り所というものが初めて自覚される訳です。
そういうことが、今親鸞聖人が「無量寿如来に限りなき命を大悲して下さる。分け隔て無しに、人間の傲慢を超えて、あらゆる人たちを同じように受け止めて下さる。これは私たちにとってはまさに不可思議な世界。自分たちの意識の世界の中から絶対に感じ取れない、心開けない、人間の知性や理性やもしくは傲慢を完全に超えた彼方から響いてくる真実の世界。そういうものを拠り所として、仰ぎながら、努力しながら生きて行こう。そして、やがてその仏様を実現していただく(親鸞聖人の言葉で言えば「浄土に生まれる」)」と言われている事柄の意味です。ですから、その仏様にならせていただくことを人生の目標として生きて行く、そういう生き方を私たちに開いて下さったのが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」「南無阿弥陀仏」と仰せになった生き方です。そこに、本当の意味の宗教、正しい拠り所を私に示して下さったと言えます。広い意味で宗教と申して良いと思います。もしくは信仰と申しても良いと思います。それを親鸞聖人は「お念仏を申す人生」と教えて下さったのです。
そんなことをお話申し上げたいと思いましてお時間を頂戴いたしました。
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この後、質疑応答がありましたが、長くなりますので次回に続きます。
