高森顕徹 / 歎異抄をひらく

歎異抄をひらく
高森顕徹
歎異抄をひらく
著者とされている高森顕徹氏の出版物には、他にも『親鸞聖人の花びら』という書名のものがあります。
「歎異抄」「親鸞聖人」と聞くと、浄土真宗のご法義が書かれているように思いがちですが、これらは氏が会長を勤める「浄土真宗親鸞会」の教義徹底に使われている本、と言えると思います(といっても最近では「教義はどうでも良い」と、弁当事業や会館建設に力を入れているようですが)。

どういうことかというと、「浄土真宗親鸞会」の教義は、一見、親鸞聖人のお言葉によって成立しており、その論理体系をまとめた『聖典』も存在していますが、よく調べてみると、それは「捏造」「改竄」「断章取義」や誤解に満ちているというのです。

その結果、浄土真宗・他力本願の御法と異なるどころか、正反対のものとなっているならば注意が必要です。そういえば『高森顕徹 / 光に向かって100の花束』で、「向きが逆ではないか」と書きました。

断章取義については、会員との問答(聖教の読み方について): 飛雲を読むと、
親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることも
あるそうです。

実際、親鸞聖人が勧められなかったことを勧め、勧められたことを軽んじていると受け止められるところがあり、藁人形論法(詭弁)によって他力念仏を説く人を批判し、自力修善を強調する姿勢が感じられるのが高森氏の特徴と言えるかもしれません。

最近ではそのカラクリを見破らせない為に、会で認められている以外の仏教書を読むことを禁じているとか、いないとか。

他にも、聖人が特定の人に言われたことをすべての人のことを言われたお言葉のように紹介したり、強引な解釈をしているところもあると聞きます。

具体的な、親鸞聖人と高森氏の違いについては、親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口: 飛雲
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
とまとめられており、その後、
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ
の項目が追加されています。

これらはすべて、梯實圓氏の言葉を借りれば「自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせる」謗法と言えるかもしれません。


どうしてそう言えるのか、詳しいことは
飛雲
安心問答(浄土真宗の信心について)
真偽検証
元会員から見た浄土真宗親鸞会
親鸞会邪義を破る
などを参照すると理解できるのではないかと思います。


もし、本書を手にする人があれば、最低限この事実くらいは知っておいた方が良いだろうと思い、参考サイトを紹介させてもらいました。

最後に、蓮如上人風に書くと、「宿善の機においては左右なく之を許すべからざるものなり」ということになるのでしょうか。「正反対」ということにおいては、ことごとく徹底しているように思えてなりません。





【法話】光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 2012.01.08 築地本願寺

一つ前の投稿の続きです。

仏説『観無量寿経』というお経様に
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
というお言葉がございます。
光明は遍く照らし、十方の衆生を摂取して捨てないというお心であります。
「無碍光」「超日月光」と言われますが、光といっても月の光やお日様の光はどうしても当たらない所が出てきてしまいます。つまり影のことでありますが、それを超えているというのが「超日月光」です。お正信偈さまにも「超日月光照塵刹」と出てきて下さいますが、その光は単なる光ではなく、日月に超え優れた光であります。なぜなら碍り(さわり)無き働きをする光であるからです。至らない所はないのですよ、というのがその心です。

(「破闇」「調熟」に続いて)3つめは「摂取」の光明です。「摂取心光常照護」とお正信偈さまに出て参りますが、摂取の心光、常に照らして護り給うということです。常に照らしている。照らしていない時がない。仏様の心の光ということです。ここで「護る」とおっしゃって下さっていますが、私の都合の良い状況を護って下さるというのではありません。先ほど(前回の投稿)の「衆禍の波転ず」のところで話した事をお聞き下されば、どうだそうだと思われるかもしれません。健康を護ってくれる、長寿であることを護ってくれる、学校の試験がうまいこといってくれることを護ってくれる、、、そういう護るではありません。

親鸞聖人は
異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなし
(『一念多念証文』)
というお言葉でおっしゃって下さっています。
異学・異見とは、私たちには到底叶わないご修行をされている方々です。仏様に成るに、まことの道を進むに、厳しい修行を重ねながら智慧の眼を開こう、悟りを開こうとされている方々です。それらの方々にやぶられないとは、「お前、そんなのウソやぞ!そのままで、念仏したくらいで仏様に成るなんて、そんなのウソやで!」といわれても「そんなことないです。私は私の力で仏様に成らせて頂くことは出来ない、この生死の苦悩を超えて行くことが出来ないから、仏様がお念仏を与えて下さった、と聞かせて頂きます。行をされる方は行をして下さったら結構だけれども私向きではないのだよ、と名乗り出て下さった方が阿弥陀仏という仏様であります、と聞かせて頂いております」ということです。聖道門からは比叡山という山で修行されたり永平寺という寺で座禅を組まれたり、そんな方々はそれはそれで尊い行があるのかもしれませんが、私たちは南無阿弥陀仏という阿弥陀様の大行を頂戴し、この口で念仏させて頂く、、、ただ念仏するだけでなく私自身の闇が破られ、一瞬一瞬花開かせて頂くような働きを私の上に展開して下さるような仏様がいまここにおいで下さっているのです、お念仏一つとおっしゃって下さる仏様がおいでになるんです、ということです。この方々(異学・異見のともがら)を批判することはなく、行をされる方はして下されば良いのですが、ただ「お前、そんなことでは」と言われる方々に「あなたはそう思われるかもしれないけれども、仏様はそうはおっしゃってはおられないのですよ」とそのまま歩ませて頂くということです。
別解・別行というのもある意味それと同じです。お念仏するといっても、何遍念仏した、こういう心持ちで念仏した、その功徳として重ねさせて頂くことでお浄土に生れさせて頂く、仏様になるということをされる方々から邪魔されることはないということです。
天魔波旬にをかされずというのは、仏様から頂いたお念仏の智慧を破られることがないということです。世間には宗教という名前で色々な信仰がございます。熱心に信仰したら病気が治るよ、という新宗教もあります。熱心に頼み込んだらあんたの学校ええ所に行かせてもらえるよ、という宗教もあります。お金持ちになれるよ、と宗教という名で信仰を促すところもあります。しかし仏様がおっしゃられるのは、どれだけ頑張って祈って健康を守ったとしても必ず壊れてゆく身なんだよ、必ず終わらなければならないのよ、必ず崩れるのよ、そこことだけは間違いないよ、と言って下さいます。その言葉は智慧であります。ずーっと長寿で、ずーっと健康で、ずーっとこの体が保たれるように思わせているようなものを「天魔波旬」という言葉でおっしゃって下さっています。お金ぎょうさん欲しいのは分かるけれども、仏様はおっしゃられます。あなたは貪欲というものがあって、お金が一杯あったら一杯あったで悩みますよ。お金が手に入ったからといってあなたの悩みがすっきり無くなるわけではないのだよ、ということを教えて下さるのが智慧です。
悪鬼・悪神なやますことなし。まあ、色々なお誘いがありますよね。六本木ヒルズに居るような人をヒルズ族と言われましたが、あんな生活は良いよ、とマスコミからお誘いがあるでしょ。「セレブ」といってお誘いがあるでしょ。「勝ち組・負け組」という言葉でもお誘いがありますね。あんた、負けてたらあかんで、勝たにゃあかんで、頑張らんとあかんのやで、と。でも「頑張り続けられへん」「頑張ってるねんこれでも」と思いますね。「アンチエイジング」というお誘いもあります。年寄りは若う見せんと世間で恥ずかしいで、と。新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、、、色々なお誘いがあります。そのお誘いに悩まされることがないということです。世間の価値観に悩まされることがないということです。私は私なりに頑張ってるんやけど頑張りきれんところがあるのをご存知やし、頑張ってるところもご存知やし、どうしようもない奴だということもご存知やし、負け組にしかなれんような器であることもご存知やし、壊れてゆく身であることもご存知やし、ぼろぼろであることもご存知なのです。皆さん、奇麗な帯みたいに紡がれたような人生じゃないでしょ?私なんかこの歳でもうつぎはぎだらけですわ。そんな奇麗やないということをご存知です。その、壊れゆくまま、ぼろぼろのまま、弱々しいままに、決してもう壊れない世界に生れさせて頂き、壊れゆく身であるがままに、それをもう壊れない身に仕上げてゆくぞ、と言うて下さる方がここに居って下さるのです、と教えて下さいます。悩まされることがない、それが守られるということです。世間の事柄に動揺させられたり振り回されたりするようなことがないということです。あなたはいまあなたがそこにいるままで、懸命に、下手くそながら生きているのを私は見ているよ、下手くそやからよう捨てん、と言うて下さる世界を、今ここに頂戴しているのです、と歩ませていただくのです。

その光は休むことなく私を照らして下さるのです。休むことなくとは、結局は私のこの口に出て来て下さる姿になっておりましょ?「なまんだぶ、なんまんだぶ」と。ずーっと仏様は居って下さいます。皆さんお念仏しておられますか?念仏したら護られますよ。念仏しながら誰かの悪口言えないでしょ?「あいつ、あのアホ」と言うのと「なんまんだぶつ」と一緒に言えないでしょ?いらんこと言うのも摂めとって下さっています。考えてみれば、お念仏申させていただけるようなそんな仏様に成って居って下さっているということは、常の仏様でありますよ、と仏様の方が整えて下さったのです。そしてそれが今私に届いているのです。

このお心は、届いているというだけではないのです。親鸞聖人は
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃)
というご和讃をお詠み下さっていますが、そのご和讃の中で「摂」という字を
もののにぐるをおわえとるなり
とお示し下さっています。逃げるんですって、私は。護って下さると言うて居って下さいますが、世間のお誘いがあったらフラフラと行ってしまう私を追いかけて捕まえると言われます。「取」とは
ひとたびとりて永く捨てぬなり
とおっしゃられます。

私は大阪の行信教校という学校で学ばせて頂きました。そこに、騰(あぐる)先生という兵庫県の先生がご講師としておいで下さってましたが、その先生が授業の中で、今申しましたご和讃のご講義をして下さいました。私はたまたま一番前に座って居ったんです。先生は、私の顔をじっと見て「佐藤君、私の話をいま聞いたか?」と言うのです。そして「今言うたやろ。もののにぐるをおわえとるなり、と。これ誰のことか分かるか?」と聞きはりました。私、それがさっぱり分かりませんで「さあ、誰のことでっしゃろうか」という顔をして先生をじっと見つめていましたら、「あのな、あんたのこっちゃで」と言われました。「そうですか、私のことですか」。その時のことが鮮明に思い出されるのですが、その後、騰先生は言い直されました。「いやいや、わしのこっちゃ。もののにぐるというのは、逃げとんのはわしのこっちゃ」と。逃げている者と聞くと、他の誰かのように聞こえますが、お誘いにフラフラと行きそうな私は、また煩悩が好きでねぇ。仏様からすると逃げとるんですね。それを追いかけると言われています。なんで追いかけはるんですかね?危ないからでしょう。放っとけんからですよ。そんな迷いの姿のままに生かせる訳にはいかんからでしょ。そんな者を追いかけて、きちんと抱き取るとあります。「ひとたびとりてながくすてぬなり」です。
騰先生、、、珍しい名前でしょ。「騰瑞夢(あぐるずいむ)」先生は、とにかく私達学生に「仏様が念仏せい言うてんのやから、念仏したらええ」と言われました。「念仏せい、念仏せい」とおっしゃって下さる先生でした。有り難いですね。先生の居られない所で私は何を言っているのでしょう。騰先生が今ここにおいで下さっているんでしょうかね。「佐藤よ、覚えとってくれたんか。今日はようお念仏の話をしとってくれとるのう」と。見えますか?背後霊とちゃいますよ。菩薩様となって私の所に届いて下さっているのです。「お前もお念仏を喜ぶ身か?」と喜んで居って下さるのでしょう。その先生が、私たちにこんな言葉をおっしゃって下さっています。ちょっと方言が強いかもしれませんが、そのまま読ませて頂きます。
皆さん、念仏しまひょいな。阿弥陀様がそうおっしゃって下さっておるのでありますから。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い、こうおっしゃって下さっておるんです。どうです?それ聞いて、必ず救うと聞いて、腹が立ちますか?癇に障りますか?そんなことはございますまい。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い。それを聞いて、なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏しますねん。そしたら阿弥陀様が、おお、よう聞いてくれたな。お前はわしの子ぞ。というてお喜び下さるのであります。私は、騰瑞夢いうて、難しい名前やけど、娑婆では田中やら山田やらいろんな名前がありますけど、これは娑婆で区別するための名前でございましょ?阿弥陀様から言わせたら、お前は阿弥陀家の子ぞ、娑婆では騰瑞夢か知らんけど、わしから言わせたら阿弥陀瑞夢ぞ、とおっしゃって下さっておるということではございませんか。阿弥陀家の一族にならせてもらうということでございましょ?どうぞ、何事も思うようにならぬ世の中でありますけれども、阿弥陀様のご本願を仰いで、なまんだぶ、なまんだぶつとお念仏称えながら生かせてもらいたいものであります。お念仏しまひょいな。
皆さん、おうちに表札かかってますか?あれはサービスですよ。郵便局の方と宅急便の方への。訪れて下さる方へのね。あれは娑婆の仮の名前であります。「あなたは阿弥陀家の子よ」と仏様はおっしゃって下さっています。「もう捨てられない世界にあなたは今居るのよ。何も心配することはないよ」と言うて下さっています。それを聞いて癇に障りますか?と言うてはるのです。親とはそうですよね。出来の悪い子ほど親は可愛いと言われます。自分は出来が悪いとは思っておりませんけれども、出来が悪いんでしょうね。心配でたまらないのでしょうね。そやから「お前はうちの子」と言うて、どんな悪さしても迎え入れてくれるのを、我々は親と言うて、その名で呼ばせて頂くのでしょう。「お前はわしの子、お前はわしの子」と呼んで下さる方が居るのですよ。その呼び声が南無阿弥陀仏というお念仏ですよ。と、騰先生は私にお勤め下さいました。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」。利井鮮妙先生(記録者の聞き違いかも?)だったかな?「なんまんだぶやで、なんまんだぶと呼んでおって下はるで」と言うのやけど、忘れますわね。みのもんたさんと一緒にテレビに向かって文句言うてますわ。この政治家が悪い、と言ってね。こいつが悪い、こいつが悪いと。すっかり忘れてますなあ。でも、この歌は単なる悲しい歌ではなくて、この裏側にあるのは、その忘れがちなる私を忘れんぞ、と言うて下さる仏様が居って下さる、それが「摂取心光常照護」「大悲無倦常照我」。常でありますよ、常でありますよ、とおっしゃって下さる心です。

大和の清九郎さんという方がおいでになられました。仏教によく親しまれ、仏法をよくお聴聞された方でした。時のご門主が清九郎さんにおっしゃいました。「清九郎よ。ご法義相続しとるかぁ。繁盛しとるかい」と。要は、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏ちゃんとしとるか、ということです。そしたら清九郎さん「いやいやー、よう忘れますねん。念仏せいちゅうのは分かってまんねんけどね、よう忘れますねー」と。そしてその後こうおっしゃいました。「わたしゃよう忘れるけども、お前のことは忘れとらんぞという仏様の方から時々たずねて下さいます」「私の方が忘れて居っても、お前のことは忘れんぞといって、南無阿弥陀仏と時々たずねて下さいます」と清九郎さんはお喜びになっていたということです。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」とは、忘れがちであるこの私を、決して忘れんよ、という大きな仏様のお心の中にただ今抱かれているのですよ、という喜びがあるのですね。そやから、忘れるのをご存知なのです。どうしようもないですね。何の条件も私のところには整いませんね。賢くも出来んし、努力をし続けることも出来んし、世の中のことには振り回されかねへんし、これしなさいと言って下さったそのこと一つも続けられへんし。その私の所には何の条件もつけられず、全部わしが引き受けたというて整うて下さったのが南無阿弥陀仏というお念仏です。いつでもお前から離れんよ、いつでもお前を見捨てることはないよ、いつでもお前のことを摂め取ってるよ、と仏様は私を抱き取り続けて居って下さるのです。それを光明の働きとして親鸞聖人はお喜びになってゆかれました。

正信偈さまで数えてみて下さい。「光」という字がいくつ出てくるか。親鸞聖人にお尋ねしますと、仏様とは光の方ですと言われます。ウルトラマンみたいですけどね。それは、その光によって闇が破られ目覚めさせられながら、目覚めさせられつつある人生をこの私に恵んで下さる。その恵んで下さった私を決して離さない、と摂め取って下さる仏様が今私の所に居って下さいます。

さっき「騰先生がここにおられるんですよ」と申しましたが、諸仏・諸菩薩方はお念仏する一人の念仏者の所に来られて、百重にも千重にも取り囲んで喜んで下さるのです。「ようようお念仏申す身になって下さって、ようよう阿弥陀様のお光の働きを喜ぶ身になって下さって」と。私は今お寺の住職をさせて頂いておりますが、ご法座を開きますと、今日は何人来はったやろかと気になります。沢山お参り下さったら、それはそれで嬉しいのですが、いくら100人居っても、1000人居っても、1万人おっても、「一宗の繁昌」という言葉で蓮如上人教えて下さいますが、お念仏がなければそれは法座とは言えんのでしょうね。逆にお念仏を喜ぶ人が一人居れば、百重千重の諸仏・諸菩薩方がそこに居って下さって、たった一人のその道場は満堂なんだそうです。しかし1000人、万人、10万人、1億の人が居ったとしても、一人たりとも念仏を申さないのであれば、それはゼロに等しいということであります。兵庫県神戸に、くぼいこうぎ(?)という先生がおいで下さったことがあります。その先生がよくおっしゃっていました。ご法座にお一人座って居って下さって、その方とお念仏させて頂けたら、それ以上幸せなことはないと。沢山頭数が集まっていることが仏様のお喜びではなくて、お一人お念仏申して下さることが仏様の無上の喜びとなって下さるのだと言うて下さいました。これは僧侶である私の一つの課題でありますが、光明の働きに触れながら、一つ一つ、一歩一歩、足取りはおぼつかないのですが、おぼつかない足取りをご存知の仏様が、おぼつかないままに「ほれほれ」と抱き取りながら、私をお浄土へと導き、方向を示して下さり、私の生き方を教えてくださるのです。

そのような道を、今、お念仏申しながら、そこに開かれているのが信心という道です。信心とは、何か、ものではないのです。「信心獲得」と蓮如上人がおっしゃって下さりますと、何か形のあるものが私の所に来て、懐に入れるようなもののように思いますが、信心とは他でもない、あなたは今弥陀に抱かれながら、弥陀の光明に包まれながら、お浄土へと生まれて往く身でありますよ、ということに「そうでしたか」と言うだけであります。そこに開かれている道、そこに開かれている世界を信心という言葉でお示しになられ、それを私たちは聞かせて頂いているのであります。


最後、蓮如上人のお手紙を頂戴いたします。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之衆」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ



ご一同様に、ご領解出言。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御たすけさふらへと、たのみまうしてさふらふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、この上の稱名は、御恩報謝とぞんじよろこびまうしさふろふ。この御ことはり聴聞まうしわけさふろふ事、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の、あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候。此うえは、さだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりまうすべく候。





【法話】仏様とはなにか。そして、どうして仏様を尊敬するのか。どうして仏様を拠り所にしなければならないのか 2011.12.24 築地本願寺

2011年12月24日、天岸浄圓先生から聞かせていただいたお話の記録です。

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無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる
「真実のより処」と題して話をさせていただきます。

お話の最初に、親鸞聖人がお書きになられたお書物の一節をまず読ませていただきまして、「今日はこういうお言葉を通して真実の拠り所を皆様にお聞きいただきたい」と、ご讃題を読んだ訳です。元の漢文に戻しますと、
帰命無量寿如来 南無不可思議光
と、私たち浄土真宗とご縁が結ばれている者には『正信偈』の最初の言葉ですので、ほとんどの方がご存知かと思います。『正信偈』は親鸞聖人が作られた漢詩です。正しい念仏の心を親鸞聖人がわずかな漢詩にまとめられて、自らの書物の中に書き納められました。

親鸞聖人がお亡くなりになりまして、およそ200年ほど時が過ぎて本願寺に蓮如上人というお方が出られました。従来本願寺では、僧侶は僧侶の勤めがありましたが、聞信徒の方にはこれといってお勤めをさせてもらう決まりが無かったようでありました。そこで蓮如上人が、僧侶も一般の方々も一緒にお勤めが出来てこそ親鸞聖人のお気持ちに叶うであろうと、『正信偈』を元の書物から抜き出して、浄土真宗の縁ある方々の共通のお勤めとして定められて以来、およそ500年以上、このお言葉が浄土真宗のお勤めの基本となりました。真宗の門徒の方々には大変馴染みの深いお言葉だと思います。

大阪高槻に、行信教校という、130年ほどの歴史のある、浄土真宗の特に西本願寺の僧侶を養成する学校があります。皆さん龍谷大学という学校名はご存知かと思います。龍谷大学は西本願寺のお坊さんたちが勉強する場所です。その龍谷大学は、明治の時は大教校と呼ばれていました。その後、学制の変化に従いまして、今は龍谷大学という名前で定まっています。
ちなみの話で恐縮ですが、「龍谷」という学校名は本願寺の山号から来ています。谷へんに龍という字があるそうです。その字を「おおたに」と読ませるそうです。その「おおたに」という字をへんとつくりに分けて「龍谷」としたそうです。
江戸時代の末から明治の初めにかけて、全国のお坊さんたちが京都で学べるという訳ではございませんでした。従いまして、各地の学者たちが私費を投じまして近隣の若い僧侶を育成しようという動きが出て参りました。そのときに成立したのが教行という学校制度でございました。多くの強行は短期大学になられたり高等学校になられたり、それぞれの専門的な学校に変容したのですが、行信教行だけは残ったのです。そして今でも畳の上に正座して勉強しています。

私は、その行信教行と申します学校で、浄土真宗の教えを若い方達に講義をしています。やはり『正信偈』は門徒といわれる方々が親しみ深く唱えておられる言葉ですから、若い方々にもよくよくその意味合いを講義しなければなりません。そういう時に、先ほど読みました「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句を昔の先生方から「帰敬の頌(じゅ)」という言葉で教えるのですよ、と伝えられています。「帰敬式」という儀式がございます。一般に「おかみそり」と言われるものですが正式な名称は「帰敬式」と申します。その言葉の出処はこの「帰敬頌」に遡ることができます。

「帰」とは「帰る」ではなく「帰依する」ということです。この「帰依」という言葉が「拠り所」を意味しています。まだ漠然としていますので意味を確定しますと、拠り所とは、私たちが生活を営む上の判断の拠り所、という意味を持ちます。私たちは日常でも非常でも、様々な判断を迫られながら生きています。判断をするとき、何を判断の拠り所として是非を定めるか、それが問題になってきます。その判断の拠り所を確定することを「帰依する」という言葉で仏教では表してきました。
「敬」とは「尊い」「敬う」ということを意味しています。「尊敬」といいますね。
その「帰依」「尊敬(そんきょう)」から一字ずつ取りまして「帰敬」ということを表しているのです。

もう少し広く説明致しますと、この人生を歩む中で何を尊敬し、何を判断の拠り所となされるか、それを自らと仏様とにはっきりと告白する儀式のことを「帰敬式」と呼ぶ訳です。

先ほど「帰敬頌」と申しました。『正信偈』では「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉が用いられています。

「帰命」の「帰」は「帰依」でございます。そして「命」の方ですが、上に「生」を付けると「生命」となりますが、「令」の字を付けると「命令」になります。そうすると、「帰命」とは、「命に帰る」という意味ではなく、「命令に帰依する」という意味になります。仏様の命令、仏様の教えを拠り所にするというのが、帰命という言葉の意味でございます。

「南無」とは「南無阿弥陀仏」の「南無」です。元はインドの発音でございます。現在でも、インドの方々は人とお会いしますと合掌して「ナマステ」という挨拶をします。現在も生きて使われている言葉です。それが日本に伝わって「南無」という字で音だけ移したのです。意味は読みません。ローマ字とかひらがなと同じように使います。では、意味はというと「心から敬い拝む」ということです。だから「ナマステ」と手を合わせているのですね、インドの方達は。意味は「心から敬い尊敬し、頭を下げ礼拝する」ということでございます。

この二つを合わせると「帰依」と「尊敬」になります。その対象を「無量寿如来」「不可思議光如来」と親鸞聖人は述べておられるのです。『正信偈』では「不可思議光」で終わっていますが七字に合わせるためです。限りなき命の仏様、不可思議な、人間の常識を超絶した仏様を拠り所とし、私は人生をかけてこの方を尊敬しつつ生きて参ります、と仰っているのが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という、親鸞聖人の信仰の全体を告白された言葉なのです。信仰といいますか、宗教、もっと広い言葉で申しますと、ご自身の尊敬すべきもの、拠り所とすべきものを確定するということなのです。これが実は、信仰、宗教、信心といわれる事柄の内容でございます。

厳しいことを申させていただいてお気を悪くされるかもしれませんが、数珠を持っておればそのお人が仏様を本当に尊敬している人であるかは確かではありません。誰でも持ちますからね。本当に仏様を拝んでいるか、というと、そうでない場合も多いです。「拝んでいる」といっても、仏様を拠り所として生活をしているか、となりますと、極めて危ないのが現実でございます。

親鸞聖人に「あなたは何を敬い、何を尊敬されて90年の生涯を生き抜かれるのですか」もしくは「生き抜かれたのですか」とお尋ねをしたとき、「私は、無量寿と名乗り、不可思議光と名乗られた仏様を人生の拠り所とし、最も尊敬すべきお方としてこの生涯を生き抜きました」と仰せになっておられるのがあの『正信偈』の始まりの言葉なのです。

その言葉に心を合わせて、その言葉によって生きて行こうと勤める者を「浄土真宗の門徒」「親鸞聖人の門徒」と称するのでございます。そういうお言葉を皆様方は、日々お勤めの中で読ませていただいておられる訳でございます。その言葉の心を正しく受け止めておく必要があろうかと思います。

「無量寿如来」「不可思議光如来」。元のインドの言葉に戻しますと「南無阿弥陀仏」という言葉になりましょう。しかし、「無量寿如来」「不可思議光如来」「阿弥陀仏」と言われましても実感が難しいですね。私たちは「仏様」という言葉はよく使っております。しかし、仏様という言葉を馴染み深く使っているということと、仏様ということを感じ取れるということとは意味が違います。小さな子供から「仏様ってどんな方?」と尋ねられたら、それに対して答えられますか? 案外言えないですよね。これは皆さんの責任ではございません。話をする側の責任です。

では、仏様とはなにか。そして、どうして仏様を尊敬するのか。どうして仏様を拠り所にしなければならないのか。そういうことを少しお話申し上げておきたいと思います。

親鸞聖人が大切にされたお経の中に『観無量寿経』というお経がございます。「観」「無量寿」経ですから、無量寿如来のお謂れが説かれている、ということはご理解いただけると思います。その無量寿如来のお心とは。それがお経に説明されています。そこには
仏心とは大慈悲これなり
と書かれてあります。心とは、心臓のことではなく、感受性ということです。仏は物事をどのように感じ取られるのか、ということです。

皆さんも、感受性に従って好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかを作っているんでしょ? 今日、年末の大切な時間に皆さんお参りになられました。これだけ大勢の方がお参りでございますと、私が提示するお話が、自分の感受性に合う方と合わない方がおられますね。「こういう話が聞きたかったな」と思われる方の心は私のことを「良い講師だ」と感受していらっしゃいます。ここに良い講師が立っているように錯覚していらっしゃいます。ところが私の話が気に食わない方は「嫌な講師が来た」と私を見ていらっしゃいます。それもその方の感受性が描き出した心の投影です。だから良い講師の天岸浄圓がいるわけでもなく、嫌な講師の天岸浄圓がいるわけでもないのです。では、私は一体何者なんですか? 皆さんの心が描き出している天岸浄圓は私の実態ではないのです。こういう様に、人の評価からものの味わいまで、すべて自分の感受性、感性を中心として物事を判断しているのです。仏教とはこういうことを教える宗教なのです。我々が、ここに居ていると思っているのは実は、心が描いているのであって実態ではない、と教えるのです。難しい言葉で「諸法無我」「諸行無常」と言います。もし私が、皆さんが好きな人となったら、どれだけ私が変わっても皆さんは私のことを好きな人と思い続けることが出来ますか? 今まで嫌いだと思っていても、皆さんの好きなものを持って行って良いことを言ったらいっぺんに評価が変わるでしょ? だから隣の方が聞いていらっしゃるお話と、今自分が聞いているお話は違うのです。

では、仏の心とは、仏の感性とは何か。仏様とは、仏の心、仏の感性で行動される方です。その時に、仏の心、仏の感性とは大慈悲である、と言われています。「慈」とは、人々の幸せを自らの幸せと感受しそのように行動する心です。人の幸せを自らの幸せと受け止める。そのような行動を起こすことを「慈」と言います。インドの言葉で「マイトリー(maitrī)」と言うのだそうです。それが中国語に「慈」と翻訳されました。そして、人の悲しみ、人の不幸を自らのこととして受け止め、その人の苦しみを抜き、悲しみを取り除き、痛みを共にする心と、それに従う行いのことを「悲」と翻訳されたのだそうです。だから人の不幸を見ることが自らの不幸であるような心と行動です。インドの言葉で「カルナー(karunā)」と言うそうです。人の幸せを自らの幸せとし、人の不幸を自らの不幸と感受する心とそれによる行動、これをあらゆる人々に分け隔てなく実現できることを大慈悲と呼んだのだそうです。これが仏様という方の本当のあり方だそうです。

一度、自分を振り返ってみてはどうでしょう。あまりピンときませんか?

浄土真宗ではこういうしきたりはしないところが多いのですが、2月になりますと節分という行事がありますね。あの行事の時、なぜか知りませんが豆まきというのをしますね。あのとき「福は内、鬼は外」と言いますね。そして関西ではすぐ「戸を閉めなさい」。せっかく外に出した鬼が入ってこない様に。

これの逆なんですね。

「福は内」とは「幸せは私の所へ」、「鬼は外」は「不幸は外へ」。これで良いように思いますけれど、「外」とは隣近所。隣が不幸になっても自分自分は知らん。そう言って豆をまいているのです。この感性を不幸というのです。この心を持っている人、この心を起こしている状態を何とも思わない人には、悲しいけれども幸せはめぐってきません。なぜか? 私は幸せになる者、隣は幸せであろうが不幸せであろうが私は関係ない人。しかし実際はそう簡単には行かないでしょ? 「私は幸せになるべき人」といっても、そう簡単になりますか? 隣は不幸せになっても構わん、といっても隣が調子よく行ったらどうなりますか? 私がなるべき幸せを、どうしてあの人が手にするのか、とそこには腹立ちと妬みと敗北感、劣等感が出てくるでしょ? そして自分が良くなって隣に悲しいことが起きたら、私の所でなくて良かったという優越感が出るんですね。その優越感と劣等感が、幸せというものを自らの中に作り上げることの出来ない原因となっているのです。

この「福は内、鬼は外」を逆転すると、仏様はどう仰っているかというと「人が幸せになって下さることを幸せといい、人が不幸せになることを自らの悲しみと受け止めて行く」。そしてそれを実現して行こうとする。それを仏様というのです。

しかし、皆さん仏法をお聞きになられる方だから「あー、良いなー。結構だなー」「尊いなー」と思って下さるかもしれませんが、ごく普通の方にこの話をしたら「今の時代に何ということを言うのか」と言われます。「勝つか負けるかのこの時代に人の幸せとか自分の不幸せとか、そんなこと思ってられん」というのが常識です。人間の作った常識の世界ではそういうことで世の中を生きようとするのです。

果たしてそれで良いのですか?ということです。なれ、とは言えません。自分もなれていないですから。しかし、お聞きくださった方々の中に、慈悲ということのあり様を聞き受けられて、そのあり方と自分の今のあり方、感じ方を比べてみた時に「仏様っていいな、尊いんだな、それに比べて私は恥ずかしいんだな、浅ましいんだな、だから本当の意味での豊かさ、幸せを感受できないんだな」と思われると思います。大仰なことは言えませんけれども、人が喜んでいらっしゃる時に一緒になって喜ぶ心を起こしてご覧なさい。気持ち良いですよね、思い上がりでなしに。共に喜ぶというのは良いですよー。あれはある程度努めねばイカンですな。「喜べるか!」ではなく「喜ばせてもらおう」と思ってご覧なさい。そうすると、喜べなかった時「恥ずかしいな」と思うのです。そういう心を私に起こさせて下さるのが仏様で、そのとき私が気づいた自分自身のことを仏教の用語では「凡夫」と言うのです。お説教でも講演でも「凡夫」という言葉はよく使われますが、凡夫というのは生まれた時から凡夫ではないのです。生まれた時は、自分を中心にものを考える、極めて傲慢な生き方をしている私たちです。そして自分が考えていることが一番正しいと思い込んでいる私たちです。だから、先ほども言ったようにごく一般には「こんな厳しい時代に人の幸せなんか考えていられるかい。人の不幸せなんていちいち受け止めることが出来るかい」ですが、これは今の時代だけではなく、いつの今も私たちはそうなのです。今に始まったことではなく、ずーっとそうなのです。そしてそれが正しい生き方だと錯覚しているのです。それで、それが錯覚ですよ、実はそれが虚しいんですよ、浅ましいんですよ、すぐにそれ(仏様の感受性)になりなさいとは言わないけれど、それを恥ずかしいことだと気づかせてもらいなさい、ということなのです。その、気づかせてもらった姿が、仏様に向かって手を合わせる姿だし、仏様を敬う姿だし、仏様を敬えば、私が敬われるような者ではなかったという自覚が凡夫という意識を起こさせるのです。こうした時に、その人の許に正しい拠り所、本当の意味で命恵まれた者として持つべき拠り所というものが初めて自覚される訳です。

そういうことが、今親鸞聖人が「無量寿如来に限りなき命を大悲して下さる。分け隔て無しに、人間の傲慢を超えて、あらゆる人たちを同じように受け止めて下さる。これは私たちにとってはまさに不可思議な世界。自分たちの意識の世界の中から絶対に感じ取れない、心開けない、人間の知性や理性やもしくは傲慢を完全に超えた彼方から響いてくる真実の世界。そういうものを拠り所として、仰ぎながら、努力しながら生きて行こう。そして、やがてその仏様を実現していただく(親鸞聖人の言葉で言えば「浄土に生まれる」)」と言われている事柄の意味です。ですから、その仏様にならせていただくことを人生の目標として生きて行く、そういう生き方を私たちに開いて下さったのが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」「南無阿弥陀仏」と仰せになった生き方です。そこに、本当の意味の宗教、正しい拠り所を私に示して下さったと言えます。広い意味で宗教と申して良いと思います。もしくは信仰と申しても良いと思います。それを親鸞聖人は「お念仏を申す人生」と教えて下さったのです。

そんなことをお話申し上げたいと思いましてお時間を頂戴いたしました。

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この後、質疑応答がありましたが、長くなりますので次回に続きます。


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