★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年07月02日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(3)
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)の続きです。
(つづく)
目次
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
↓↓今回はここから↓↓
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
↑↑今回はここまで↑↑
3 第二章 二種深信についての問題3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
四 高森親鸞会の宿善論の問題点
上述のように高森氏は、宿善は自力であると断言し、努力して修すべきことを奨励し、そのための具体的行為としては聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめること)、高森親鸞会への献金(財施)等を宿善となるべきものとしてすすめている。
既にみたように、宗祖や蓮如上人において、聴聞(聞法)をすすめはするものの、宿善が自分の努力によるものとする宿善自力を主張するのではなく、あくまでも他力になさしめられるところとするのである。そして破邪顕正(正しい教えをひろめること)や献金等(財施)を宿善とする傾向は全くみられない。
先ず破邪顕正に関してであるが、宗祖や蓮如上人においては、他者に教えを説きひろめる伝道教化活動は自らも実践し他者にもすすめたところである。宗祖は『教行信証』総序に爰に愚禿釈の親鸞慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり、真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。斯を以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(真聖全二の一)とあるように、宗祖自身が浄土真宗の教法を聞信し、救いを体得しえた慶びと感謝の念を語り述べようとしているのであり、他者に真実の教法を伝えようとする宗祖の姿勢をまずここにみることが出来よう。そして「後序」には慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す、深く如来の衿哀を知りて良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜弥々至り至孝弥々重し、茲に因って真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。若し斯の書を見聞せん者の、信順を因となし疑謗を縁として信楽を願力に彰し、妙果を安養に彰さんと。(真聖全二の二〇三)とあるように、根本聖典であるこの『教行信証』を見聞する人が、信楽を願力に彰し妙果を安養に彰わすことを願いとしているのが宗祖なのであるから、他者に教えを説きひろめることは宗祖の基本的な姿勢なのである。
しかしながら、この他者に教えを説きひろめることは、あくまでも信後の報恩の行としてのものであり、信前における獲信のためのものではないのである。従って他者に教えを説きひろめることを宿善になるものとしては断じて扱ってはいないのである。即ち「総序」における「斯を以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり」とあるのは「真宗の教行証を敬信して」とあるが前提となっており、「後序」の「若し斯の書を見聞せん者(中略)信楽を願力に彰し妙果を安養に彰さんと」とあるのには「深く如来の衿哀を知りて」が前提となっているように、それぞれ信がその前提となっているのである。又『浄土和讃』には仏慧功徳をほめしめて十方の有縁に聞かしめん 信心すでに得んひとは つねに仏恩報ずべし、(真聖全二の四九一)とあるように、信後報恩の行として、十方の有縁に教えを説き聞かしめるべきことをすすめており、又『御消息集』にはわが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏をこゝろにいれまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。(真聖全二の六九七)とあるように「仏法ひろまれとおぼしめすべし」ということを信後の報恩行として扱っており、又「信巻」には善導の『往生礼讃』の文を引用して自ら信じ人を教へて信ぜしむること、難が中に転たまた難し、大悲弘く普く化する、真に仏恩を報ずるになると。(真聖全二の七七)とあるように「大悲弘く普く化する」とある他者に教えを伝えひろめることはあくまでも信後報恩の行とされているのであり、獲信のためのものとはされていないのである。
このように宗祖においては他者に教えを説きひろめる行為は大切なこととされ、宗祖自身が自ら実践し、人にも奨励したものと考えられるが、それはあくまでも信後の報恩行としてなされたものであり、高森親鸞会の主張するような自らの獲信のための宿善としたものでは断じてないのである。
又、蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に信もなくして人に「信をとられよとられよ」と申すは我は物を持たずして人に物をとらすべきといふ心なり、人承引あるべからず」と前住上人申さると順誓に仰せられ候ひき。とあるように、我がみ自身が信心決定してから、人にも教えることが出来るのであると述べているように、あくまでも他に教えを説くことは信後の行とされているのであり、それが獲信のための宿善となるなどという見解は全くなされていないのである。
「自信教人信と候ふ時は、まづ我が信心決定して人にも敢えて仏恩になる」との事に候。「自身の安心決定して教ふるはすなはち大悲伝普化の道理になる」由同じく仰せられ候(九三、真聖全三の五五五)
次に高森親鸞会に対する献金等の財施が宿善になるという点についてであるが、宗祖は他者から財施をうけたことに対して『末灯鈔』に銭貳捨貫文燧に給侯、穴賢、穴賢、(真聖全二の六八三)とあり、又『御消息集』には銭二百文御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。(真聖全二の六九八)とあり、又御こころざしの銭伍貫文、十一月九日にたまはりてさふらふ。(御消息集、真聖全二の七〇五)等と財施に対して御礼を述べ、謝念の意を表してはいるが、それが宿善になるという見解は全くみられない。
しかも『歎異抄』第十八章に仏法のかたに、施入物の多少にしたがひて大小仏になるべしということ、この条、不可説なりゝゝ。比興のことなり。(中略)いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなばその詮なし。とあるように、施入物の大小を云々することは誤りであり、たからものを仏前になげたり師匠にものを施したりすることによってすくいがきまるものではないということが述べられている。このことから宗祖においては献金等の財施が宿善になるという見解は全くなかったものといいえよう。
一紙半銭も仏法のかたにいずれとも、他力にこゝろをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。(真聖全二の七九〇)
又、蓮如上人も『御文章』にちかごろはこの方の念仏者坊主達、仏法の次第もてのほか相違す。そのゆへは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとゝいへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにおほくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにをひて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし、まことにあさましや、(一の一一、真聖全三の四一八)とあるように、蓮如上人も財施によってたすかるのではないことを強調し、そのような考えを非難しているのである。このように蓮如上人においても財施が宿善となるというような見解は全くみられない。
以上のように高森親鸞会では獲信のための宿善を自力によるものとするのであるが、宗祖や蓮如上人は宿善は自力によるところではなく、すべて他力によるものとするのである。そして宿善になるものとして高森親鸞会では聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめること)、高森親鸞会への献金等(財施)が挙げられているのである。聴聞(聞法)については、宗祖や蓮如上人(他力)と高森親鸞会(自力)との見解の相違はあれ、宗祖や蓮如上人もすすめるところであるが、他人に教えを説きひろめることや献金等の財施が宿善となるというようなことは、非難こそすれ全く語るところではないのである。
このように高森親鸞会の宿善論は宗祖や蓮如上人とは多分に相異している全く誤った宿善論であるといわねばならないのである。五 真宗先哲の宿善論
真宗宗学における宿善論として、普賢大円氏の説によれば、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説があげられている[11]。このように過去において、宿善自力説を主張した学者もいたのではあるが、これは高森親鸞会の主張する宿善自力説とはかなり異なるものであったと考えられる。即ち道隠師は『御文明灯鈔通関』に今私に自力諸善を宿善とするものを案ずるに、自力を他力の因とするといふに非ず、唯これ機を調熟するのみ、謂く多劫に自力諸善を修して其の機をととのへ、以て可信の機既に成熟するときは自力諸善の法を捨て、能く他力の法を信ずるに堪えたり。(真宗叢書十の三八五)とあるように、自力諸善を宿善とするのはその功徳によって宿善が開発するという意味ではなく、自力諸善を捨てて他力を信ずるように機をととのえるためというのであり、又鮮妙師は『宗要論題決択編』に宿善の当体は自力の善なり、中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。(中略)然れば宿善の体は自力なり、自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて却って酒を止めさすが如く、密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、酒を勧むるは酒を止めさするため、今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、之を宿善という。(巻九の三一)とあるように、宿善の体は自力であるとしながらも、これは自力の善を捨てさせるために自力の善を与えるのであると述べているのであり、決して自力の善の功徳によって宿善が開発するというのではないのである。
次に宿善他力説とは、我々の獲信の因縁となるものは全て他力によるとする説である[12]。曽無一善の煩悩熾盛の衆生にとっては、その宿善は全て他力によって生起されたものと考えるべきことは至極当然のことなのであるが、この説で問題になる点は、もし宿善が全て如来の他力によるとするならば、すべての衆生に平等の宿善が与えられ、一切衆生は平等に救われるべき筈である。しかしながら経典には已今当の往生が説かれており、衆生の往生に時間的遅速があることが示されている。このことは経典の上においても、又現前の事実においても動かすことの出来ないことである。
それでこの点を補うような形のものが、行照師の提唱といわれる当相自力体他力説である。即ち宿善の当相は自力であるが、その体といえば他力によるというのである。しかしながらこの当相自力体他力を説く場合でも真宗の立場はあくまでも絶対他力であるから、衆生が自ら修する善根も実はすべてが如来他力の御はからいによってなさしめられたものと受け取るのである[13]。
このように真宗先哲の学説においても、若干の相違はあるが、宿善はあくまでも他力によることを据りとするものであり、自己の善根によって宿善を開発させるというような見解は全くみられない。高森親鸞会の宿善論が如何に誤った見解であるかを、この点からも窺うことが出来よう。む す び
以上によって明らかなように、高森親鸞会の主張する宿善を自力とし、しかも聴聞(聞法)だけでなしに、破邪顕正(正しい教えをひろめること)や高森親鸞に対する献金等(財施)も獲信のための宿善になるとする宿善論は、宗祖や蓮如上人、それから真宗先哲の見解にもおよそみられない全くの謬見であり、異義であるといわねばならないものである。先に示したように『顕正新聞』一八四(昭和52・9・20)に「後生の一大事の助かるか助からないかは宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる。宿善は善が宿るとも読めるのだから少しでも善根功徳を積むように心がけることが大切である(中略)時あたかも岐阜会館建設に着工している。(中略)名利のためにひげをなでるよりもすぐ投げ出す千金があれば岐阜会館はたちまちのうちに建ってしまうのである。名利のためにしか金を使い切れないものに、次々と阿弥陀仏は宿善の勝縁を与えて下さっている」と述べているのであるが、ここにある「後生の一大事の助かるか助からないかは宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる」とあるが、これはおそらく『御文章』のあはれく存命のうちにみなく信心決定あれかしと朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこゝろしばらくもやりことなし。(四の一五、真聖全三の四九九)とある文を指すものと思われる。この文は、高森氏が自分で講演するときに讃題として使用しているものであり、いわば氏の愛用の文である。然るに蓮如上人がここに「まことに宿善まかせ」といっている宿善とは「光明の縁にもよほされて宿善の機ありて……」 (御文章二の十三)とあるように、あくまでも宿善を他力によるとするものであり、又「門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとゝいへり。これおほきなるあやまりなり」(御文章一の一一)ともあるように財施を宿善とする見解は全くないのである。
にもかかわらず、蓮如上人が宿善まかせといっておられるからといって、自力の宿善を強調し、財施も宿善になると称して献金を募るなどということは全く遺憾なことである。
以上のように、高森類鸞会の主張する宿善論は、宗祖や蓮如上人の意とは甚しく異なるものであり、全くの謬見といわねばならないであろう。
(脚注)
(つづく)


