梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (1)

梯實圓和上の『親鸞聖人の教え・問答集』を購入しました。

全くの初めての人には難しく感じられるところもあるかもしれませんが、多少なりとも浄土真宗のご法義に触れたことのある人なら「こんなことが知りたい」と思っていた疑問に、鮮やかに答えてくれる問答集です。

経典の成り立ち、仏とは、浄土三部経と三願の関係、自力と他力、方便と真実、悪人正機、、、など、入門書として非常にありがたい本だと思います。

なかでも、ページの半分ほどを割いている「悪人正機ということ」の章は、有名な『歎異抄』の解説本と言っても良いかもしれません。誤って「造悪無碍の異安心」に陥る危険性を孕んだ『歎異抄』ですが、聖徳太子の善悪観、法然聖人・親鸞聖人の倫理観も詳説されています。

単なる古典や学問にとどまらす、現代を生きる仏の知慧としての「親鸞聖人の教え」が問答形式で平易に書かれていますので、おすすめの良書と言うことができるのではないでしょうか。

目次

【一】経典のこころ

  • 一、お経の意味
  • 二、経典の成立
  • 三、経典拝読の心得
  • 四、浄土三部教の選定
  • 五、三願と三経
  • 六、真実教としての『大経』
  • 七、『観経』の顕の義
  • 八、『観経』の隠彰
  • 九、『阿弥陀経』の隠顕
  • 十、覚如上人の三部経観


【二】阿弥陀仏の本願

  • 一、菩薩の誓願
  • 二、法蔵菩薩の出現
  • 三、法蔵という名のいわれ
  • 四、一如より形をあらわした菩薩
  • 五、般若・無分別智の意味
  • 六、迷妄を喚び覚ますもの
  • 七、浄土建立の誓願
  • 八、浄土往生の道を選択する
  • 九、五劫思惟の誓願
  • 十、親鸞一人がため
  • 十一、四十八願の分類
  • 十二、四十八願の中心
  • 十三、第十八願中心の本願観
  • 十四、第十八願の信心
  • 十五、「乃至十念」の称名
  • 十六、「五逆罪」について
  • 十七、「謗法」について
  • 十八、逆謗の除取について


【三】他力ということ

  • 一、自力・他力の誤解
  • 二、他力不思議
  • 三、曇鸞大師の自力・他力
  • 四、まことにその本を求むれば
  • 五、他利と利他
  • 六、他力の本質
  • 七、自力・他力の変遷
  • 八、浄土宗(鎮西浄土宗)の自力・他力説
  • 九、親鸞聖人の他力説と磁石の譬え
  • 十、他力は凡夫を変革する
  • 十一、正定聚の機


【四】悪人正機ということ

  • 一、『歎異抄』の第三条
  • 二、法然聖人の悪人正機説
  • 三、醍醐本『法然上人伝記』について
  • 四、智慧を極める教えと、愚痴に還る教え
  • 五、聖徳太子の善悪観
  • 六、仏教の善悪観
  • 七、『観経』に説かれた善行
  • 八、『観経』に説かれた悪行
  • 九、七仏通誡の偈
  • 十、法と機について
  • 十一、真実と方便
  • 十二、方便の教え
  • 十三、平等の救い
  • 十四、慈円の法然批判
  • 十五、『興福寺奏状』の論難
  • 十六、「大悲の自然」としての救済観
  • 十七、大悲は苦者の救いを目指す
  • 十八、阿闍世のために涅槃に入らず
  • 十九、悪人正機という言葉の発祥・『口伝鈔』
  • 二十、浄土宗各派の悪人正機説
  • 二十一、機の善悪と傍正
  • 二十二、悪人正機と二種深信
  • 二十三、善悪の二つ総じてもって存知ぜず
  • 二十四、絡み合う善悪
  • 二十五、法然聖人の倫理観
  • 二十六、親鸞聖人の倫理観
  • 二十七、少しずつ代わる念仏者の生き方




    つづく



    紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)

    紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(1)の続きです。



    目次
      1 はじめに
      2 第一章 宿善論について
        2.1 一 高森親鸞会の宿善論
    ↓↓今回はここから↓↓
        2.2 二 宗祖における宿善論
        2.3 三 蓮如上人の宿善論
    ↑↑今回はここまで↑↑
        2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
        2.5 五 真宗先哲の宿善論
        2.6 む す び
      3 第二章 二種深信についての問題
        3.1 一 高森親鸞会の問題点
        3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
        3.3 三 後生の一大事についての問題
        3.4 む す び




    二 宗祖における宿善論

     宗祖における宿善に関する文としては、『教行信証』総序には
    遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(真聖全の二の一)
    とあり、『浄土文類聚妙』には
    遇たま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ(真聖全二の四四七)
    等とある信をえたならば遠く宿縁を慶べとある文(a)、又『唯信鈔文意』には
    過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて、今、大願業力にまふあふことをえたり、(真聖全二の六三四)
    とあり、又『御消息集』には
    世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生のあいだ諸仏菩薩の御勧めにより、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候、御恩を知らずして、よろずの仏菩薩をあだにまふさんは深き御恩を知らず候うべし。(真聖全二の七〇〇)
    とあり、又『正像末和讃』には
    三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり。(真聖全二の五一八)
    等とある過去の善根について述べている文(b)。そして『浄土和讃』に
    たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり。(真聖全二の四八九)
    とあり、又
    定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する。(真聖全二の四九三)
    等とある獲信のために聴聞(聞法)や称名にはげむべきことをすすめているのかとも思われる文(C)等を挙げることが出来よう[8]
     (a)においては、獲信したならば遠い過去から現在に至るまでの宿縁を慶ぶべきことが述べられているわけであるが、これに関連して取り挙げておかねばならないことは覚如と唯善(覚如の父覚恵の異父弟)の間で行われた宿善必要説と宿善不必要説である。
    このことは、覚如の第二子従覚の『慕帰絵詞』や、覚如の弟子乗専の『最須敬重絵詞』に述べられている。即ち覚如が宿善開発の機が善知識に値って教えをきけば、信心歓喜して報土に往生するのであると宿善必要説を主張したのに対して唯善は本願に十方衆生とちかってあるのだから宿善の有無には関係なく往生することが出来るから不思議の大願なのであると述べて宿善不必要説を主張したのである。覚如はこれに対して『大経』の「若人無善本、不得聞此経、清浄有戒者、及獲聞正法(中略)宿世見諸仏、楽聴如是教」の文、更に善導の『礼讃』の「若人無善本、不得聞仏名、溝慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸仏、則能信此事」の文により、宿善が必要であることは経釈共に歴然であることを示す。唯善はこれに対し、それならば念仏往生ではなくて宿善往生ではないかと非難するのに対して、覚如は宿善によって往生するというのなら宿善往生というのであろうが、そうではなく宿善の故に善知識にあって信心歓喜する時に往生決定し定聚に住して不退に住するというのであるから宿善往生をいっているのではない[9]、と述べている。
    『最須敬重絵詞』に
    教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による、聖人まさしく遇獲信心遠慶宿縁と釈し給ふうへは、余流をくみながら、相論におよびがたきかと云々。(真聖全三の八四五)
    とあるように、宿善必要説を主張する覚如がここで指摘しているように宗祖の言葉に「遇獲信心遠慶宿縁」、「遇獲行信遠宿縁」とあるのであるから、宗祖も宿善必要説の立場であったものと考えるのが妥当であろう。
     次に(b)についてであるが、これらは宗祖が自身の過去における善根について語っているものであり、『唯信鈔文意』の「過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて今、大願業力にまふあふことをえたり」とある文などは過去の善根によりて大願業力にあふことをえた、という宿善が自力によるものとすることを述べているようにみえるものである。
    このことは、『教行信証』「信巻」至心釈に
    一切群生海、無始より己来、乃至今日今時に至るまで機悪汚善にして清浄の心なく、虚仮諮偽にして真実の心无し、(真聖全二の六二)
    とあるものや、信楽釈の
    然るに无始より己来、一切群生海、无明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦論に繋縛せられて、清浄の信楽无し、法爾として真実の信楽无し、(真聖全二の六二)
    とある文や、更には「信巻」引用の「散善義」の
    自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし。(真聖全二の五二)
    等とある「曽無一善」「無有出縁」と語っている言葉と矛盾するように感じられる。しかしこの点については(b)の次の文である。『御消息集』に
    「世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏菩薩の御勧めによりて、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候」
    とあり、『正像末和讃』には
    「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり(真聖全二の五一八)
    とあるように、過去に修した自力の善の功徳によって今大願業力にあったというのではなく、過去に修した自力の善はあくまでも捨てものとするのであり、その善根の功徳によって今大願業力にあうことが出来たとする宿善自力説を称えるものではないことが明らかである。
     次に(c)であるが『浄土和讃』に「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとはながく不退にかなふなり」とあるのは聴聞(聞法)をすすめているものである。又「定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそ、おしえざれども自然に、真如の門に転入する」「信心のひとにおとらじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」であるが、この二首については、古来一部の学者によって獲信のための信前称名を策励するものとされて来たものであり、現在もそれを主張する人もいる[10]
     先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
    聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
    とあり、又『一念多念文意』には
    きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
    等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。
    又、次の和讃の「定散自力の称名」とある真門(第二十願)の称名であるが、宗祖は「化巻」真門釈には
    凡そ大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以て己が善根とするが故に信を生ずること能はず、仏智を了らず。(真聖全二の一六五)
    とあるように「本願の嘉号を以て己が善根とする」真門念仏を修していては信ずることは出来ないことを述べ、又『疑惑和讃』(真聖全二の五二三以下)では真門念仏を厳しくいましめている。このような点から真門念仏をすすめる意が宗祖にあったとは考えられない。更に、「化巻」三願転入の文には
    然るに今、特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂之誓良に由へ有る哉。(真聖全二の一六六)
    とあるが、ここでいわれている「果遂の誓良に由へ有る哉」とは、宗祖が願海(第十八願)に転入した後において、自己を第十八順に転入せしめた果遂の誓(第二十願)に対する感謝の意の表明である。従って「果遂のちかひに帰してこそ、おしへざれども自然に真如の門に転入する」とある文の意は未だ第十八願にはいりえず、定散自力の心を離れえないままで念仏しているような人でも、果遂の誓いによって自然に真如の門(第十八願)に転入せしめられるのであると述べて、果遂の誓の徳を讃えているのであり、決して定散自力の称名の称功を主張しているものではない。又「如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」という文であるが、宗祖においては如来大悲の恩は信を得ることによってはじめて知り得るものとされている。
    即ち『教行信証』「総序」には
    真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。(真聖全二の一)
    とあり、「化巻」三願転入の文には
    爰に久しく願海に入りて深く仏思を知れり。(真聖全二の一六六)
    とあり、『正像末和讃』には
    釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ。(真聖全二の五二〇)
    等とあるように「如来大悲の恩」とは、信によってこそ知られるものであると述べられており、又「化巻」真門釈には
    真に知んぬ、専修にして雑心なる者は、大慶喜心を獲ず。故に宗師は彼の仏恩を念報することなし、業行を作すと雖も心に軽慢を生ず(中略)と云へり。(真聖全二の一六五)
    と、未だ第十八願の信のない真門念仏の人には仏恩はわからないとあるように、獲信することによってこそ「如来大悲の恩」は知りうるとするのが宗祖の立場である。従って「如来大悲の恩を知り称名念仏はげむべし」ということは、信を得て如来大悲の恩を知り、そして報恩の念仏にはげむべきことをすすめているのであり、決して信前の信を得るための自力の念仏の称功をみとめそれをすすめているのではない。このように「定散自力の称名は……」の称名も「如来大悲の恩を知り称名念仏にはげむべし」の称名も、ともに獲信のための自力念仏をすすめているのではないことは明らかである。従ってこれらの文は宿善自力を意味しているのではないのである。
    『高僧和讃』に
    釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便しわれらが无上の信心を 発起せしめたまひけり(真聖全二の五一○)
    とあるようにわれらの信心の発起は決して自力によるものではなくすべて釈迦弥陀の善巧方便によるものだとする宿善を他力とするが、宗祖の立場であったものと考えられる。

    三 蓮如上人の宿善論

     蓮如上人は宿善についての見解を諸処に述べているが、獲信の因縁を示して『御文章』に「五重の義」をたてている。即ち、
    これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずば往生はかなふべからずとみえたり(二の一一、真聖全三の四四二)
    とあるように、第一に宿善を挙げ、我々の往生のために欠くべからざるものとしている。又、
    この光明の縁にあひたてまつらずば、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなおるといふことは、さらにもてあるべからざるものなり、しかるに光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふこといますでにえたり。(御文章二の十三、真聖全三の四四五)
    とあり、又
    されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は宿因のもよほしにあらずば、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。(御文章四の一、真聖全三 の四七五)
    等とあるように、獲信のための宿善が欠くべからざるものとして重視されている。
     宗祖においても聴聞(聞法)は勧められるところであったが、蓮如上人においても『蓮如上人御一代記聞書』には
    仏法には世問のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべき様に思ふ事、浅間敷ことなり。仏法には明日といふ事はあるまじき由の仰せに候。「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名を きく人は、ながく不退にかなふなり」と『和讃』にあそばされ候。(真聖全三の五六九)
    とあり、又
    いかに不信なりとも、聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只仏法は聴聞にきはまることなりと云云。(蓮如上人御一代記聞書一九三、真聖全三の五七八)
    等とあるように聴聞にはげむことをすすめるのである。しかし乍ら、これも宗祖の場合と同様にはげむことによって、それが宿善となって信が得られるという宿善を自力によるとすることを意味しているのではない。即ち『御文章』に
    おほよそ当流には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたまふことはりをきゝひらくことは、宿善の開発によるがゆへなりとこゝろえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこゝろうるが、すなはち平生業成の義なり。(一の四、 真聖全三の四〇六)
    とあるように、宿善開発が自力によるところでなく、仏智他力によるところであると述べ、又
    この光明の縁にもよほされて宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方によりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。(御文章二の一三、真聖 全三の四四五)
    とあるように、光明の縁にもよほされて宿善の機あり、という宿善を他力とする立場をとっていることが明らからである。又『蓮如上人御一代記聞書』には
    宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善有難と申がよく候由仰られ候。(二三三、真聖全三の五九〇)
    とあるように、宿善は有難いものであると述べていることも、決して宿善は自力によるものではなく、仏智他力によるものであるとする意が述べられているものと窺うことが出来よう。
     又、存覚上人も『浄土見聞集』に
    聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、きゝてうたがはず、たもちてうしなはざるといふ。思といふは信なり、きくも他力よりきゝ、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。(真聖全三の三八一)
    と「きくも他力よりきゝ」と述べているように、聴聞することもすべて仏力願力によるものとし、自力によるところのものとはしないのである。



    (脚注)

    1. (↑)『歎異抄』第十三章の宿善については、『歎異抄』が宗祖の直接の著述ではないことと、そこにでてくる宿善は獲信に関係ないものであるので取り挙げない。
    2. (↑)真聖全三の七八五。
    3. (↑)信楽峻麿氏「親鸞における信心と念仏」(真宗学45・46)





    つづく





    紅楳英顕 / 派外からの異説について(3)

    前の投稿の続きです。

    二、後生の一大事の問題



     次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は
    後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(『顕正新聞』第205号)
    仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というは取り返しのつかないことを言うが、それは無間地獄に堕在するということである。曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。(『白道もゆ』137頁)
    親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。(『こんなことが知りたい』①6頁)
    等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り切り、しかも、これによって恐怖心をあおり「悲泣悶絶」の苦しみを経ねばならぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。これに対して、私は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」であるとの見解を示したわけである。
     『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われているのであるが、これについても、前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、私は反論とは認められないと考えている。
     「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、必ずしも往生の意味だけではない。しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信(八月三日)で述べたように『大経』に、
    後生無量寿仏国
    とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生れる」が出拠と考えられる。蓮如上人も、
    されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。(『御文章』1の11)
    しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに……(『御文章』5の10)
    等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
     また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「転迷開悟」「出離生死」についていわれるものである。したがって『法華経』出世本懐の文には、
    一大事因縁(『大正大蔵経』第9・7a)
    とあり『称讃浄土経』には、
    利益安楽の大事因縁
    とある。また、法然上人は、
    往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし。(『和語灯録』)
    といわれ、宗祖聖人は、
    往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)
    と仰せられており、さらに覚如上人も、
    往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり……(『口伝抄』)
    往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず……(『執持抄』)
    等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
     さらに蓮如上人も、
    もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の11)
    この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
    いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(『帖外御文章』50)
    等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
     高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の後生の一大事は「往生浄土(極楽)の一大事」のことであるが、信前の後生の一大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、あくまでも自説に固執するのである。
     だが後生の一大事に二義ありとは、恐らく高森親鸞会だけでいうことであろう。同会のいうように、後生の一大事を往生の一大事と釈すことが、信後の人だけについてのことならば、先に挙げた「往生の一大事」を述べた文、特に『御文章』は、当然、信前の人に信を勧め、往生を勧めたものと思われるが、これらは信後の人に対して出されたとでもいうつもりなのであろうか。
     同会は、信前の後生の一大事の文証として『本願寺の体質を問う』(178頁)に、宗祖聖人の
    若しまた、此のたび疑網に多覆蔽せられなば、かえりてまた曠劫を逕歴せん。(『教行信証』総序)
    の文や、蓮如上人の
    この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(『御文章』2の2)
    命のうちに不審もよく晴れられ候はでは定めて後悔のみにて候はんずるぞ、御心得あるべく候。(『御文章』1の6)
    等の文を挙げている。
     私は、無論これらの文の意味を否定するのではない。だから、後生の一大事を「往生浄土の一大事」という意味だけに限定せず「往生浄土できるかどうかの一大事」まで含めて定義としたのである。本願を信受すれば往生浄土できるし、信受しなければ地獄に堕ちることは自明である。
     しかしながら「必ず無間地獄に堕ちる」ことが後生の一大事であるとする、以前の高森親鸞会の主張は、片寄った見解といわねばならない。同会の引用した文には「大事」とも「一大事」ともいう語はないのであるから、それらの文は、後生の一大事ということが「必ず無間地獄に堕ちる」ということであるという文証にはならないし、また、後生の一大事に二義ありという文証にもならない。
     それから、宿善論の問題の場合と同様であるが、今の問題についても『本願寺の体質を問う』(184頁)には、
    本願寺は、この身このままこの様なりで死にさえすれば極楽往生、弥陀同体、何時とはなしに法の尊さを知らされて念仏称えていれば、みんな信後の者と思っているのが、そもそもの誤りなのである。「まことにもって坊主分の人に限りて、信心のすがた一向無沙汰なりと聞こえたり。以てのほかの歎かしき次第なり」(『御文章』四帖七通)。このように圧倒的に多い信前の後生の一大事を夢にも知らない本願寺の現状を見れば、特に坊主に信心決定している者がいないことを深く歎かれたことがよく首肯される。
    といって、本願寺が、平生業成・信心正因や、念仏の自力・他力の分別もなく、地獄一定も知らない無信心・無安心の集団であるかのように非難するのである。しかし、前にも述べたように、これは、問題のすりかえにほかならない。
     以上のように、高森親鸞会の所論は、適確な文証もなく、真実開顕どころか、独善的一方的議論の繰り返しに過ぎないのであって、残念ながら私の呈した疑問に対する反論にはなっていないのである。

    派外からの異説について
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                     発 行 日   昭和57年12月20日
                     再版発行  昭和60年2月15日
                     著   者   紅 楳 英 顕
                     発   行   浄土真宗本願寺派出版部

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    紅楳英顕 / 派外からの異説について







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