★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年12月07日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
(法話)私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。@柏市 西方寺 2011.07.03
7/3、千葉県柏市の西方寺へ聴聞に行ってきました。
以下、松月博宣師から聞かせていただいた内容です。
他力本願とは、「他人のふんどしで相撲をとる」というように、人の力を借りるという風に思われていますが、そうではありません。他人のふんどしで相撲を取るなんて、汚いですよ(笑)
梯實圓という方は、他力のことを「利他力」だと仰ります。「利他」の反対語としては、「自利」という言葉があります。仏教でいう最高のご利益はさとりのことですが、自分がさとりを開くことが「自利」。その反対は人さまをさとらせる働きです。阿弥陀さまが人さまを悟らしめる働き、それが「利他」です。だから親鸞聖人は
他力は今、皆さんに働いておられます。実感していますでしょうか? 皆さん、好きで進んでお寺にくる人でしたか? 進んでお念仏を申す人ですか? どう見ても違いますなぁ(笑)それが、皆さんこうして集っておられる。これは如来さまの力が働いている証拠です。
他力とは、探さなくても良いんです。こうして参らせて下さった働きが他力なんです。
話を聞いて、何かをつかんで仏にになろうとしているとしたら大間違いです。それは親に抱かれて親探ししているようなものです。すでに、お救いの手の中にいるんです。ああ、そうだったんですね、と気づかせて頂くのです。だから「目覚め」と言うのです。
だから、ここにいることを喜びましょうよ。
(休憩)
凡夫を仏にするという阿弥陀さまは、どんな仏さまか。
5月、新聞にこういう投書がありました。「頑張ろう」「頑張って」より、「大丈夫」「心配ない」と言ってほしい、と。震災にあわれた方は、十分頑張っているのです。
『般舟讃』中に、こういうお言葉が、出ています。
この言葉を聞いたとき、祖母が語ってくれたことを思い出しました。祖母はお念仏を大事にする人でした。寺の聴聞から帰ってきて、私を仏壇の前に座らせ、阿弥陀さまの姿を指差し、「阿弥陀さま、後ろになにか担いでいるやろ? あの光背、何のために担いでいるか分かる? あれは、あなたに背中を見せないという仏様の心なんだよ。だから、どんなことがあってもあなたを見捨てないんだよ。お礼を言おうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」。仏像の専門家は、そういうことは言わないでしょうが、私にはそのばあちゃんの話が有難いです。
ばあちゃんとは、そういうことを教えるためにいるんです。「女性」とは、辞書をひくと「子供を産む機能のある性」、そして生物学的には「子供を産む機能を失ったら速やかに亡くなる」とあります。ところが、子供を産む機能を失っても生きているのはゴンドウクジラと人間だけです。そこで生物学者が、なぜ人間とゴンドウクジラだけは生き延びているのか、調べてみたそうです。すると、ゴンドウクジラは生んだ子の生んだ子供の面倒をみるそうです。つまり、ばあちゃんは、孫育てをするために生きている。それが「ばあちゃん仮説」です(笑)
皆さん、仏さまのことをお孫さんに伝えてあげてください。
仏さまは、全ての、生きとし生けるものに向き合って下さいます。背中を見せません。背中を向けるとは相手を見捨てるということです。
人は、誰からも見捨てられたときに、生きる力を失います。その中、ただ一人でもあなたを見捨てませんよ、という人があれば生きて行けます。
良いときは集ってくれるけど、都合が悪くなると離れてしまうのが人の世の常です。私がどの様な有様、人格で生きようとも、あなたを見捨てないぞ、という人を私たちは求めているはずです。
それが阿弥陀さまです。
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「阿弥陀」とは、「ア・ミター」というのが源語です。英語では、an(無理)meter(量)です(無量)。我々は時間の制約の中で生きています。それを寿命と言います。その、寿命に限界のあるものを包み込むのが寿命無量、現代の言葉でいうと永遠の仏ということです。
「逃ぐる者をおわえとるなり」。逃げて行く者までも追っかけて捨てない。これは空間の広がりを表します。「アミター・バー」これを「無量光」と訳しました。永遠に対し、無限を表します。
阿弥陀さまとは、永遠で無限の仏さまです。
孫悟空がお釈迦さまの手の中にいる話を思い出して下さい。私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。
その仏さまが「南無」して下さるのです。「まかせなさい」ではなく「まかせます」です。「南無阿弥陀仏」とは、そのまま救う、という仏さまのお力が働いているのです。
これが親鸞聖人の味わいです。
最後に私の味わいを述べさせていただきます。
昼、うなぎを食べました。うなぎを摂取したんです。そうしたら、
うなぎを摂取することにより、うなぎが私になるのです。牛を食べたら牛が私になるんです。鶏を食べたら鶏が私になります。豚を食べたら、、、それは食べ過ぎですが(笑)、うなぎを食べたらうなぎか私になるのです。
他人事というのが一切なくなる世界です。阿弥陀さまが私を他人事と思われない世界に包まれた世界が摂取不取です。
お東の曽我量深という方はこう言われました。
本当に寄り添うことのできるのが阿弥陀さまです。
被災地で、次のスタート地に立てないで涙を流している人、また、そういう人を忘れてしまう私にも、寄り添うてくださるのが阿弥陀さまです。
人間には限界がありますが、それを知りつつ、如来さまに共々寄り添うて下さる私たちと、できる限りのことをさせていただくのが復興支援になるのだと思います。
それを忘れると上から目線となってしまうのです。
以下、松月博宣師から聞かせていただいた内容です。
他力本願とは、「他人のふんどしで相撲をとる」というように、人の力を借りるという風に思われていますが、そうではありません。他人のふんどしで相撲を取るなんて、汚いですよ(笑)
梯實圓という方は、他力のことを「利他力」だと仰ります。「利他」の反対語としては、「自利」という言葉があります。仏教でいう最高のご利益はさとりのことですが、自分がさとりを開くことが「自利」。その反対は人さまをさとらせる働きです。阿弥陀さまが人さまを悟らしめる働き、それが「利他」です。だから親鸞聖人は
他力とは如来の本願力これなりと仰いました。
他力は今、皆さんに働いておられます。実感していますでしょうか? 皆さん、好きで進んでお寺にくる人でしたか? 進んでお念仏を申す人ですか? どう見ても違いますなぁ(笑)それが、皆さんこうして集っておられる。これは如来さまの力が働いている証拠です。
他力とは、探さなくても良いんです。こうして参らせて下さった働きが他力なんです。
話を聞いて、何かをつかんで仏にになろうとしているとしたら大間違いです。それは親に抱かれて親探ししているようなものです。すでに、お救いの手の中にいるんです。ああ、そうだったんですね、と気づかせて頂くのです。だから「目覚め」と言うのです。
だから、ここにいることを喜びましょうよ。
(休憩)
凡夫を仏にするという阿弥陀さまは、どんな仏さまか。
5月、新聞にこういう投書がありました。「頑張ろう」「頑張って」より、「大丈夫」「心配ない」と言ってほしい、と。震災にあわれた方は、十分頑張っているのです。
『般舟讃』中に、こういうお言葉が、出ています。
仏身円満無背相 十方来人皆対面阿弥陀さまのお姿には背中の姿がない。だから十方より来る人皆、面に向かっている、ということです。紙をくる~と(筒状に)すると、どこから見ても表、そんな状態です。
この言葉を聞いたとき、祖母が語ってくれたことを思い出しました。祖母はお念仏を大事にする人でした。寺の聴聞から帰ってきて、私を仏壇の前に座らせ、阿弥陀さまの姿を指差し、「阿弥陀さま、後ろになにか担いでいるやろ? あの光背、何のために担いでいるか分かる? あれは、あなたに背中を見せないという仏様の心なんだよ。だから、どんなことがあってもあなたを見捨てないんだよ。お礼を言おうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」。仏像の専門家は、そういうことは言わないでしょうが、私にはそのばあちゃんの話が有難いです。
ばあちゃんとは、そういうことを教えるためにいるんです。「女性」とは、辞書をひくと「子供を産む機能のある性」、そして生物学的には「子供を産む機能を失ったら速やかに亡くなる」とあります。ところが、子供を産む機能を失っても生きているのはゴンドウクジラと人間だけです。そこで生物学者が、なぜ人間とゴンドウクジラだけは生き延びているのか、調べてみたそうです。すると、ゴンドウクジラは生んだ子の生んだ子供の面倒をみるそうです。つまり、ばあちゃんは、孫育てをするために生きている。それが「ばあちゃん仮説」です(笑)
皆さん、仏さまのことをお孫さんに伝えてあげてください。
仏さまは、全ての、生きとし生けるものに向き合って下さいます。背中を見せません。背中を向けるとは相手を見捨てるということです。
人は、誰からも見捨てられたときに、生きる力を失います。その中、ただ一人でもあなたを見捨てませんよ、という人があれば生きて行けます。
良いときは集ってくれるけど、都合が悪くなると離れてしまうのが人の世の常です。私がどの様な有様、人格で生きようとも、あなたを見捨てないぞ、という人を私たちは求めているはずです。
それが阿弥陀さまです。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわしこれを親鸞聖人は「ひとたびとりて永く捨てぬなり 逃ぐる者を追わへとるなり」と読まれました。
摂取してすてざれば 阿弥陀と名付けたてまつる
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「阿弥陀」とは、「ア・ミター」というのが源語です。英語では、an(無理)meter(量)です(無量)。我々は時間の制約の中で生きています。それを寿命と言います。その、寿命に限界のあるものを包み込むのが寿命無量、現代の言葉でいうと永遠の仏ということです。
「逃ぐる者をおわえとるなり」。逃げて行く者までも追っかけて捨てない。これは空間の広がりを表します。「アミター・バー」これを「無量光」と訳しました。永遠に対し、無限を表します。
阿弥陀さまとは、永遠で無限の仏さまです。
孫悟空がお釈迦さまの手の中にいる話を思い出して下さい。私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。
その仏さまが「南無」して下さるのです。「まかせなさい」ではなく「まかせます」です。「南無阿弥陀仏」とは、そのまま救う、という仏さまのお力が働いているのです。
これが親鸞聖人の味わいです。
最後に私の味わいを述べさせていただきます。
昼、うなぎを食べました。うなぎを摂取したんです。そうしたら、
うなぎを摂取することにより、うなぎが私になるのです。牛を食べたら牛が私になるんです。鶏を食べたら鶏が私になります。豚を食べたら、、、それは食べ過ぎですが(笑)、うなぎを食べたらうなぎか私になるのです。
他人事というのが一切なくなる世界です。阿弥陀さまが私を他人事と思われない世界に包まれた世界が摂取不取です。
お東の曽我量深という方はこう言われました。
如来は我なり。されど、我は如来に非ず。如来、我となりて我を救い給う如来が私を食って下さって、私を仏にして下さる。それが摂取不取ということです。
本当に寄り添うことのできるのが阿弥陀さまです。
被災地で、次のスタート地に立てないで涙を流している人、また、そういう人を忘れてしまう私にも、寄り添うてくださるのが阿弥陀さまです。
人間には限界がありますが、それを知りつつ、如来さまに共々寄り添うて下さる私たちと、できる限りのことをさせていただくのが復興支援になるのだと思います。
それを忘れると上から目線となってしまうのです。






