【追悼】中西和上ご往生 ~ 中西智海 / 親鸞教学入門(0)

4月27日の朝、お同行の純朗房義信さんよりメールがあり、中西智海和上が20日にお亡くなりになられたことを知りました。

中西和上とは直接のご縁はありませんでしたが、『親鸞教学入門』というご著書で浄土真宗の教えについて丁寧に教えて頂いております。その中から、自分なりに心に残ったことをこのブログに書き留めてきましたが、最近も投稿したばかりなので悲しく思います。

今回は、和上がどのようなお気持ちで筆を執られたのか、今一度「はじめに」を味わってみたいと思います。

はじめに

 親鸞聖人とその教えについて書かれた本はまことに多いといわねばなりません。また本来「入門」を書くということはその道のいわば権威者がなすべきことなのかもしれません。そういう意味で、多くある事に、また一冊を加えるということ、権威者のなるべきことなどと考えると、ここにこのようなかたちで世におくることは文字どおり汗顔のいたりであります。
 ただ、私を決断させたものは、私の後から、何とかして親鸞聖人の教えの内実に接近しようとする人たちへの捨て石になればとの思いだけであります。
 この本を書くにあたって、いかかさでも私の頭の片隅にあったのは次のような点であります。
  1. 親鸞聖人の教えは、現代に生きるかけがえのないいのちにどのようなメッセージとなるのか。人生とのかかわりの中で、考えてみたい。
  2. 親鸞聖人の血と涙の体験から生まれた結論のことばをいきなり解説するのではなくて、それに至るプロセスを考えてみたい。
  3. できるだけ専門語をさけて、ことばを暗記するのではなくて、思索する材料となるよう考えてみたい。
などのことであります。
 いまこの本が上梓される運びになったのは永田文昌堂主のあたたかいご厚意のほかありません。ここに記して深く感謝申上げます。
 尚、校正の労を煩わした土岐慶正、吉良和憲、鎌田宗雲学契に心から謝意を表します。
 何卒、みなさまのご𠮟正、ご批判をいただきますよう、切にお願いいたします。
   昭和50年4月8日
著者


「捨て石になれば」との中西和上のご苦労があればこそ、浄土真宗の教えを知ることが出来たと感謝しています。

以下、過去に書いた文章を紹介し、読み返すことをもって追悼とさせて頂きます。

徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(1)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(2)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(3)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(4)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(5)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(6)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(7)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(8)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(9)


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、




中西智海 / 親鸞教学入門(9)

(8)の続きです。

「他力」の源流と人間への眼

 他力ということばは仏教、特に浄土教において大切なことばとして広く用いられ、教えの重要なしくみをあらわしています。
 ところで、浄土教で「他力」という語句をはっきり使われたのは曇鸞大師がはじめてであります。曇鸞大師は、師の菩提流支が梵語パラタントラ(paratantra)を翻訳して「他力」とされたのにはじまるとされています。このパラタントラは後世、中国の唐代の実叉難陀の訳(新訳といっています)では「縁起」または「依他」と翻訳されていることばなのであります。「縁起」「依他」ということばからは直ちに依存主義とか怠け主義を連想しないのに「他力」というといかにも依存主義とか怠け主義に連結されるのも皮肉なことといわねばなりません。ともあれ、原語は同じであり、この翻訳の相違はものの関係しあうあり方を理的に(静的に)表現すれば「縁起」「依他」ということになろうし、人格的(動的)に把握すれば「他力」ということになるというようにうけとめてよいでしょう。
 そうしますと、他力とは縁起の実践形態であって我執(自己中心性)が限りなく破斥されてゆくはたらきを意味するものとなります。してみれば、「本願」の原意と合致いたします。本願とは衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいうのでありました。つまるところ、「他力」というのも、「本願」というのも縁起の実践形態ということにほかなりません。
 そういたしますと、「他力」という語句は曇鸞大師がはじまりではありますが、『無量寿経』の「其仏本願力」ということも、龍樹菩薩の「本願力を帰命す」ということも、天親菩薩の「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しく過ぐる者なし、能く速かに功徳大宝海を満足せしむ」といわれるのもすべて「他力」のことがらをいいあてられていたこと、そして「他力とは如来の本願力なり」(『教行信証』)といわれるのもその意味からもうなずくことができるように思われます。(後略)

「仏に成る」「救い」という次元でいわれる他力

 ところで、「他力」とはもともとどのような次元で使われることばなのでしょうか。
 「他力」とは「自力」に対することばであることはたしかであります。「自己の智慧・能力・功徳など、自己にそなわった力を自力といい、こうした自力をたのみとして修行に励み、さとりをえようとする教えが自力の教え」であり「自分以外の仏・菩薩などの力を他力という、仏・菩薩の力をたよりとする教えは他力の教えである」(『新・仏教辞典』)というようなものであります。ともあれ、自力とか他力ということばは原則的には「仏に成る」か「成れないか」という一点で使うことばであったということを確認しておかねばなりません。真宗的にいえば「救い」の一点で使うことばであります。弥陀同体の証を得させていただくかどうかの次元の問題であるということであります。もとより、そこの次元を通過した念仏者のよろこびとしては「たしなむ心も他力なり」とか、「萬事に付て、よき事を思ひ付るは御恩なり、悪ことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨るも取るも、何れもいずれも御恩なり」という世界がひらけてくるのであります。しかし、原則的には「自力」とか「他力」とかいうことばは「仏に成る」か「成らぬか」「救われるか」「救われないか」という一点において使われるきびしいことばであることをはっきりうけとめなければなりません。
 更に親鸞聖人が「自力」「他力」といわれたのには教義的歴史があるのであります。「定散自力」といわれ、「定散の自心」ということばがありますようにわれわれが悟りをひらく因果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却して仏の本願にまかせることを他力といわれているのであります。ですから「定に非ず、散に非ず」ということによって他力の信心という内容をいいあてられているのであります。「定散二善」といういい方は善導大師が自力諸善をこの二つに分類されたもので、定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察し、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏の世界を観察して仏を把えるというところまでは行けないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることであります。
 しかし、「三願転入」のところでたしかめましたように自我ののこる心によっては仏に成ることはできないという次元で仏力をいただき、仏のいのちにふれて救われてゆくという「他力」の世界があったのであります。
 このように親鸞聖人において、「仏に成る」ことの因果について、定散を主体とするか仏力を主体とするかという次元で自力とか他力ということばが使われていることを注視しなければならないとおもいます。

他力廻向

 浄土真宗では「定散自力」とか「定散の自心」といわれるレベルのことでこの私が仏に成ることはとてもできないというめざめから、仏に成るすべてのはたらき、因法が仏の方から廻施されることによって救いは成就するのであると説かれるのであります。これを「他力廻向」というのであります。
 他力ということだけでなく他力廻向と「廻向」がつけられて熟語となっているのは、それなりの意味がなければなりません。
 他力といわれるだけでは如来のこころはうなずけても、この私とどうかかわるのか、その関係を明らかにするために如来の廻向をかたり、私が領受していることを示そうとされたというべきでありましょう。更に、廻向というと、それこそ生者が亡者に追善の供養をするという発想や、自分の善根を他人に与えるという理解があることを思うとき、名号廻向とか信心廻向というとなにか特別な「もの」でもいただくような発想に陥りやすいのですがそれはまったく的がはずれているといわねばなりません。南無阿弥陀仏の名号は如来が私の往生の因も果も、ことごとく成就されたことを告げてくださる呼び声でありますから、それを如実に聞かせていただき、信じさせていただく現実を廻向というのであります。このように廻向と説かれる意味は私と関係のない名号ではなく私のうえに脈々とはたらく名号であることを示されようとなされたのであります。このように他力廻向を説かれる内容は如来のいのちの現実化ともいうべき世界をさし示そうとされたものであります。この私の我執(自己中心性・私有性)を無限に否定する如来の清浄願心が私の主体となることによってはじめて仏に成ることがはっきりするのであります。
若は因、若は果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したまへるところに非ざることあることなし(『教行信証』)
といわれるゆえんであります。また
弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり
これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(『高僧和讃』)
とうたわれるこころであります。
 ですから、真宗では我執(自己中心性)の混入することのないみ仏の力を純他力とか、絶対他力というのであります。絶対他力といういい方にはいろいろと議論されるところもあるのですが、歴史的背景としては浄土宗鎮西派でいうこの世での念仏は自力で、その自力の念仏によって浄土に迎えられるのを他力というなどという立場を比較的他力というのに対して真宗の立場を絶対他力といったということも考えられますし、また教学的内容としては、自我(自己中心性)の無限否定ということをさし示しているといってよいでありましょう。

「他力」の徹底としての具体的教え

 この徹底した他力の内容を明らかにしたものに「三心釈」と「絶対三法の法門」といわれる教えがあります。
 「三心釈」とは衆生の往生の因として第十八願に誓われた至心・信楽・欲生の三心についての解釈であります。もともと、衆生が往生するための因としての心ですから、それは衆生の三心でなくてはならないのであります。ところが、親鸞聖人は字訓釈というところでは衆生の三心としながら次にそれを解釈して「この心はすなはちこれ、不可思議、不可称、不可説、一乗大智願海の廻向利益他の真実心なり。これを至心と名く」とされ、また「信楽といふは、すなはちこれ、如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」とされ、更に「欲生といふは、すなはちこれ、如来諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」と三心ともに阿弥陀如来のこころであるとされています。
 つぎに「絶対三法の法門」について考えてみましょう。
 三法の法門とは、教、行、証の法門であり、その中の行を称名とする場合を相対三法といい、行を名号とする場合を絶対三法というのであります。すなわち、教えによって(教)称名念仏して(行)、仏に成る(証)というのを相対三法といい、教えにより(教)、名号の独用によって(行)仏に成る(証)を絶対三法というのであります。そこで絶対三法の場合は衆生の信心も称名も、往生の因として説かないで仏に成ることの因はすべて名号のひとりばたらきであるというのであります。
 ですから、その場合、私の信や念仏がどこかに散乱してしまったのではなくて、名号のはたらきとしてうけとめるのであります。つまり信心も称名の念仏も南無阿弥陀仏の名号の活動にほかならなかったとうなずくことができるのであります。
 このように真宗では我執(自己中心性)から出た一切のはたらきを無限に否定する仏力のはたらきが主体となることによって救いが成就されるとするのであります。
 このような立場に立ちますから、真宗では廻向といえば如来からの廻向であって、衆生の方からの廻向はないというのであります。これを廻向・不廻向というのであります。親鸞聖人は、念仏には自力の廻向はいらないから不廻向といい、雑行(念仏以外の行)には自力の廻向が必要だから廻向というのだとされ、さらに念仏は如来からの廻向であり、衆生からは不廻向であると徹底されたのであります。
如来二種の廻向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに他力とまふすなり(『浄土三経往生文類』)のことばをかみしめてみたいものであります。
(『他力廻向と私』より90~98頁)




つづく



中西智海 / 親鸞教学入門(8)

(7)の続きです。

如来

 ところで、この永遠の真実・法の動態、すなわち仏のあり方を示すのがまさに「如来」であると思うのであります。
 「如来」とはタターガタ(tathagata)の漢訳であります。このことばは tatha-gata と分解するか tatha-agata とみるかによって意味がちがうのであります。前者の場合は真如(実)に到達したものの意味となり、後者の場合は真如(実)より来ったもの、すなわち真如に従ってこの世に来ったものを意味します。漢訳の「如来」は「如より来生したもの」であり後者の意味を示しております。この「如来」こそ、仏のあり方をよくさし示しているといわねばなりません。真実は不真実を発見し、不真実を痛み、真実へとかえなすはたらきであります。そういう意味で真実はつねに不真実なものへ来るのであり、はたらくのであります。自我を中心としてしか生きられない私を根底から照破し、転じかえなすはたらきこそ、仏そのものであります。
 「永遠なる真実あり、されど我らに真実なし、拝めばわれらに真実あらわる」ということばを想いおこすことであります。そして「真実といふはすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ真実なり」と説かれた意味をかみしめてみたいのであります。

阿弥陀如来

 この永遠なる真実・仏こそ「私」の命となり光となるのであります。命となるということは私の心身にほんとうのよろこびをもたらし、順境も逆境ものりこえてゆく生命力を湧きおこすものといってもよいでありましょう。ほんとうに私のいのちとなるもの――それはまことなるものであります。そこに仏は私のいのちとなるという世界があります。それは常識的なことばでいえば愛ということになるのでしょうが、仏教ではこれを慈悲というのであります。
 また、永遠なるまことが光となるというのは、私が行きづまったときに道を開くものであります。それは別のことばでいえば、人生のゆくえを知る智慧となります。またほんとうの未来をもつことができるということでありましょう。人間だけが未来をもつことのできる生きものであるともいわれます。そのことはたしかな未来をもたねば、生きるよろこびを感じない生きであるということでありましょう。このようにうけとめてみますと、命となり光なるまことがなければ生きてゆけない、死んでゆけないというのが「私」のいのちのしくみなのであります。
 この命かぎりなく光かぎりないものを阿弥陀如来というのであります。
 阿弥陀(Amita)の阿(A)はうちけしの言葉で「無」ということであり、弥陀(mita)は「量る」でありますから、量ることができない、すなわち「無量」であります。ですからそれは無限といわれ、限りなきものといわれるのであります。しかしこのことばの原語はアミターバ(Amitabha・無量光仏)・アミターユス(Amitayus・無量寿仏)すなわち無量覚者を意味することばであります。そうしてみれば阿弥陀とはひかり限りなくいのち量りなしということになるのであります。
 光といのちがなければ、すなわち、ほんとうの智慧と慈悲がなければ生きられなかったのはこの「私」であります。「私が生きてゆけなくなったのは食べものがないからではありません。着物がないからではありません。家がないからではありません。そうではなくて、私のこころの底をほんとうに知りつくすもの(智慧)、人生の底の底にうらぎらない愛(慈悲)が感じられないから生きてゆけなくなったのです。たった一つ気にかかることはただ一人の息子のことである……」という手記を残してこの世を去った一老人のことばは人間のいのちのしくみと現実を告白したものであります。このようないのちのどんぞこに来れるものこそ無量光仏、無量寿仏といわれる阿弥陀如来であったのであります。阿弥陀如来の体徳として四十八願のうち十二願(光明無量の願)・十三願(寿命無量の願)が示されていることをいまさらながら深くうけとめてみたいものであります。
 限りなき光は限りある闇を破るはたらきであります。光は人間の素顔を浮彫りにし、めざめをもたらすものであります。闇は光によって破られねばならないものであります。そのように衆生はもともと、縁起の光の前に破斥せられねばならない存在であります。阿弥陀は私のめざめと運命を共にする存在であります。それは自利(不取正覚)・利他(若不生者)の完成という仏教の基本路線の実践形態であるといわねばなりません。

久遠仏

 ところで、親鸞聖人は罪深く悪重い凡夫を、いつでも、どこでも、だれでもめざめさせることのできる阿弥陀如来は、完全なる存在でなければならないとうけとめられました。それは時間的にも、空間的にも完全な存在でなければなりません。もとより寿命無量がそのまま時間的完全性をあらわし、光明無量がそのまま空間的完全性をあらわすものでありますが、これを徹底され「久遠仏」の教えとして説かれたといわねばなりません。
 阿弥陀如来の成道について『無量寿経』や『阿弥陀経』には十劫の昔といわれています。(中略)
 ではなぜ、そのような久遠の如来を『無量寿経』や『阿弥陀経』に十劫と説かれて法蔵菩薩が阿弥陀仏に成ったと説かれなければならなかったのでしょうか。それは仏教の原則を示され、ここでもキリスト教の神の立場との相違を示したものといわねばなりません。すなわち、因果の法則は衆生の側のみではなく如来の救いの上でもうち消すことのできない原理であることを明らかにされたという重大な意味があるのです。

方便法身

 この救いの因果を具体的に示されたのが方便法身としての阿弥陀如来なのであります。
この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明无量の本願、寿命无量の誓願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり(『唯信鈔文意』)
とのべられています。
 方便とは原語をウパーヤ(upaya)といい、「近ずく」「到達する」の意味で、名詞には「道」といわれる意味があり、その道をたよりとして真如に到らしめるという意味があるといわれます。
 このように親鸞聖人は、阿弥陀如来とはこの私を真如に到らしめるために法蔵比丘となり、久遠の真実を知らしめ、そこにいたらしめる方便法身であることを明らかに示されたのであります。
 このように永遠の真実は「私」のめざめをもたらすために如来し、果から因におりて(従果降因)はたらくいのちであることを徹底して説きあかしてくだされたのであります。
(『如来と私』より81~86頁)




つづく



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