ロンドンの思い出(27) – 出会い編(11) – そして帰国

前回の続きです。そしてようやく最終回。


危うくもヒースロー空港にたどり着き、ロンドンを発つ時がやってきました。前の日のこの頃、鍵をどうにかしなければ!と困っていたのがウソのようです。

(前の投稿で貼り忘れた写真。慌ただしく撮ったヒースロー空港)




ここへきて日本に帰りたくない気持ちが強くなってきましたが、そういう訳にもゆきません。予約していた飛行機に乗って、いよいよ出発です。

滞在中は何人かの日本人を見かけましたが、雰囲気を最大限味わうために、あえて接しないようにしていました。そしてそれは、少なくとも中継地のフィンランドまでは続くと思っていました。

ところが、ロンドン~ヘルシンキでの飛行機で、早くも、日本人の隣に座ることとなってしまい興ざめ、、、






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ロンドンの思い出(26) – 迷子編(4)

前回の続きです。

短かったようで長かった、けれども短かったロンドン滞在も、最終日を迎えました。この日も朝は清々しい天気に恵まれ、気持ち良く起きることができました。

と、同時に、前の日の夜に何か忘れていると思ったモヤモヤしたものも晴れました。バッテリーの切れたiPhoneを充電し、電源が入る前に眠ってしまったのですが、起床のアラームをセットし忘れていたのです。


はい、日本へ出発する当日に、寝坊をしてしまいました。

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Filed under: ★紀行  タグ: , , , , , , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (0)

中西智海 / 親鸞教学入門(6)

(5)の続きです。

仏教でいわれる「救い」

 仏教では「救済」ということをどのように考えてきたのでしょうか。
 まず、原始仏教では、迷いから解放されること、すなわち「解脱」、永遠の平安に入ること、すなわち「涅槃」ということが強調されました。そういう意味では絶対の救い主によって救済されるという考え方ではありません。もちろん仏教には帰依というこころが説かれて、仏教やその他の長老僧に対する帰依によって安心の境地がもたらされるということがいわれています。
帰依は救済を義とす。彼を依とするによりて、能く永く一切の苦を解脱するが故なり(『倶舎論』)
とあります。更に、父王を殺した罪におののく阿闍世王が仏陀に向って
願わくは世尊よ、今日より後、命の終るまで三宝に帰依せる在家信者としてわたしを摂受したまはんことを。わたしは愚かなるまま、迷妄なるまま、不善なるままに罪に征服せられ、王権を得んためにかの正しい父王を殺した。世尊よ、私の罪を罪として摂受したまはんことを
と訴えたとき、仏陀は
大王よ、おんみは罪を罪と認め、法の如くそれを懺悔せらるる故に、おんみによってなされた懺悔をわれわれは摂受する
と答えられました。摂受はもともと「相手を受け入れる」「衆生を慈悲の手に摂め受けて育て護る」という意味があります。
 この「摂受」が仏陀の「救い」の最も古い形といわれ、やがて大乗仏教の展開の路線にそって阿弥陀仏による摂取という教えとなり、救いの対象も阿弥陀仏や三世の諸仏になったといわれています。
 『無量寿経』に説かれる四十八のこころなどはその典型であるといってもよいようであります。どのような悪人も罪業の人も、弥陀に摂取されて救われる。いやすでに救いは成就されているともいえるのであり、衆生はそれをまうけに領受する、うなずくひとつで、その救いにあずかるというのであります。

親鸞聖人と「救い」

弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり
『歎異抄』冒頭の言葉であります。この言葉のうちに親鸞聖人の真宗での救いの特色が鮮やかに示されているといえます。
 すなわち、真宗での救いは、いつ成立するのかという問いに対して、「念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち」と告げられてあります。弥陀の本願にほんとうにうなずいたとき、すなわち本願を信じたときもはや救いは成立しているというのであります。救いは平生の「今」であって臨終のときではありません。
  親鸞聖人は臨終の来迎(浄土を救い求める人の臨終に阿弥陀仏が菩薩とともに迎えに来ること)の期待を強く否定されております。
真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生また定まるなり、来迎の儀則をまたず(『末灯鈔』)
とのべられています。さきの『歎異抄』では、「念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき」間髪をいれず「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」となっています。「おこるとき、すなはち」と即時であるというのであります。念仏してから、臨終を経て、救われるのではありません。弥陀の本願にうなずいたそのときもはや救いは成立しているのであります。ですから、信心が救いの手段であったり条件であったりするのではなくて、信心のほかに救いが別にあるのではないということであります。これを「平生業成」というのであります。平生のときに業事成弁するというのであります。信心に何ものかをプラスして救われるのではありません。信心そのものが救いであります。その信心も「たまはりたる信心」でありますから、私のはからいではありません。
 こうして親鸞聖人はどこまでも、「今」の救い、いや、救いへのうなずきを讃嘆し、慶喜されたのであります。
然るに今特(こと)に方便の真門(しんもん)を出て選択の願海に転入せり。願海に入って深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんが為に真宗の簡要をひろ((てへん)+「庶」という漢字[引用者註])ふて恒常に不可思議の徳海を称念す。弥斯(いよいよ)を喜愛し、特(こと)に斯を頂戴するなり(『教行信証』)
 親鸞聖人にとっては本願へのうなずきとしての信心を窮むることが焦点であって、臨終を通しての往生はその信心による必然であるというのであります。
煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る(『教行信証』)
 信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚ち(←「痴」-「知」+「疑」という漢字[引用者註])无智の人も、おはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし(『末灯鈔』)
 ところで、「念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にアづけしめはまふ」といわれるように、念仏をもうそうと思う心がおこるときもはや摂取不捨の利益の中にあるというのであります。すなわち、摂取不捨こそ「救い」ということだというのであります。「摂取」という教えは「摂受」という仏教の教えの展開であることをみましたが、「一一の光明遍くあまね(「彳」+「遍」-「之」という漢字[引用者註])く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」といわれ、「仏心とは大慈悲是れなり、無縁の慈を以って諸の衆生を摂す」(『観無量寿経』)とありますように「摂取不捨」ということが強調されています。
 それでは摂取不捨の体験といいますか、実感とは何なのでしょうか。すなわち、救われるとはどうなることなのでしょうか。
金剛心を獲(う)る者は、すなはち韋提(いだい)と等しく喜悟信(きごしん)の忍(にん)を獲得すべし。是れすなはち往相廻向の真心徹到(てっとう)するが故に不可思議の本誓に籍るが故なり(『教行信証』)
といわれています。信心の人は、あの『観無量寿経』に説かれている韋提希の仏見と同じく喜、悟、信の三忍を得るというのであります。『正信偈』に「慶喜一念相應の後、韋提と等しく三忍を獲(え)、即ち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証せしむ」とのべられているのと同じであります。三忍とは無生忍(くわしくは「無生滅法忍」といい、真如の妙理を体忍すること)を三つに開いて説かれたもので、喜忍、悟忍、信忍といわれるものであります。これは次のことを示しています。他力の信心をうると心に大いなる歓喜が生れるので「喜忍」(大歓喜を無生忍)、無智の過去から疑情に閉じられて仏智にくらかった者が今、名号のはたらきを信じて仏智に明らかになるので「悟忍」(仏智を悟った無生忍)、深く信じて疑いがない忍であるから「信忍」(深信無疑の忍)をうるというのであります。「忍」は「認」と同じで「認知」で、その本質は「智」であるというのであります。
 ここで思いあわせられることばは
真実の行信を獲れば、心に歓喜多きが故に、これを歓喜地と名く、行信に帰命すれば、摂取して捨てたまはず、故に阿弥陀と名く。これを他力といふ。(『教行信証』)
であります。「摂取不捨」、すなわち「救い」の体験、実感、あかしは、まさにこの「忍」にあるといってもよいと思います。
 そのことは、真宗の「救い」は、救済事業の「救済」でもなければ、いわゆる宗教(religion)でいわれる神への「悔い改め」ではないということであり、また、単なる「来世」への幻想的期待感ではありません。そこには、ほんとうの現実の自己がいいあてられ、そのものをこそ救うという本願の大地に立つ、新しい人間が誕生することをいうのであります。その内容は、ほんとうのよろこびと、ぐちといいわけにおわる無智からの解放と、なにものにもさまたげられない金剛の信心の立場に立つということをさし示していると思われます。
 このように「忍」ということによってさし示される新人の行者であればこそ
念仏者は无碍(むげ:「げ」=「碍」-「石」という漢字[引用者註])の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)・地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し魔界・外道も障碍(「げ」=「碍」-「石」という漢字[引用者註])することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり(『歎異抄』)
といいきることのできる世界がひらかれるのであります。そこにほんとうの深いよろこびが内から湧きおこるのであります。
慈光はるかにかふらしめ ひたりのいたる
ところには 法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ
(『浄土和讃』)
尽十方の无碍(←「碍」-「石」という漢字[引用者註])光は 无明のやみをてらしつゝ
一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ
(『高僧和讃』)
弥陀智願の廻向の 信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆへ 等正覚にいたるなり
(『正像末和讃』)
(『救われるとはどうなることか』より56~62頁)




つづく



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