★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年03月27日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
中西智海 / 親鸞教学入門(2)
(1)の続きです。
つづく
親鸞聖人と真実
人間が宗教的になるということは、いままで見えなかったものが見えてくることになり、いままで感じられなかったものが感じられてくることになり、いままであたりまえであると思っていたことがおどろきであることがしられることであるといわれます。
親鸞聖人は、この世を、この人生をだれよりも誠実に生きようとされた人であります。比叡山の山林の間につきさす強烈な光に照らされたとき、自分の真相がはっきりとみえてきたのであります。光が強ければ強いほど、闇の影は大きく浮彫りにされてきます。それは「地獄よりも地獄的」な現実の世界が知られてくるのであります。「地獄一定」の告白は誠実なたましいのおどろきのさけびであります。
法然上人とのめぐりあいは、歴史的邂逅であったと同時に、歴史を超える常住の真実との邂逅でもありました。「地獄よりも地獄的である」といって龍之介は自殺したが、親鸞聖人は「地獄一定」の自己の由来は、我執のこころであることを教えられ、その自己をこそひるがえし、普遍の世界によみがえらせる常住の真実(弥陀の本願ととかれる)に根拠をもって生きてゆける世界を開き示されたのであります。(この親鸞聖人の信心のしくみについては別のところで詳細にふれるはずであります。)
こうして、親鸞聖人にとっては、素顔のままの自分、すべての虚飾がはぎとられた自己のほんとうにすがたを仏智・大智が自己にとどいた、他力廻向の信心(如来からめぐまれた信心)によってあからさまになったのであります。
このように仏智・大智の立場からあからさまになったほんとうの自己のすがたを、真宗では「機(すくいの対象)の真実」というのであります。
親鸞聖人は本当の自己のすがたを一切の群生海无始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし(『教行信証』信巻)と告白されています。その他、機の真実のすがたを「流転輪廻のわれら」「濁悪邪見の衆生」「煩悩成就のわれら」「常没流転の凡愚」などと告げられています。これらはすべて仏智の立場から、照らし破られた自己のほんとうのすがたの告白であることを忘れてはなりません。仏智の世界を知らない、一般の常識の世界や単なる法律や道徳のレベルでのことばではないことをくれぐれも注意しなければなりません。
ともあれ、一瞬一瞬、生即死、死即生ともいうべき危機的存在であり、業縁のもよおしによって何をするかもわからない激変的存在としての私が「現」に「ここ」にいるのであります。それが私のほんとうのすがたなのであります。ありのままのすがたなのであります。これこそまさに自己の真実というに値するものであります。
ところで、親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らせたものは、この世のだれかではなかったし、まして自分ではなかったのです。自分は自分の背中をみることができないのですから、自分の前面を知ることができないのです。本当の自己をしらせたものはまさに「この世」を超えた、如来の本願として説かれる常住の真実であります。この世を超えるなどといいますと何か観念的でわからないといわれるかもしれませんが、我執の世界を超えている世界があるといってもよいのです。超えていればこそ、如来(真如から来生する)として強く自己と世界に働くものであります。
ですから親鸞聖人にとって、ほんとうの自己を知らしめ、その自己と世界をこそ摂取不捨(おさめとって捨てない)するはたらきこそ、如来の本願として説かれる常住の真実の世界であったのであります。
ここまできてはじめて、『歎異抄』の次のことばがうなずかれるとおもうのであります。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとしほんとうの自己の真実(機の真実)を知らしめ、その自己(機)のためにこそ成就された法は「不顛倒・不虚偽」と説かれるはたらきとして躍動するのであります。如来の本願はそれでこそ、まことといわれるに値するものであります。
如来の本願まことさは、本願みずからが証明するというよりほかにいいようのないものでありましょう。それは「地獄一定」と自己のほんとうのすがたを照破したもの、そして、そのためにこそ建立された弥陀の本願こそ、真実そのものであったといわねばなりません。そして、この弥陀の本願のまことは、釈尊・善導・法然と仏祖の伝統としてうけつがれ、ついに「愚身の信心」を成立させたのであります。ここに親鸞聖人の信心にこそ、「まこと」「真実」の具体的なすがたをみることができます。『真実ということ』より7~11頁
つづく




