西原祐治 / 脱常識のすすめ (1)

7月3日、千葉県柏市の西方寺に参詣した時に記念で頂きました。産経新聞の連載コラム『宗教・こころ』「語る」に掲載されたものです。
日常のありふれた話題を、浄土真宗の精神から見つめ、読みやすくまとめられています。
老・病・死、苦しい、悩ましい、辛い、悲しい、劣っている、、、などのネガティヴな事象を拒絶・否定するのではなく、ありのままに受け入れる姿勢が真の幸福につながることがよく分かると思います。
共感、納得するところが多いので、何回かに分けて引用します。
過日、ジャータカという仏教説話集を読みました。動物たちの自己犠牲によって他を救う慈しみの行為が幾篇ともなく登場します。本を読みながら、ふと慈しみこそ仏の正体であるという思いを持ちました。仏は過去、無数にこの世に出現したとお経にあります。慈しみこそ仏さまの正体だとすると容易に頷けます。
子どもの頃の体験は、どんな体験であっても貴重な体験です。その体験に関心を寄せてくれる人がいる。それが重要です。これは子どもだけの話にとどまりません。
先月(2000年12月)、教育改革国民会議の最終報告が発表されました。気になった部分は奉仕活動です。いわく「思いやりのある心を育てるためにも奉仕活動をすすめること」。これはくせ者です。奉仕活動を否定はしません。しかし思いやりは自発的な感情です。その思いやりを強制される。また奉仕活動はそれだけで善人顔をしています。だから奉仕活動イコール善いこととなりがちです。個人の思いを離れて、政治が善いことを決めていく。その善いことが、受験合否の参考になるとなればこれは最悪です。まずはボランティア精神を育み、自発的に行動できる環境を整えることが先決です。
敗北と混乱。私たちはこれを歓迎しません。無価値と退けてしまいます。しかし敗北と混乱は、ハイレベルな秩序や価値観、思想を生み出す重要な役割を担っています。
何かを失ったとき、失って初めて見えてくるものと、しっかり出会っていけることの大切さを思います。まさに、明かりを消したとき、明かりのために見えなかったものが手に入る時なのです。
経験と知性。これが現代人の足跡の幅です。経験より可能性への信頼が、知性より感性がより重要です。
その時その時の今を大切にする。仏教もこれに尽きます。「自分の都合のよい今を生きる」。これが私の知恵です。「都合の悪い今も……」。これが仏さまの教えです。
頭の下がる大いなる存在の前にぬかずく。そこは自分自身との対話の場所でもあります。お仏壇は、大いなるいのちとの対話の場所です。その仏壇が死者供養だけの道具になっている。
社会人は、宗教に対する正しい知識を持っている。お坊さんの日課表には、宗教者ならではの社会奉仕が書き込まれている。そんな社会が望まれます。
人生を二倍、三倍に楽しむコツは、嬉しいことがあったら独り占めしないことです。
仏壇は、老病死を見つめてきました。それは単に、人間を否定的に見てきたのではありません。労病死をありのままに受容できる心の可能性を大切にしてきたのです。
時代は確かに、「物によって心を満たす」ことから「物によって心が振り回されない」へとシフトしています。その次にくるのは「満たされた心によって物を扱う」ことではないでしょうか。
文化や宗教といった一つ・全体という概念を学ぶことが大切です。
私といういのちの系譜の学び。私がどのようにしてここに誕生したのか。個を超えた大きないのちの中にある私の発見。そうした人間理解を養うことです。
日本には、全体の中に個を埋没させてしまった歴史があります。私を埋没させるのではなく、私を発見することです。
浄土真宗でいう「南無阿弥陀仏」の念仏は呪文ではありません。無条件に私を救ってくださる永遠のいのちの自己表現です。無条件に私を救うとは、無条件でなければ救われないような闇を持っている。それが私だという阿弥陀仏の人間理解です。その私を、無条件の慈しみで満たすという仏の名のりが念仏なのです。私が「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。それは念仏になって躍動してくださっている阿弥陀如来の慈しみに触れるときです。
宗教には色々なメリットがあります。その一つが、自分を絶対視せず、客観的に見つめる場が与えられることです。もとより自分の欲望を達成するために神仏を利用する宗教は別ですが。
苦しみや悲しみ、楽しい嬉しい、そのすべてがかけがえのない人生なのです。その時その時を大切にできる。そんなまじめさに魅力を感じます。
自分で自分を見るという状況があります。少し成長すると、他人から見られている自分を意識します。他人が見ていなくても自分の行為に恥じらいを感じる。これは天から見られている自分を意識できる人かもしれません。仏様のまなざしの中にある自分を意識できる。これは、仏様から見られている自分に意識が開かれている人です。
逆境にあって、その時の自分をどのレベルで意識できるか。ここに人としての可能性があります。また逆境は新たなる意識との出合いの場でもあります。
どんな死にざまであっても、死ぬときは死ねるように死なせて頂くしかありません。どつ転んでも阿弥陀如来の慈しみの手の中のことなのですから。
(中略)
私は死を敗北だと考えません。死は自然のことです。そして私の死が、どんな終わり方であっても、それなりに意味のあることだと思っています。家族や縁ある人に、命には限りがあるという仏様の教えをわが身の実践で示すのですから。死はそれだけで残された人への大きな贈り物なのです。
死にざまは、死んで逝くのではなく、死んで往けることが大切なのでしょう。
死はあいも変わらず老若男女富貴賢愚を問わずすべての人に平等に訪ずれてくれています。高額医療・臓器移植など死が平等でなくなりつつある現状もありますが。
浜ちゃんは、釣りバカで万年ヒラの×(ペケ)サラリーマンです。その浜ちゃんいわく「君を幸せにする自信はないが、ぼくが幸せになる自信はあります」。うまいことを言います。確かに、妻を幸せにしたという思いも事実もありませんが、私が幸せになったという思いはあります。
若者の心は、死んだら終わりというドライな感情ではありません。人の生と死を超えて、生き続ける願や愛、想いといった情念を大切にしています。死んだら終わりというドライな感情は、むしろ大人たちの抱く心のようです。
お経の中には、非常識な表現が多くあります。私は表現が非常識であればあるほど、大切に頂くようにしています。お経は、常識に縛られている私を自由な世界に解放することを役割として担っているからです。
経験の及ばない「死」からは何も連想できない。現代人は、非常に貧しい死の文化を作り上げてしまったようです。
(中略)
私は、死後について自分はすごく自由な世界にいることを感じました。
たとえばお経を読んでいたとき、ふと「この命終わって仏様になったら、過去に生まれて直接このお経を釈尊の口から聞いてみよう」と思い楽しむことがあります。
そんなことができるのかできないか。それを経験のレベルで実証する必要はありません。すべては仏様に任せて、私の縁に従って自由に連想します。死後は、限りのないいのちに摂取されるときとして、今を潤わせてくれます。
人生の終着駅。それを私の命という固執から解放されるときとして連想できる。ここに一つの恵みがあります。
二つの提言です。まず、西洋文化の常識では、人間は生物や物質に比べて特別な存在であるとしてきました。それが人類のおごりを生み出しました。これに近代以後の日本人も同調してきたのです。遺伝物質が明らかにしてくれたように、人はもっと他の生物や無生物に対して謙虚になるべきです。
それと命の尊さです。遺伝子物質という客観的な事実の上では、犬も虫も同じ命の値打ちです。ではどこで私の命の尊さを押さえるのか。私たちは命の尊さを「~だから」「~だから」と、客観的のものへ求めすぎてきました。もっと「尊いと思える」ことを大切にすべきです。尊いと思えるか、思えないか。同じ命でも、ここに雲泥の差があります。人間教育とはその思いを育てることです。
浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。



