梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]の続きです。

十五、「乃至十念」の称名

「すなわち十念に至まで(乃至十念)せん」とはどういうことを表わしているのですか。

本願を信じて、浄土を目指して生きる人の最も正しい生き方は称名念仏することであると信心の行者の行業(おこない)を選び定められた言葉です。



「すなわち十念に至るまで」という言葉が、一生涯にわたる称名を指しているとは、どうしていえるのですか。

もともと「乃至十念」の「乃至」とは、一乃至十とも、千乃至十ともいえるように、数量や時間を限定しないときに用いる言葉でした。ですから一念(一声)、十念(十声)に限らず「いのち」の限り相続すべき称名行であることを表わされていたのです。
 また「念」には、さまざまな解釈がありますが、善導大師は称念の意味とされました。すなわち本願の「乃至十念」を「上は一形を尽し、下は十声に至るまで(一生涯にわたる称名から、わずか十声の称名に至るまで)」、一声一声がことごとく正定業(正しく往生が決定する徳をもった行)であるという道理を表わしていると見られたのでした。それは『観経』の下品下生に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称す」といわれた教説と合わされたところから出てくる十念釈でした。
 詳しい説明は今は省略しますが、要するに善導大師は、本願の十念とは、南無阿弥陀仏と十声称える称名念仏のことであると確定されたのでした。法然聖人はそれを伝承して、本願の念仏は称名念仏であるといい、専修念仏説を確立されたのです。



十念が、南無阿弥陀仏と十遍となえることであるということはわかりましたが、それに「乃至」という数量を限定しない言葉を付けて誓われていることには、どういう意味があるのですか。

それには実は深い意味があります。まずその一つは、念仏する人の「いのち」の長短は、誰もどうすることもできないからです。一声称えただけで死ぬ人もあれば、何十年も称え続けることのできる長命のひともあります。しかし一声で終わった人生も見事な念仏の人生であり、決定往生の行者だったのです。一声が少なすぎることもなく、百千万遍称えたからといって称えすぎるわけではないというのは、称えた私の力が問題となるような自力の行ではなくて本願他力の念仏だからです。
 二つには、そのようなことが成立するのは、本願の念仏は、一声一声、如来から賜っている行であって、一声、一声が如来そのものであるような無上の功徳をもっている行だからです。如来は一声、一声の念仏となって私の上に現われ、「必ず往生させる」と大悲をこめて喚び覚まし続けておられるのです。
 ですから念仏していることは、如来の本願招喚の勅命を聞いているほかにないのです。それを本願力回向の念仏と呼んでいます。すなわち称えて功徳を積んでいくというような自力の行ではなく、一声一声が無量の徳をもった、絶対の如来行であり、「必ず救う」という如来の仰せが響いている念仏ですから、数量を超えた念仏であることを表わすために「乃至」という言葉を付けて誓われたわけです。
 このように念仏とは、本願の名号(如来の勅命)を一声、一声、如来より賜っているのですから、その如来の仰せを、疑いなく聞き受けている念仏者の想いをいえば、「阿弥陀さま、お救いくださってありがとうございます」とご恩をよろこぶ意味があることがわかりましょう。それを仏恩報謝の念仏といい、「信心正因、称名報恩」の宗義として伝承されてきたのでした。



「もし生まれずは正覚を取らじ(若不生者不取正覚)」とは、どういううわれを表わしているのですか。

本願を信じて、往生できるとおもって、念仏している者が、もし往生できないようなことがあれば、正覚者(阿弥陀仏)にならない、絶対的な救いの確証を与える力強いお言葉です。それは衆生の往生と、仏の正覚とが一体不二に誓われているというので、往生正覚一体の誓願といい慣わしています。これは阿弥陀仏の本願が、衆生と仏、自己と他者の分け隔てを超えた生仏一如、自他不二の真如の顕われであることを如実に表わしていることばであります。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]の続きです。

十四、第十八願の信心

その中で「至心信楽して、わが国に生れんと欲へ(至心信楽欲生我国)」とは、どういう意味を表わされているのですか。

法然聖人は、本願の三心について詳しい釈はなされていませんので、親鸞聖人の三心(信)釈を紹介します。親鸞聖人は、これは一つの信心を、至心・信楽・欲生という三心(三信)に開いて表わされたもので、それによって、如来さまから与えられた他力の信心の内容を詳しく示されたものであると言われています。



それをわかりやすく説明してください。

まず至心というのは、嘘・詐りのない真実心のことです。次に信楽とは、信心のことであって、阿弥陀仏の本願まことと疑いなく聞き受けている無疑心のことです。欲生とは、必ず浄土へ往生することができると期待している心のことです。



至心が真実心であるというのは、どんな心をいうのですか。

至心を真実心といわれたのは善導大師の至誠心釈によられたものです。至誠とは究極の「まこと」心のことであるといわれた解釈によったものです。しかし普通ならば自分の起こした信心に、嘘も詐りもないことを真実心というのですが、親鸞聖人は、第十八願の至心、すなわち真実心とは、私どもを救って浄土へ生まれさせようと願っておられる阿弥陀仏の本願のお心に嘘も詐りもないことをいうと言われています。たとえば『尊号真像銘文』に
「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
(『註釈版聖典』643頁)
といわれています。私どもは、いつも自分中心の見方をし、愛と憎しみに濁った煩悩を起こし続けています。ですから清らかなさとりの領域である浄土にふさわしい清浄真実な心はもっていませんし、これからも起こすことはできません。それゆえ本願に「至心信楽せよ」といわれたのは、私どもに「真実心を起こして信楽しなさい」といわれたのではなくて、「阿弥陀仏の真実なる本願を疑いをまじえずに受け容れなさい」といわれた言葉であると領解されたのです。



それでは次の「至心信楽せよ」というのは「如来の至心を信楽せよ」といわれているというのですか。

その通りです。ですから、信楽とは、如来様の本願のみ言葉に嘘も詐りもないと疑いなく受け容れている状態をいうのです。それで信楽を釈して、
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、はなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
『同上』
といわれたのです。すなわち十方世界の生きとし生けるすべてのものに向かって、私の誓願には、嘘も詐りもないから、この言葉の通り疑いなく受け容れなさいとお勧めになっているのが「至心信楽」という言葉であるというのです。ですから凡夫に自力で真実な信心を起こせと勧められた言葉ではないといわれるのです。
 このように味わえば「信楽」は凡夫が自力で起こす信心ではなくて、私を救おうと願っておられる如来の真実心(まことの親心)が私に届いて私の疑い心を除いてくださった心であるということがわかりましょう。



次に「欲生」とは、どういう心ですか。

「欲生」とは、「わが国に生まれんとおもへ(欲生我国)」を略した言葉です。それは阿弥陀仏の真実なる本願の仰せの内容です。すなわち自分の人生の行方を見定めることができないで迷っている私に向かって「安楽浄土へ生まれることができると思いなさい」と慈愛をこめて呼びかけてくださる言葉です。そのことを聖人は『教行信文類』「信文類」の欲生釈の初めに、
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
(『同上』241頁)
と仰せられたのでした。すなわち「必ず浄土へ生れさせる」と喚(よ)んでいてくださる真実なる本願(至心)のみ言葉を聞いて、その仰せを「まこと」と疑いなく受け容れた(信楽)とき、そこには「必ず、往生させていただける」(欲生)という思いが私に恵まれてきます。それを「欲生心」とも願生心ともいうのです。それを『尊号心像銘文』には、
浄土に生れんとおもへとなり。
(『同上』643頁)
といわれたのでした。
 このように見ていきますと、三心といっても、必ず浄土に往生させて涅槃のさとりを完成させると仰せられる「まごころ」のこもった本願招喚(招き喚び続ける)の勅命を、仰せの通りに疑いをまじえずに聞き受けている信楽のほかにはないことがわかります。
 すなわち本願の真実(至心)のみ言葉を、疑いなく聞き受けている(信楽)ところに、往生一定と浄土を期するこころ(欲生)が自然に具わっているわけです。これを親鸞聖人は、如来よりたまわった「三信即一の信楽(信心)」と言われたのでした。そしてそのような本体は仏心(仏智)である信心が恵まれたときに、往生し、成仏する因が完成しますから、「信心正因」と言われるのです。それを信心が決定したとき、現生(現在の生存中)において、すでに仏になることが決定した正定聚の位に入れしめられているとも言われたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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【法話】光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 2012.01.08 築地本願寺

一つ前の投稿の続きです。

仏説『観無量寿経』というお経様に
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
というお言葉がございます。
光明は遍く照らし、十方の衆生を摂取して捨てないというお心であります。
「無碍光」「超日月光」と言われますが、光といっても月の光やお日様の光はどうしても当たらない所が出てきてしまいます。つまり影のことでありますが、それを超えているというのが「超日月光」です。お正信偈さまにも「超日月光照塵刹」と出てきて下さいますが、その光は単なる光ではなく、日月に超え優れた光であります。なぜなら碍り(さわり)無き働きをする光であるからです。至らない所はないのですよ、というのがその心です。

(「破闇」「調熟」に続いて)3つめは「摂取」の光明です。「摂取心光常照護」とお正信偈さまに出て参りますが、摂取の心光、常に照らして護り給うということです。常に照らしている。照らしていない時がない。仏様の心の光ということです。ここで「護る」とおっしゃって下さっていますが、私の都合の良い状況を護って下さるというのではありません。先ほど(前回の投稿)の「衆禍の波転ず」のところで話した事をお聞き下されば、どうだそうだと思われるかもしれません。健康を護ってくれる、長寿であることを護ってくれる、学校の試験がうまいこといってくれることを護ってくれる、、、そういう護るではありません。

親鸞聖人は
異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなし
(『一念多念証文』)
というお言葉でおっしゃって下さっています。
異学・異見とは、私たちには到底叶わないご修行をされている方々です。仏様に成るに、まことの道を進むに、厳しい修行を重ねながら智慧の眼を開こう、悟りを開こうとされている方々です。それらの方々にやぶられないとは、「お前、そんなのウソやぞ!そのままで、念仏したくらいで仏様に成るなんて、そんなのウソやで!」といわれても「そんなことないです。私は私の力で仏様に成らせて頂くことは出来ない、この生死の苦悩を超えて行くことが出来ないから、仏様がお念仏を与えて下さった、と聞かせて頂きます。行をされる方は行をして下さったら結構だけれども私向きではないのだよ、と名乗り出て下さった方が阿弥陀仏という仏様であります、と聞かせて頂いております」ということです。聖道門からは比叡山という山で修行されたり永平寺という寺で座禅を組まれたり、そんな方々はそれはそれで尊い行があるのかもしれませんが、私たちは南無阿弥陀仏という阿弥陀様の大行を頂戴し、この口で念仏させて頂く、、、ただ念仏するだけでなく私自身の闇が破られ、一瞬一瞬花開かせて頂くような働きを私の上に展開して下さるような仏様がいまここにおいで下さっているのです、お念仏一つとおっしゃって下さる仏様がおいでになるんです、ということです。この方々(異学・異見のともがら)を批判することはなく、行をされる方はして下されば良いのですが、ただ「お前、そんなことでは」と言われる方々に「あなたはそう思われるかもしれないけれども、仏様はそうはおっしゃってはおられないのですよ」とそのまま歩ませて頂くということです。
別解・別行というのもある意味それと同じです。お念仏するといっても、何遍念仏した、こういう心持ちで念仏した、その功徳として重ねさせて頂くことでお浄土に生れさせて頂く、仏様になるということをされる方々から邪魔されることはないということです。
天魔波旬にをかされずというのは、仏様から頂いたお念仏の智慧を破られることがないということです。世間には宗教という名前で色々な信仰がございます。熱心に信仰したら病気が治るよ、という新宗教もあります。熱心に頼み込んだらあんたの学校ええ所に行かせてもらえるよ、という宗教もあります。お金持ちになれるよ、と宗教という名で信仰を促すところもあります。しかし仏様がおっしゃられるのは、どれだけ頑張って祈って健康を守ったとしても必ず壊れてゆく身なんだよ、必ず終わらなければならないのよ、必ず崩れるのよ、そこことだけは間違いないよ、と言って下さいます。その言葉は智慧であります。ずーっと長寿で、ずーっと健康で、ずーっとこの体が保たれるように思わせているようなものを「天魔波旬」という言葉でおっしゃって下さっています。お金ぎょうさん欲しいのは分かるけれども、仏様はおっしゃられます。あなたは貪欲というものがあって、お金が一杯あったら一杯あったで悩みますよ。お金が手に入ったからといってあなたの悩みがすっきり無くなるわけではないのだよ、ということを教えて下さるのが智慧です。
悪鬼・悪神なやますことなし。まあ、色々なお誘いがありますよね。六本木ヒルズに居るような人をヒルズ族と言われましたが、あんな生活は良いよ、とマスコミからお誘いがあるでしょ。「セレブ」といってお誘いがあるでしょ。「勝ち組・負け組」という言葉でもお誘いがありますね。あんた、負けてたらあかんで、勝たにゃあかんで、頑張らんとあかんのやで、と。でも「頑張り続けられへん」「頑張ってるねんこれでも」と思いますね。「アンチエイジング」というお誘いもあります。年寄りは若う見せんと世間で恥ずかしいで、と。新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、、、色々なお誘いがあります。そのお誘いに悩まされることがないということです。世間の価値観に悩まされることがないということです。私は私なりに頑張ってるんやけど頑張りきれんところがあるのをご存知やし、頑張ってるところもご存知やし、どうしようもない奴だということもご存知やし、負け組にしかなれんような器であることもご存知やし、壊れてゆく身であることもご存知やし、ぼろぼろであることもご存知なのです。皆さん、奇麗な帯みたいに紡がれたような人生じゃないでしょ?私なんかこの歳でもうつぎはぎだらけですわ。そんな奇麗やないということをご存知です。その、壊れゆくまま、ぼろぼろのまま、弱々しいままに、決してもう壊れない世界に生れさせて頂き、壊れゆく身であるがままに、それをもう壊れない身に仕上げてゆくぞ、と言うて下さる方がここに居って下さるのです、と教えて下さいます。悩まされることがない、それが守られるということです。世間の事柄に動揺させられたり振り回されたりするようなことがないということです。あなたはいまあなたがそこにいるままで、懸命に、下手くそながら生きているのを私は見ているよ、下手くそやからよう捨てん、と言うて下さる世界を、今ここに頂戴しているのです、と歩ませていただくのです。

その光は休むことなく私を照らして下さるのです。休むことなくとは、結局は私のこの口に出て来て下さる姿になっておりましょ?「なまんだぶ、なんまんだぶ」と。ずーっと仏様は居って下さいます。皆さんお念仏しておられますか?念仏したら護られますよ。念仏しながら誰かの悪口言えないでしょ?「あいつ、あのアホ」と言うのと「なんまんだぶつ」と一緒に言えないでしょ?いらんこと言うのも摂めとって下さっています。考えてみれば、お念仏申させていただけるようなそんな仏様に成って居って下さっているということは、常の仏様でありますよ、と仏様の方が整えて下さったのです。そしてそれが今私に届いているのです。

このお心は、届いているというだけではないのです。親鸞聖人は
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃)
というご和讃をお詠み下さっていますが、そのご和讃の中で「摂」という字を
もののにぐるをおわえとるなり
とお示し下さっています。逃げるんですって、私は。護って下さると言うて居って下さいますが、世間のお誘いがあったらフラフラと行ってしまう私を追いかけて捕まえると言われます。「取」とは
ひとたびとりて永く捨てぬなり
とおっしゃられます。

私は大阪の行信教校という学校で学ばせて頂きました。そこに、騰(あぐる)先生という兵庫県の先生がご講師としておいで下さってましたが、その先生が授業の中で、今申しましたご和讃のご講義をして下さいました。私はたまたま一番前に座って居ったんです。先生は、私の顔をじっと見て「佐藤君、私の話をいま聞いたか?」と言うのです。そして「今言うたやろ。もののにぐるをおわえとるなり、と。これ誰のことか分かるか?」と聞きはりました。私、それがさっぱり分かりませんで「さあ、誰のことでっしゃろうか」という顔をして先生をじっと見つめていましたら、「あのな、あんたのこっちゃで」と言われました。「そうですか、私のことですか」。その時のことが鮮明に思い出されるのですが、その後、騰先生は言い直されました。「いやいや、わしのこっちゃ。もののにぐるというのは、逃げとんのはわしのこっちゃ」と。逃げている者と聞くと、他の誰かのように聞こえますが、お誘いにフラフラと行きそうな私は、また煩悩が好きでねぇ。仏様からすると逃げとるんですね。それを追いかけると言われています。なんで追いかけはるんですかね?危ないからでしょう。放っとけんからですよ。そんな迷いの姿のままに生かせる訳にはいかんからでしょ。そんな者を追いかけて、きちんと抱き取るとあります。「ひとたびとりてながくすてぬなり」です。
騰先生、、、珍しい名前でしょ。「騰瑞夢(あぐるずいむ)」先生は、とにかく私達学生に「仏様が念仏せい言うてんのやから、念仏したらええ」と言われました。「念仏せい、念仏せい」とおっしゃって下さる先生でした。有り難いですね。先生の居られない所で私は何を言っているのでしょう。騰先生が今ここにおいで下さっているんでしょうかね。「佐藤よ、覚えとってくれたんか。今日はようお念仏の話をしとってくれとるのう」と。見えますか?背後霊とちゃいますよ。菩薩様となって私の所に届いて下さっているのです。「お前もお念仏を喜ぶ身か?」と喜んで居って下さるのでしょう。その先生が、私たちにこんな言葉をおっしゃって下さっています。ちょっと方言が強いかもしれませんが、そのまま読ませて頂きます。
皆さん、念仏しまひょいな。阿弥陀様がそうおっしゃって下さっておるのでありますから。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い、こうおっしゃって下さっておるんです。どうです?それ聞いて、必ず救うと聞いて、腹が立ちますか?癇に障りますか?そんなことはございますまい。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い。それを聞いて、なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏しますねん。そしたら阿弥陀様が、おお、よう聞いてくれたな。お前はわしの子ぞ。というてお喜び下さるのであります。私は、騰瑞夢いうて、難しい名前やけど、娑婆では田中やら山田やらいろんな名前がありますけど、これは娑婆で区別するための名前でございましょ?阿弥陀様から言わせたら、お前は阿弥陀家の子ぞ、娑婆では騰瑞夢か知らんけど、わしから言わせたら阿弥陀瑞夢ぞ、とおっしゃって下さっておるということではございませんか。阿弥陀家の一族にならせてもらうということでございましょ?どうぞ、何事も思うようにならぬ世の中でありますけれども、阿弥陀様のご本願を仰いで、なまんだぶ、なまんだぶつとお念仏称えながら生かせてもらいたいものであります。お念仏しまひょいな。
皆さん、おうちに表札かかってますか?あれはサービスですよ。郵便局の方と宅急便の方への。訪れて下さる方へのね。あれは娑婆の仮の名前であります。「あなたは阿弥陀家の子よ」と仏様はおっしゃって下さっています。「もう捨てられない世界にあなたは今居るのよ。何も心配することはないよ」と言うて下さっています。それを聞いて癇に障りますか?と言うてはるのです。親とはそうですよね。出来の悪い子ほど親は可愛いと言われます。自分は出来が悪いとは思っておりませんけれども、出来が悪いんでしょうね。心配でたまらないのでしょうね。そやから「お前はうちの子」と言うて、どんな悪さしても迎え入れてくれるのを、我々は親と言うて、その名で呼ばせて頂くのでしょう。「お前はわしの子、お前はわしの子」と呼んで下さる方が居るのですよ。その呼び声が南無阿弥陀仏というお念仏ですよ。と、騰先生は私にお勤め下さいました。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」。利井鮮妙先生(記録者の聞き違いかも?)だったかな?「なんまんだぶやで、なんまんだぶと呼んでおって下はるで」と言うのやけど、忘れますわね。みのもんたさんと一緒にテレビに向かって文句言うてますわ。この政治家が悪い、と言ってね。こいつが悪い、こいつが悪いと。すっかり忘れてますなあ。でも、この歌は単なる悲しい歌ではなくて、この裏側にあるのは、その忘れがちなる私を忘れんぞ、と言うて下さる仏様が居って下さる、それが「摂取心光常照護」「大悲無倦常照我」。常でありますよ、常でありますよ、とおっしゃって下さる心です。

大和の清九郎さんという方がおいでになられました。仏教によく親しまれ、仏法をよくお聴聞された方でした。時のご門主が清九郎さんにおっしゃいました。「清九郎よ。ご法義相続しとるかぁ。繁盛しとるかい」と。要は、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏ちゃんとしとるか、ということです。そしたら清九郎さん「いやいやー、よう忘れますねん。念仏せいちゅうのは分かってまんねんけどね、よう忘れますねー」と。そしてその後こうおっしゃいました。「わたしゃよう忘れるけども、お前のことは忘れとらんぞという仏様の方から時々たずねて下さいます」「私の方が忘れて居っても、お前のことは忘れんぞといって、南無阿弥陀仏と時々たずねて下さいます」と清九郎さんはお喜びになっていたということです。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」とは、忘れがちであるこの私を、決して忘れんよ、という大きな仏様のお心の中にただ今抱かれているのですよ、という喜びがあるのですね。そやから、忘れるのをご存知なのです。どうしようもないですね。何の条件も私のところには整いませんね。賢くも出来んし、努力をし続けることも出来んし、世の中のことには振り回されかねへんし、これしなさいと言って下さったそのこと一つも続けられへんし。その私の所には何の条件もつけられず、全部わしが引き受けたというて整うて下さったのが南無阿弥陀仏というお念仏です。いつでもお前から離れんよ、いつでもお前を見捨てることはないよ、いつでもお前のことを摂め取ってるよ、と仏様は私を抱き取り続けて居って下さるのです。それを光明の働きとして親鸞聖人はお喜びになってゆかれました。

正信偈さまで数えてみて下さい。「光」という字がいくつ出てくるか。親鸞聖人にお尋ねしますと、仏様とは光の方ですと言われます。ウルトラマンみたいですけどね。それは、その光によって闇が破られ目覚めさせられながら、目覚めさせられつつある人生をこの私に恵んで下さる。その恵んで下さった私を決して離さない、と摂め取って下さる仏様が今私の所に居って下さいます。

さっき「騰先生がここにおられるんですよ」と申しましたが、諸仏・諸菩薩方はお念仏する一人の念仏者の所に来られて、百重にも千重にも取り囲んで喜んで下さるのです。「ようようお念仏申す身になって下さって、ようよう阿弥陀様のお光の働きを喜ぶ身になって下さって」と。私は今お寺の住職をさせて頂いておりますが、ご法座を開きますと、今日は何人来はったやろかと気になります。沢山お参り下さったら、それはそれで嬉しいのですが、いくら100人居っても、1000人居っても、1万人おっても、「一宗の繁昌」という言葉で蓮如上人教えて下さいますが、お念仏がなければそれは法座とは言えんのでしょうね。逆にお念仏を喜ぶ人が一人居れば、百重千重の諸仏・諸菩薩方がそこに居って下さって、たった一人のその道場は満堂なんだそうです。しかし1000人、万人、10万人、1億の人が居ったとしても、一人たりとも念仏を申さないのであれば、それはゼロに等しいということであります。兵庫県神戸に、くぼいこうぎ(?)という先生がおいで下さったことがあります。その先生がよくおっしゃっていました。ご法座にお一人座って居って下さって、その方とお念仏させて頂けたら、それ以上幸せなことはないと。沢山頭数が集まっていることが仏様のお喜びではなくて、お一人お念仏申して下さることが仏様の無上の喜びとなって下さるのだと言うて下さいました。これは僧侶である私の一つの課題でありますが、光明の働きに触れながら、一つ一つ、一歩一歩、足取りはおぼつかないのですが、おぼつかない足取りをご存知の仏様が、おぼつかないままに「ほれほれ」と抱き取りながら、私をお浄土へと導き、方向を示して下さり、私の生き方を教えてくださるのです。

そのような道を、今、お念仏申しながら、そこに開かれているのが信心という道です。信心とは、何か、ものではないのです。「信心獲得」と蓮如上人がおっしゃって下さりますと、何か形のあるものが私の所に来て、懐に入れるようなもののように思いますが、信心とは他でもない、あなたは今弥陀に抱かれながら、弥陀の光明に包まれながら、お浄土へと生まれて往く身でありますよ、ということに「そうでしたか」と言うだけであります。そこに開かれている道、そこに開かれている世界を信心という言葉でお示しになられ、それを私たちは聞かせて頂いているのであります。


最後、蓮如上人のお手紙を頂戴いたします。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之衆」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ



ご一同様に、ご領解出言。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御たすけさふらへと、たのみまうしてさふらふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、この上の稱名は、御恩報謝とぞんじよろこびまうしさふろふ。この御ことはり聴聞まうしわけさふろふ事、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の、あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候。此うえは、さだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりまうすべく候。





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