中西智海 / 親鸞教学入門(4)

(3)の続きです。

親鸞聖人と罪業



弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも宿業(業)のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき
 これは有名な『歎異抄』の第十三条のことばであります。このことばによって明らかなように、親鸞聖人の罪・悪の思想は自然主義の立場はもとより、社会科学的立場を含めたヒューマニズム、人間中心の立場などとは似ても似つかない次元のことがらであります。
 親鸞聖人にとっては「悪」はもとより「善」もまた「罪」であり、「業」(宿業)であるといわれるのであります。「悪」が「罪」であることはいえても「善き心」も「罪」であるということはいなずけないというのが一般的な理解の仕方でありましょう。しかし、親鸞聖人においてはそうではなくて「悪心」もそして「善心」も「罪」であり「宿業」であるといわれています。この「善き心」も善ではなくて悪であることをはっきりと示されたのが「罪悪深重」とか「罪業深重」といわれることばであると思われます。親鸞聖人においては宗教的悪とは罪と同じであります。さらに、ただ「悪」といえば「善」に対する概念と思われるかもわからないから「善もまた悪である」ということをはっきりさせるために「罪」とか「罪悪」といわれたのであります。人間の行う卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの宿業でないものはないという根拠は、人間の一切の行ないは大智、仏智の立場に立っていない、すなわち自我中心的発想を脱却しえないという点にあることはたしかであります。
 こうして、善もまた雑毒の善といわれるように、善心も結局のところ悪であるということを明らかに示されたところに「罪」とか「罪悪」ということばの真意があるといわねばなりません。
 つぎに「罪業」とか「宿業」といわれるように、親鸞聖人の罪・悪の思想は「業」ということばによって示されています。
 業は仏教の中心思想であることはあらためていう必要もありません。それは善にも悪にもいわれることであります。善因からは必ず善果があわられ、悪因からは必ず悪果があわられるといわれるように因と果との必然関係が「業」の思想の特色であるといえます。親鸞聖人においては「罪の宿業にあらずといふことなし」といわれているように罪業(因)から罪業(果)への必然関係をあらわすことになるといえます。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といわれる「地獄は一定」といわれる告白は、この因果の必然関係の深信の内景といわねばなりません。
 このように親鸞聖人にとっては「罪業」ということばによって「善もまた罪(悪)である」という意味と、それは「因と果の必然関係である」という意味の重要な二つの思想をあらわしているといわねばなりません。
 そして、この二つの重要な思想は私たちに次のことをはっきり教えているということであります。
 自我中心的発想から脱却できない私の一切のあり方は善も雑毒の善であり、善もまた罪であることをほんとうに信知させられるとき、仏に成るようなどのような実践もできない私であることがはっきりします。そしてその責任は自分以外にはありません。それは先にふれた自然主義的な立場でもなければ単なる社会科学的レベルの責任論でもありません。それは罪悪を信知するもののみが背負ってゆく責任であります。「地獄は一定」ということばには、その責任の思想からの叫びがあります。普通の場合は「人間だから仕方がないのだ」とか、「どうせ何もできないものだ」などということばにあらわれるように、人間のわくの中で「それは当然だ」「それより仕方がないのだ」というようなところで止まってしまいます。
 このような思考のレベルからは「地獄一定」ということの悲歎の声のひびきはわからなくなってしまいます。「罪業」が信知されるということは「人間だから仕方がない」とか「凡夫だからあたりまえである」というようなレベルでとどまる世界ではありません。それは「罪悪深重」といわれ「罪業深重」といわれるように、はてしなく罪業の身を慚じる世界であるといわねばなりません。この「慚じる」心のうちに、ほんとうの「責任」の思想とほんとうの「倫理性」への源泉があるといわねばなりません。
 ところで、慚じるこころと後悔のこころとは質的に異なっています。なぜかといえば「後悔」というのは過ぎ去った、あの日あのときの行いを今の時点に立って判定して悪かったと思い、改めようというこころでありましょう。もしそうならば、過去のある時点では悪かったが、現在はそうではない、つまり現在は「善」であるという立場にたつことになり、更に自分の力でいつでも改めればよいというこころであるといえましょう。それは「懺悔」とは全く異なっています。「懺悔」のこころは過去だけが独立して悪かったというのではなく、現在も悪であって、従って未来もまた善である余地のない世界を、ただ慚じるほかない世界であります。慚じるこころのほかにないのであります。いいわけの材料や、愚痴のたねに使うなどのレベルとは異質であります。仏教には後悔という文字がないといった人がありますが、過去のことを悔い改めるか、またはいいわけの材料にするのは仏教的思惟ではないことをいいあてていると思われます。
 更に、善も罪であり、因と果の必然関係であるという「罪業」の思想は次のことを教えているといえましょう。
 親鸞聖人にとって「仏に成る」ことが、どうして仏力(他力・如来の本願力)でなければならなかったかを教えているのであります。
 親鸞聖人にとって「罪業」の信知は、そのまま「如来の本願の信知」と別ではなかったのであります。つまり、自分(人間)の力で善に向うことができるとおもっている間は如来の本願は無用であり、「自力」でまにあうと思っているうちは本願をたのむ心が欠けているのであります。
 親鸞聖人にとって「罪業」の信知はそのまま「自力無功」がはっきりすることと同じであったのであります。
凡そ大小の聖人と一切の善人は本願の嘉号を以て己が善根とするがゆへに、信を生ずること能はず、仏智を了らず
(『教行信証』化身土巻)
といわれるように己が善根という思いのある間は仏智がわからないというのであります。罪の必然関係を知って「地獄一定」ということがはっきりすることによって本願に乗託することができるといわねばなりません。自分の心で善を為すことができると思っている間は「罪業」ということはほんとうにうけとめられません。親鸞聖人においては「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず」(『歎異抄』)といわれ、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』)といわれるのであります。自分の心が善であるから悪いことをしないのではない、業縁があれば、どのようなことでもするのであるといわれています。そこには「自力のはからい」や「悪をおそれる」という余地がありません。従って「願にほこりてつくらんつみも宿業のもよほすゆへなり。さればよきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ他力にてはさふらへ」(『歎異抄』)といわれるのであります。このように親鸞聖人においては、ほんとうの罪業の信知は本願の信知と別ではないということをみのがしてはならないと思います。
 このことがはっきりすれば「宿業」と「宿命」ということのちがいもはっきりするのであります。「宿業」は「信」に深くかかわっているものであり、「宿命」は「信」に関係のない思想であります。いいかえれば「宿業」の世界は本願をたのむこころと一つであり、はてしなく慚じる世界であり、「宿命」には本願に乗託するなどというこころとは関係のない次元での考え方であり、はてしなく慚じるというこころとは似ても似つかぬこころであるといわねばなりません。
(『罪業ということ』より17~23頁)




つづく



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紅楳英顕先生学習会(1)[後半(2)] @築地本願寺 2011.03.12

許可を得て公開します。


一部、記録がなくなってしまったところがありますが、最後の部分です。

紅楳英顕先生学習会(1)[後半(1)] @築地本願寺 2011.03.12」の続きになります。

1000000137



(質問)(親鸞聖人が現生正定聚を強調されたのは、)「すぐに仏に成れないのはつまらない」という他宗、聖道仏教からの批判に対し、「すぐに仏に成れる」という意図で仰った、ということだと理解しました。他宗、特に法相宗は漸教で、時間がかかると教えていますが、親鸞聖人が聖道諸宗に対し具体的に頓教の教えを教えられたということはあるのでしょうか。

(お答え)法相宗等は聖道門の中の権教で漸教です。禅宗、真言宗、天台宗、華厳宗等は、聖道門の中の実教で頓教です。親鸞聖人は自力の聖道門をすてて、他力の浄土門に入られ、聖道門の教えは全て方便、仮門の教とされましたので聖道門の教えを説くことはありませんでした。聖道門の教えで現世で悟りを開くことはできないと考えられたのです。
そして独自の釈顕により、現生正定聚 、往生即成仏を述べて、証果(成仏)が決して聖道門の頓教に遅れるものでないことを主張されているのです。『正像末和讃』に
五十六億七千万  彌勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし
とありますように、すでに等覚(菩薩51位)にある、聖道門頓教の補處の彌勒菩薩より、はやくく証果(成仏)をえると述べられているのです。
また『御消息集』一には
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。
とあり、この中に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり。」とありますように浄土真宗が大乗仏教のなかで最も優れた教で あると述べられているのです。

それでは、最後に恩徳讃を歌って終わりにしたいと思います。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし



次回の学習会は6月11日(土)午後2時~4時30分です。
場所   築地本願寺 第一伝道会館内 

紅楳英顕先生の学習会案内(6月11日) | 紅楳英顕先生の法話


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中西智海 / 親鸞教学入門(3)

(2)の続きです。

親鸞聖人においての善・悪の基準



 仏教において善・悪が問われるとき、善・悪の定義として、
第一義諦に順じて起こすを善といい、第一義諦に背いて起こすを悪という
(『菩薩瓔珞本業経』)
ということばが、よく使われます。「第一義諦に順じて起こす」とは、すべてのものが、もともと平等であるという道理にかなう行為、つまり、純粋無我の行為を「善」というのであります。それに対してこの道理にかなわない行為、つまり、純粋無我の立場に立ちえない行為は「悪」であるということになります。さらに云いかえれば、自分中心の発想、エゴイズム基盤とする考えはすべて「悪」となり、「善」といわれるのは、まさに自分中心の発想を脱し(超え)た行為ということになるのであります。
 仏教は「仏による教え」とともに「仏に成る教え」であるといわれます。「仏に成る」ということはどうなることかと問うとき、そこに「諸法は平等であることにめざめ、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想をほんとうに脱却しうるということでありましょう。それはまた、自利利他の完成ということがらによっていいあてられる内容でもありましょう。
 親鸞聖人はこの「仏に成る」道をひたむきに歩みつづけられた人であります。仏に成ることの実現にいのちをつくされた人であります。ですから、親鸞聖人にとって、すべての価値判断の基準は「仏に成る」という一点にあったといわねばなりません。これを、善・悪の基準という面でみると、仏に成ることのできる行為、すなわち、純粋無我の行為、自分中心の発想を超える(脱却しえる)行為が「善」であり、その他の行為は「仏に成る」ことにならない行為であるから、それは「悪」としかいえない行為だといいきられたのであります。ですから、親鸞聖人は、いっけん善に見えるような人間の行為をも、「雑毒の善」であるときっぱりいいきられたのであります。
 ですから、このような仏教の原理的立場の善・悪、つまりその実践的立場にたつ親鸞聖人の立場の善悪の次元を考えるとき、それはそのまま「真実」か「虚妄」かという次元で語られているということを知っておかねばなりません。純粋無我の世界、自己中心の発想を脱却し(超え)た世界は真実の世界であります。それに対して、いっけん善にみえようなもの、また西洋において、たえず動物と人間とのちがいをそこにおいてみてきた人間の理性をも含めて、純粋無我の行為と云えないもの、つまり自分中心の発想が根本になっているもののいっさいは虚妄であるという立場を確認しておかねばなりません。
 この立場がはっきりしてはじめて、親鸞聖人の「そらごと、たわごとまことあることなき」ということばの真意が領解されるようにおもわれます。すなわち、自分中心、利己的発想からでたものは「まこと」ではないといわれるものであります。
 さきに「雑毒の善」という面から、人間の行為の虚妄性にふれましたが、いま一つ、内外不相応の虚仮性について言及しなければなりません。仏教では身体や口に表れた行為(表業・思已業)のみではなく、表われる以前の意志行為(無表業・思業)をありのままにみつめるものであります。ですから、表面に表れた行為がいっけん善のようにみえても表面にひそく我愛(利己的愛)の心を問うことによって「善」と自認しえる行為はみあたらないというのであります。
 善導大師の「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と解釈したことばを、親鸞聖人が「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みかえなければならなかったのは、内外不相応のみずからの相をごまかしなくみつめられた告白でありましょう。
 このように親鸞聖人において善・悪の基準は、純粋無我の行為、つまり自分中心の発想を脱却した行為であるかどうか、いわゆる宗教的真実の次元と同じ内容のものであるかどうか、従って究極的には「仏に成る」という一点にかかわって善とか真実といえるかどうかという高次の宗教的次元での基準であることを確認しておかねばなりません。従って、親鸞聖人のいわれる「悪人」を問おうとするとき、少なくとも次のようなレベルでないことをつきつめ、誤りのないようにしなければなりません。
 (1)法律や他律的道徳のレベルでの悪人ではない
 (2)単なる文学や、歴史(社会的階級)の立場での悪人ではない
 (3)「仏に成る」という基準をぬきにしての悪人ではない


悪人こそ救われる(悪人正機)ということ



 ところで、親鸞聖人の「悪人」のうなずきは、驚くべき領解となってあらわれました。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり
(『歎異抄』)
 意表をついたこの逆説的なことばは、親鸞聖人の教えの特色を明示したことばとして、しばしば引用される有名なものであります。善人よりも悪人こそ救われるのであるというこの思想は大きな波紋を呼んだことも事実であります。果してこのような考えは親鸞聖人に本当にあったのであろうか。『歎異抄』は親鸞聖人の直筆ではなく弟子の手になるものであるから、親鸞聖人の思想をゆがめた発言ではないかと提言した人もありました。しかし、このことについては、親鸞聖人の主著『教行信証』のはじめに
権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す
とあることばによっても明らかなように、親鸞聖人その人の思惟であることは否定できません。
 それにしても、悪人こそ救われるという云い方は極端ではないか、善人も悪人もというのならまだしも容認できるが、悪人がまさに救いの正しき相手である(悪人正機)などとは無暴な言葉であって倫理を無視した発言ではないかという批判もあります。
 しかし、われわれは、さきにあげた『歎異抄』のつづきのことばに耳を傾けなければなりません。
そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せさふらひき
 ここで言われる善人とは「自力作善のひと」と同意語として使われています。すなわち、仏に成ることが、自分の積み重ねる善根によって実現できると思い込んでいる人といってもよいでしょう。もっとつきつめていえば、「雑毒の善」しかなしえない虚妄の行為によって「仏に成る」ことを実現できると思い込んでいるひとということになりましょうか。
 それに対してここでいう「悪人」とは「煩悩具足のわれら」といわれ「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」といいかえられるひとのことであります。つまり、自己の生き方は自分中心の発想から離れることができず、仏に成るようないっさいの行為ができないものこそ「悪人」でるといわれるのであります。その「悪人」であることをほんとうに知らせたものは仏の智慧であり、大智であります。ほんとうの素肌のままの人間が知らされるということと仏を知るということは同じであるといってもよいでしょう。云いかえれば、虚妄と虚妄と知らせたものは真実であったのです。そこに親鸞聖人の人間批判と現実批判は単なるニヒリズムに転落することなく、真実へのひるがえりをもたらされる、救いあるよろこびの世界の発見と同時的であるという構造がみられます。それは、さきほどの『歎異抄』のことばでいえば、「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」といわれるように、悪人であることがほんとうにうなずきえたことと、仏に成る道が開けることが同時であるという親鸞聖人の信心の内景の構造を最もよく示されていると思われます。悪人こそ救われるとは、本願のもともとのはたらきであり(真実が虚妄を虚妄と知らせて真実化するはたらきといってもよい)、仏が仏に成ることと悪人こそ仏に成ることとが同時であるという本願の構造の具現化といってもよいでしょう。「仏に成る」ような行もできないことを身をもってうけとめられた親鸞聖人にとって
諸の衆生に於ひて平等ならざるに非ざれども然も罪なる者に於ひて、心則ち偏へに重し。放逸の者に於ひて仏則ち慈念したまふ。不放逸の者は心則ち放捨す
と記されている『涅槃経』のことばは、そのまま自己の救いのたしかさを告げた真実であったでありましょう。それであればこそ、阿弥陀仏の第十八願に「唯、五逆と正法を誹謗するものをば除く」とある文を「五逆のつみびとをきらい、謗法のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。」(『尊号真像銘文』)と身にひしと本願の音声をうけとめられたにちがいないと思われます。
『悪人ということ』より17~23頁




つづく



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