★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年10月24日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
中西智海 / 親鸞教学入門(5)
(4)の続きです。
つづく
仏教でいわれる「信」
さて、この二つのつまずきと思われる信の状況をふまえたところで、更に明確にしておかねばならないことがらがあります。それは、いわゆる religion としての宗教といわれる場合での「信」ということと仏教でいわれる「信」とは異なっているという点であります。前者は一般に「信仰」といわれるのにふさわしく、後者は「信心」または「信」とうのに適切であるともいえましょう。
religion としての宗教は、一般に神と人との結合、神と人との関係であるといわれます。神は人間を超えているものであり絶対者であります。人は相対者であります。神は全知全能であり、人は無智の罪人であります。神と人との間はまさに断絶であります。この間の「結合」「関係づけ」が「信ずる」ということによって成り立つのであります。それは「不合理なるが故に我れ信ず」というようなことばでさえあらわされるような性格を含んでいるといわねばなりません。
これに対して、仏教の「信」は異質であるといわねばなりません。宗教(religion)は神と人間との「結合」というならば仏教は人が仏に「成る」教えであるといわねばなりません。従って、同じ「信」といっても宗教(religion)のそれと仏教のそれとは全く異質であるといわねばなりません。前者においては神とは何かということはわからない存在であります。それで、ただ「信ずる」ほかに「結合」はないということになります。それは「神に成る」ということがいわれないからである。それに対して、仏とは何かということは成ってみればわかるということになります。ただ信ずるほかに道がないというような立場ではありません。従って「成る」という考え方は「仏の存在の証明」が不必要であるということと深く結びついています。
では、仏教で説かれる「信」とはどのような内容のことがらなのでしょうか。
「信とは心を澄浄ならしむ」(『倶舎論』)「信心清純にして疑心を離るるが故に信と名く」(『大乗義章』)といわれるように「心澄浄の道」であります。現実の私たちの煩悩に汚染された心を本来の清浄心に至らせる精神作用として語られ、その意味において「信」はつねに仏法に入るための不可欠な第一歩とされてきました。信は道の元、功徳の母と為す。一切の諸の善法を増長し、一切の諸の疑惑を除滅し、無上道を示現し開発す(『華厳経』)といわれるのはそのことをよくさし示していると思われます。
仏法の大海には信を能入となし、智を能度となす如是の義は即ち是れ信なり。若し人、心中に信清浄なるものあらば是の人は能く仏法に入る。若しなければ是の人は仏法に入ること能はず(『大智度論』)
さらに、信は信・精進・念・定・慧という五根として説かれていることからもうなずけるように仏を「信ずる」ということは仏に「成る」という意味をもっているということであります。「成る」ということには宗教的実践によって開かれてくる道程を歩むという意味があるといわねばなりません。
もとより仏教の信は仏法(真実)への第一歩とか仏に成る過程の歩みというのみにとどまるものではありません。それは法(真実)の私への現成開示という意味があるのであります。法のあらわれ、開示ということによって仏の歩みが展開するというしくみであります。
このように同じ「信」といっても宗教(religion)でいう「信」と仏教でいう「信」のそれとは異質であることを注意しなければなりません。
ところで仏に成るとはどうなることかと問われるとき、それは自我中心の発想がくだかれ、エゴイズム的生き方がくつがえされ、自利、利他円満の人格に成ることであるということはいままでにものべてきました。従って「仏に成る」という道において、つまり「信ずる」ということのなかに自我中心的生き方、利己的発想の脱却ということがらが含まれているというべきでありましょう。
(中略)「信ずる」とはどうなることか
このことをしっかりみつめながら、真宗の「信」について整理しながら学んでみましょう。
親鸞聖人において「信」とは自我の上に成り立つことがらではなくて如来の「真実心」が私に現成することがらをいうのであります。従って信心の本質は「清浄の信楽」であり「浄信」といわれるようにまさに「清浄」といわれるものであります。無漏清浄の名号を体とする信心であり、疑濁をはなれた信心であるから清浄であるといわれます。私にとってみずからの疑いがなくなるということと、真実心が現成することと同じであります。疑いがのこるということは「自我」と「利己心」がのこるということで十九願、二十願のように自力がのこるということになります。親鸞聖人は「自我」「利己心」の上に立つ信は「自力の信心」として捨てられました。それはまた十九、二十の願の「行」を捨てたということになるのであります。真実の他力の信心には「自我」「利己心」がみじんもまじることがないといわれます。「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)なきが故に是を信楽と名く」(『教行信証』)「信はうたがふこころなきなり」(『唯信鈔文意』)といわれるほうに「疑うこころ」がのこるということと「自我」「利己心」がのこるということとは同じであります。ほんとうに自我・利己心が破られるのは、弥陀のちかいに疑うこころがなくなるときであり「聞其名号信心歓喜」のときであるといわれるのであります。この意味で親鸞聖人の教えにおいては、信ずるとは阿弥陀仏のお慈悲が人間にとどいて自分勝手な思いやかたくなな心がうち砕かれるということ、仏にまかせきって損・得・善悪・宿業にしばられない自由なこころになるといってもよいでしょう。そこにほんとうのよろこびが生れるのであります。仏にまかせるということはすべての是非・善悪・美醜など人間の生のいとなみ全体を、仏の次元からみなおすことになるといってもよいのであります。仏とともに生きるといわれ、念仏の眼鏡をかけるといわれるのもその趣きをいいあてているようであります。その意味では真実の信心にめざめたものは人生観がかわるといえましょう。世界がかわるといえましょう。このように親鸞聖人の教えにおいての「信ずる」とは不合理なるが故に我れ信ずるというようなものではなく、仏を基準として生きる人間になるということであて、そこに宗教(religion)でいう「信」と区別される仏教の「信」、つまる「なる」という内容をもつということであります。
そのことは「信心の智慧」といわれることによってもうなずけることであります。
つぎに、親鸞聖人の求道の過程によって明らかなように、信ずるとはほんとうの自分を知るということになるといえましょう。もとよりこの場合の知るということがらは知性のはたらきのみによるいわば知識とか単なる認識ではありません。ほんとうのうなずきといってもよいでしょう。「存知と「信知」と異なるといわれるのもそのことをさし示そうとしているようであります。ほんとうの自分を知る――それは仏のこころを知るということと同じであります。み仏のお慈悲を知ることによってほんとうの自分が知らされるのであります。ほんとうの宿業の私が仏のお慈悲にうなずかされるのであります。このように「信ずる」とは「知る」という内容をもっているといえましょう。
更に「信ずる」とはまさに「聞く」ことであります。「聞くといふは本願をききて、うたがふこゝろなきを聞(もん)といふなり。また聞くといふは信心をあらはす御のりなり」といわれるのはそれであります。信ずるとは聞くほかはないということでありましょう。「聞く」ということばは確かに人間にとって意味のあることばだといわねばなりません。「聞光」「聞味」「聞香」ということばがあるように単に耳で聞くということばかりではないのであります。光は見るものであり、味もみるものだと思いますが、光を聞く、味を聞くといわれるのは趣があります。見るというときは、見られるものは静止して見る心が動いてゆくものだと考え、聞くといわれるときは音は彼方からやってくるもので、それをすなおにうけとめる(これを「機の無作」といわれています)という感覚だというのであります。いずれにしましても親鸞聖人の教えにおいては弥陀のちかいをうたがわないということでありまして、本願のいわれのとおりにうなずけるまで聞くということのほかにないのであります。
さて、このような「信」の立場に立つとき、どのようなこころがよびおこされるのでありましょうか。
弥陀のこころとは自利(不取正覚)・利他のこころであり、それをまうけに領納した信もまた「利他深広の信楽」ととかれるものであります。また、真実の信心には必ず現世十種の益があるとも説かれます。如来の二種の廻向によりて真実の信楽をうる(『三経往生文類』)二種の廻向とは往相(往生浄土の相状)の自利と還相(還来穢国の相状)の利他の廻向ということであります。
このことによってもうなずけるように真実信心の立場に立つとき、まさに「世をいとふしるし」をもとめて生きる人間になるのであります。「世をいとう」ということは「この世」から逃避することではないのであります。仏智の立場、本願のこころで、この世を痛み、ひるがえしてゆこうとするいとなみであります。信心の人はこの世をいとうしるしを求めて生きるのであります。(『信ずるとはどうなることか』より39~51頁)
つづく



