中西智海 / 親鸞教学入門(5)

(4)の続きです。

仏教でいわれる「信」

 さて、この二つのつまずきと思われる信の状況をふまえたところで、更に明確にしておかねばならないことがらがあります。それは、いわゆる religion としての宗教といわれる場合での「信」ということと仏教でいわれる「信」とは異なっているという点であります。前者は一般に「信仰」といわれるのにふさわしく、後者は「信心」または「信」とうのに適切であるともいえましょう。
 religion としての宗教は、一般に神と人との結合、神と人との関係であるといわれます。神は人間を超えているものであり絶対者であります。人は相対者であります。神は全知全能であり、人は無智の罪人であります。神と人との間はまさに断絶であります。この間の「結合」「関係づけ」が「信ずる」ということによって成り立つのであります。それは「不合理なるが故に我れ信ず」というようなことばでさえあらわされるような性格を含んでいるといわねばなりません。
 これに対して、仏教の「信」は異質であるといわねばなりません。宗教(religion)は神と人間との「結合」というならば仏教は人が仏に「成る」教えであるといわねばなりません。従って、同じ「信」といっても宗教(religion)のそれと仏教のそれとは全く異質であるといわねばなりません。前者においては神とは何かということはわからない存在であります。それで、ただ「信ずる」ほかに「結合」はないということになります。それは「神に成る」ということがいわれないからである。それに対して、仏とは何かということは成ってみればわかるということになります。ただ信ずるほかに道がないというような立場ではありません。従って「成る」という考え方は「仏の存在の証明」が不必要であるということと深く結びついています。

 では、仏教で説かれる「信」とはどのような内容のことがらなのでしょうか。
 「信とは心を澄浄ならしむ」(『倶舎論』)「信心清純にして疑心を離るるが故に信と名く」(『大乗義章』)といわれるように「心澄浄の道」であります。現実の私たちの煩悩に汚染された心を本来の清浄心に至らせる精神作用として語られ、その意味において「信」はつねに仏法に入るための不可欠な第一歩とされてきました。
信は道の元、功徳の母と為す。一切の諸の善法を増長し、一切の諸の疑惑を除滅し、無上道を示現し開発す(『華厳経』)
仏法の大海には信を能入となし、智を能度となす如是の義は即ち是れ信なり。若し人、心中に信清浄なるものあらば是の人は能く仏法に入る。若しなければ是の人は仏法に入ること能はず(『大智度論』)
といわれるのはそのことをよくさし示していると思われます。
 さらに、信は信・精進・念・定・慧という五根として説かれていることからもうなずけるように仏を「信ずる」ということは仏に「成る」という意味をもっているということであります。「成る」ということには宗教的実践によって開かれてくる道程を歩むという意味があるといわねばなりません。
 もとより仏教の信は仏法(真実)への第一歩とか仏に成る過程の歩みというのみにとどまるものではありません。それは法(真実)の私への現成開示という意味があるのであります。法のあらわれ、開示ということによって仏の歩みが展開するというしくみであります。
 このように同じ「信」といっても宗教(religion)でいう「信」と仏教でいう「信」のそれとは異質であることを注意しなければなりません。
 ところで仏に成るとはどうなることかと問われるとき、それは自我中心の発想がくだかれ、エゴイズム的生き方がくつがえされ、自利、利他円満の人格に成ることであるということはいままでにものべてきました。従って「仏に成る」という道において、つまり「信ずる」ということのなかに自我中心的生き方、利己的発想の脱却ということがらが含まれているというべきでありましょう。

(中略)

「信ずる」とはどうなることか

 このことをしっかりみつめながら、真宗の「信」について整理しながら学んでみましょう。
 親鸞聖人において「信」とは自我の上に成り立つことがらではなくて如来の「真実心」が私に現成することがらをいうのであります。従って信心の本質は「清浄の信楽」であり「浄信」といわれるようにまさに「清浄」といわれるものであります。無漏清浄の名号を体とする信心であり、疑濁をはなれた信心であるから清浄であるといわれます。私にとってみずからの疑いがなくなるということと、真実心が現成することと同じであります。疑いがのこるということは「自我」と「利己心」がのこるということで十九願、二十願のように自力がのこるということになります。親鸞聖人は「自我」「利己心」の上に立つ信は「自力の信心」として捨てられました。それはまた十九、二十の願の「行」を捨てたということになるのであります。真実の他力の信心には「自我」「利己心」がみじんもまじることがないといわれます。「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)なきが故に是を信楽と名く」(『教行信証』)「信はうたがふこころなきなり」(『唯信鈔文意』)といわれるほうに「疑うこころ」がのこるということと「自我」「利己心」がのこるということとは同じであります。ほんとうに自我・利己心が破られるのは、弥陀のちかいに疑うこころがなくなるときであり「聞其名号信心歓喜」のときであるといわれるのであります。この意味で親鸞聖人の教えにおいては、信ずるとは阿弥陀仏のお慈悲が人間にとどいて自分勝手な思いやかたくなな心がうち砕かれるということ、仏にまかせきって損・得・善悪・宿業にしばられない自由なこころになるといってもよいでしょう。そこにほんとうのよろこびが生れるのであります。仏にまかせるということはすべての是非・善悪・美醜など人間の生のいとなみ全体を、仏の次元からみなおすことになるといってもよいのであります。仏とともに生きるといわれ、念仏の眼鏡をかけるといわれるのもその趣きをいいあてているようであります。その意味では真実の信心にめざめたものは人生観がかわるといえましょう。世界がかわるといえましょう。このように親鸞聖人の教えにおいての「信ずる」とは不合理なるが故に我れ信ずるというようなものではなく、仏を基準として生きる人間になるということであて、そこに宗教(religion)でいう「信」と区別される仏教の「信」、つまる「なる」という内容をもつということであります。
 そのことは「信心の智慧」といわれることによってもうなずけることであります。
 つぎに、親鸞聖人の求道の過程によって明らかなように、信ずるとはほんとうの自分を知るということになるといえましょう。もとよりこの場合の知るということがらは知性のはたらきのみによるいわば知識とか単なる認識ではありません。ほんとうのうなずきといってもよいでしょう。「存知と「信知」と異なるといわれるのもそのことをさし示そうとしているようであります。ほんとうの自分を知る――それは仏のこころを知るということと同じであります。み仏のお慈悲を知ることによってほんとうの自分が知らされるのであります。ほんとうの宿業の私が仏のお慈悲にうなずかされるのであります。このように「信ずる」とは「知る」という内容をもっているといえましょう。
 更に「信ずる」とはまさに「聞く」ことであります。「聞くといふは本願をききて、うたがふこゝろなきを聞(もん)といふなり。また聞くといふは信心をあらはす御のりなり」といわれるのはそれであります。信ずるとは聞くほかはないということでありましょう。「聞く」ということばは確かに人間にとって意味のあることばだといわねばなりません。「聞光」「聞味」「聞香」ということばがあるように単に耳で聞くということばかりではないのであります。光は見るものであり、味もみるものだと思いますが、光を聞く、味を聞くといわれるのは趣があります。見るというときは、見られるものは静止して見る心が動いてゆくものだと考え、聞くといわれるときは音は彼方からやってくるもので、それをすなおにうけとめる(これを「機の無作」といわれています)という感覚だというのであります。いずれにしましても親鸞聖人の教えにおいては弥陀のちかいをうたがわないということでありまして、本願のいわれのとおりにうなずけるまで聞くということのほかにないのであります。
 さて、このような「信」の立場に立つとき、どのようなこころがよびおこされるのでありましょうか。
 弥陀のこころとは自利(不取正覚)・利他のこころであり、それをまうけに領納した信もまた「利他深広の信楽」ととかれるものであります。また、真実の信心には必ず現世十種の益があるとも説かれます。
如来の二種の廻向によりて真実の信楽をうる(『三経往生文類』)
 二種の廻向とは往相(往生浄土の相状)の自利と還相(還来穢国の相状)の利他の廻向ということであります。
 このことによってもうなずけるように真実信心の立場に立つとき、まさに「世をいとふしるし」をもとめて生きる人間になるのであります。「世をいとう」ということは「この世」から逃避することではないのであります。仏智の立場、本願のこころで、この世を痛み、ひるがえしてゆこうとするいとなみであります。信心の人はこの世をいとうしるしを求めて生きるのであります。
(『信ずるとはどうなることか』より39~51頁)




つづく



紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(5)

の続きです。

目次
  1 はじめに
  2 第一章 宿善論について
    2.1 一 高森親鸞会の宿善論
    2.2 二 宗祖における宿善論
    2.3 三 蓮如上人の宿善論
    2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
    2.5 五 真宗先哲の宿善論
    2.6 む す び
  3 第二章 二種深信についての問題
    3.1 一 高森親鸞会の問題点
    3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
↓↓今回はここから↓↓
    3.3 三 後生の一大事についての問題
    3.4 む す び






三 後生の一大事についての問題

 以上述べて来たように、高森親鸞会は罪悪深重・地獄一定の自覚を強請するのであるが後生の一大事の自覚もまた強調するのである。即ち『顕正新聞』には
 後生の一大事とは何か、人間は必ず一度は死なねばならない、では人間は死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と四十五年間呼びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(205号、昭和54・6・20)
とあり、又『白道もゆ』(高森顕著)には
 仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というのは取り返しのつかないことを言ふが、それは無間地獄へ堕在するということである。曽無一善、一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる。これを経典には必堕無間と説かれている。(一三七頁)
とあり、又『こんなことが知りたい①』には
 親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とはどんなことかといゝますと、これは後生の一大事といもいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです(六頁)
等とあり、又『顕正新聞』に(会員松栄三喜男氏談)
 その時、初めて私も死んだら無間地獄しか行き場がないという後生の一大事を知らされ驚いたのです。……そしてその時会長先生は、この大宇宙が火の海原になっても聞き求め解決しなくてはならないのが後生の一大事であり、後生の一大事の解決唯一つが、仏教を聞く目的であり、一生の目的であるとハッキリ断言して下さいました。(第181号、昭和52・6・20)
ともあるように、後生の一大事の自覚を強調し、「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事というのである。
 宗祖の言葉には「後生」も「一大事」も見当らないようであるが、蓮如上人の『御文章』には
人間はただゆめまぼろしのあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、後生こそ一大事なりとおもひて……(一の一〇、真聖全三の四一七)
とあり、又
されば人間のはかなき事は老少年不定のさかひなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり。(五の一六、真聖全五の五一三)
等とある。蓮如上人が「後生」の依り所とした語句は恐らく『大経』下巻の
雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国快楽無極。(真聖全一の三五)
とある「後生」や『往生礼讃』前序の
前念命終後念即生彼国、長時永劫常受無為法楽。(真聖全一の六五二)
とある「後念即生」とあるのに依ったものと思われる。従って、後生とは元来は「往生浄土(極楽)」の意で使われていると考えられる。しかれば宗祖自身の言葉の上で窺えば、善鸞義絶の消息にみえる
いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして……(真聖全二の七二八)
とある「往生極楽の大事」ということが、後生の一大事という意になると考えることが出来よう。尚、蓮如上人の『帖外御文章』には
世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(蓮如上人遺文、稲葉昌丸編、五〇三頁)
とあり、後生を単に今生に対する意に用い「ながき世まで地獄におつる事」とあるところは、高森親鸞会の主張の根拠になるとも思はれるが、ここにも「後生は永生の楽果」とあるのであり、いずれにせよ主意とするところは「往生浄土(極楽)の大事」ということであろうと考えられる。
 以上のことから考察して宗祖および蓮如上人の言葉の上から窺える「後生の一大事」ということは「往生浄土(極楽)の一大事」あるいはせいぜい「往生浄土(極楽)できるかどうかの一大事」という程の意味であり、高森親鸞会の主張するような「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事といっているのではないことは明らかであり、このことからも高森親鸞会は、地獄一定の自覚を強要する地獄秘事(信機秘事)の傾向の存するものとの非難はまぬがれないであろう。

む す び

 以上、高森親鸞会の主張の二種深信に関しての問題点を述べてきたが、抑も二種深信とは善導の『散善義』に
深信と言うは、即ち是れ深信の心也。亦二種有り。一に者決定して深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二に者決定して深く彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して疑い無く慮り無く、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。(真聖全一の五三 四)
とあるものである。宗祖は『愚禿鈔』にこの二種深信の文を引き、その後に
今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗无上の真実信海也。(真聖全二の四六七)
と述べているように、一者、二者とある二種の深信がそのまま他力至極の金剛心であると示し、二種の深信は他力金剛心(信心)の相を分けたものとしているのである。このことから従来、信機・信法は一具であり、二種は別々でもなければ前後でもない、二種一具の信といわれるのである
 然るに上に述べて来たように、高森親鸞会の主張は、地獄秘事(信機秘事)の代表とされている江州光常寺の主張と同一ではないが、地獄一定と自覚したところで初めて法の救い(本願の救い)にあえると主張して、自己の罪悪性・地獄一定の自覚を強調するのであるから、二種深信は信機が前で信法が後という二心前後起的な主張であり、又、後生の一大事についても、宗祖や蓮如上人の意とは異なる「必ず無間地獄に堕ちる」ことがそれであると主張して地獄一定の自覚をすすめるのであるから、やはり、地獄秘事(信機秘事)、機敷き安心、信機募り安心、二心前後起等の異義に類するものといわねばならないであろう。







紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(3)

紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)の続きです。

目次
  1 はじめに
  2 第一章 宿善論について
    2.1 一 高森親鸞会の宿善論
    2.2 二 宗祖における宿善論
    2.3 三 蓮如上人の宿善論
↓↓今回はここから↓↓
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
    2.5 五 真宗先哲の宿善論
    2.6 む す び
↑↑今回はここまで↑↑
  3 第二章 二種深信についての問題
    3.1 一 高森親鸞会の問題点
    3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
    3.3 三 後生の一大事についての問題
    3.4 む す び




四 高森親鸞会の宿善論の問題点

 上述のように高森氏は、宿善は自力であると断言し、努力して修すべきことを奨励し、そのための具体的行為としては聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめること)、高森親鸞会への献金(財施)等を宿善となるべきものとしてすすめている。
 既にみたように、宗祖や蓮如上人において、聴聞(聞法)をすすめはするものの、宿善が自分の努力によるものとする宿善自力を主張するのではなく、あくまでも他力になさしめられるところとするのである。そして破邪顕正(正しい教えをひろめること)や献金等(財施)を宿善とする傾向は全くみられない。
 先ず破邪顕正に関してであるが、宗祖や蓮如上人においては、他者に教えを説きひろめる伝道教化活動は自らも実践し他者にもすすめたところである。宗祖は『教行信証』総序に
爰に愚禿釈の親鸞慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり、真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。斯を以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(真聖全二の一)
とあるように、宗祖自身が浄土真宗の教法を聞信し、救いを体得しえた慶びと感謝の念を語り述べようとしているのであり、他者に真実の教法を伝えようとする宗祖の姿勢をまずここにみることが出来よう。そして「後序」には
慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す、深く如来の衿哀を知りて良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜弥々至り至孝弥々重し、茲に因って真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。若し斯の書を見聞せん者の、信順を因となし疑謗を縁として信楽を願力に彰し、妙果を安養に彰さんと。(真聖全二の二〇三)
とあるように、根本聖典であるこの『教行信証』を見聞する人が、信楽を願力に彰し妙果を安養に彰わすことを願いとしているのが宗祖なのであるから、他者に教えを説きひろめることは宗祖の基本的な姿勢なのである。
しかしながら、この他者に教えを説きひろめることは、あくまでも信後の報恩の行としてのものであり、信前における獲信のためのものではないのである。従って他者に教えを説きひろめることを宿善になるものとしては断じて扱ってはいないのである。即ち「総序」における「斯を以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり」とあるのは「真宗の教行証を敬信して」とあるが前提となっており、「後序」の「若し斯の書を見聞せん者(中略)信楽を願力に彰し妙果を安養に彰さんと」とあるのには「深く如来の衿哀を知りて」が前提となっているように、それぞれ信がその前提となっているのである。又『浄土和讃』には
仏慧功徳をほめしめて十方の有縁に聞かしめん 信心すでに得んひとは つねに仏恩報ずべし、(真聖全二の四九一)
とあるように、信後報恩の行として、十方の有縁に教えを説き聞かしめるべきことをすすめており、又『御消息集』には
わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏をこゝろにいれまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。(真聖全二の六九七)
とあるように「仏法ひろまれとおぼしめすべし」ということを信後の報恩行として扱っており、又「信巻」には善導の『往生礼讃』の文を引用して
自ら信じ人を教へて信ぜしむること、難が中に転たまた難し、大悲弘く普く化する、真に仏恩を報ずるになると。(真聖全二の七七)
とあるように「大悲弘く普く化する」とある他者に教えを伝えひろめることはあくまでも信後報恩の行とされているのであり、獲信のためのものとはされていないのである。
 このように宗祖においては他者に教えを説きひろめる行為は大切なこととされ、宗祖自身が自ら実践し、人にも奨励したものと考えられるが、それはあくまでも信後の報恩行としてなされたものであり、高森親鸞会の主張するような自らの獲信のための宿善としたものでは断じてないのである。
 又、蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に
信もなくして人に「信をとられよとられよ」と申すは我は物を持たずして人に物をとらすべきといふ心なり、人承引あるべからず」と前住上人申さると順誓に仰せられ候ひき。
「自信教人信と候ふ時は、まづ我が信心決定して人にも敢えて仏恩になる」との事に候。「自身の安心決定して教ふるはすなはち大悲伝普化の道理になる」由同じく仰せられ候(九三、真聖全三の五五五)
とあるように、我がみ自身が信心決定してから、人にも教えることが出来るのであると述べているように、あくまでも他に教えを説くことは信後の行とされているのであり、それが獲信のための宿善となるなどという見解は全くなされていないのである。
 次に高森親鸞会に対する献金等の財施が宿善になるという点についてであるが、宗祖は他者から財施をうけたことに対して『末灯鈔』に
銭貳捨貫文燧に給侯、穴賢、穴賢、(真聖全二の六八三)
とあり、又『御消息集』には
銭二百文御こゝろざしのものたまはりてさふらふ。(真聖全二の六九八)
とあり、又
御こころざしの銭伍貫文、十一月九日にたまはりてさふらふ。(御消息集、真聖全二の七〇五)
等と財施に対して御礼を述べ、謝念の意を表してはいるが、それが宿善になるという見解は全くみられない。
しかも『歎異抄』第十八章に
仏法のかたに、施入物の多少にしたがひて大小仏になるべしということ、この条、不可説なりゝゝ。比興のことなり。(中略)いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなばその詮なし。
一紙半銭も仏法のかたにいずれとも、他力にこゝろをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。(真聖全二の七九〇)
とあるように、施入物の大小を云々することは誤りであり、たからものを仏前になげたり師匠にものを施したりすることによってすくいがきまるものではないということが述べられている。このことから宗祖においては献金等の財施が宿善になるという見解は全くなかったものといいえよう。
 又、蓮如上人も『御文章』に
ちかごろはこの方の念仏者坊主達、仏法の次第もてのほか相違す。そのゆへは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとゝいへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにおほくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにをひて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし、まことにあさましや、(一の一一、真聖全三の四一八)
とあるように、蓮如上人も財施によってたすかるのではないことを強調し、そのような考えを非難しているのである。このように蓮如上人においても財施が宿善となるというような見解は全くみられない。
 以上のように高森親鸞会では獲信のための宿善を自力によるものとするのであるが、宗祖や蓮如上人は宿善は自力によるところではなく、すべて他力によるものとするのである。そして宿善になるものとして高森親鸞会では聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめること)、高森親鸞会への献金等(財施)が挙げられているのである。聴聞(聞法)については、宗祖や蓮如上人(他力)と高森親鸞会(自力)との見解の相違はあれ、宗祖や蓮如上人もすすめるところであるが、他人に教えを説きひろめることや献金等の財施が宿善となるというようなことは、非難こそすれ全く語るところではないのである。
 このように高森親鸞会の宿善論は宗祖や蓮如上人とは多分に相異している全く誤った宿善論であるといわねばならないのである。

五 真宗先哲の宿善論

 真宗宗学における宿善論として、普賢大円氏の説によれば、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説があげられている[11]。このように過去において、宿善自力説を主張した学者もいたのではあるが、これは高森親鸞会の主張する宿善自力説とはかなり異なるものであったと考えられる。即ち道隠師は『御文明灯鈔通関』に
今私に自力諸善を宿善とするものを案ずるに、自力を他力の因とするといふに非ず、唯これ機を調熟するのみ、謂く多劫に自力諸善を修して其の機をととのへ、以て可信の機既に成熟するときは自力諸善の法を捨て、能く他力の法を信ずるに堪えたり。(真宗叢書十の三八五)
とあるように、自力諸善を宿善とするのはその功徳によって宿善が開発するという意味ではなく、自力諸善を捨てて他力を信ずるように機をととのえるためというのであり、又鮮妙師は『宗要論題決択編』に
宿善の当体は自力の善なり、中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。(中略)然れば宿善の体は自力なり、自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて却って酒を止めさすが如く、密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、酒を勧むるは酒を止めさするため、今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、之を宿善という。(巻九の三一)
とあるように、宿善の体は自力であるとしながらも、これは自力の善を捨てさせるために自力の善を与えるのであると述べているのであり、決して自力の善の功徳によって宿善が開発するというのではないのである。
次に宿善他力説とは、我々の獲信の因縁となるものは全て他力によるとする説である[12]。曽無一善の煩悩熾盛の衆生にとっては、その宿善は全て他力によって生起されたものと考えるべきことは至極当然のことなのであるが、この説で問題になる点は、もし宿善が全て如来の他力によるとするならば、すべての衆生に平等の宿善が与えられ、一切衆生は平等に救われるべき筈である。しかしながら経典には已今当の往生が説かれており、衆生の往生に時間的遅速があることが示されている。このことは経典の上においても、又現前の事実においても動かすことの出来ないことである。
それでこの点を補うような形のものが、行照師の提唱といわれる当相自力体他力説である。即ち宿善の当相は自力であるが、その体といえば他力によるというのである。しかしながらこの当相自力体他力を説く場合でも真宗の立場はあくまでも絶対他力であるから、衆生が自ら修する善根も実はすべてが如来他力の御はからいによってなさしめられたものと受け取るのである[13]
 このように真宗先哲の学説においても、若干の相違はあるが、宿善はあくまでも他力によることを据りとするものであり、自己の善根によって宿善を開発させるというような見解は全くみられない。高森親鸞会の宿善論が如何に誤った見解であるかを、この点からも窺うことが出来よう。

む す び

 以上によって明らかなように、高森親鸞会の主張する宿善を自力とし、しかも聴聞(聞法)だけでなしに、破邪顕正(正しい教えをひろめること)や高森親鸞に対する献金等(財施)も獲信のための宿善になるとする宿善論は、宗祖や蓮如上人、それから真宗先哲の見解にもおよそみられない全くの謬見であり、異義であるといわねばならないものである。先に示したように『顕正新聞』一八四(昭和52・9・20)に
「後生の一大事の助かるか助からないかは宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる。宿善は善が宿るとも読めるのだから少しでも善根功徳を積むように心がけることが大切である(中略)時あたかも岐阜会館建設に着工している。(中略)名利のためにひげをなでるよりもすぐ投げ出す千金があれば岐阜会館はたちまちのうちに建ってしまうのである。名利のためにしか金を使い切れないものに、次々と阿弥陀仏は宿善の勝縁を与えて下さっている」
と述べているのであるが、ここにある「後生の一大事の助かるか助からないかは宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる」とあるが、これはおそらく『御文章』の
あはれく存命のうちにみなく信心決定あれかしと朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこゝろしばらくもやりことなし。(四の一五、真聖全三の四九九)
とある文を指すものと思われる。この文は、高森氏が自分で講演するときに讃題として使用しているものであり、いわば氏の愛用の文である。然るに蓮如上人がここに「まことに宿善まかせ」といっている宿善とは「光明の縁にもよほされて宿善の機ありて……」 (御文章二の十三)とあるように、あくまでも宿善を他力によるとするものであり、又「門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとゝいへり。これおほきなるあやまりなり」(御文章一の一一)ともあるように財施を宿善とする見解は全くないのである。
にもかかわらず、蓮如上人が宿善まかせといっておられるからといって、自力の宿善を強調し、財施も宿善になると称して献金を募るなどということは全く遺憾なことである。
 以上のように、高森類鸞会の主張する宿善論は、宗祖や蓮如上人の意とは甚しく異なるものであり、全くの謬見といわねばならないであろう。




(脚注)

  1. (↑)『真宗概論』二五九頁。
  2. (↑)桐渓順忍氏「宿善他力の論理」(真宗学二二)
  3. (↑)普賢大円氏『真宗概論』二六〇頁以下。




つづく



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