★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年04月26日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
中西智海 / 親鸞教学入門(4)
(3)の続きです。
つづく
親鸞聖人と罪業
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも宿業(業)のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひきこれは有名な『歎異抄』の第十三条のことばであります。このことばによって明らかなように、親鸞聖人の罪・悪の思想は自然主義の立場はもとより、社会科学的立場を含めたヒューマニズム、人間中心の立場などとは似ても似つかない次元のことがらであります。
親鸞聖人にとっては「悪」はもとより「善」もまた「罪」であり、「業」(宿業)であるといわれるのであります。「悪」が「罪」であることはいえても「善き心」も「罪」であるということはいなずけないというのが一般的な理解の仕方でありましょう。しかし、親鸞聖人においてはそうではなくて「悪心」もそして「善心」も「罪」であり「宿業」であるといわれています。この「善き心」も善ではなくて悪であることをはっきりと示されたのが「罪悪深重」とか「罪業深重」といわれることばであると思われます。親鸞聖人においては宗教的悪とは罪と同じであります。さらに、ただ「悪」といえば「善」に対する概念と思われるかもわからないから「善もまた悪である」ということをはっきりさせるために「罪」とか「罪悪」といわれたのであります。人間の行う卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの宿業でないものはないという根拠は、人間の一切の行ないは大智、仏智の立場に立っていない、すなわち自我中心的発想を脱却しえないという点にあることはたしかであります。
こうして、善もまた雑毒の善といわれるように、善心も結局のところ悪であるということを明らかに示されたところに「罪」とか「罪悪」ということばの真意があるといわねばなりません。
つぎに「罪業」とか「宿業」といわれるように、親鸞聖人の罪・悪の思想は「業」ということばによって示されています。
業は仏教の中心思想であることはあらためていう必要もありません。それは善にも悪にもいわれることであります。善因からは必ず善果があわられ、悪因からは必ず悪果があわられるといわれるように因と果との必然関係が「業」の思想の特色であるといえます。親鸞聖人においては「罪の宿業にあらずといふことなし」といわれているように罪業(因)から罪業(果)への必然関係をあらわすことになるといえます。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といわれる「地獄は一定」といわれる告白は、この因果の必然関係の深信の内景といわねばなりません。
このように親鸞聖人にとっては「罪業」ということばによって「善もまた罪(悪)である」という意味と、それは「因と果の必然関係である」という意味の重要な二つの思想をあらわしているといわねばなりません。
そして、この二つの重要な思想は私たちに次のことをはっきり教えているということであります。
自我中心的発想から脱却できない私の一切のあり方は善も雑毒の善であり、善もまた罪であることをほんとうに信知させられるとき、仏に成るようなどのような実践もできない私であることがはっきりします。そしてその責任は自分以外にはありません。それは先にふれた自然主義的な立場でもなければ単なる社会科学的レベルの責任論でもありません。それは罪悪を信知するもののみが背負ってゆく責任であります。「地獄は一定」ということばには、その責任の思想からの叫びがあります。普通の場合は「人間だから仕方がないのだ」とか、「どうせ何もできないものだ」などということばにあらわれるように、人間のわくの中で「それは当然だ」「それより仕方がないのだ」というようなところで止まってしまいます。
このような思考のレベルからは「地獄一定」ということの悲歎の声のひびきはわからなくなってしまいます。「罪業」が信知されるということは「人間だから仕方がない」とか「凡夫だからあたりまえである」というようなレベルでとどまる世界ではありません。それは「罪悪深重」といわれ「罪業深重」といわれるように、はてしなく罪業の身を慚じる世界であるといわねばなりません。この「慚じる」心のうちに、ほんとうの「責任」の思想とほんとうの「倫理性」への源泉があるといわねばなりません。
ところで、慚じるこころと後悔のこころとは質的に異なっています。なぜかといえば「後悔」というのは過ぎ去った、あの日あのときの行いを今の時点に立って判定して悪かったと思い、改めようというこころでありましょう。もしそうならば、過去のある時点では悪かったが、現在はそうではない、つまり現在は「善」であるという立場にたつことになり、更に自分の力でいつでも改めればよいというこころであるといえましょう。それは「懺悔」とは全く異なっています。「懺悔」のこころは過去だけが独立して悪かったというのではなく、現在も悪であって、従って未来もまた善である余地のない世界を、ただ慚じるほかない世界であります。慚じるこころのほかにないのであります。いいわけの材料や、愚痴のたねに使うなどのレベルとは異質であります。仏教には後悔という文字がないといった人がありますが、過去のことを悔い改めるか、またはいいわけの材料にするのは仏教的思惟ではないことをいいあてていると思われます。
更に、善も罪であり、因と果の必然関係であるという「罪業」の思想は次のことを教えているといえましょう。
親鸞聖人にとって「仏に成る」ことが、どうして仏力(他力・如来の本願力)でなければならなかったかを教えているのであります。
親鸞聖人にとって「罪業」の信知は、そのまま「如来の本願の信知」と別ではなかったのであります。つまり、自分(人間)の力で善に向うことができるとおもっている間は如来の本願は無用であり、「自力」でまにあうと思っているうちは本願をたのむ心が欠けているのであります。
親鸞聖人にとって「罪業」の信知はそのまま「自力無功」がはっきりすることと同じであったのであります。凡そ大小の聖人と一切の善人は本願の嘉号を以て己が善根とするがゆへに、信を生ずること能はず、仏智を了らずといわれるように己が善根という思いのある間は仏智がわからないというのであります。罪の必然関係を知って「地獄一定」ということがはっきりすることによって本願に乗託することができるといわねばなりません。自分の心で善を為すことができると思っている間は「罪業」ということはほんとうにうけとめられません。親鸞聖人においては「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず」(『歎異抄』)といわれ、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』)といわれるのであります。自分の心が善であるから悪いことをしないのではない、業縁があれば、どのようなことでもするのであるといわれています。そこには「自力のはからい」や「悪をおそれる」という余地がありません。従って「願にほこりてつくらんつみも宿業のもよほすゆへなり。さればよきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ他力にてはさふらへ」(『歎異抄』)といわれるのであります。このように親鸞聖人においては、ほんとうの罪業の信知は本願の信知と別ではないということをみのがしてはならないと思います。(『教行信証』化身土巻)
このことがはっきりすれば「宿業」と「宿命」ということのちがいもはっきりするのであります。「宿業」は「信」に深くかかわっているものであり、「宿命」は「信」に関係のない思想であります。いいかえれば「宿業」の世界は本願をたのむこころと一つであり、はてしなく慚じる世界であり、「宿命」には本願に乗託するなどというこころとは関係のない次元での考え方であり、はてしなく慚じるというこころとは似ても似つかぬこころであるといわねばなりません。(『罪業ということ』より17~23頁)
つづく




