★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年04月23日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
中西智海 / 親鸞教学入門(9)
(8)の続きです。
つづく
「他力」の源流と人間への眼
他力ということばは仏教、特に浄土教において大切なことばとして広く用いられ、教えの重要なしくみをあらわしています。
ところで、浄土教で「他力」という語句をはっきり使われたのは曇鸞大師がはじめてであります。曇鸞大師は、師の菩提流支が梵語パラタントラ(paratantra)を翻訳して「他力」とされたのにはじまるとされています。このパラタントラは後世、中国の唐代の実叉難陀の訳(新訳といっています)では「縁起」または「依他」と翻訳されていることばなのであります。「縁起」「依他」ということばからは直ちに依存主義とか怠け主義を連想しないのに「他力」というといかにも依存主義とか怠け主義に連結されるのも皮肉なことといわねばなりません。ともあれ、原語は同じであり、この翻訳の相違はものの関係しあうあり方を理的に(静的に)表現すれば「縁起」「依他」ということになろうし、人格的(動的)に把握すれば「他力」ということになるというようにうけとめてよいでしょう。
そうしますと、他力とは縁起の実践形態であって我執(自己中心性)が限りなく破斥されてゆくはたらきを意味するものとなります。してみれば、「本願」の原意と合致いたします。本願とは衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいうのでありました。つまるところ、「他力」というのも、「本願」というのも縁起の実践形態ということにほかなりません。
そういたしますと、「他力」という語句は曇鸞大師がはじまりではありますが、『無量寿経』の「其仏本願力」ということも、龍樹菩薩の「本願力を帰命す」ということも、天親菩薩の「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しく過ぐる者なし、能く速かに功徳大宝海を満足せしむ」といわれるのもすべて「他力」のことがらをいいあてられていたこと、そして「他力とは如来の本願力なり」(『教行信証』)といわれるのもその意味からもうなずくことができるように思われます。(後略)「仏に成る」「救い」という次元でいわれる他力
ところで、「他力」とはもともとどのような次元で使われることばなのでしょうか。
「他力」とは「自力」に対することばであることはたしかであります。「自己の智慧・能力・功徳など、自己にそなわった力を自力といい、こうした自力をたのみとして修行に励み、さとりをえようとする教えが自力の教え」であり「自分以外の仏・菩薩などの力を他力という、仏・菩薩の力をたよりとする教えは他力の教えである」(『新・仏教辞典』)というようなものであります。ともあれ、自力とか他力ということばは原則的には「仏に成る」か「成れないか」という一点で使うことばであったということを確認しておかねばなりません。真宗的にいえば「救い」の一点で使うことばであります。弥陀同体の証を得させていただくかどうかの次元の問題であるということであります。もとより、そこの次元を通過した念仏者のよろこびとしては「たしなむ心も他力なり」とか、「萬事に付て、よき事を思ひ付るは御恩なり、悪ことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨るも取るも、何れもいずれも御恩なり」という世界がひらけてくるのであります。しかし、原則的には「自力」とか「他力」とかいうことばは「仏に成る」か「成らぬか」「救われるか」「救われないか」という一点において使われるきびしいことばであることをはっきりうけとめなければなりません。
更に親鸞聖人が「自力」「他力」といわれたのには教義的歴史があるのであります。「定散自力」といわれ、「定散の自心」ということばがありますようにわれわれが悟りをひらく因果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却して仏の本願にまかせることを他力といわれているのであります。ですから「定に非ず、散に非ず」ということによって他力の信心という内容をいいあてられているのであります。「定散二善」といういい方は善導大師が自力諸善をこの二つに分類されたもので、定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察し、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏の世界を観察して仏を把えるというところまでは行けないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることであります。
しかし、「三願転入」のところでたしかめましたように自我ののこる心によっては仏に成ることはできないという次元で仏力をいただき、仏のいのちにふれて救われてゆくという「他力」の世界があったのであります。
このように親鸞聖人において、「仏に成る」ことの因果について、定散を主体とするか仏力を主体とするかという次元で自力とか他力ということばが使われていることを注視しなければならないとおもいます。他力廻向
浄土真宗では「定散自力」とか「定散の自心」といわれるレベルのことでこの私が仏に成ることはとてもできないというめざめから、仏に成るすべてのはたらき、因法が仏の方から廻施されることによって救いは成就するのであると説かれるのであります。これを「他力廻向」というのであります。
他力ということだけでなく他力廻向と「廻向」がつけられて熟語となっているのは、それなりの意味がなければなりません。
他力といわれるだけでは如来のこころはうなずけても、この私とどうかかわるのか、その関係を明らかにするために如来の廻向をかたり、私が領受していることを示そうとされたというべきでありましょう。更に、廻向というと、それこそ生者が亡者に追善の供養をするという発想や、自分の善根を他人に与えるという理解があることを思うとき、名号廻向とか信心廻向というとなにか特別な「もの」でもいただくような発想に陥りやすいのですがそれはまったく的がはずれているといわねばなりません。南無阿弥陀仏の名号は如来が私の往生の因も果も、ことごとく成就されたことを告げてくださる呼び声でありますから、それを如実に聞かせていただき、信じさせていただく現実を廻向というのであります。このように廻向と説かれる意味は私と関係のない名号ではなく私のうえに脈々とはたらく名号であることを示されようとなされたのであります。このように他力廻向を説かれる内容は如来のいのちの現実化ともいうべき世界をさし示そうとされたものであります。この私の我執(自己中心性・私有性)を無限に否定する如来の清浄願心が私の主体となることによってはじめて仏に成ることがはっきりするのであります。若は因、若は果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したまへるところに非ざることあることなし(『教行信証』)といわれるゆえんであります。また弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなりとうたわれるこころであります。
これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(『高僧和讃』)
ですから、真宗では我執(自己中心性)の混入することのないみ仏の力を純他力とか、絶対他力というのであります。絶対他力といういい方にはいろいろと議論されるところもあるのですが、歴史的背景としては浄土宗鎮西派でいうこの世での念仏は自力で、その自力の念仏によって浄土に迎えられるのを他力というなどという立場を比較的他力というのに対して真宗の立場を絶対他力といったということも考えられますし、また教学的内容としては、自我(自己中心性)の無限否定ということをさし示しているといってよいでありましょう。「他力」の徹底としての具体的教え
この徹底した他力の内容を明らかにしたものに「三心釈」と「絶対三法の法門」といわれる教えがあります。
「三心釈」とは衆生の往生の因として第十八願に誓われた至心・信楽・欲生の三心についての解釈であります。もともと、衆生が往生するための因としての心ですから、それは衆生の三心でなくてはならないのであります。ところが、親鸞聖人は字訓釈というところでは衆生の三心としながら次にそれを解釈して「この心はすなはちこれ、不可思議、不可称、不可説、一乗大智願海の廻向利益他の真実心なり。これを至心と名く」とされ、また「信楽といふは、すなはちこれ、如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」とされ、更に「欲生といふは、すなはちこれ、如来諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」と三心ともに阿弥陀如来のこころであるとされています。
つぎに「絶対三法の法門」について考えてみましょう。
三法の法門とは、教、行、証の法門であり、その中の行を称名とする場合を相対三法といい、行を名号とする場合を絶対三法というのであります。すなわち、教えによって(教)称名念仏して(行)、仏に成る(証)というのを相対三法といい、教えにより(教)、名号の独用によって(行)仏に成る(証)を絶対三法というのであります。そこで絶対三法の場合は衆生の信心も称名も、往生の因として説かないで仏に成ることの因はすべて名号のひとりばたらきであるというのであります。
ですから、その場合、私の信や念仏がどこかに散乱してしまったのではなくて、名号のはたらきとしてうけとめるのであります。つまり信心も称名の念仏も南無阿弥陀仏の名号の活動にほかならなかったとうなずくことができるのであります。
このように真宗では我執(自己中心性)から出た一切のはたらきを無限に否定する仏力のはたらきが主体となることによって救いが成就されるとするのであります。
このような立場に立ちますから、真宗では廻向といえば如来からの廻向であって、衆生の方からの廻向はないというのであります。これを廻向・不廻向というのであります。親鸞聖人は、念仏には自力の廻向はいらないから不廻向といい、雑行(念仏以外の行)には自力の廻向が必要だから廻向というのだとされ、さらに念仏は如来からの廻向であり、衆生からは不廻向であると徹底されたのであります。如来二種の廻向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに他力とまふすなり(『浄土三経往生文類』)のことばをかみしめてみたいものであります。(『他力廻向と私』より90~98頁)
つづく





