梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]の続きです。

十五、「乃至十念」の称名

「すなわち十念に至まで(乃至十念)せん」とはどういうことを表わしているのですか。

本願を信じて、浄土を目指して生きる人の最も正しい生き方は称名念仏することであると信心の行者の行業(おこない)を選び定められた言葉です。



「すなわち十念に至るまで」という言葉が、一生涯にわたる称名を指しているとは、どうしていえるのですか。

もともと「乃至十念」の「乃至」とは、一乃至十とも、千乃至十ともいえるように、数量や時間を限定しないときに用いる言葉でした。ですから一念(一声)、十念(十声)に限らず「いのち」の限り相続すべき称名行であることを表わされていたのです。
 また「念」には、さまざまな解釈がありますが、善導大師は称念の意味とされました。すなわち本願の「乃至十念」を「上は一形を尽し、下は十声に至るまで(一生涯にわたる称名から、わずか十声の称名に至るまで)」、一声一声がことごとく正定業(正しく往生が決定する徳をもった行)であるという道理を表わしていると見られたのでした。それは『観経』の下品下生に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称す」といわれた教説と合わされたところから出てくる十念釈でした。
 詳しい説明は今は省略しますが、要するに善導大師は、本願の十念とは、南無阿弥陀仏と十声称える称名念仏のことであると確定されたのでした。法然聖人はそれを伝承して、本願の念仏は称名念仏であるといい、専修念仏説を確立されたのです。



十念が、南無阿弥陀仏と十遍となえることであるということはわかりましたが、それに「乃至」という数量を限定しない言葉を付けて誓われていることには、どういう意味があるのですか。

それには実は深い意味があります。まずその一つは、念仏する人の「いのち」の長短は、誰もどうすることもできないからです。一声称えただけで死ぬ人もあれば、何十年も称え続けることのできる長命のひともあります。しかし一声で終わった人生も見事な念仏の人生であり、決定往生の行者だったのです。一声が少なすぎることもなく、百千万遍称えたからといって称えすぎるわけではないというのは、称えた私の力が問題となるような自力の行ではなくて本願他力の念仏だからです。
 二つには、そのようなことが成立するのは、本願の念仏は、一声一声、如来から賜っている行であって、一声、一声が如来そのものであるような無上の功徳をもっている行だからです。如来は一声、一声の念仏となって私の上に現われ、「必ず往生させる」と大悲をこめて喚び覚まし続けておられるのです。
 ですから念仏していることは、如来の本願招喚の勅命を聞いているほかにないのです。それを本願力回向の念仏と呼んでいます。すなわち称えて功徳を積んでいくというような自力の行ではなく、一声一声が無量の徳をもった、絶対の如来行であり、「必ず救う」という如来の仰せが響いている念仏ですから、数量を超えた念仏であることを表わすために「乃至」という言葉を付けて誓われたわけです。
 このように念仏とは、本願の名号(如来の勅命)を一声、一声、如来より賜っているのですから、その如来の仰せを、疑いなく聞き受けている念仏者の想いをいえば、「阿弥陀さま、お救いくださってありがとうございます」とご恩をよろこぶ意味があることがわかりましょう。それを仏恩報謝の念仏といい、「信心正因、称名報恩」の宗義として伝承されてきたのでした。



「もし生まれずは正覚を取らじ(若不生者不取正覚)」とは、どういううわれを表わしているのですか。

本願を信じて、往生できるとおもって、念仏している者が、もし往生できないようなことがあれば、正覚者(阿弥陀仏)にならない、絶対的な救いの確証を与える力強いお言葉です。それは衆生の往生と、仏の正覚とが一体不二に誓われているというので、往生正覚一体の誓願といい慣わしています。これは阿弥陀仏の本願が、衆生と仏、自己と他者の分け隔てを超えた生仏一如、自他不二の真如の顕われであることを如実に表わしていることばであります。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]の続きです。

十四、第十八願の信心

その中で「至心信楽して、わが国に生れんと欲へ(至心信楽欲生我国)」とは、どういう意味を表わされているのですか。

法然聖人は、本願の三心について詳しい釈はなされていませんので、親鸞聖人の三心(信)釈を紹介します。親鸞聖人は、これは一つの信心を、至心・信楽・欲生という三心(三信)に開いて表わされたもので、それによって、如来さまから与えられた他力の信心の内容を詳しく示されたものであると言われています。



それをわかりやすく説明してください。

まず至心というのは、嘘・詐りのない真実心のことです。次に信楽とは、信心のことであって、阿弥陀仏の本願まことと疑いなく聞き受けている無疑心のことです。欲生とは、必ず浄土へ往生することができると期待している心のことです。



至心が真実心であるというのは、どんな心をいうのですか。

至心を真実心といわれたのは善導大師の至誠心釈によられたものです。至誠とは究極の「まこと」心のことであるといわれた解釈によったものです。しかし普通ならば自分の起こした信心に、嘘も詐りもないことを真実心というのですが、親鸞聖人は、第十八願の至心、すなわち真実心とは、私どもを救って浄土へ生まれさせようと願っておられる阿弥陀仏の本願のお心に嘘も詐りもないことをいうと言われています。たとえば『尊号真像銘文』に
「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
(『註釈版聖典』643頁)
といわれています。私どもは、いつも自分中心の見方をし、愛と憎しみに濁った煩悩を起こし続けています。ですから清らかなさとりの領域である浄土にふさわしい清浄真実な心はもっていませんし、これからも起こすことはできません。それゆえ本願に「至心信楽せよ」といわれたのは、私どもに「真実心を起こして信楽しなさい」といわれたのではなくて、「阿弥陀仏の真実なる本願を疑いをまじえずに受け容れなさい」といわれた言葉であると領解されたのです。



それでは次の「至心信楽せよ」というのは「如来の至心を信楽せよ」といわれているというのですか。

その通りです。ですから、信楽とは、如来様の本願のみ言葉に嘘も詐りもないと疑いなく受け容れている状態をいうのです。それで信楽を釈して、
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、はなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
『同上』
といわれたのです。すなわち十方世界の生きとし生けるすべてのものに向かって、私の誓願には、嘘も詐りもないから、この言葉の通り疑いなく受け容れなさいとお勧めになっているのが「至心信楽」という言葉であるというのです。ですから凡夫に自力で真実な信心を起こせと勧められた言葉ではないといわれるのです。
 このように味わえば「信楽」は凡夫が自力で起こす信心ではなくて、私を救おうと願っておられる如来の真実心(まことの親心)が私に届いて私の疑い心を除いてくださった心であるということがわかりましょう。



次に「欲生」とは、どういう心ですか。

「欲生」とは、「わが国に生まれんとおもへ(欲生我国)」を略した言葉です。それは阿弥陀仏の真実なる本願の仰せの内容です。すなわち自分の人生の行方を見定めることができないで迷っている私に向かって「安楽浄土へ生まれることができると思いなさい」と慈愛をこめて呼びかけてくださる言葉です。そのことを聖人は『教行信文類』「信文類」の欲生釈の初めに、
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
(『同上』241頁)
と仰せられたのでした。すなわち「必ず浄土へ生れさせる」と喚(よ)んでいてくださる真実なる本願(至心)のみ言葉を聞いて、その仰せを「まこと」と疑いなく受け容れた(信楽)とき、そこには「必ず、往生させていただける」(欲生)という思いが私に恵まれてきます。それを「欲生心」とも願生心ともいうのです。それを『尊号心像銘文』には、
浄土に生れんとおもへとなり。
(『同上』643頁)
といわれたのでした。
 このように見ていきますと、三心といっても、必ず浄土に往生させて涅槃のさとりを完成させると仰せられる「まごころ」のこもった本願招喚(招き喚び続ける)の勅命を、仰せの通りに疑いをまじえずに聞き受けている信楽のほかにはないことがわかります。
 すなわち本願の真実(至心)のみ言葉を、疑いなく聞き受けている(信楽)ところに、往生一定と浄土を期するこころ(欲生)が自然に具わっているわけです。これを親鸞聖人は、如来よりたまわった「三信即一の信楽(信心)」と言われたのでした。そしてそのような本体は仏心(仏智)である信心が恵まれたときに、往生し、成仏する因が完成しますから、「信心正因」と言われるのです。それを信心が決定したとき、現生(現在の生存中)において、すでに仏になることが決定した正定聚の位に入れしめられているとも言われたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




Filed under: ★仏教  タグ: , , , , , , , , , , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (0)

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]の続きです。

十三、第十八願中心の本願観

四十八願の中心が第十八願であると最初に言われた方は誰ですか。

さかのぼれば中国の曇鸞大師(476~542)や、道綽禅師(562~645)も言われていましたが、特にはっきりと仰せられたのは、善導大師(613~681)でした。それを承けて徹底していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。



善導大師はどのように言われていたのですか。

『観経疏』「玄義分」に、阿弥陀仏が報身仏であり、その浄土がさとりの領域である報土であることを証明するのに、『大経』の本願を引いて、
『無量寿経』にのたまわく、「法蔵比丘、世饒王仏(せにょうおうぶつ)の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。
(『註釈版聖典・七祖篇』316頁)
と言われています。



そのこころを簡単に説明してください。

『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩と名告る修行者であったとき、四十八願を発されたが、その一々の願に、「もし私が仏陀になり得たとしても、十方の衆生の中で、わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っているのに、もし生まれることができないようなことがあるならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。このように本願の因に報いて完成された仏陀ですから阿弥陀仏は明らかに報身仏であり、その浄土もこの本願に報いて完成された領域ですから報土であるといわねばならないというのです。こうして凡夫が往生できる阿弥陀仏の浄土は、程度の低い応身、応土にすぎないといわれていた通説を破って阿弥陀仏の報身、報土説を確立していかれたのでした。
 そればかりか同時に、報身仏、報土といわれる高度なさとりの領域であるならば、すでにさとりを開いた大菩薩だけが、その智慧の程度に応じて往生し、感得できるだけで、凡夫は決して往生できないという通説を破って、凡夫が直ちに往生できる報土であるということを証明していかれたのでした。



そのようなことがどうして言えるのですか。

阿弥陀仏は「わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っている者を、もし生れさせることができないようならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。それゆえ、本願の因に報いてなられた仏であり、浄土であるという論理で、報身、報土説を証明されたことは、同時にその阿弥陀仏は、わずかに十声の念仏しかできない煩悩具足の凡夫であっても、本願によって成就した報土へ往生させる本願力を完成されていることを証明していることになるからです。
 こうして、本来ならば、すでにさとりの境地に到達している大菩薩でなければ往生できない報土へ、念仏往生を誓われた第十八願を信じ、念仏する者は、どれほど煩悩が深重であっても、その本願力に乗じて、往生させていただけると論証されたのでした。これを善導大師の凡夫入報説と呼んでおります。



しかしそれが、第十八願に他の四十七を収めているとはどうして言えるのですか。

そこに、「一々の願にのたまはく」といって、第十八願の念仏往生の誓願をあげられているからです。四十八願といっても、第十八の念仏往生のこころをひろげて説明しているだけで、開けば四十八願になりますが、収約すれば、第十八願の一願に帰すると見られていたことがわかるからです。
 その心を承けて法然聖人は、『選択集』特留章に「念仏往生の願をもって本願中の王となすなり」と言い、阿弥陀仏の本願は、第十八願の念仏往生の法義のほかにないと言い切っていかれたのでした。



法然聖人や親鸞聖人は、第十八願をどのように味わわれたのですか。

第十八願はこの本願を信じて、念仏する者を、必ず浄土に往生させるということを、次のような言葉で誓願されています。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く
というのです。



それを現代語に訳すれば、どのようになりますか。

「たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称える者は、必ず往生させましょう、もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし、五逆の罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます」というのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




Filed under: ★仏教  タグ: , , , , , , , , , , , ,   charlie432 12:00  Comments (0)
    2012年5月
    « 4月    
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031