★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年04月18日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]の続きです。
(つづく)
十五、「乃至十念」の称名
Q「すなわち十念に至まで(乃至十念)せん」とはどういうことを表わしているのですか。
A本願を信じて、浄土を目指して生きる人の最も正しい生き方は称名念仏することであると信心の行者の行業(おこない)を選び定められた言葉です。
Q「すなわち十念に至るまで」という言葉が、一生涯にわたる称名を指しているとは、どうしていえるのですか。
Aもともと「乃至十念」の「乃至」とは、一乃至十とも、千乃至十ともいえるように、数量や時間を限定しないときに用いる言葉でした。ですから一念(一声)、十念(十声)に限らず「いのち」の限り相続すべき称名行であることを表わされていたのです。
また「念」には、さまざまな解釈がありますが、善導大師は称念の意味とされました。すなわち本願の「乃至十念」を「上は一形を尽し、下は十声に至るまで(一生涯にわたる称名から、わずか十声の称名に至るまで)」、一声一声がことごとく正定業(正しく往生が決定する徳をもった行)であるという道理を表わしていると見られたのでした。それは『観経』の下品下生に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称す」といわれた教説と合わされたところから出てくる十念釈でした。
詳しい説明は今は省略しますが、要するに善導大師は、本願の十念とは、南無阿弥陀仏と十声称える称名念仏のことであると確定されたのでした。法然聖人はそれを伝承して、本願の念仏は称名念仏であるといい、専修念仏説を確立されたのです。
Q十念が、南無阿弥陀仏と十遍となえることであるということはわかりましたが、それに「乃至」という数量を限定しない言葉を付けて誓われていることには、どういう意味があるのですか。
Aそれには実は深い意味があります。まずその一つは、念仏する人の「いのち」の長短は、誰もどうすることもできないからです。一声称えただけで死ぬ人もあれば、何十年も称え続けることのできる長命のひともあります。しかし一声で終わった人生も見事な念仏の人生であり、決定往生の行者だったのです。一声が少なすぎることもなく、百千万遍称えたからといって称えすぎるわけではないというのは、称えた私の力が問題となるような自力の行ではなくて本願他力の念仏だからです。
二つには、そのようなことが成立するのは、本願の念仏は、一声一声、如来から賜っている行であって、一声、一声が如来そのものであるような無上の功徳をもっている行だからです。如来は一声、一声の念仏となって私の上に現われ、「必ず往生させる」と大悲をこめて喚び覚まし続けておられるのです。
ですから念仏していることは、如来の本願招喚の勅命を聞いているほかにないのです。それを本願力回向の念仏と呼んでいます。すなわち称えて功徳を積んでいくというような自力の行ではなく、一声一声が無量の徳をもった、絶対の如来行であり、「必ず救う」という如来の仰せが響いている念仏ですから、数量を超えた念仏であることを表わすために「乃至」という言葉を付けて誓われたわけです。
このように念仏とは、本願の名号(如来の勅命)を一声、一声、如来より賜っているのですから、その如来の仰せを、疑いなく聞き受けている念仏者の想いをいえば、「阿弥陀さま、お救いくださってありがとうございます」とご恩をよろこぶ意味があることがわかりましょう。それを仏恩報謝の念仏といい、「信心正因、称名報恩」の宗義として伝承されてきたのでした。
Q「もし生まれずは正覚を取らじ(若不生者不取正覚)」とは、どういううわれを表わしているのですか。
A本願を信じて、往生できるとおもって、念仏している者が、もし往生できないようなことがあれば、正覚者(阿弥陀仏)にならない、絶対的な救いの確証を与える力強いお言葉です。それは衆生の往生と、仏の正覚とが一体不二に誓われているというので、往生正覚一体の誓願といい慣わしています。これは阿弥陀仏の本願が、衆生と仏、自己と他者の分け隔てを超えた生仏一如、自他不二の真如の顕われであることを如実に表わしていることばであります。(「【二】阿弥陀仏の本願」より)
(つづく)



